浜名史学

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【本】朴裕河『引揚げ文学論序説』(人文書院)

2017-03-21 10:17:48 | その他
 朴は、『帝国の慰安婦』(朝日新聞社)などを書き、もと慰安婦から裁判を起こされている。私は、彼女の『帝国の慰安婦』、『和解のために』を読んだが、どうもその文体が好きではなかった。私は、職業柄歴史関係の本を多数読んできたが、それらは歴史の本ではなかった。文学の範疇に入るものであった。歴史学は、史実にもとづいて、その史実すら学問的な実証にもとづき、言えることを書き、言えないことは書かない、という鉄則をもつ。そこでの評価は、自由に飛翔することはない。史実を尊重し、そこから生み出される見解は極めて謙抑的にならざるを得ない。しかし、朴のその本は、そうした歴史学の実証性にとらわれないものであった。きちんとした史実にもとづかない見解、それは主観的な見解でもあるが、そうした叙述に、私は嫌みを覚えた。彼女が批判されるのはやむを得ないと思った。

 さて、その朴が、「引揚げ文学」という、まさに文学を対象とした本を出した。彼女は、やはり文学を対象とした学問では、なかなかの才能を持っていることを実証した。私は、この本を読んで、強く刺激された。「引揚げ文学」ということばは、彼女の独創により作り出されたことばであるが、それは現代日本にとって、あるいは韓国の現代においても、重要な示唆を与える。私たちの「戦後社会」は、何を「忘却」してできあがってきたものか、「忘却」したものをもう一度持ち出し検討することによって現在をより豊かにするのではないかという提起に賛意を表するものである。

 「引揚げ文学」とは、日本の敗戦以降、海外の占領地や植民地から帰還してきた人たちにより書かれた文学である。

 私も、そうした人々の書いたものは読んでいる。もちろん「引揚げ文学」という範疇ではなく、ふつうに作品として読んできた。五木寛之、梶山季之、三木卓など。しかし「引揚げ文学」として括ってみると、どういう世界が見えてくるか、朴はそれを記した。

 朴は「総論」として、「おきざりにされた植民地・帝国後体験」をまず掲げる。引き揚げ者は、植民地で、どういう生き方をしようとも、客観的には加害者として存在した。したがって、引き揚げは、同時的にそうした存在を浮かび上がらせざるを得ない。

 「加害者としての日本」を含む物語は、戦前とは異なるはずの「戦後日本」では受け止められる余地がなかったのである。〈「引揚げ」の忘却〉という事態は、ひとことで言えば、「外地」からの引揚げ者たちが「内地」でおかれることになった複雑な地政学的・思想的・情緒的配置によるものであった。(24)

 占領地や植民地に出かける前の「帝国日本」との関係、帰ってきてからの「戦後日本」との関係、さらに引揚げ者同士の関係を総合的に捉えて初めて「引揚げ」は理解しうる事柄なのである。(24~5)

 私は、城山の「大義の末」を読み、またこれを読みながら、1945年で引かれる歴史の断層線により捨象されたものは、たくさんあるのではないかと思った。「帝国日本」で利益を得た者が、「戦後社会」でも利益を得る、それはなぜであるのかを通時的に分析することが必要ではなかったか。人は、1945年で変わるのではなく、「帝国日本」に生きた者は、「戦後日本」でも生き続けるのである。

 「戦後日本」は、「帝国日本」を過去のこととして〈忘却〉していった。その〈忘却〉には、「引揚げ」という「帝国日本」をひきずっていたものも入る。「戦後日本」にとり、「帝国日本」は邪魔なのである。

 なぜか。

 「引揚げ文学」は、「引揚げ」そのものの悲惨な記憶を忘却せんとする欲望に加えて、「帝国」政策の結果としての混血性を露わにし、新しいはずの「戦後日本」がほかならぬ「帝国後日本」でしかなかったことをつきつける存在でもあった。(30)

 からだ。

 「帝国後日本」ということば。このことばは重い。しかし同時に、「戦後日本」は「帝国後」なのかという疑問も持つ。「戦後日本」は、かの「大日本帝国」を内包し続けてきたのではないかという気持ちをもっている。それをどういうことばで表現したらよいかはわからないが、今日本に奔出してきている諸事態を見るにつけ、「大日本帝国」は「戦後日本」のなかに生き続けていたのだということ、それは「戦後日本」の政治権力も同様であるという認識を、私はもつからだ。「戦後日本」は、「大日本帝国」と切れてはいないのである。

 朴は、引揚げ者を分析していく。植民者であった引揚げ者は「ディアスポラ」であったこと。

 「帝国」=支配する側もまた、ディアスポラを生むのである。(51)

 そして「引揚げ文学」を読み分析するなかで、朴は発見する。

「植民地」の惨めさと悲惨を誰よりもしっかり見つめていたのは植民地で育った少年・少女だった。彼らは、被植民者に加えられる拷問の痛みと恥をあたかも自分の痛みであるかのように感じとり(小林勝、五木寛之)、植民者の飢えにも想像力を働かせ(小林勝「赤ん坊が粟になった」)、植民者の前で泣き叫ぶ被植民者の姿(村松武司「朝鮮植民者」)や、植民者と被植民者の住まいの差異をもしっかり見届けていたのである。(55~56)

 植民者の多くはあきらかに裕福な支配者だったが、だからといってかならずしも幸せだったわけではない。・・・そもそも。植民者の多くは「棄民」であった。(57~8)

 子どもたちは、曇りのない眼で、植民地の状況を見た。いまだ、大日本帝国臣民というアイデンティティをもっていなかったからだ。そういう眼で見た植民地はどうであったのか。私はまた彼らが見てものを、見つめなければならないという思いをもつ。植民地とはいかなるところであったのか、「帝国日本」が支配した植民地の真の姿を、私は見つめなければならない。彼らがみつめたものを、「戦後日本」に生きる私も見つめなければならない。

 朴はこう記す。

 なによりも、「植民者」とは、植民者にとっても(自発的に見えても構造的に)「移動させられた」場所にほかならず。そうである限りそこは決して安穏たる場ではありえなかった。帝国主義批判はむしろここから出発しなければならない。「植民」とは国民を「外地」に定住させることである。そのとき選ばれるのは主に本国に居場所を得られなかった貧困者や家族主義の周辺にいた独身者である。本国に残る人は言葉、血統、文化を守りつづけ、純正のさらなる強者となる。そして「祖国」であれ、「植民地」であれ、引揚げ者たちには所詮「定住者」の空間であるほかなく、つねに定住者中心主義が暗に機能する場所になる。そして、植民者が植民地を「追放」されるとき、そのことは初めてようやく露わになる。(59~60)

 「植民者」と「被植民者」、「定住者」と「非定住者」とが混じり合うのである。この「定住者」と「非定住者」という概念が、あらたに発見される。 

 「記憶の死」(61)

 韓国でも、百万人近くの日本人がいたことは、忘れられているという。日本でも、「引揚げ者」は、注目されることなく、「戦後日本」では忘れられていった。

 だから朴は、

 国民国家がほかならぬ「定住者中心」のシステムだったこと

 を指摘する。

 そして朴は、「引揚げ者」をはじめとする国境をこえた人々、あるいはそのなかで生まれた「混血児」たち、あるいは命を落とした「いろんな国の」人々、そうした人々の声を聞くことにより、「植民地」と「帝国」、「帝国崩壊後のアジア」、「戦後日本」の新たな姿も見えてくるのではないかという。(64)

 最後に朴は、後藤明生の対談での発言を掲げているが、そこで後藤は、日本が「化学的変化を起こしていない」ことを指摘している。「植民地」をもとうが、それがなくなろうが、「質的に変化していない」、そこに後藤は「不思議さ」を感じているのだが、おそらく朴もそうなのだろう。

 だから私は、「戦後日本」は、「帝国日本」を内包しつづけているというのである。芯は変わっていない、近代日本がつくりだした芯が「戦後日本」のそれこそ芯に「鎮座」している、と私は思っている。



 
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