浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

学力テストの問題

2017-02-12 08:27:28 | その他
 今日の『中日新聞』の「<ニュースを問う> 」は、「全国学力テスト10年(2)過熱する対策」である。学力テストの平均点をあげるために、点数をとれない子どもを欠席扱いしたり、解答を教えたりなどの不正が全国でまかり通っていることを報じたものだ。

 1950年代後半から行われ、1965年に中止となった学力テストにおいても、そうした不正が起きていた。だからこそ、全国統一の学力テストが再開されたとき、否定的な意見が飛び交っていたのである。

 したがって、〈ニュースを問う〉に記されたことは、予想の範囲内ということになる。そうした弊害が起きることが予想されていても、政府は実施した。なぜか。

 今月号の『世界』に、その回答が記されている。鈴木大裕氏の「結果責任の支配」である。その出だしはこうだ。

 1983年、レーガン政権下で刊行された『危機に立つ国家』(A nation at Risk)以降、アメリカが行ってきた学力標準(スタンダード)と結果責任(アカウンタビリティ)を軸とした教育改革は、教育の貧弱化と教育格差の拡大をもたらしてきた。「データ主導型教育改革」とも呼ばれるこの改革は、①データとなる「学力」を学力標準テストの点数、②教師の「指導力」をテストの点数向上のためのテクニックや動作と置き換え、③「何を教えるか」を定めていたカリキュラム・スタンダードを「何ができるようになるか」というパフォーマンス・スタンダードへと再定義した。

 レーガン政権といえば、アメリカで新自由主義的政策を開始した大統領である。アメリカの富裕層が満を持して送り込んだ大統領は、期待通りの政策を行った。この教育改革も、その新自由主義に沿ったものであった。

 その結果、どういうことが起きたか。

 実際にアメリカでは、各学校や教員が学力標準テストの点数でランク付けされ、「結果責任」を果たせない学校は廃校、教員は職を追われるようになった。人を育てる場所であったはずの学校は、過剰な点数競争でテスト対策主体の進学塾のようになり、市場化と民営化が進むことで公教育概念そのものの崩壊が起こっている。

 『中日新聞』で報じられた学力テスト問題は、1980年代のアメリカの教育改革に範をとっていることは明瞭であり、その途中経過が記されているというわけだ。今後日本もアメリカと同じような展開が見られるだろう。

 鈴木氏の第二節の表題は、「国家の保障責任から教育現場の結果責任へ」である。憲法26条の「国民の教育権」は、このままでは墓場へと葬り去られることになる。

 自己責任と国家の責任放棄は表裏一体であり、国家が「自己責任」、「結果責任」と叫べば叫ぶほど、国家の責任を問う国民の声はかき消されていくのだ。

 私たちは、こういう時代に生きている。


 
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