浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

城山三郎「大義の末」

2017-03-20 18:59:42 | その他
 「教育勅語」を子どもたちに唱和させ、さらに復活させようという動きを、亡くなった城山はどう考えるだろうか。怒り、驚愕、悲しみ、否定的な感情が湧き出てくるのではないか。

 城山の「大義の末」を読んだ。読みながら、私たちは1945年を歴史の劃期として話してきたけれども、劃期というのはもっと重層的に存在すべきではないかと思うようになった。それは朴裕河の『引揚げ文学論序説』(人文書院)を読んだこともある(これについてはいずれ論じたいと思う)が、「大日本帝国」の体制下でも、「日本国」の体制下でも、同じように生き続けていた人がいるということを、この小説の肥田という男が示しているからだ。肥田にとって、1945年は劃期でも何でもない。ただ一時的に落ち目になった時期としか捉えられていないだろう。肥田のような生き方をしている人々は、たくさんいたに違いない。

 主人公の柿見、その友人の森、種村らは、「教育勅語」に体現されている精神をみずからの生き方として刻み、志願して予科練へと入隊した。柿見の父は戦死、種村は訓練中に亡くなり、種村の家庭は二人の息子を戦争で失った、というように、戦争の惨禍はそれぞれの家庭に大きな影響と悲しみをつくりだしていた。肥田の弟も傷痍軍人、不自由な体となり、戦時中は「名誉の負傷」などとまつりあげられたが、戦後は冷たい眼で見られるようになった。

 柿見や森は、忠君愛国の尊皇精神の「大義」をひきずりながら、戦後も生きている。彼らにとって、「大義」は「目的」であった。肥田や、学校の体育教師で戦時中「大義」を強いた者にとっては、それは「手段」でしかなかった。「手段」でしかなかった者たちにとって、敗戦は彼らの精神を変えることはなかったし、「大義」は簡単に捨て去ることもできたし、また再び拾い上げることもできるものであった。

 「目的」としてあった「大義」が、1945年にボロ屑のようにされたことにより、柿見は戦後に違和感を持ち続ける。森は、父が亡くなったために長男として弟妹たちの世話をしなければならなくなり、大学を中退して父の仕事(建設業)を継ぎ、忙しい日々を送るので、その違和感はあまり表出されることはないが、それでも時にそれは出現する。

 高校生のときに、天皇制を批判していた大久保という人物がいる。しかし彼は就職して、その頃の精神を失い、既存の体制の中でうまく立ち回る。大久保にとって、それは学生時代にみずからの議論をひけらかすための「手段」であって、それだけのものにすぎなかった。簡単に捨て去ることのできるものであった。

 何らかの思想をみずからの心に深く深く刻んだ者は、そう簡単にそうした思想を捨て去ることはできない。ところが、思想を持たずとも、二人の息子を失った種村の母、寺の住職一家であるが、彼女は、次男が亡くなった年齢である19という数を忘れずに、毎日毎日寺の鐘をつき続ける。二人の子どもの死は、彼女の心に深く深く刻まれているのだ。

 柿見はこういう。

 「考えてみれば、ぼくたちはみじめな時代に生きてきたものです。人間は幸福を求めて生きるんだというそんな単純なことを、教師だって親だって誰一人教えてくれはしなかった。ただ大義とか忠君愛国とかで・・・ぼくたちはそれだけをまともに思いつめていた」

 これに続いて、種村の妹はこう続ける。

 「わたしも二人の兄のことについて、いつもそれを思うのです。思いつめて死んだのだから、それでいいなんて、とんでもないことですわ。幸福に生きる道をはじめから奪っておいて、思いつめるも、つめないも、ただそれしかなかったんじゃありませんか。・・愛国心などと言い出す人を見ると、そんな人は戦争でただ得だけしてきた人じゃないかと、にくくてなりません。どれだけ兄のような犠牲を見れば気が済む人なのかと・・・。みんなが幸福にくらせる国をつくれば、黙っていたって愛国心は沸いてくるじゃありませんか」

 まさにこれは城山自身の主張であろう。柿見の精神の懊悩は、城山のそれであった。

 柿見は、飄々と生きる大久保との対話で、こういう。

 「天皇にぼくたちは自分のいちばん大事なものを捧げつくした。生命をかけ、青春を知らなかった。大義の世界に没入し、それから投げ返された衝撃だけで、一生を終わってしまった感じがする。後は抜けがらになり、惰性で生きてきたようなものだ」

 こういう若者はおそらくたくさんいたはずだ。

 肥田は町長となり、その町に皇太子がくることとなった。肥田は、地方自治功労章を授与される者として、皇太子に「拝謁」する。柿見はそれに抵抗する。しかし、それにもっとも鋭く抵抗したものは、寺の鐘の音、種村の母が毎日つきつづける19の鐘の音であった。

 「大義」によって殺された若者の遺族による、弔いのそして天皇制国家に対する怒りの鐘が、肥田らによって支えられている戦後支配体制に鋭く突き刺さっていった。

 この小説は、戦争に対する、戦後社会(天皇制国家で「得」をした者が、戦後社会でも「得」し続ける)に対する、そして人間に対する、城山の基本的な思考が書き込まれたものだと思う。

 読んでよかった。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 都議会の百条委員会 | トップ | 城山三郎 戦争文学 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。