宝暦治水と薩摩義士(平成16年記)

*平成17年6月1日、NHK「その時歴史は動いた」で
宝暦治水と薩摩義士のことが取り上げられました。
大河ドラマ化の声も高いそうです。
*平成19年4月15日霧島市薩摩義士顕彰会が設立されました。
平成16年に鹿児島県薩摩義士顕彰会会員になっていますが、
続いて早速会員になりました。

平成16年は、宝暦3年12月25日に幕府から薩摩藩に木曾三川の
お手伝い普請の有無を言わさぬ命が下り、薩摩藩士が、
宝暦4年1月27日、治水工事に取り掛かってから250年目に
あたるそうです。
なぜ薩摩藩がと、喧々囂々の中、たとえ、承服しかねることであっても、
水害に苦しんでいる人たちは、同じ日本の同胞ではないか、身命を賭して
救うのが人の道ではないかと諭す平田靭負の言葉に動かされ薩摩藩士は
300里離れた濃尾に赴いたのです。流石に島津日新公のいろは歌に磨かれた魂です。
しかし、木曽川、揖斐川、長良川の治水工事は想像を絶するもので、
資金難もあったりで薩摩藩士には犠牲者が続出したといいます。
昭和34年東海地方を襲った伊勢湾台風で岐阜・愛知県下は甚大な被害を
受け、各所では激流・濁流により堤防が決壊した中、
宝暦年間(1754年)薩摩藩士によって造られた、治水堤防(千本松原の堤防)は
無傷だったとか。
5月25日は、宝暦5年5月22日に工事の完成を見届けた家老、平田靭負が
膨大な藩費を要したことと80余名もの割腹者や病死者を出したことの責任をとって
割腹した日です。
艱難辛苦の末の薩摩藩の治水事業が初めて公やけになったのは、徳川幕府が倒れ、
明治になった33年目のこと、美濃の西田喜八郎氏によってだったそうです。
もとより、薩摩藩では、固く美濃での出来事を流布する事が止められていたそうで、
加えて、重年の没後、11歳で藩主になった重豪の後見と言う名目で、
薩摩藩の監督を兼ねて、幕府側から1年間薩摩に派遣されいたそうですから、
全くその悲惨な出来事が伝わっていなかったそうです。
美濃の方から情報が入って判ったという、なんとも胸の痛くなる話です。
今年16年5月25日には、岐阜や鹿児島の多数の参列者のもと平田靭負の
慰霊祭が、鹿児島の屋敷跡に出来ている平田公園で執り行われました。
また海津町から、1ヶ月かけて自転車で参加した青年11名の青いTシャツ姿が清冽でした。
美濃地方では薩摩義士を「さつまさま」と称して、手厚く供養しているのに比して、
鹿児島ではあまりにも知られていないことがちょっと寂しい思いです。
鹿児島というと西郷さんですが、薩摩義士の艱難辛苦の末の大偉業をもっと
大きく取り上げて欲しいものです。
そして、鹿児島にも薩摩義士顕彰館が建設されることを願います。
下記のサイトで更に詳しい内容をご覧下さいませ。
大垣青年クラブ・薩摩義士顕彰館



















