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ぽかぽか春庭「バベルの塔展in東京都美術館」

2017-05-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170520
ぽかぽか春庭アート散歩>調和と崇高(1)バベルの塔展in東京都美術館

 美術展にいくと、あまり観客がいない静かな空間でひとときよい時間をすごせることもあるし、ワイワイと押し寄せる「物見遊山客」の肩越しにようやくちらりと見ることができるくらいの人気展もあります。

 それほど美術に縁もなさそうなオッサンおばハンが、どうしてこうも大挙して押し寄せるのだろう、という疑問を、私自身もまたそのオバハンのひとりでありながら、感じたものでした。中学校の美術の時間、好きでしたか、と、ひとりひとりに聞いてみたら、きっと私と同じように、「絵は下手だから、図工も美術も嫌いな時間でした」と応えるほうが多いのではないか。絵も工作もヘタだったけれど、私、鑑賞の時間だけは好きだったんです。おゲージツが私の心にしみいったのか。

 あるとき、有名画家の展覧会に押し寄せた大勢の観客を見ていて、「絵の鑑賞でも、見世物小屋でも、どちらでもいいのだろうなあ」と思い至りました。「真珠の首飾りの少女」のときです。
 高度成長期のあと、おそらくはテレビ普及前までは日本各地の盛り場や祭礼の場に見世物小屋がありました。

 ろくろっ首だの、へび娘だの、カッパのミイラだの、怪しげなもの小屋の中で見せる。私の小学校低学年くらいまで、お祭りに小屋が出ていたのですが、これらの見世物にお金を使うことは親に禁じられていました。「カッパとか偽物だし、ろくなもんじゃない」と、親はいうのです。私も、カッパ見るより団子食べたほうがいいと思ったので、見たことありませんでした。

 もはや見世物小屋などひとつもなくなった、という現代。ああ、ひとつでもいいから、見世物小屋を見た記憶がほしかったなあと後悔しています。もしも、見世物小屋を復活させる興業があったとしても、大人になった今見たのと、子供がおそるおそる見るのでは、だいぶ受け止め方が違うでしょうから。

 江戸時代の見世物小屋、珍奇な動物、ラクダや象の見世物が大はやりのこともあったし、猿と鮭をつぎはぎした人魚なんてものもありました。明治初期の見世物小屋大賑わいのころには、油絵も見世物の対象だったことなど、見世物についての私の知見は、ほとんどを木下直之東大教授の著作によっています。『美術という見世物』(1999ちくま学芸文庫)ほか。油絵も珍奇な見ものとして、浅草寺境内などで興業されました。

 不思議なもの、わけのわからぬもの、恐ろしげなものを見たい、この心理は、現代人の中にもあります。しかし、もはや見世物小屋はなし。せいぜいスクリーンの中の「シンゴジラ」に出会うくらい。しかし、日常生活が扁平でうわっつらを流れていくようなとき、「日常にはない物」を見て脳細胞を活性化し、心をゆさぶることは、万人に必要な心の栄養素です。心に栄養を与えないと、だんひからびる。
 そこで、人々は若冲に押しかけたり、真珠の首飾りの少女やバベルの塔を見に押しかける。

 私は見ることができなかったけれど、ミロのビーナス(1964)やツタンカーメンのマスク(1965)が来日したときの長い列、記憶にあります。(2012年のツタンカーメン展には黄金のマスクは来ていません)

 「バベルの塔」展を、5月17日水曜日に見てきました。第3水曜日、65歳以上入場無料日です。水曜日は日本語教育学の出講日ですが、ミサイルママが「ホテルルームの仕事は3時までなので、早めにあがれたら上野まで駆けつける」というので、私も、授業後の出欠管理だの、次週授業準備だのは割愛して、上野まで行くことにしました。
 閉館時間まで運がよければ1時間くらいは見る時間がありそうです。

 アートを楽しむのは、私にとって、心の栄養素です。緻密に描かれた植物画に調和の美を感じ、でかい恐竜の骨を見て「崇高!」を味わう。花の色を愛で、新緑に包まれて癒やされたり、いろいろな心の栄養がありますが、アート見物もそのひとつ。

 「崇高」って、でかくて人間には及ばない存在に対して感じる畏怖や尊敬の念。近代の人々は、スイスアルプスの雄大な山塊に崇高を発見しましたし、現代の人々は宇宙船から見た地球の姿に崇高を感じます。

 アートの美の概念のひとつに「不思議な世界 sense of wonder」と「崇高sublime」があげられます。
 西洋美学では、美とは何か、ということが哲学の命題として議論されてきました。ひとつは、古代ギリシャ以来の古典的な調和美。この調和的な美と対照されるのが、崇高sublime」という概念です。中世のゴシック式大聖堂や、近世近代になって発見された、アルプス山系などの壮大な光景、それを見て感じる高揚感や「思わずひれ伏して祈りたい気持ち」が、「崇高」です。巨大で勇壮でそれを見ると人のちっぽけさを知り謙虚になれる、そんな感情が「崇高」。

 善良なるオッサンオバハンが美術展に押しかけているとしたら、ゲージツ鑑賞というより、この「崇高」または「不思議な見世物の見物」であるのだろうと思いますので、私とミサイルママも「物見高さ」をかき立てて押しかけてみたのです。

 ふたりともパート勤務の「年金じゃ暮らせない高齢者」ですから、有料の「65歳以上千円」をけちって、無料の日に出かけました。ふたりとも「タダの日に見る」という気持ちが一致するからいっしょに出かけるので、もし、私が金持ちで、「千円くらい私がおごるから、けちけち言ってないで、ほかの日に行こう」と誘ったとしても、ミサイルママはあまりうれしくないかもしれません。「ふたりとも無料の日がうれしい」のが、いっしょに出かける理由です。ほんと、崇高からはほど遠い、せせこましいうれしさですが。

 まずは、無料で見ておいて、もし、押すな押すなでよく見ることができなかったら、木曜日あたりに千円だそう、というふたりの申し合わせです。
 それぞれに仕事を終えて、私は3時半に、ミサイルママは4時すぎに東京都美術館に到着。それぞれがひとりで好きに会場をめぐり、5時半の閉館時間に会場の入り口で会い、パスタ屋さんでご飯食べて帰りました。

 今回のブリューゲル作バベルの塔は、オランダ、ボイスマン美術館所蔵の作なので、2枚現存する「バベルの塔」のうち、小さい方。66×70cm。ウィーン美術史美術館所蔵の大きい方は114×155cm。崇高感ならこっちのでかいほうかと、今回はあまり期待せずにでかけました。

東京タワーとの高さ比較がよくわかる撮影OKコーナー。右下の白い塔が東京タワーの大きさ。スカイツリーよりやや低いのがブリューゲルのバベルの塔。神は500mを超えると「人間は生意気だ」と、憤った。狭量である。


 そもそもバベルの塔は、人間が神をも恐れぬ壮大な塔を建てようとしてそれを神が罰する旧約聖書の中のお話。天に達するような高い塔を建設しようとした人間に対し、神は彼らのことばを互いに通じ合わないようにすることで、建設を放棄させた。天に達するような崇高な高層建築は、神のおぼしめしにはかなわなかったのだから、バベルの塔は「崇高」な存在ではないのではないか。

 しかし、多くの画家が繰り返しバベルの塔を描き、人々は繰り返しバベルの塔の絵を見ることを求めた。塔は破壊された姿で描かれたり、建設途中で放棄された姿に描かれた。にしても、人々は、人が成そうとする壮大な建築の物語として、途中までしか建てられていない塔に、崇高を感じたのではないか。

 「崇高」とは何か、について、山ほどの論考が出版されています。たとえば『崇高とは何か』 (叢書・ウニベルシタス) / ミシェル・ドゥギー ほか/ 法政大学出版局(難しそうな本なので、読んでませんけれど)
 
  今回来日の作、ピーテル・ブリューゲル父の作品です。人々が押しかけたのも、やっぱり「崇高」を感じたかったのか、不思議な見世物を見たかったのか。まあ、私はどちらも心理としては同じだと思うのですが。

 さして大きくはない、ボイスマン美術館所蔵のバベルの塔。会場で本物を見て「思ったより小さい」という感想を述べ合っている二人連れが多かったです。本物の3倍の大きさに拡大コピーされた芸大で制作された複製画が同じ会場に展示されていて、細かい部分を見るのは、こちらのほうが見やすかった。本物のほうは「うん、見た見た」と言うための展示。

 塔を建てるために働いている人物などが動いている3分間のCG動画もあり、どのようにしてレンガを上層階に運んだか、などがよくわかりました。美術の専門家ではない私のような物見遊山観客には、こちらのほうがわかりやすい。なぜなら、本物を前列で見るためには、列にならんで「立ち止まらないでください」という係員の誘導にしたがわなければならず、立ち止まってみることができる位置からは、人物などの細かい描写は、見分けがつかない。

 細かく描き混まれた、無数の小さな働く人々。漆喰を運んで粉をかぶって真っ白く描かれている人やレンガを上に引き上げている人。労働する姿を、ブリューゲルは「やがて神から罰せられる人たち」として描いていないと、複製画の拡大した画面の働く人々を見て感じました。
共に大きなものを作り上げようとする働く人々は、その小さな豆粒のように描かれた人、ひとりひとりの姿、「崇高」ではないとしても、何かいとおしい小ささのような気がします。

 神のいるところまで届きたいという人間の思い上がりを神が罰したのだとするならば、聖書に描かれた6000年前だかの出来事ではなくて、地球を数十回も全滅させるだけの核爆弾を持つに至った現代こそ、神の怒りが爆発するだろうに。

 現代の計量言語学の計算では、インドヨーロッパ語族のラテン語系(イタリア語やスペイン語など)と、ゲルマン語系(英語、ドイツ語)が別々の言語として別れたのは6000年前から5500年前くらいの間。英語とドイツ語が別れたのは、2000年前ほどと考えられています。(学者によって計算が違うけど)。日本語と朝鮮語韓国語が別れたのは、8000年くらい前になるらしい。すると、聖書でバベルの塔が建てられた時期よりも前に人類のことばは別れたていたことになってしまうので、人類の言葉がさまざまになったのは、神の御技じゃなくて、人類移動のため。やはり、バベルの塔は途中で破壊されたとしても、崇高です。
 

 パスタ屋での晩ご飯。毎週木曜日に油絵サークルに行くことにしたミサイルママは、サークル会員達がとても上手なことなどを話していました。ミサイルママ、まだまだ他のメンバーほど美味くないので、この先いろいろな名画を模写することで自分の絵の技量を上げたいという。

 ルーブル美術館などでは、申請をして許可がでれば、名画の模写が美術館内で出来るんだって、という情報を教えると、ミサイルママ、「え~ほんと!日本の美術館は厳しすぎるよね」と、かの国の文化行政をうらやましがっていました。

 今回、芸大制作の「筆のタッチまで正確に再現されている複製画」、とてもよく出来ていて、複製画と言われなければ、私のような素人は、「こっちでも十分鑑賞できる」と思ったくらいです。同じく芸大日本美術科制作の源氏物語絵巻の模写もよかったし。複製画を展示して、美術館博物館で模写してもいい空間を作るといいと思います。それとも、絵描きさん達にとっては、本物のオーラがないと模写する気にならないのでしょうか。
 コピーや複製画に崇高さは宿るや否や。

気軽な複製のポスター前に立つ崇高さに欠ける人


<つづく>
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2 コメント

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見世物 (まっき~)
2017-05-20 13:56:20
映画の原点もそこにあるはずなので、それを引き受けられればいいのですけど、映画館がキレイになり過ぎちゃったかもしれませんね。
もちろんそれはよいことですし、シネコンのおかげで家族で観るひとも増えたから興行的には成功作も多くなったんですけどね~。

今年から来年にかけて、『砂の器』『アマデウス』のオーケストラ上映があります。
ぜひ行きたいけど、たぶん8000円くらいしたかな・・・。

今回の帰省、自分が初バイトした映画館『清流』の跡地にも行ってみました。
でっかい駐車場になっていて、寂しかったです。
しかもまた、ぜんぜん整備されていない。
草ぼーぼーだし、車停めて少し歩いただけで、靴は泥だらけ。

歩いて行けるところに、武家屋敷が。
ここはちょっと、面白かったですけど。

http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/bunka/20_buyo/17_buyo.htm
まっき~さん (春庭)
2017-05-20 15:52:46
見世物小屋の「猥雑さ」や「うしろめたさ」をかすかに残しているのは、場末の小劇場あたりでしょうか。なんだかよくわからない学生演劇なんかが小屋を借りて、よくわからない自己満足演劇を上演するとき、かろうじて「お金を出して見るものだったかなあ」と、感じるあの救いのなさ。

リアルオーケストラと映像の組み合わせ、ゲーム音楽ではかなり成功していると思いますが、クラッシックではなんと言ってもこの2作ですね。行きたいけれど高い。

清流跡地の映像が目に浮かびます。靴が沈んで泥だらけになった靴紐のアップから、清流在りし日のややセピアがかった色の回想が始まる、、、、って、ああ、私には映画の才能無いなっていうシーンしか浮かばないので、まっき~さん、シナリオにしてください。

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