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ぽかぽか春庭「ロマノフ王朝展in東洋文庫」

2017-03-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170323
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記3月(6)ロマノフ王朝展in東洋文庫

 東洋文庫は、三菱三代目の岩崎久弥が、1917年に当時中華民国の総統府顧問を務めていたJ・Aモリソン蔵書を買い取ったことから始まります。モリソン所蔵の欧文中国文献を基礎として1924年に東洋文庫開設。
 私が見に行くようになったのは、2011年にミュージアム併設の新館がオープンしてからです。
 2階のモリソン文庫を並べたコーナーが好きです。「世界の知」に囲まれた気分になれるからです。モリソン文庫を眺めていると、本がある世にいる幸せを感じます。

モリソン文庫


 ロマノフ王朝展。ロマノフ王朝のはじまりから、1917年の革命によってニコライ2世一家銃殺で終焉するまで、さまざまな文献が並んでいました。

 ロシアロマノフ朝は、ミハイル・ロマノフが1613年にロシア・ツァーリ国のツァーリに即位して始まり、1917年にロシア革命で滅亡しました。
 ほぼ、日本の江戸時代と明治時代に当たる時期、ロシアツァーリ国およびロシア帝国として続いた王朝です。ただし、系統は一系ではなく、家系は複雑。ドイツ系のピョートル3世、その妃エカチェリーナ2世(1729-1796 )もドイツ出身の王妃でした。

 私のロシア史知識は、ほとんどがテレビからの仕入れ。
 草刈民代がサンクトペテルブルグを訪ねて、エルミタージュ美術館(エカチェリーナ2世の宮殿)の内部などを紹介する番組と、「華麗なる宮廷の妃たち 皇后アレクサンドラ ロシア革命に散った悲劇の母」(初回放送:2009年)の再放送があったので見たのが、ロマノフ朝について知るところの大部分です。

 「皇帝の王冠とかが展示されていないかなあ」と、世界史知識断片的、ロシア史ゼロである娘には、王妃の衣装も王冠も展示されていなくて文献展示だけでは退屈かと思ったのですが、思いの外楽しんで資料を見ていました。

 王朝家系図を見たり歴代皇帝肖像を見て、「あ、このアレキサンドル1世って、戦争と平和のときの皇帝だよね。この人がナポレオンと戦争しようって言ったから、アンドレイが死んじゃったじゃないの、まったくゥ」と、去年テレビドラマで見た『戦争と平和』が役だっていました。

 私はエカチェリーナ2世贔屓。8人の子女を産んだけれど、夫のビョートル3世の子はなく、子の父親は数人の愛人たち。子の父とならなかった愛人は数知れず。あは、エカチェリーナ贔屓なのは、そこなのか。

 ドイツの小領主の娘ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケが14歳でロシア皇太子妃候補者となりました。15歳でロシアのサンクトペテルブルグに到着すると、他の候補者と同じように宮廷作法やダンスを習得したほか、他の候補者には無視されていたロシア語を完璧に習得。当時ロシア宮廷内ではフランス語が公用語で、民衆のことばロシア語は下品とされていたのに、15歳のゾフィーは、ロシア民衆の心をつかむにはロシア語が必要と考えました。勉強しすぎて熱を出すほどだったそうです。すごい。

 また、ロシア正教を熱心にまなび、ドイツで洗礼を受けたプロテスタントからロシア正教に改宗し、ゾフィからエカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名しました。エリザベータ女帝に気に入られ、エリザベータ女帝の甥、皇太子ビョートルと結婚。

 エリザベータは、父の兄弟のひ孫に当たる幼いイヴァン6世を皇帝の座から追いおとして即位し、権力をふるいました。イヴァン6世を20年間も幽閉し、エリザベータ反対派はイヴァン吸湿作戦に失敗。牢獄で20年間をすごしたイヴァンは、獄卒によって殺されました。一生を朗の中ですごした元皇帝。何を思って暮らしていたのでしょうか。

 エリザベータが他の候補者でなくエカチェリーナを選んだのは、ドイツ語しかまともに話せないピョートルの話し相手として、ドイツ語ほか、フランス語もロシア語も堪能な嫁を欲したのか、はたまた気性の強い点で気脈通じるところがあったのか。

 エリザベータは、嫁のエカチェリーナが産んだ男の子を引きとり跡継ぎとして手元で養育しました。(公的には、ビョートル3世の実子とされ、のちパーヴェル1世)
 エカチェリーナの夫ピョートルは、皇帝位に就いたのちも、「兵隊人形で兵隊ごっこをして遊ぶ」ほかには興味を持たない毎日だった、と、権力掌握後のエカチェリーナ側に記録されました。
 エカチェリーナはロシア語を駆使して軍を掌握し、夫を追放して帝位につきました。

 展示には、大黒屋光太夫の関連文献もありました。漂流の末、ロシアの地をはるばる横断し、エカチェリーナ2世に謁見した光太夫。
 光太夫についての私の知識は、またまた映画で見た内容だけ。緒形拳が光太夫を演じた『おろしや国酔夢譚(原作:井上靖)』(1992年:佐藤純彌監督)だけですけれど、新資料を詠み込んだ吉村昭『大黒屋光太夫』も読みたいです。

 ロシア革命百周年を記念しての展覧会。この先、2017年から1991年までのソ連の歴史についても、スターリンによる粛正とシベリア流刑についてのほか、詳しく知らないので、どこかで展覧会や講演会があったら出かけていきたいです。

 今、見ている中国の女帝、武則天の一生も陰謀やら毒殺やらすごいですが、エカチェリーナ2世の一生もすごい。
 エカチェリーナの伝記なら、池田理代子のマンガで読みたいです。
 ロマノフ王朝の流れを知るには、中野京子『名画で読み解く ロマノフ家 12の物語 』(光文社新書)がいいかも。

 それに比べると、六義園の売店で売っていた『松陰日記』を著した正親町町子(1675-1724)など、やはりスケールが違うなあと思います。時代的にはエリザベータ女帝やエカチェリーナ2世とほぼ同時代の女性です。
 町子は、京都の公家出身。江戸幕府の大老格であった柳沢吉保の側室となった女性で、歌人です。江戸期を代表する女性文学者として、松(武家=徳川将軍)の陰に藤(公家)がいて、双方の栄華を記録した、という本で、柳沢吉保の半生を書き残しました。

 中国清朝の末期には西太后という権力者が現れましたが、日本史上で真に権力を振るった女帝は、古代史の持統天皇ラインのほかは見当たらない。(江戸時代の女性天皇は、権力など持っていなかった)。
 あ、持統天皇について知るなら、里中満智子の『天上の虹 持統天皇物語』が読みたい。2015年3月に完結しています。

 持統天皇は、武則天と同時代の女性です。持統天皇が送り出した遣唐使を謁見したのは武則天。天皇という称号を最初に用いたのは、武則天とその夫の高宗。日本で、それまでは「オオキミ」であった存在を「スメラミコト天皇」と改称したのも天武持統朝です。武則天が天后から天皇(皇帝)として即位した690年に、持統も皇后から天皇になっています。持統にとって、武則天はどのようにうつっていたでしょうか。武則天は、東の蛮族「東夷」の小国に自分を真似た天皇が立ち、長安を模した都が作られつつあることを、どのように聞いていたでしょうか。

 娘はマトリョーシカの中に爪切りセットが入っているおみやげを購入。私は、絵はがき一枚。絵はがきは、展覧会チラシにもなっている図柄です。

 女性達の権力奪取の物語を想像しながら、東洋文庫を出ました。

展覧会チラシ


<つづく>
コメント (2)
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