白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

富士山総本部道場の道場開き

2006-09-28 02:30:29 | Weblog
 88年8月、富士山総本部道場の道場開きに私も参加していた。
あの頃のオウムは、まさに、日の出の勢いと言う感じだった。
全国に、こんなに信者がいたのかというくらい、広い総本部道場が信徒、サマナで一杯になっていた。

 私は、知り合いも無く、一人で参加していた。それでも、何もかもめずらしくて、観光旅行のように、きょろきょろしていた。とにかく、夏の富士山がきれいだったなあ。富士宮の駅からは遠いけど、良いところだと思った。

 総本部道場は、かなり中が広かったのだが、信徒、サマナで溢れかえっていた。
後で知ったが、アメリカ支部から、わざわざ式典のために来た信徒さんまでいたと言うことだった。とにかく、中は暑かった。夏だからしょうがないが、手を伸ばせば、人にぶつかってしまうくらいのスペースに、ぎっしり人が入っているのだから、人の熱気だけでも相当なものだった。

 それでも、式典は、何をやるのだろうかと、興味津々で見ていたので、それほど飽きも来なかったが、チベットのカール・リンポチェ氏の説法の頃には、もう居眠りしまくり状態になっていた。

 尊師の前生のグルである、チベットのカギュッパの総帥カール・リンポチェ氏が、式典のために、わざわざ出席されていた。私は、チベット人というのを、その時はじめて見た。日本人と、ほとんど変わらないような感じであった。品の良い、田舎のおじいさんのように見えた。

 カール・リンポチェ氏の声は、かすれている上に、チベット語の独特の抑揚があり、それだけでも眠気を誘うのに、英語を話せる弟子が、チベット語を英語に訳し、その英語を今度は上祐さんが、日本語に訳すため、やたら時間がかかった。最初は、真面目にノートを取っていたのだが、長旅の疲れと暑さで、いつの間にか、ペンを持ったまま、寝てしまっていた。

 しかし、高齢のカール・リンポチェ氏が、あの暑い中、2時間近くも説法を続けておられたのには、さすがカギュッパの総帥だけのことはあると感心した。
 全ての式典が終って外に出たら、車椅子に乗った、カールリンポチェ氏が弟子に車椅子を押してもらいながら、周辺を散歩していた。日本の富士山をどんな思いで眺めていたのだろうか。

 式典では、イニシエーションとして、甘露水や丹が配られた。私は、丹が苦手だった。丹とは、そば粉にいろいろな薬草を入れて練った物を、パンのように焼いた物だ。食べると、エネルギーが強くなるらしい。しかし、結構甘い上に、もさもさして食べづらく、1枚食べるのがやっとだった。私の友達は、丹が好きでむしゃむしゃ食べていた。私は自分で、供養できない時は、彼にあげることにしていた。

 法友の話が出たので、そのことについて触れておきたい。私が、一人で富士まで出向いていたことは、先ほど書いた通りだが、さすがに、一人だとつまらないので、式典の合間に、隣の男の人に声をかけてみた。以下がその時の会話。

私 「どちらからいらしたんですか?」
彼 「福島です。」
私 「え~!私も福島です。」
彼 「うそー!どこなの?」
私 「○○市。」
彼 「俺も、○○だよ!」
私 「えー!本当ですか?おどろいたなあ!」

 なんとなんと同じ町から参加していた二人が、偶然にも隣同士に座っていたのである。わずか4万人にも満たない小さな町である、そこから出てきた二人が、1000人近い人ごみの中で、隣同士に座ったのである。彼との出会いは、私にとって、尊師とカール・リンポチェ氏との出会いに匹敵する、神秘的な出来事であった。

 後でいろいろお話をうかがったら、私の高校の同級生のお兄さんだったのである。またまた、びっくりした。その後も、こういう神秘的なことが、オウムの中では、数々起こった。ここら辺が、教団を信じる一つの要素にもなっていたのかもしれない。
 彼とはその後、最も仲の良い法友になったことは言うまでもない。
式典の最後に、尊師と一緒に撮った記念写真には、二人の姿が写っている。写真はだいぶ色あせてきてしまったが、今も、私の机の上に飾ってある。

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