箔と波のつれづれ日記

日本スピッツ箔+波とゆかいな仲間たち

難攻不落(?)の豊公荘(関ヶ原・琵琶湖方面家族旅行その2)

2016-10-12 00:47:43 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
前回からの続きで、私・箔母さん・たつぴの3人は、家族旅行で宿泊先となる滋賀県長浜市の国民宿舎豊公荘(ほうこうそう)に向かっています。 降っていた雨が弱まり、東名高速道路を使った道中は順調だったのですけど………

あまりに順調過ぎて、このままではチェックインの時間の前にその晩の宿に着いてしまいそうな勢いだったので、私は途中の大垣IC(インターチェンジ)で降りて、目的地までは一般道をのんびり走っていくことにしました。 まずは、せっかく大垣市街に入ったので、大垣城に再接近して、そのお城を車窓から見ておくことにしましょう。



その大垣城には、私は昨年の秋に訪れていました。 17世紀初期に建てられた四層の天守は、昭和20年(1945年)の空襲によって焼失してしまったのですけど、その後外観のみ復元。ただし、お城は市街地化の波に飲まれて、現在はその三方がビルや住宅地に囲まれています。そういうこともあって、私は視界が開けている南側から攻めていきました。 約1年ぶりに見る大垣城は………

「み、見えない………」
何のためにわざわざ混んでいる街中を通ってきたのでしょうか? しかも、たつぴは寝ていますし。とにかく、今回の挑戦は失敗ということで、先に進みます。



私たちは垂井町を経て、関ヶ原町に入りました。関ヶ原といえば、やはり古戦場ですよ こちら方面には、私は約2年前の秋に、箔と波を率いて訪れたことがあります。 それから間もなくして、徳川家康が最初に陣を構えたという、桃配山が見えてきましたよ。 ちなみに写真は、その時のものです。ただしそこから先は、長浜方面に直通している、関ヶ原バイパスを使うことにしました。ということで、今回は古戦場はスルーさせていただきます。



………なんて言っていたのに、今度は黒田長政(黒田勘兵衛の嫡男)と竹中重門(竹中半兵衛の嫡男)が陣を敷いた、岡山(丸山)烽火場が見えてきましたよ 前回、私はこちらにも行っていました。



私たちの車は、陣場野の交差点が赤信号に変わったので、停車しました。 そうしたら、私はそのすぐ目の前にココカフェがあるのに気付きました。
「歴女のお姉さんがやっているココカフェがそこにあるんだけど、寄ってくかい?」
「うん、寄りたい 」
即決でした。ココカフェは、関ヶ原古戦場廻りをする際には、休憩に寄りやすい場所にあって、石田三成推しと思われる、先述のお姉さんが1人で切り盛りしています。前回、私がこちら方面を訪れたときにも、やはり利用させてもらいました。



今回、私は「三成コーヒー」なるものを注文。 どのあたりが三成なのか気になるのですけど、つい聞きそびれてしまいました。そのあとに私は、お店に備え付けられていた古戦場地図を広げて、関ヶ原の戦いの説明をしました。 慶長5年(1600年)9月に、徳川家康率いる東軍と、石田三成の西軍がこの地を舞台にしておこなわれた天下分け目のその合戦。 最初は西軍が圧していたのですけど、家康が仕組んだ小早川秀秋の反逆などによって、形勢逆転。半日ほどで決着がつき、東軍が勝利しました。 ちょうどその頃、大河ドラマの「真田丸」ではそのあたりのことをやっていて………



その夜の放送では、山本耕司さん演じる石田三成が敗走の末に捕らえられ、京都の三条河原で処刑されるシーンが流されました。生真面目で正直、不器用で戦にはあまり向いていなかった三成は、豊臣家のことだけを真剣に考えていて、そんなひたむきな姿が、現代の歴女の心をグッと掴んだみたいです。 家康推しの私でも、つい彼に感情移入してしまいましたよ。



お茶を済ませたあと、せっかくなので私は箔母さんやたつぴのために、古戦場の主要な場所を廻り、車窓からでも見られるようにしました。 まずは、家康が桃配山の次に陣を構えた陣場野公園に……… って、おいおい、つい素通りしてしまいましたよ。 遠ざかりながら引き返す場所を探していたら、一行を乗せた車は今度は東首塚に行き当たりました。こちらも前回行っているのですけど、その隣接地には松平忠明と、来年の大河ドラマの準主役ともいうべき井伊直政の陣屋跡があります。 さらに、あのときは住宅街の道路のこのあたりで、波ちゃは〇んこをしたのですよ。
「そんな細かいところまで、報告しなくていい 」



とかなんとか言っているうちに、私たちは陣場野の家康陣跡に差し掛かりました。 こちらも車窓からの見学となるのですけど、整備の手が加えられていて、以前よりさらにきれいになっていましたよ



そして、私たちは旧関ヶ原北小学校に。こちらには、波ちゃがビビったヤギ牧場があって、………って、ないじゃん ヤギたちの行方が気になるのですけど、このようなところから年月の移ろいを感じました。 それでも、学校の建物を利用した貸し甲冑屋は健在でした。



そこからほど近いところにある、石田三成が陣を構えた笹尾山の麓を通り………



私たちは、関ヶ原古戦場の決戦地にたどり着きました。その頃には天気は霧雨ぐらいになっていたので、私は車の外に出て写真を撮っておきました。 そういえば今回の関ヶ原は、ココカフェ以外のところは写真に納めていなかったような。それよりも、ここからの風景は、遠くの山に霧がかかっていることもあって、戦場所の雰囲気が出まくっていました。
そのとき気付いたのですけど、今回は右往左往しながらも、結果的に前回訪れた古戦場の主要なところを全て廻っていました。

そして私たちが乗った車は、再び関ヶ原バイパスに入っていきました。
「あのときは、あそこのコンビニでおにぎりを買って……… って、つぶれてるじゃん 」
このようなところにも、時間の移ろいを感じさせられました。 滋賀県との県境の峠に差し掛かるあたりから再び雨足は強まり、そのような天候の中で、私たちは豊公荘のある長浜市街に入っていきました。



豊公荘は、琵琶湖畔の長浜城跡に造られた豊公園(ほうこうえん)内にあります。それに加えて、私はその公園には何回か行ったことがあるので、迷わずにたどり着けますよ。 その宿に着いたら、部屋に荷物を降ろして、食事をとって、温泉に浸かって、……… 目印となる、ライトアップされた長浜城の模擬天守も見えてきたことですし、ゴールはまもなくです。

ところが、豊公園を突っ切って豊公荘に直結する道の入口が、封鎖されているではありませんか すかさず、スマホで宿のホームページを見てみたら、その道を通ってくるように案内しているというのに。 どうやら、その隣接地で工事をやっている影響みたいですけど、とにかく公園の反対側に回ってみることにします。
そちらには、公園専用の駐車場はあったのですけど、豊公荘からは遠いところに位置していました。このような天候なので、長い距離を歩いていくのはイヤ。 確か、玄関前にも宿専用の駐車場があるハズなので、できることならそちらを目指したいです。そうしているうちに、私たちはその宿から近いとも言えなくもないところに、「臨時駐車場」なるものを見つけました。 しかし………
そちらは土のグラウンドを駐車スペースに利用したというだけで、降りしきる雨のおかげで泥田のようになっていました。 それによって、こちらに止めるという選択肢は消滅しました。

それならば、もう一度豊公荘に通じる道を探すしかありません。いや、公園の外をもう一周どころか二周しても、その宿に入れませんでしたよ。 お城の跡に建てられていることもあって、豊公荘は難攻不落なのでしょうか?
………と嘆きつつ、三たび公園専用の駐車場に入っていったら、その時初めて奥に続いている道を発見しました。 その道を辿っていったら………



あった、ありましたよ 豊公荘が。正規の道が使えなくて、代わりに公園専用駐車場のほうに迂回道が設けられていたみたいです。それにしても、分かりにくかった。
これは翌朝の様子ですけど、私たちがこの日初めて長浜城の模擬天守を見付けてから30分以上もかけて、ようやくこちらの宿にチェックインすることができました。



まずは、通された部屋で一息入れましょう。 このひと時を無事に迎えることができて、本当によかったです。 そうしているうちに………



夕食の時間になったので、私たちは大食堂に移動しました。 刺し身に鮎の甘露煮、近江牛の鍋などがあって、豪勢ですね。 ちなみに汁のお碗は赤だしのしじみ汁、ご飯やお茶はおかわり自由となっております。
お腹を満たしたら、大浴場に向かいたいですね。 豊公荘のあるあたりには、鉄分を含む長浜太閤温泉なるものが湧いていて、疲労や病後の快復、冷え症などに効果があるそうです。この日は雨の影響もあって、私にはあるまじき右往左往や行き当たりばったりの連続となってしまいました。それでも、箔母さんたちが「このようなハプニングのある旅も、かえって楽しい」と言ってくれたので、まぁ楽しんでもらえたのなら、いいかなと。 それでも、翌日はお城めぐりをするので、せめてその日だけは雨粒が落ちない程度にしてもらって、予定通りにいきたいです。このあとの消灯とともに今回の日記を締めればキリがいいのですけど、もう少しだけ続けさせていただきます。



翌朝は、私の願いが通じたのか、雲の合間から日差しが見える天気となっていました。 そのような中でいただいた、和食の朝御飯。 これらに加えて、ご飯や漬け物、ハチミツ入りの南高梅などは、おかわり自由となっております。さらにそれらに、200円でモーニングコーヒーを付けることもできます。 これらの内容で、3人の1泊2食付きの料金は、税込で22680円(1人あたり7560円)となりました。



癒しとくつろぎと満腹を提供してくれた豊公荘をあとにした私たちは、そこから徒歩0分のところにあるというか、お城の敷地内に豊公荘があるというか、とにかく長浜城跡にある豊公園を散策しました。 ちなみに手前に見えるのは、その城跡に散乱していたお城の残石を、後世になって積み直したものです。

天正元年(1573年)、浅井久政長政親子のいる小谷城攻めに貢献した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、落城後に織田信長からその城を与えられました。 しかし、小谷城は険しい山の上にあり、城下町も整えにくいうえに冬は特に寒いことから、秀吉は北国街道の交通の要所で水運にも恵まれている今浜の地に新たな城を築きました。 その際に、信長の名から1字をもらい、「長浜」と改めました。秀吉は長浜に在城している間に、数々の戦を経ながら出世していき、天正11年(1583年)に大坂に移っていきました。 その後、長浜城には山内一豊内藤信成らが入ったのですけど、元和元年(1615年)にはお城としての役割を終えました。



廃城後、石垣や建物は彦根城などに転用され、その跡地は明治以降に豊公園として整備されました。 城域の一部は琵琶湖の底に沈んでいて、こちらの太閤井戸も、湖が満潮の時には水没しています。



それから、「天守跡」と云われている土盛りの上には、あまり目立たないのですけど豊臣秀吉の像が鎮座しております。



そして、私たちはいよいよ長浜城に……… んんっ カメラさん、ちょっと城址碑のところをズームアップしていただけますか?



いた、いましたよ こんなところに地元猫が。 親子と思われるこちらのニャンズは、私たちが近付いてなでなでしても、逃げたりしないで愛想をふりまいていました。
「気に入った わしに付いて参れ」
嗚呼、「佐吉(石田三成の前の名前)」と名付けて連れて帰りたい。



それはさておき、私たちは今、当ニ長浜城ニ入ラント欲スというところでした。 豊公園内には、昭和58年(1983年)にお城を模して長浜城歴史博物館が建てられました。 そこに上れば、秀吉や湖北方面の歴史関連の資料が見られるのはもちろんのこと………



その最上階からは、長浜市内や伊吹の山々、琵琶湖などの眺望を味わうことができます。 カメラさん、ここでまたズームしてもらってもよろしいでしょうか?ほら、あの湖上に見える山の上に何かポチっとあるあたりを………



そうしたら、そこが彦根城だということが確認できましたよ それにしても、このようにして見ると、お城が山ごと琵琶湖上に浮かんでいるようですね。彦根城、今から私たちが向かうから、そこでおとなしく待っていなさいよ

………と、期待を持たせたところ(?)で、キリがいいと言えなくもないので、このあたりで終わらせていただきます。 今回の家族旅行シリーズの完結編となる次回の日記では、この流れに乗って彦根城とそこに巣くうあの有名猫が登場するので、ここまで来たら最後までお付き合いしてくださいませ。


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