面白い記事が見つかりましたので、御紹介致します。
池真理子の略歴はココ(←当ブログで以前取り上げたものを加筆・修正の上転載)
週刊平凡(1976.12.23日号)より
わたしは"なつメロ歌手"ではない・・・・・・
57歳池真理子(もとスイングの女王)が
過去を捨てインカ音楽(フォルクローレ)で大勝負!
池真理子(57歳)という名の歌手を御存知ですか。かつて"ブルースの女王"淡谷のり子、"ブギの女王"笠置シヅ子、とならんで"スイングの女王"と呼ばれたこともある、往年のスター歌手だ、
彼女の芸暦は古い。昭和20年10月、コロムビアの戦後第1号歌手として『愛のスイング』でデビュー、『ボタンとリボン』『センチメンタル・ジャーニー』などのヒット曲で一世を風靡した。NHK『紅白歌合戦』にも昭和27年の第2回以来5回出場の実績を持っている。
昭和23年に結婚、26年に長女・麻耶さん(25歳)が生まれたが翌27年に離婚。その麻耶さんも嫁いで、現在の彼女は東京・豪徳寺でお手伝いさんの女性とふたり暮らし。往年の美声は今も衰えず、毎日欠かさない発声練習の音域は3オクターブ以上と、あいかわらず健在を誇っている。
ところで、歳末ともなれば、各局とも"なつメロ"番組の制作におおあらわだ。なつメロ歌手の代表的存在ともいうべき池真理子のことだ、とうぜん東奔西走の忙しさと思ったら、じつはそうではなかった。彼女、これまでにもこの種のテレビ番組にはほとんど顔を見せていない。
「けっして当時の歌手のみなさんとごいっしょにうたうのがいや、というわけではありません。お声がかかれば喜んで出させていただきます」
というが、彼女にはいま"なつメロ"以上に打ち込んでいるものがあって過去を売り物にするヒマがないのだ。南アメリカはアンデス山脈のふもとに栄えていたといわれるインカ帝国、そのインカの調べを今日に伝えるフォルクローレの魅力が、いま、池真理子のハートをがっちりとつかんで放さないのだ。
フォルクローレといってもピンとこない向きもあるだろう。
だが、一般にはシャンソンのように思われている『花祭り』や、『コンドルは飛んで行く』という歌はご存知だろう。あの原曲が、実はフォルクローレなのだ。
思えば"スイングの女王"池真理子の全盛時代は昭和28年ごろまで。昭和30年ごろから彼女の人気は次第に下降線をたどり、新境地を開拓すべく35年の8月、アメリカに飛んだ。
たまたまニューヨークで日本初公演に出発しようとする『トリオ・ロス・パンチョス』のパーティーに出席した彼女は、ラテン音楽に魅了された。
「なんて素朴な人情味のある音楽なんだろう・・・そう思うと、矢も盾もたまらずラテン音楽を勉強したくなりました」
1年後、帰国した彼女は、さっそく中南米音楽研究の第一人者・吉田秀士についてスペイン語の勉強を始めた。
37年、彼女は新リズム"パチャンガ"でラテン界再デビューするが、当時の日本は"ドドンパ娘"渡辺マリのドドンパのリズムの全盛期。だが彼女のラテン音楽への意欲は少しも衰えず、それからもあいかわらず地道なコンサート活動を続けてきた。
彼女の勉強熱心には定評がある。ジャズ歌手時代は英語を、ラテンに転じてからはスペイン語を・・・。そのスペイン語を吉田秀士さんに師事してすでに15年、
「いまだに吉田教室を卒業できないんですよ」
と彼女は苦笑する。
問題のフォルクローレとの出会いは昭和46年。
中村淳真(あつまさ)さんの作曲した組曲『インカ王女の子守唄』を聞いた彼女は、同じ中南米音楽とはいえ、これまでのラテン・ミュージックとは一味も二味も違ったインカ音楽の魅力にたちまちとりつかれてしまった。
「それまでインカ帝国といってもお伽話の国くらいにしか思っていなかったんですよ。もちろん場所なんて知りませんでした。地球儀で、日本とは正反対側の現在のペルーのへんだとわかって驚いたり感心したり・・・」
凝り性の彼女はさっそく書店を駆けまわり、インカ関係の書物を買い集めたが、その数がなんと約80冊という熱のいれよう。
同時にインカ音楽のレコードも探し回ったが、
「いまと違って、当時はまだ大きなレコード店の民族音楽のケースに現地録音の器楽曲が2〜3枚、ラテンのケースにユパンキのものが1〜2枚ある程度で、インカ音楽のものを・・・と店員に尋ねても満足に返事も返ってこない状態でした」
それでも彼女はその乏しいレコードを聴きながら、彼女は、少しづつインカ音楽への理解を深めていった。彼女がいちばん興味を持ったのは、インカ音楽の音階がドレミファソラシドのファとシの半音を欠いた5階音であることだった。日本古来の音楽も、これとまったく同じ5階音から成っている。
「インディオ(インカ帝国の末裔といわれる原住民)は東洋人そっくりといわれています。黄色い肌、黒い髪、生まれたばかりの赤ちゃんのお尻に蒙古班という青アザのあるところなど、日本人と少しも変わりません」
5階音のメロディーといい、インディオの容貌といい、あるいはわれわれ東洋人の兄弟だったのでは?
そう思うと、彼女はじっさいにアンデスを訪れ、その目でインディオたちの風俗を確かめたくてたまらなくなったという。
その彼女の念願がやっとかなえられたのは48年7月のこと。
「ある後援会の関係されている会社でペルー旅行の話があり、私もいっしょに行かないかと誘われました。当時、東京で3本、大阪で2本、テレビの仕事が入っていましたが、この機会を逃しては・・・と、お仕事を全部キャンセルして出かけました」
現地ではリマ、クスコなどのインカ帝国の遺跡を1ヶ月見てまわった。
「自分の目で現地を見て歩けるという嬉しさで、あわてて日本を飛び出したものの、あちらと日本では季節が正反対だということをすっかり忘れていたんです。日本は真夏でも、あちらは真冬。出発するときは夏姿だったのが、羽田に帰ったときはあちらで買ったポンチョなどを仰々しく着込んで・・・まるで西洋乞食みたいだったんですよ」
と彼女は笑う。
ことし7月15日、彼女は京都で《池真理子歌手生活30年記念》と銘打ってリサイタル『インカのしらべ』を開催した。
会場は意外にも若い人たちで超満員だったという。
過去30年の歌手生活をふりかえって、彼女はこう述懐する。
「私はジャズから入りラテンを経て現在のフォルクローレにたどりつきました。いろんな方から日本人の歌を忘れるな、というご忠告をいただきますが、私だって日本人です。日本の音楽をかたときも忘れたことはありません。いまやっているフォルクローレも、お稽古は原語でやっていますが、ステージではなるべく日本語に訳してうたうように心がけているんです」
フォルクローレといえば、さる11月から約1ヶ月間、世界のフォルクローレの第一人者、アタウアルバ・ユパンキの日本公演は、全国17か所の会場がいずれも超満員という大成功をおさめた。
池真理子が過去6年フォルクローレに寄せてきた愛情と努力が、ようやく実り始めたともいえるだろう。
「音楽には国境も人種の区別もありません。それに年もね」
という池真理子の声は、明るくはずみ、その顔の艶もまるで40歳そこそことしか思えない若々しさだった。
池さんの歌への関心はこれからさらにロシア音楽へと向かうことになります。
2000年に亡くなるまで、生涯現役として様々な歌に関心を持ち、学び、歌い続けた池さんは凄い歌手だったのだな...と改めて思います。
ナマのステージを一度観たかったです…
以前、何度が触れようとしつつも、ちゃんと触れないで来たのが高英男さん。
もう、「雪の降る町を」がしっくりくる季節、ここらでネットには殆ど情報が無い高さんをビシッと取り上げてみたいと思います。
高英男(1918〜)
本名:吉田英男
大正七年十月九日、樺太(サハリン)生まれ。
八人兄弟の末っ子。
生後すぐ、母方の伯母の嫁ぎ先へ戸籍上だけ養子に。
高は実家の姓。名字から誤解されそうであるが正真正銘日本人である。
実家・養家は共に製紙工場を経営していた。
十一歳のとき、勉学のために単身東京へ出される。
下谷の従弟のもとに身を寄せる。
吉田の家が、浅草でも知られた顔だったため、映画・舞台を自由に見て回れた。
本人曰く
「《樺太の自然児》として育った子供が、急に人と人の関係が複雑な芸能界のウラみたいなトコで過ごすようになっちゃったんだから、こりゃあ変な男が出来ないはずがないですよ(笑)」
中学は独協中学へ。4年先輩には灰田勝彦がいる。
中学一年のとき、兄が買ってきたレコード「カルメン」を聴き、歌に興味を持ち始める。
中学卒業後、武蔵野音楽学校へ進学。同級に木下忠司、大谷冽子(きよこ)がいる。
入学後、先輩の紹介で、ディナ・ノタルジャコモ女史にベルカント唱法を習う。
昭和十一年、初舞台。ソロで3曲歌う。
またその頃、コーラスグループ「コーロエーコー」に入団。最年少団員だった。
余談だが最年長は東海林太郎。
武蔵野入学後、一年強で日本大学へ転学。
当時既に歌で稼いでいたため、学校側がうるさく言ってきていたのと、徴兵を遅らせるため、当時殆ど無い音楽科がある日大へ移ったというのが真相である。
日大では、学生仲間でタンゴのバンドを結成し、ボーカルを担当。
日大の後輩には、西村晃、三木のり平、小林桂樹などがいる。
昭和十七年、日大卒業。
即、徴兵。大学出なので幹部候補生ということで少尉になるも、肺結核に罹り、即除隊。療養の傍ら、慰問に参加。
終戦後は、進駐軍で、ビング・クロスビーの歌を歌った。
昭和20年暮れにNHKの出演テストに合格、翌年よりNHK音楽番組に引っ張りだこ状態で出演。その頃、NHKで三浦環の最期の録音に偶然立ち会う。また、山口淑子とも競演。
また、その頃から中原淳一に目をかけられるようになり、舞台からも声がかかるようになった。
昭和二十四年、中原淳一プロデュースで初の独唱会開催。
昭和二十五年、舞台劇「ファニー」に出演。
昭和二十六年、フランス・巴里へ留学。ソルボンヌ大学に学ぶ。
昭和二十七年、帰国。帰朝リサイタルでは、フランスから持ち帰った『愛の讃歌』『ロマンス』『詩人の魂』などを日本人では初めて披露する。
また、このときの中原淳一の発案で、日本人のシャンソン歌手第一号となる。
昭和二十八年、キングレコードから『枯葉/ロマンス』でレコードデビュー。
またこの年、作曲家の中田喜直からの指名で『雪の降る町を』を吹き込む。
その後も『詩人の魂』『セ・シ・ボン』『パダム・パダム』など、シャンソンを次々吹き込む一方、日劇等の舞台にも多く出演する。日劇は昭和五十六年の閉館まで、トップスター扱いで活躍する。
昭和三十三年、再びパリへ。その後昭和四十八年頃まではパリと日本を行き来しながら、どちらでも仕事をする。
パリではジョセフ・コスマやダミアなどとも親交を結ぶ。
昭和四十九年からは五年連続で帝劇公演。
昭和五十二年から六十一年まで日本歌手協会理事を勤める。
昭和五十七年、国立劇場でポピュラー歌手としては初のワンマンショウ開催。
昭和六十年、六十三年と心臓疾患で倒れるも回復。
またこの頃から平成五年頃まで、淡谷のり子とジョイントショーを度々開催。
平成元年、紫綬褒章受賞。
平成三年、日本シャンソン協会設立時には淡谷のり子と共に名誉顧問就任。
平成四年、フランス文化勲章シュバリエ章受章。
平成七年、勲四等旭日小授章受賞。
平成八年、歌手生活六十周年記念リサイタル開催。
平成九年に、自律神経失調症で一時意識不明になり入院もすぐ回復し、復帰。
平成十八年の現在も、舞台に立ち続けている現役歌手である。
俳優としての映画出演も多数あり、特に「吸血鬼ゴケミドロ」での殺人スナイパー役は海外でもファンが多い。
また、宝塚ばりのメイクと派手な舞台衣装でも有名。
好きな言葉は「色・艶・香」である。
非常に読みにくいですが、これが高英男さんの略歴であります。
映画出演については、ココを御覧下さい。
高さんですが、CDは2003年にキングから発売されています。
シャンソン協会主催のパリ祭や、三越劇場で年二回開催されるポピュラー・ハイライトには毎回必ず出演されています。
年齢相応の、年輪を重ねた、「うたはこころ」を地で行く歌を聴かせてくれます。
先月末に、ステージを見に行きましたが、思わず姿勢を正してしまいました。
そもそも、レコード吹き込み数自体非常に少ないので、なかなか手持ち音源が増えないのが悩みですが、何とか集めた中から、いくつか紹介したいと思います。
雪の降る町を
『雪の降る街を』『雪の降るまちを』『雪のふるまちを』…様々な表記があるが、どれでも構わないらしい。高さん自身は、哀愁がある・詩的イメージが沸くことから『雪の降る街を』という表記が気に入っているとか。
ラジオ放送「えり子とともに」で生まれた1曲。
ダークダックスなども持ち歌にしていて、学校教科書にも載った名曲中の名曲。
高さんは何と11回レコーディング、業界最多記録らしいです。
セ・シ・ボン C'est si bon
フランスの有名なシャンソンで、1947年作曲。
イヴ・モンタン、アーサー・キッド、ルイ・アームストロング(サッチモ)などが持ち歌に。
日本では、宝とも子、越路吹雪、岸洋子、芦野宏、江利チエミなども持ち歌に。
高ヴァージョンの艶っぽさは、群を抜いています。
岸、チエミといった女性歌手よりも、艶っぽさは上。
日本の歌手では独壇場と言っちゃっても良いかも。
♪セ〜シボ〜〜ン 抱きしめてる〜〜〜〜
幸福(しあわせ)を売る男 Le Marchand de Bonheur
1961年に、仏コーラスグループのシャンソンの友が歌いヒット。
カリプソのリズムの入った軽快な曲。
日本では越路吹雪、芦野宏なども持ち歌にしてますが、個人的には高さんがおススメ。
93年・99年にキングから発売された全曲集に収録されているライブ録音は、音質的にはあまり良くない(MDウォークマン+マイクを使って録音した感じ)ものの、華やかさ・軽快さ・クレイジーさが、半端じゃ無くある素晴らしいモノ。さすがは舞台芸人と自称するだけあります。
パダム・パダム Padam Padam
エディット・ピアフが1951年に発表した曲。
日本では、二葉あき子が有名。淡谷のり子、岸洋子も歌っている。
高さんは中原淳一の名訳で、ピアフに優るとも劣らぬ、名唱を披露。
♪パダム パダム パダム〜そら聞こえるだろう〜
パダム パダム パダム〜ふたつの足音〜
パダ〜〜〜ム(絶叫) パダム パダム あやなしてひびくよ
疲れた足音と希望の〜〜〜あし〜〜〜おとが〜〜〜〜〜〜〜
ア〜〜〜〜〜〜〜〜
狂人と化しつつある人の心の揺れ動きを完璧に歌いきっております。
93年・99年にキングから発売された全曲集に収録されている、昭和51年の帝国劇場リサイタル実況音源は、高英男ここにあり、と言うべき素晴らしい音源です。
ラ・ボエーム La bohome
シャルル・アズナヴールの大ヒット曲。
日本では美輪明宏による完璧な名唱が有名。
高さんの歌唱は、本家アズナブールよりにも勝るとも劣らぬ美輪版に比べれば、落ちるものの、充分すぎるほどの名唱。
♪ラ〜ボエ〜ム ラ〜ボエ〜ム 遠き日は帰り来ず〜〜
ロマンス Romance
ジュリエット・グレコの持ち歌のシャンソン。
高さんのレコードデビュー曲で、名刺代わりの1曲。
中原淳一の格調高い訳詞も、相成って大ヒット。
先月末、ナマ歌を聴きましたが、実に心に沁みました。
♪友よ聞きたまえ この愛の歌を
永久(とわ)の幸福(しあわせ)を奏でる歌を
落葉の巷(三人のスリの唄)
服部良一作曲の、三人のスリの複雑な心境を歌った1曲。
この曲を日劇で歌っているのを聞き、古賀政男が絶賛したそうです。
他にも高さんには「一人のスリの唄」(三木鶏郎作詞・作曲)など、スリ・シリーズというジャンルが存在するとか。
このスリ・モノを歌うときは、着流し姿で、先代水谷八重子・花柳章太郎から貰った金入れ・キセルを懐に歌うそうである。
♪ラッシュアワーの人ごみを スリが三人歩いてた〜
白いねむり
中原淳一晩年の大傑作。
和製シャンソンとしても大変優れている作品で、二葉あき子お気に入りの1曲。
ぜひ、他の歌手にも歌い継いで欲しいですね。
♪白い絵の具の筆で 胸の中塗りつぶし
真白い世界の中で 今夜だけ 今夜だけ 眠りたいのよ
小さなひなげしの花 Comme Un Petit Coquelicot
シャンソンの友などが歌った哀しい1曲。
芦野宏、石井好子なども歌っています。
ひなげしの花=女の胸からの流血・・・
まさにシャンソンな世界。
枯葉 Les Feuilles Mortes (Autumn Leaves)
シャンソン・ジャズどちらでも知られている曲。
シャンソンだとイヴ・モンタン、ジャズだとナット・キング・コールが有名。
日本では高英男の専売特許です。
♪枯葉よ〜 絶え間なく 枯葉よ
風に散る 落ち葉のごと
冷たい土に 落ち果てて
過ぎた日の 色褪せた恋の歌
密かに 胸のうちに 淋しくも聞くよ
中原淳一の訳詞がまた格調高くてよろしい。
高さんがフランス留学時に声楽を習ったマダム・リッツの親友が、この曲の作曲者のジョセフ・コスマだったことから、親交を結ぶ。
時折、高さんのショウでは、コスマが高さんの紹介をした音源が流れることがある。
男と女 Un Homme Et Une Femme
♪き〜こえルダバダ ダバダバダ〜
で、ラジオ番組「コサキン」リスナーには御馴染みの1曲。
原曲はフランシス・レイ。
フレンチ・テイスト溢れるシャレたバージョンと、妖怪変化全開なヴァージョンの二つの録音が存在するが、CD化されているのは後者のみ。
他にもイロイロと歌ってますが、未CD化/未ソフト化の持ち歌が非常に多いのが残念。フランス語で歌い、大好評だったらしい『ソーラン節』、『蘇州夜曲』、世界各国一周しキザな台詞まである『俺と波止場と夜の風』、シャンソンとして解釈し、出色の出来のカバー『誰もいない海』…一杯ソフト化して貰いたいモノはあります。
高英男さんも歌手生活70年、追悼盤になる前に何とかネットからでも再評価の声を出したいものです。
追記
プロフィールは加筆/修正した上でWikipediaに投稿致しました。これで少しでも興味のある方のお役に立てれば幸いです。
ブルースの女王と言えば、淡谷のり子(または青江三奈)。
ラテンの女王と言えば、坂本スミ子(または宝とも子)。
タンゴの女王と言えば、藤沢嵐子。
歌謡界の女王と言えば、お嬢。
ブギの女王と言えば、笠置シヅ子。
さて、スウィングの女王は誰でしょう?
その方が今回取り上げる池真理子さんです。
池真理子(1917〜2000)
大正6年1月2日、京都生まれ。ミッション女学校卒業。
昭和9年宝塚入団、三日月美夜子の芸名で声楽専科に在籍するも、昭和12年退団。
東山ダンスホールで、歌うコンダクター(指揮者)として、人気を博するも昭和15年ダンスホール閉鎖。その後、三島一声・一色皓一郎の推薦で佐々木俊一の内弟子に。
そして、ビクターから「君と別れて」(一色との共唱)でレコードデビュー。
第2弾「青いリボンのお嬢さん」も吹き込まれたものの、リボンが検閲にひっかかり、発売中止に。
そのことなどもあり、ニッチク(戦時中の日本コロムビア)へ移籍。慰問隊員として全国を回る。
終戦を迎え、早速アメリカ調の曲を発売することになり、池に白羽の矢が立ち、コロムビアから改めて「愛のスウィング」でデビュー。大ヒットし、スウィングの女王と呼ばれるように。
その後も「センチメンタル・ジャーニー」「愛の散歩」「ボタンとリボン」など、洋楽または洋楽調のヒットを連発した。
私生活では、鈴木大拙氏長男で作詞家の鈴木勝と結婚し、一女を儲けるも離婚。
昭和35年、渡米。娘を知人の夫婦に預け、全米各地を回る。
8ヵ月後、ラテン系の新リズム「パチャンガ」を土産に帰国。
ラテン歌手としても歌い始める。
昭和45〜46年頃、フォルクローレに興味を持ち始め、昭和48年には本場ペルーの首都リオで単独コンサートを催した。
その後も、音楽の道への追及は続き、ロシア音楽なども学ぶ。
歌手生活40周年コンサートでは都都逸(これは祖父母の影響)まで歌った。
昭和57年からは、二葉あき子、並木路子、安藤まり子らと「コロムビア五人会」を立ち上げ、老人ホーム慰問からハワイ公演、演劇まで幅広く活動した。
平成12年5月28日、ショーで「センチメンタル・ジャーニー」を歌い終わった直後にクモ膜下出血で倒れ、同30日死去。83歳。
愛称はアイク(名字(IKE)、及びアイゼンハワー米大統領のニックネームから)
二葉あき子曰く「珍しい音楽があるって聞いたら、南極だって行く人」
そのぐらい音楽には貪欲だった方らしく、フォルクローレやロシア民謡を正確に歌うために、ロシア語や中南米圏言語を基礎から勉強し、美声を護るためにヨガ修行をしていたそうです。
良い歌を歌いたい・聴かせたい…そういう姿勢だったことも関係あるのか、あまりレコードの類は出されて無いようです。
現在ではオムニバス盤に収録されている「ボタンとリボン」「愛のスウィング」程度しか入手は難しいと思われます。
興味のある方は中古市場/図書館で探して、10数年前に出たCDを探してみて下さい。特に専属50周年記念で出た方のCD(ヒット曲はステレオ再録音)は、池さんの幅広く歌ってきた歌が詰まっていてオススメです。
その中から、数曲ですがご紹介致します。
愛のスウィング
戦後すぐの大ヒット曲。
吹き込み前夜、緊張のあまり一睡も出来なかったそうです。
そのため、巷から流れる寝不足の歌声を聴くと、何ともきまりが悪かったとか。
インカ王女の子守唄
国際的に高名なギタリスト・中林淳真の手による、池真理子オリジナル・フォルクローレ。
この曲を聴いたとき、ココで池真理子を取り上げてみよう…と思いました。
そのくらい、非常に画期的な素晴らしい曲です。
百万本のバラ
加藤登紀子の歌でもおなじみのロシアの大ヒット曲です。
♪ミリオン ミリオン 真っ赤なバラで
あなたを あなたを 包みたい
命の 命の 命の バラを
あなたの 窓辺に 咲かせたい
70過ぎてから、持ち歌にして、ロシア語と日本語のチャンポンで披露。
そのチャレンジ精神には頭が下がる思いです。
ボタンとリボン
「バッテンボー」が流行語になった、そのぐらいのヒット曲。
ボブ・ホープ主演「腰抜け二挺拳銃」主題歌。
♪都が恋し 早く行きましょう
帰りたいわ あなた
にぎやかな バッヅンヴォーズ
指輪と 飾りと バッツンヴォーズ
後に、宝塚の後輩でもある久慈あさみも歌っています。
いとし吾が子
何と「長崎の鐘」は池真理子吹き込みの予定だったのです。
永井隆の親友・式場隆三郎が、池真理子の後援会長だった関係から、池にお鉢が回ってきたのですが、「長崎の鐘」は永井博士の心境を歌ったものですから・・・ということで、池は、尊敬する藤山一郎を推し、池はこの曲を取ったのでした。
「長崎の鐘」に隠れがちですが、こちらも素晴らしい古関メロディです。
この曲を歌ったことから、池さん、永井博士の遺児二人とも交友があったそうです。
祇園ブギ
大映映画「偽れる盛装」(主演:京マチ子)主題歌。
原六朗曰く「助監督がいきなり歌詞を持ってきて、これに曲つけてくれ。映画主題歌にするから」と、一週間で作らされた内の1曲。
映画と全然合ってない、ともっぱらの評判ですが、なかなか面白い曲。
榎本美佐江の「舞妓はんブギ」と酷似。
追記
プロフィールは加筆/修正の上でWikipediaに投稿致しました。これで少しでも興味のある方のお役に立てれば幸いです。
私がリアルタイムで記憶していた村田英雄は、糖尿病で片足切断しながらも舞台に復帰した90年代後半からです。
糖尿病+坊主頭+作務衣姿+車椅子=村田英雄
というのが私の村田センセのイメージ。
歌なんて全然記憶に無く、「糖尿病は魔病」「尿に蟻が集るんです」と語る村田センセしか記憶にありません。
後は、ワインの呑み過ぎで倒れたとか、残ってた片足も切断した直後に再婚…この程度でした^^;
そんな私の中の村田英雄像を一変させたのが、2002年W杯開催中に某新聞に訃報記事を前倒しされて数日後に、日本がサッカー一色に染まる中、ひっそりと亡くなられてから。
その頃、既に昭和歌謡曲に興味があった私は追悼番組を何となく録画しておく気に。
「そういや、『王将』ってチャンと聞いた事ないよな…」
その程度でした。
NHKで2本(総合、BS)放送されたものを録画して、数日後ひとり夜中に鑑賞。
…参りました、ホント素晴らしかった。
以降、村田英雄も愛聴するようになりました。
保管にだらしない私ですが、その番組は今でも保存しています。
その直後、村田センセのライブ盤が存在することを知ったのです。
しかし、中学生の私には高額で手が出ませんでした。
あれから3年、夾竹桃の花咲くころ(@お嬢)・・・じゃなかった、約5年後、とうとう入手することが出来ました。
今回新たに、まず復刻されることは無いであろう存在のLPアルバムを紹介するコーナー「幻のB級レコード」をこさえました。B級と言ってもホントにB級のモノから、実は絶品の作品まで幅広く取り扱っていく予定のこのコーナー。
第1回は、この村田センセのライブ盤を紹介させて頂きます。
芸能生活四十周年記念 村田英雄リサイタル 燃える男の歌声
品番-TP60268〜9(東芝)
収録-昭和52年10月20日新宿コマ劇場
出演-村田英雄、及川洋(司会)
演奏-ダン池田とニューブリード
《曲目》
序曲(人生劇場より)
口上
無法松の一生(度胸千両入り)
小倉祇園太鼓(流し打ち〜乱れ打ち)
殺陣田村〜黒田節
別れの一本杉
村田英雄の今日まで(ナレーション:及川洋)
浪曲「父帰る」
人生劇場
柔道一代
姿三四郎
柔道水滸伝
夫婦春秋
夫婦舟
めおと雲
王将
花と竜
男の土俵
父帰る
男だけの唄
皆の衆
フィナーレ〜村田英雄挨拶
《一言》
編集され過ぎてて、ゴチャゴチャになっております^^;
一連のヒット曲は殆どワンコーラスに編集。
これはコロムビアとの版権の関係だったんでしょうが…。
まだ東芝時代のヒット「人生峠」「夫婦酒」も発表されてません。
しかし、そういうツッコミどころを差し引いても、村田48歳・円熟中年パワーを堪能できます。
《解説》
OP、村田センセの口上が聴いていて心地良し。まさに男の世界。
そして1曲目は御存知「無法松の一生〜度胸千両入り〜」。
続いて村田センセ直々の「小倉祇園太鼓」の流し打ち〜乱れ打ち。
迫力充分、村田センセ、大ハッスル(^^)
続いて田村殺陣の披露。しかし、LPなので何が何だか…こういうのこそカットすべきではなかろうか?
尺八の音色が徐々に変わり、村田流「黒田節」。低音が冴え渡る重厚な黒田節。赤坂小梅か村田英雄か、という出来。
そして、ここで突然司会の及川洋とのトーク。ホントに唐突過ぎて前後が繋がってません^_^;
司会:先だって春日八郎さんの何周年記念に
村田:ハイ、25周年のパーテー
司会:歌手生活25周年ですか、春日さんは
村田:ハイ。私行きましてね、先輩とお会いしましてね。
司会:そうなんですってね。春日八郎の唄にシビレたことがあるという想い出がありましたね。
村田:え〜もう、私は春日さんの都会演歌といいますか、我々と違ってドロ臭い演歌と違ってですね、春日が持ってる良い演歌、都会演歌、哀愁のある演歌ですか。
そういうものっていうのがとっても好きですね
司会:なるほど。
村田:中でも私は「別れの一本杉」という歌がものすごく好きなんです。今日はひとつ聞いて頂きます。
ということで「別れの一本杉」。
これがなかなか良いのです。村田英雄でも流行ったんじゃないかという出来。
しっかり村田色に染め上げています。
「村田英雄の今日まで」
及川洋のナレーションで村田英雄の半生を紹介。
なおこのナレーションで「酒も煙草も断ち…」という部分があるのが何とも言えません。ホントに実行出来ていたら、両足切断なんて事態も無かったでしょうに…。
続いて、浪曲「父帰る」(原作:菊池寛)。
立川談志曰く
「村田さんは唄よりも浪曲の方が何倍も良かった。出来れば浪曲師としてずっとやっていて欲しかった」
そうかも…と肯ける素晴らしい口演。
ここからは、村田英雄ヒットパレード。
まずは「人生劇場」、悠然と歌い上げます。
間奏に村田からの御挨拶
「演歌一筋今日まで歩いて参りました。村田英雄の男の唄は私が作ったのではなく多くのファンの皆様に作って頂いた男の世界。声の続く限り、歌い続けて参ります」
比較的珍しい1番・2番のツーコーラス歌唱。
ここからは柔道三部作。
「柔道一代」「姿三四郎」「柔道水滸伝」…版権からか、すべてワンコーラス編集されていて、ちょっと不自然。これを聴いて思ったのは、村田が「柔」を歌っていても、おそらくヒットしたんじゃないかということ。
この3曲、もっと評価して欲しい。語られることが全くのは無い寂しい…。
ドラマ主題歌だったからでしょうか?
そして夫婦シリーズへ突入。
「夫婦春秋」はワンコーラス編集。これも珠玉の名曲です。
「夫婦舟」、宮崎民謡「シャンシャン馬道中唄」を後半に入れた、なかなか凝った作品。確か委託盤からシングル化された作品。
「めおと雲」、まさに村田夫婦演歌。
♪空も晴れたよ いつか見ためおと雲だよ
とニッコリ微笑みながら歌われた日には、私が女なら泣くでしょう(^^ゞ
司会者が散々煽り、ついに十八番中の十八番、村田英雄最大のヒット曲「王将」へ。
しかし、版権の関係でワンコーラス編集^^;。(推定)3番を歌い終わったビブラートが編集しそこなって残っているのが何とも言えぬモノを醸し出しています。
さすがにこれでは消化不良・・・。
ここで村田英雄の筆による曲が2曲、「花と竜」「男の土俵」。
どちらも、まさに村田ワールド。
「花と竜」は、某若手演歌歌手も歌ってますが、迫力/貫禄の点で既に門前払い。
中年パワー全開の豪快な歌声は聴いていて、ホント心地良いです(^^)
そして、ここで歌謡曲の「父帰る」。もう村田ボイスに酔うための曲です(^.^)
いよいよリサイタルも佳境に。
この年の紅白でも歌った「男だけの唄」の前に村田センセからの御挨拶
「ホントに御声援下さいましてありがとうございます、2度とこの喜び忘れることなく、唄に専念して参ります」
病気で1年近く休業したことからのこの言葉。
しかし、後年・・・。
いよいよ、ラスト。
村田公演でのエンディング曲は絶対コレだったという曲「皆の衆」。
豪快に歌詞を替えてます、歌詞を間違えない村田は村田に有らず(笑)
この説得力、この曲は村田御大にしか歌えないです。
巧さだけでは歌えない曲だな…とつくづく思います。
歌い終わり、村田センセからの御挨拶。
元気一杯、後年あのような状態になるとはまったく思えない素晴らしいショウでした。
歌ふ映画スタァ-この言葉はもはや死語と化しております。
歌う俳優/タレント…こう言い換えた方が良いかも知れませんね。
昔は映画、今はドラマにCM。
自分も出演、主題歌・挿入歌も歌っちゃえ。
石原裕次郎、高倉健、吉永小百合・・・。
逆に、歌手が俳優やって大成しちゃった美空ひばり、江利チエミ。
結果、副業が本業になってる小林旭みたいなのもいます。
最近だと、上戸彩、沢尻エリカ、長澤まさみ…。
タイプは違いますが柴咲コウもそうでしょうね。
今は何だか女性ばかりなのは気のせいでしょうか(^^ゞ
・・・頑張れ、男(笑)
さて、このタイアップ、誰がトップバッターか?
女性だと高峰三枝子、男性だと高田浩吉と言われております。
お三枝さんは、今はとりあえずパスして、今回は浩吉っあんの方を取り上げたいと思います。
高田浩吉(1911〜98)
兵庫県園田村(現・尼崎市)生まれ。
生後すぐ母が亡くなり、伯母のもとで育てられる。
大正十五年、松竹入社。
昭和五年頃から大幹部となり、主演映画が製作される。
昭和十年、「大江戸出世小唄」が公開、主題歌と共に大盛況を博し、スタアの座を固める。
昭和十六年、徴兵。満州・ロシア国境のチャムスへ赴任。
昭和十八年に除隊後は、慰問を中心に活動。
昭和二十年、高田浩吉劇団結成、二十五年の解散まで各地を巡業し盛況を博す。
昭和二十六年、映画界に本格復帰。「とんぼ返り道中」で美空ひばりの相手役を演じたところ、人気が再燃。親子二代のファンも急増。
「伊豆の佐太郎」もヒットさせ、見事に歌うスタアとして奇跡的に返り咲く。
その後も「白鷺三味線」「大江戸出世双六」「五十三次待ったなし」などヒットを連発。
昭和三十五年、東映移籍。
時代劇映画衰退に伴い、テレビ・舞台へ活躍の場を移行する。
昭和四十年代の懐メロブームでも、その美声を惜しみなく披露。
昭和六十年代には、原野商法を行っていた会社の広告出演していたことから、裁判で賠償を命じられたこともある(のち、和解)。
平成十年五月十九日、没。
元祖・歌う映画スタァなだけに、本来映画共々紹介すべきなんでしょうが、この手の娯楽時代劇映画というものはなかなか見る術がございませんので、視聴次第…とううことで御勘弁願いますm(__)m
江戸情緒たっぷりの端唄/都都逸調の浩吉ぶし。
戦後はそれに加え、ほのかにジャズの香り。
大江戸モダン・サウンドは、今もなお私の中では健在です。
伝七小唄
実は2種類ありますが、これは後者。
昭和43年3〜7月にABCで放送された「伝七捕物帳」主題歌です。
浩吉っつあんと、その愛嬢・高田美和のデュエット。
三味線とエレキギター、スチールギターの融合。
和製・テケテケ・サウンド。
乞う再評価!
作曲は土田啓四郎(代表作:愛と死を見つめて)
大江戸出世双六
昭和30年公開の同名映画主題歌。
♪どうする どうする スチャラカン
といいながらも、ノホホ〜ンと構えてるような歌詞。
まさに端唄の世界。
浩吉ぶし絶好調、私が最も愛唱する1曲です。
半次呼び込み唄(お軽勘平)
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」から「お軽勘平」を題材にしたと思われる1曲。
♪私ゃ 売られていくわいな ヨイショ 行くわいな
軽快な曲調とは裏腹、なかなかヘビーな歌詞です。
大江戸出世小唄
♪土手の柳は風まかせ 好きなあの娘は風まかせ ええ しょんがいな
という歌詞は、ある年代以上であれば耳にした覚えはあるかと思います。
高田浩吉の唄といえばコレ、というべき決定版です。
むらさき小唄
これは高田浩吉では無く、国民栄誉賞俳優・長谷川一夫主演映画「雪之丞変化」の主題歌で、東海林太郎のヒット曲。
この「雪之丞変化」は長谷川一夫の当たり役で、戦後も市川崑監督でリメイク。
浩吉っつあんも、「雪之丞変化」を舞台で演じていたからなのか、昭和51年頃にこの曲を吹き込み、ポリドールからシングルが出ています。
曲中の台詞は、雪之丞・十代目岩井半四郎(仁科亜希子の父)、闇太郎・高田浩吉となっています。この台詞も素晴らしい。
さすがの浩吉っつあんも歌唱に衰えが見られませんが、そのあたりは50年の芸暦で見事にカバーしております。
鴛鴦道中
昭和13年、上原敏と青葉笙子によるヒット曲。股旅歌謡の決定版の1曲。
戦後、ニューギニアで戦死した上原に代わって、東海林太郎に相手役を替えて、実演等で披露していたこともある(レコードも発売)。
懐メロブーム到来の昭和42年ごろ、テイチクで、今度は高田浩吉を相手役に迎え、三度吹き込んだのが、コレです。
上原、東海林、高田…と戦前ポリドールの看板スタア三人と同一曲を吹き込みをしている青葉笙子、他にこういう例は少ないかと思います。
三代目の歌声も、決して悪いモノでは無く、青葉共々往年を回想しながらの心暖まる歌唱となっております。
浮かれ駕篭
米山正夫の作詞/作曲による、和製ジャズ端唄。
高田浩吉もお気に入りで「私のお気に入りの曲のひとつです」と、後年語っています。
まさに高田浩吉の真骨頂、ぜひとも一聴をオススメ致します。
明日なき男
昭和32年公開「りんどう鴉」劇中歌。
粋な台詞入りの、浩吉股旅ソングの名作。
この台詞をこう爽やかさすら感じさせて聴かせる俳優は今では皆無でしょうね。
演ってる俳優が恥ずかしがってることがバレバレな状態で、この台詞は・・・。
浩吉っつあんの偉大さを痛感致します。
そして、娯楽映画の難しさも。
江戸の三四郎さん
昭和31年公開「花笠太鼓」劇中歌。
戦後、高田浩吉の相手役といえば、美空ひばりなのですが、この映画の相手役は何と江利チエミ!一応ジャズ歌手としてスタートしたはずなのですが、この映画ではそんなことを一部歌うシーンを除き、微塵も感じさせぬ熱演振り。
映画で何とチエミを、途中まで浩吉っつあんは「男」だと思って接しているのです(笑)
後年、サザエさんを当たり役にするのもわかる気がします。
さて、この曲ですが、もとは九州地方の俗謡で、それをアレンジしたものだそうです。
見事に江戸の唄となっているのは浩吉ボイスの成せる技でしょう。
伊豆の佐太郎
戦後、高田浩吉カムバック第一弾シングル。
佐太郎という名は、作詞の西條八十邸出入りの植木職人の名前から拝借。
股旅+小唄/端唄調のエッセンスのこの曲は高田浩吉ならでは。
白鷺三味線
タモリお気に入りの1曲(曰く「思想が無い唄」)
この曲の売りはイントロの三味線。
オリジナルでは、伝説の三味線弾き・三味線豊吉が担当。
この曲は、高田自身も会心の1曲。
上原げんと作品では最も良いと、絶賛。
日本調復活…ぜひ受け継いで歌う方が出てきて欲しいモノです、男で(笑)
女性では、檜山うめ吉さん?とかいう方がいるそうなので。
その1
あるステージで、ぼくと(石原)裕次郎と三波春夫が共演したことがある。そのときに、ぼくの『旅姿三人男』を三人で、一番、二番、三番とメドレーで歌うことになった。
ところが、裕次郎がブースカ怒ってるんだよ。
「なんだ、あのやろう!後輩のくせに生意気だ」
「どうしたんだ?」
って訊くと、
「あのやろう、自分に三番を歌わせてくれってほざくんですよ・・・・・・先輩が歌うのが当たり前でしょう?それを後輩のくせに・・・・・」
つまり、こういうことなんだね。
ある歌を三人でメドレーで歌う場合、一番、二番よりも三番を歌うほうが、客に与える印象がどうしても強くなる。
他の二人が一番、二番をどう歌おうと、最後に自分の歌い方でピシッと決めるわけだからね、余韻がそれだけ強く残るわけだ。あの、『紅白歌合戦』だって、誰がトリを取るか、毎年話題になるだろう?その年の主役だからね。歌手なら誰だってトリを取りたいわけだ。
で、この場合も、三波春夫が三番を歌いたいっていったんだね。三波らしいやね。
ところが、裕次郎にいわせると、ディック・ミネの持ち歌なんだから当然ぼくが歌うべきだってことと、テイチクの専属のキャリアからいうと、ぼく、裕次郎、三波の順で、三波は一番後輩なのに先輩二人を差し置いて・・・・・・ってことなんだ。
三波はそのころは人気絶頂だったけど、裕次郎だってスクリーンの大スターだし、歌手としても三波に勝るとも劣らぬ人気歌手だったからね。その自負心は強烈に持ってるわけだ。それで、
「三波のやろう、生意気だ!」
って怒ったわけなんだよ。
ところが、ぼくはそういうことは、一向に気にしないんだよ。誰が何番歌おうと・・・。
こっちは飽きるほど、うんざりするぐらい歌っているんだから、ホント、歌うのイヤなんだ。それに彼等はずっと後輩で、これから伸びて行くんだし・・・・・・。
で、裕次郎には
「いいじゃねえか。歌いたかったら歌わせてやんなよ」
「だって、先輩・・・・・・腹が立たないスか?」
「怒るほどのタマじゃないよ、放っとけよ」
ってなだめたんだけど、裕次郎、それでもまだブースカいってたね。
その2
三波春夫で感心するのは、ぼくなんかとはまるで違って、後輩のしつけに異様に厳しいことだね。
テイチクの廊下で、十七、八の女の子が泣いているところに通りかかったことがあってね。わけを聞いてみると、その子、新人歌手らしいんだけどね、ぼくはあんまり若い子なんて知らないから・・・でこういうんだよ。
「・・・・・・・三波先生の前歌をやったことがあるんですけど・・・・・また、やることになって・・・・・」
ポツン、ポツンとその子が話したのをまとめると、こういうことなんだ。
「お疲れ様でした」
って楽屋で座長の三波のところに挨拶に行くとするね。
まず、戸の開け方が悪いって注意される。
―もっと、丁寧に。
で、やり直しをさせられる。
―開けたら、閉める。
あわてて、閉める。
―挨拶はそんな入口じゃなくて、ちゃんと私のところまで来て。
で、三波のところまで行って、正座してお辞儀をする。
―手のつき方はそうじゃない。両手の親指と親指、人差し指と人差し指をきちんとくっつけて・・・・・そう。頭を下げるときは、鼻がその間に行くように・・・・・・そう。
やれやれってホッとしたら、
―いま、こっちに歩いてくるときに、そこの畳のヘリを踏んだだろう!
一事が万事、この調子なんでね。その子、すっかり恐れをなして、それで泣いていたってわけだ。
よく知られていることだけど、三波は浪花節(浪曲)出身だよね。あの世界はことに厳しいらしいんだよ。先輩、後輩の序列やしつけが。三波もたっぷりやられてきてる。
苦労したらしいよ。
(中略)
ぼくなんか、そんなこと一切やらないからね。
「いや、ご苦労さん・・・・・いいんだよ、わざわざこっちにこなくたって。早く寝なさい。くたびれたろう」
で、おしまい。いい女だったらこうはいかないけどね。
「もう寝るのかい?まだ早いよ。遠慮することはないよ。こっちにおいで・・・・・・腹減っただろう。うまい菓子があるよ」
いいかげんなもんだね、ぼくも。
三波は別にいじめてるわけじゃないんだろうけど、いまの若いモンにはいじめとしか思えない。で、泣くわけだ。仕様がないよ。大体、その親たちからして、そんな礼儀やしつけはわかっちゃいないからね、子どもに求めたって無理なんだ。ぼくなんか時代の違いだって割り切ってるからね。しないんだよ、そんな面倒くさいこと・・・・・・。
それから、三波で感心することは、何ごとにも徹底しているってことだね、嫌味なくらい。
「今日は遠いところから、おじいちゃん、おばあちゃん、よく来ていただきました」
で、ステージの前方に出て行って、一番前の客に、
「おばあちゃん、どちらから?」
「●●△△××++・・・・・」
「ああ、わざわざ本当に遠い所からいらしてくださって・・・・・お客様は神様です」
実際《ファンが一番大切》って思っていたって、普通の神経じゃ、あそこまでいえないからね。堂々たるモンだよ。ぼくなんかは、からだがむずがゆくなっちゃうけどね。
それに、
「あのやろうは、えげつねえやろうだ!」
とかナントカいわれながらもあそこまで行ったのは、いい根性してるといおうか、立派だよ。敬服するよ。
ただね。ステージを下りたら、三波春夫じゃない、ただの社会人だってことを本人が気づいていたら、もっと立派なんだけどね。
※
ディック・ミネ・・・昭和9年テイチク入社。
石原裕次郎・・・昭和31年テイチク入社。
三波春夫・・・昭和32年テイチク入社。
ぼくが映画に出はじめて、本職の迫力を感じた最初の役者が志村喬でね。亡くなったけど、いい役者だった。
何という映画だったかな?タイトルは忘れてしまったけどね。その映画ではぼくはバカ殿様役。志村さんは骨董屋の役。役が役だからね。ぼくはいつもふんぞり返って威張ってるわけだ。で、このバカ殿様、バカのわりには趣味がよくて、骨董品集めときたね。ところが、そこがバカ殿様がバカ殿様たるゆえんでね。鑑定の仕方が問題なんだよ。たとえば、例によってお供を大勢引き連れて、背骨が痛くなるくらいふんぞり返って骨董品屋に行くわけだ。志村さんが迎えに出て、内心じゃこのバカって思っているんだけど、
「殿様、いらっしゃいまし」
そこで音楽が入る。ミュージカル映画だからね。ぼくがオペレッタ調で歌うわけだ。で、そのあと、志村さんが茶器をいくつか持ってくる。千利休あたりが使っていたと称するものをね。で、普通だったら、それを手にしてためつすがめつ鑑賞したり手触りを見たりするよね。ところがぼくは、箸でコーンと叩いて、その音に耳を傾けてね、こうだよ。
「ウーン。いい音がする。これはよいものじゃ。気に入ったぞ」
志村さんはそのときなんとも哀れっぽい、情けなそうな表情をするんだけど、この辺りから共演していて、《うまいなあ!》って思うんだよ。
骨董屋のあるじとしては、どうせ売るなら骨董品の価値を充分分かるヒトに売りたいよね。ところが、毎回この調子で、バカ殿様は、コーンってやっては買って行く。できることなら、売らずに自分の手許に置いときたいぐらいのものをね。情けないやら腹立たしいやら・・・・・・それが毎回繰り返されるわけだ。
で、最後に、山水画の掛軸をバカ殿様が見て、
「あれは誰が書いた?」
「雪舟でございます」
「有名なのか」
「はい、それはもう、山水画を描かせたら、第一人者でございます」
「そうか、有名か。気に入ったぞ」
「いえ、殿様、あれだけはご勘弁願います。私めの命の次ぐらいに大切にしているものですから・・・・・・・」
「なに!売り物であろうが」
「は、はい、それはそうでございますが・・・・・・なにとぞ、あれだけは・・・・・・」
「ならん、まかりならん」
てな調子で、刀に手をかけたりして、ぼくは威張るわけだ。ところが、おかしいんだよ。このとき、うっかり刀を逆に・・・・・正式には刃の方を上に腰に差すものなのに、下向きに差していてね。つかに手をかけたときに、どうも具合が悪いな・・・・・・で、見て気がついたんだよ。それをさ、監督やらカメラマンは誰も気がついていないんだよ。大笑いだよ。でね。マキノ監督は、
「バカ殿らしくていいや、それでいこう」
これですよ。臨機応変が娯楽映画のいいところでね。芸術映画気取りの巨匠じゃこうはいきません。で、次のシーンに移るんだけど、ここでもマキノ監督は、
「志村くんは、バカ殿に愛娘を奪われるようなものだからね。怒りと悲しみのどん底みたいなもんなんだ。よし、ここはひとつ歌を入れて、志村くんにその思いをたっぷり歌い上げてもらおう。ミネくん、大至急書いてくれ」
いつもこの調子ですからね。シナリオなんてあってないようなもんで、現場でクルクル変わっちゃう。変わるのはいいんだけど、なにしろ一週間で一本撮らなきゃいけませんからね。スタッフは大変ですよ。そのつど、短期間で監督の欲求を満たさなきゃいけない。蜂の巣を突っついたみたいに大騒ぎですよ。
ぼくも当時映画の撮影とはこんなものだと思っていたしね。また仮に、そうじゃないくても、この調子でスピーディで活気のある雰囲気がピッタリくるのかね、ホイホイてなもんで、
「監督、曲は大久保徳二郎でどうでしょう?」
「うん、君にまかせる」
で、大久保徳二郎(「上海ブルース」「或る雨の午后」「夜霧のブルース」の作曲者)が呼ばれてくるまでの間に、ぼくは詩を作るわけだ。見るからにアホづらしたバカ殿様の扮装のままでね・・・・・・。ものの十五、六分で書き上げたころ、大久保が来る。場面の状況を説明して歌詞を見せ、ああでもないっこうでもないとやりながら、曲が出来上がる。志村さんを呼んでまずぼくが歌ってみせ、それを真似ながら歌うわけだけど、感心しましたねえ、志村さんのうまいのには。ぼくはそれまでにずいぶん俳優さんに教えたけどね。志村喬みたいに音程がしっかりして、歌の感じをピタリとつかんで歌える俳優を見たことがなかったからね・・・・・・。よし、それで行こう――。
で、リハーサル再開。
ぼくのバカ殿様を前に、志村喬の骨董屋があるじが歌いはじめる。
♪ 山と思えば山じゃない
川と思えば川じゃない
夢を描いた雪舟の
そこが非凡な芸術じゃ
・・・・・・・
渋くてね、いい声してるんだよ。
それにあれは志村喬じゃなくて、完全に骨董屋が歌っていたね。このバカ殿様にむざむざ雪舟を奪られてしまうのか、恨みやら腹立たしさやら悲しさやらが、歌っているうちにゴチャゴチャしてきたんだね。うっすらと涙が滲んでね・・・・・・。
アレ!? って思ったら、もう涙がポロポロ・・・・・・涙流して歌っているんだよ。
すごい役者だと思ったね。役柄になりきるのは当たり前にしても、ほんの二、三十分前に覚えた歌に、プロの歌手でさえあれほど感情を移入できるものじゃないからね・・・・・・。
ぼくは別の世界から入った下手っぴいだよね。やりづらかっただろうけど、そういう様子はカケラも見せないしね、偉ぶらない、誠実な人柄でね・・・・・・。ああいうヒトを、ホンモノの役者というんだろうね。
この話は、映画『鴛鴦歌合戦』のエピソードだと思われます。
かなり記憶違いが見受けられますが(^^ゞ
(いちいち指摘しなくてもこの映画はカルト的人気を誇ってます。DVD化もされておりますので、興味のある方はお調べになってはいかがでしょうか?)
ともかく、志村喬の凄さを感じる話です。
この後、ミネは志村に「テイチクに入って、歌ってみないか?」と誘ったらしいですが、「私は役者だから」と断られたそうです。
志村喬の歌といえば、映画『生きる』での
♪い〜のち〜ィ みじ〜ィかァし〜〜〜〜〜(@ゴンドラの唄)
があまりにも有名ですが、この映画では、あの怖い感じは微塵もありません。
お見事です。
「私は役者だから…」
と言って、歌手としての活動は無かった志村さんですが、一度だけ、加東大介司会の、NETだったか、フジだったかの「懐かしのメロディー」的番組に出て、雪降る公園のセット(つまり「生きる」の例のシーン再現)で「ゴンドラの唄」を歌ったことがあったそうです。それからすぐ、加東氏は鬼籍入りされたそうです。
僕がデビューしたとき、東海林太郎さんは「赤城の子守唄」「国境の町」でスターだったからね。ただ、まったく音楽のジャンルがちがうのと、こっちは、むしろその手の歌謡曲をバカにしてたから、気にもとまらなかったよ。親しくなったのは、しばらくあとなんだけどね。いまでこそ、あの人、まじめの見本みたいに思われてるけど、なんのなんの、おかしい人なんだよ。
お互いに大学出のせいか、話が合うの。僕には気を許してくれて、女の話なんかもずいぶんしたよ。
大阪に行くとき、偶然、一緒になってね。寝台車だ。新幹線なんてない時代だから、寝台で十二時間かかった。寝台車のはじに車掌室があって、その横が喫煙室になっていた。二人でウィスキー三本くらい空けたかな。横浜で買った崎陽軒のシューマイをつまみに、ボソボソ話ながら、とうとう大阪まで行っちゃった。
東海林さんは秋田中学を出てるんだけど、僕の姉の旦那と同期でね。だからよく知ってるわけ。
大阪のキャバレーの仕事のとき、僕はなんとか東海林さんを崩してやろうと思ってね。なにしろ、いつもあのスタイルでしょ。直立不動で、ただ歌うだけだもんね。ステージ前にさんざん酒をすすめてね。あの人、大酒飲みなんだよ。少しフラフラしながらステージに出た。
「あっあ、今日は酒までごちそうになっちゃって。そのうえ、ギャラまでもらえるっつうんだから、この商売、やめられないねェ」
やりましたよ。読者のみなさんは、東海林さんのこんな「しゃべり」想像できるかい。
満州へも何回も行ってるし、僕と一緒に回ったことはないんだけど、また似たようなことやってきているはずだよ
晩年はあまり幸せとはいえなかった。女房運というか、家庭的には恵まれなかったんじゃないかな。ガンになって何回も手術したんだ。人工の肛門を脇腹に開けて、そこから排便してる始末だからね。
「ミネさん、いくつになっても、新しい女はいいね。こないだ久しぶりにいただいな女が、これが処女でね。ていねいに、ていねいにやったんだけど、あんまりいい気分のもんだから、ここからウンコが出ちゃってさ。こっちは気持ち悪いし、あっちは気持ちいいし、困ったもんだね」
そんなこといいながら、三回目の手術の後、しばらくしてから死んじゃった。
あの人は、自宅に引っ張り込んで、手を出すタイプだったんだよ。息子がそのことで、東海林さんをボロクソにいうから、僕は怒鳴ってやった。
「お前な、お母さん、君を産んでまもなく早死だし、夫婦仲もうまくいってなかったんだもの、そりゃ女だって欲しくなるよ。だいいち、いまのお前さんは。お父さんの歌うたって食ってんだろ。感謝しなきゃダメだよ」ってね。
それ以来、すっかり考え直したらしく、立派にやってるけどね。
東海林さんは歌手協会の初代会長。象徴みたいなもんだから、なにもしてないね。二代目が藤山一郎さんで、三代目が僕。
藤山さんはいい格好してたから、「よきにはからえ」ってね。
僕が引き受けたときには、つまみ食いはあるわで、かなり乱れてたよ。僕はセコイこと嫌いだからね。全部きれいにして、いまは週三回は連絡してる。今日だって二回も電話してね。われわれ歌手は東海林さんのような、本当にステキな先輩を持ってるんだから、特に若手の歌手はもっともっとがんばらなくちゃいけない。
テレビのなかった時代という違いはあるけど、東海林さんは、身振りも手振りもない。
「歌心」一本であれだけファンの心をつかんできたんだから、すごいもんだよ。
(中略)
東海林さんのステージ見た人ならわかると思うけど、あの人は間奏の間、ずっと直立不動で正面向いてるよね。ところが、日劇で間奏のときに、舞台の袖のほう見て、二番の出だしトチっちゃったことがある。僕も一緒だったんで、思わずフいちゃったけど、あの人も人間なんだよ。
そのころ、十九か二十歳くらいの女がいてね、奥さんと別れたすぐあとだったから、東海林さんもそうとう惚れ込んだんだね。その娘がステージの袖にいたわけ。間奏のときにちらっと横向いたんだよ。そんなことする人じゃないんだが、惚れた女がいるときってのは、そんなもんだ。目と目が合って、それから二番の出になったら、間違えて、もう一回、一番歌っちゃたんだよ。東海林さんのそんな人間臭いとこ知らないでしょ。
そんな純情な面もあった東海林さん、女運にはとことんツイていない人でね。その女とも長続きしなかったよ。何もかも持っていかれてね。死ぬときは東京の立川に住んでいんだが、みじめなもんだったよ。ステージがあんなふうだから、私生活のほうもさぞかし、きちんとしてるだろうと思ったら大間違い。後世に名を残す人には違いないけど、末路はあわれだったね。冥福――。
CMビンちゃんがんばる 「人物現代史」
●歌いまくった"二百曲"
かの女は、CMソングの歌手だということを、つい最近まで不名誉なことだと思いこんでいた。
『ふんわりふわふわハマフォーム』のうた、『カシミヤタッチのカシミロン』のうた、『ヴィックス』のうた、そしていま大ヒットしている洗剤『テル』のうた、流行コマソンのほとんどは楠トシエの声である。コマソンは、これまで二千曲ほどつくられ、電波にのった。そののち、かの女は一割の二百曲を歌っている。名実ともに"コマソンの女王"なのだが、長いこと、かの女は、そういわれることにこだわってきた。
かの女は、ほんもののホーム・ソング歌手が望みだったのだ。こどもと家庭の主婦のために、明るい、たのしい歌をサービスする歌手、それがかの女の理想だった。
ところが、「キミの声は明るいね、リズムがあるね、言葉がハッキリしているね、だからコマソンにぴったりサ」というわけで、ポポンのうたをうたわされたのがはじまり。あっという間にコマソン歌手になってしまった。
だが、わからないもので、コマソンは二千曲も出るにおよんで、昔の童謡にかわるこどものうたになり、主婦の愛唱歌になった。コマソン変じてホーム・ソングになったのだから、楠トシエにしてみれば、まわり道をしたつもりが初志を達した結果になった。
「ホイでもってビックリしちゃった」のが、かの女の心境である。同時に「やっと自信というか、誇りを感じられるようになった。大手を振って歩けるわ」と胸を張っていうようになった。
かの女に自信を持たせたきっかけは、二つある。『ヴィックス』の歌が、ことしのCMコンクールで一位になり、続いてカンヌの国際CMコンクールに日本代表として出品されたことである。
「それまで、あのCM、ビンちゃん(愛称)でしょ、といわれると恥ずかしくて恥ずかしくて。CMソングは、歌ってる顔は出ないし、名前も紹介されないでしょ、そういうしきたりでしょ、だから引き受けてたのよ、実は」
小首をかしげて、すごく早いテンポで。かの女は話す。CMテンポである。恥ずかしい、不名誉だからといっても、かの女はCMソングの仕事を、一度だっていいかげんにすませたことはない。「仕事に対してきわめてドン欲な人です」(作曲家いずみたく氏の話)という定評通り、かの女はCMソングの譜面を受けとると、それをおたまじゃくし通りに歌いこなすだけではなく、プラス・アルファを加えた。どうせ歌うならヒットしなきゃ、ヒットさせるには、こう歌わなければ、という論理でかの女は、作曲家、スポンサーに、自分のアイディアを、遠慮なくぶっつけた。
●アクセントづけが特技
いまヒットしている『テル』のCMソングで、どこが受けているかというと、「テルウゥーウ」と語尾が数回、踊りを踊るところだ。踊らせたのは楠トシエで、スポンサーは、はじめあまりイイ顔をしなかった。ただ、語尾が踊るだけならまだしも。ふてくされた声で「テルウゥーウ」とやられては。商品が売れるかしらという恐れをもつのもスポンサーとしては当然だ。
だが、かの女は、スポンサーの顔いろなんかドコ吹く風で、思いきり、ふてくされた声で歌ってのけた。かの女には確信があった。
『セデス』のCMで、お上品にいわずに「セ、デ、スッ」と少少すごんだいい方をして、事実それが当たっている。その経験があるので、かの女は強気だった。無難なCMより、冒険のあるCMを・・・・・・と、かの女はいつもねらっている。逆効果の効果を、つねに計算している。『カシミヤタッチ』のうたで、「ホイでもって」という言葉が印象に残るが、それも原文は「ソイでもって」だったのを、かの女がさらにデフォルメしたものである。こんなふうに、アクセントをつけるのが、かの女の特技である。
先日、二葉あき子「人生のプラットホーム -歌ひとすじに生きて-」という本を入手しました。この本は東京新聞が昭和62年10月から12月まで連載したものを加筆・修正したものだそうです。
(一部はプロが手直ししてますが)二葉あき子が自身の筆で、波乱万丈の人生を振り返っています。
あれこれと胸を打つ話も多いのですけども、まずは一つ、なかなかネットでは情報にお目にかかれない赤坂小梅姐さん(小梅太夫とは無関係)の話をご紹介したいと思います。
尊敬する先輩、大好きな歌手仲間は大勢いるが、私が心の底から惚れた人は赤坂小梅姐さんである。
"大梅"なんていう人もいるほどおなかも大きかったが、日本一の大姐御であった。昔、九州・小倉や東京の赤坂で向こうっ気の強い芸者さんで鳴らした明治の女。私がコロムビアに入ったころは、もう「ほんとにそうなら」の大ヒットで、一世も二世も風靡した大スターだった。
十八歳のときから一升酒を飲まれていたというほどの酒豪だったが、芸の執念は大変なもので常盤津から清元、長唄、小唄、民謡と、いいお師匠さんがいると聞けば借金をしてでも銀座裏のご自宅に招いて教えを乞うていた。
"男嫌い"という評判だったが、昭和十二年ごろ、長唄師匠の杵屋勝松さんと大ロマンスの末、結婚された。日中戦争さ中の昭和十三年、満州へ慰問に行かれ、憮順で歌っているとき「ダンナさまが急死した」という電報を受け取ったそうだ。
「世の中っておかしいよね。私ゃそのとき"楽天館"という劇場で♪ほんとにそうなら嬉しいネ・・・・・・と歌ってたんだからさ」
姐さんはあっけらかんと話されたが、私は姐さんの気持ちを思って泣いてしまった。
戦争中は「黒田節」、戦後は「おてもやん」で姐さんはいつも太陽のように輝いていた。そんな小梅姐さんにも、ついに引退のときがきた。
昭和五十六年四月二十七日、曇り。
私は日記をつけたこともないのに、その日のお天気まではっきりと記憶している。
私は信じられない気持ちのまま「引退記念公演」が行われる国立劇場へやってきて、二回公演の二回とも切符を買って客席に座った。楽屋へはお顔を見るのが悲しくて行けない。
ビクターのスターでライバルだった市丸さんも舞台に立たれた。司会者が「市丸さんは、いつまでもお美しく、お元気ですね」といったとき、私は小梅姐さんの心中を思い、「このオー」と胸が痛んだ。
姐さんは「黒田節」を歌われた。姐さんがご自慢の、白地に桜と盃を散らしたお着物。博多帯には故緒方竹虎副総理の筆になる「黒田節」の紫糸の刺しゅう。
八十キロもあった堂々たる姐さんが、普通の人よりもやせていた。糖尿病、高血圧、じん臓病・・・・・に右足骨折の大ケガ。
足を引きずっておられたが、歌手生活五十年、七十五歳になっても往年のウグイス芸者の艶の声は落ちていなかった。
姐さんはいつも「歌えなくなったら命をとって下さいって、神仏にお願いしてるの」といっていらした。
(おねえさんは歌えなくなったんじゃない。病気とケガで引退されるのだ)
私は流れる涙と鼻をハンカチをかんだ。
公演後、パーティがあった。姐さんのファンの政財界の大物、歌舞伎の猿之助、梅幸さんや、長谷川一夫先生も出席されていた。
私はこんな華やかな席ではいつも片隅でジュースぐらいしか飲まないのだが、その日はめちゃくちゃにお酒を飲んだ。いつか偉い人たちやお客さまの姿も私の眼中から消えていた。
私はおねえさんがあいさつに立たれたとたん、その前に飛び出して、
「おねえさん、やめないで!」「おねえさん、やめないで!」
と泣きながら大声で叫んでしまった。
私はパーティの席から外へ出されてしまった。
二葉センセ、本当に小梅姐さんが好きだったんでしょうね。文面からひしひしと伝わってきます。そしてその小梅姐さんも良い人柄だったんでしょうね。
読んでいて、ちょっとホロっときたハナシでした。










