一句鑑賞

俳句をとおして、いろいろなものとのふれあい。

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去年今年

2017年01月02日 | 一句鑑賞
命継ぐ深息しては去年今年  石田波郷

 石田波郷は闘病生活の中で俳句を作った。この句は、私が心臓の病を得てから身に染みるように感じている。深息をして呼吸を整えないと、息苦しくなるときがある。体験しないと分からないこともある。
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鰰(はたはた)

2016年12月19日 | 一句鑑賞
鰰の大粒卵嚙むさびしさ 林翔

 香ばしい味噌田楽の香を楽しみながら、鰰の大粒の卵にかぶりつく。少し粘りのある卵の半分ほどが口の中におさまる。しかし、「大粒卵嚙むさびしさ」という、さびしさには到達しない。私の感受性の無さと思いつつ、頭から、卵から身へ、感激しながら食べる。
 そして、次の一尾へ・・・。

 画像は、鰰の田楽。
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海鼠(なまこ)

2016年12月10日 | 一句鑑賞
心萎えしとき箸逃ぐる海鼠かな 石田波郷

 病気療養中のときの俳句であろうか。海鼠は病院食ではないだろうが、健康なときには深海の味のする海鼠がこりこりとしておいしいと思う。体調が思わしくないときには、食事に対する喜びも変わる。その変化を海鼠を箸で取り逃がしたことに思いを寄せている。
 海鼠は酒の肴としても好まれるが、酒も肴も体調によっては味も食欲も満たされない。

 画像はネットから拝借した。本物は調理済みのものしか見たことがない。
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2016年12月09日 | 一句鑑賞
みちのくの青菜はもう雪の下  じゅん

畑の青菜は、12月7日に降った雪の中になりました。
きびしい寒さの中、甘さを増したのではと思われます。おいしそうですね。

一句鑑賞です。

初雪の足らぬことばのやうに止み 向田貴子

 初雪を足らぬことばというように、言葉に譬えるのは、やはり初雪であるからだろう。つまり、雪に対しての繊細な感覚がある。雪を見慣れるとこうは言えなくなると思う。降り始めの雪はどれくらい降るのか、たいして降らないのだろう。言われてみるとそうである。ことばの譬えは人の内面にまで入ってくるので、なかなか深さのある句になった。
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陽炎

2016年03月29日 | 一句鑑賞
陽炎より手が出て握り飯掴む 高野ムツオ

 陽炎という季語からは、多くの場合、春らしい陽気な情景を思い起こす。
 しかし、この句は、2011年の東日本大震災の被災地を詠んだ句である。
 私もこの大震災の句を詠む機会を与えられたが、なかなか作れない。
 「手が出て握り飯掴む」には、震災にあってもいのちへの強い必死さが感じられる。
 また、この場合の「陽炎」は、この世に起きたことなのに、いまだ信じがたいような出来事を象徴している。
※画像はgoogle検索より借用
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寒し(寒冷)

2016年01月16日 | 一句鑑賞
茂吉産みし出羽の寒さに驚きぬ 肥田埜勝美

 平成28年の1月も半ばの15日、本家の主人が亡くなったという知らせがあった。命日の15日はその奥さんの命日と同じである。朝から冷える日であった。夜、帰宅するとき、道路の温度計はマイナス9度だった。この冬いちばんの寒さである。
 掲句は、想像以上の出羽地方の寒さに驚いたという。茂吉の郷里である出羽の風土に触れることによって、茂吉を見直すことになったのではないだろうか。人物の名を自然に結び付け、深まりのある俳句になっている。
 作者の肥田埜勝美氏は、俳句結社「阿吽」の主宰であり、2006年4月2日亡くなられた。

寒冷や人の生き死に容赦なく じゅん
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寒椿

2016年01月15日 | 一句鑑賞
寒椿赤し一揆の血が流れ 関口ふさの

 関口ふさの氏は、俳句結社「麻苧」(あさお)主宰。麻苧とは麻で作った糸、麻糸のことである。
 掲句は、かつて農民一揆のあった土地柄に咲く寒椿を詠んだ。寒椿の赤い色から一揆で流された血を連想した。

画像は花瓶の寒椿。まだつぼみです。

待ち切れず書棚に活けて寒椿 じゅん
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冬旱

2016年01月14日 | 一句鑑賞
菜を茹でて窓くもらする冬旱 岡本眸

 「菜を茹でて窓くもらする」とは、冬の時期によくあることだ。しかし、冬旱の時期では、また違う意味合いがあるだろう。いわゆる湿気がより強く意識される。
 ところで「窓くもらする」とは、文語表現をよく知っている人の使い方か。私は、「窓を曇らす」とするだろう。
 豪雪地帯のど真ん中に住んでいるものにとって、川を見ると冬旱と感ずるが、稲作には山の雪が溶けて大いなる恩恵をもたらすことも思う。
 地方によっては、冬旱=夏旱、冬旱≠夏旱となる。
 しかし、それは理である。情としての冬旱は厳寒にある。
 こういう六感を挙げて感ずる受け止めが人間にはある。それが俳句を支えてきた感性だろう。
 じゃ、これからどうなるのか。
 どうなるのかは理である。どうなっているかは情である。情は現実、理は未来志向。現実を離れて未来はない。
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切干

2016年01月13日 | 一句鑑賞
切干やいのちの限り妻の恩 日野草城

 「いのちの限り妻の恩」は直接には「切干」とは関係がないように見える。しかし、「切干」という手間のかかる食材、その炒め物であろうか食べ物を前にして、妻の恩を思わずにはいられない。
 「いのちの限り妻の恩」は、わが「いのちの限り」「妻の恩」を思う、ということであろうか。または、「いのちの限り」私に与えてくれた「妻の恩」なのであろうか。
 私は妻を亡くしているが、そういう目からみると「妻がいのちの限り尽くしてくれた」その「妻への恩」と思う。私が生きている限り、いのちの限り、妻への恩を思う、ということは言えないと思うのである。

※画像はネットの中から拝借。
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懐炉

2016年01月12日 | 一句鑑賞
わが温みのみとなりたり紙懐炉 島崎省三

 インスタント懐炉として「ホッカイロ」がある。その熱もいつか冷めるときがくる。そのときわが体の温みを感じる。そういうことに気づいたことを俳句にした。
 紙懐炉というと聞きなれないが、「ホッカイロ」と言えば誰でも分かるだろう。俳句にする場合、紙懐炉というと何かもっともらしい。
 感情のない紙懐炉であるが、その役目を終え、冷えてしまって我が体温を感ずるとき、何か寂しげな感情が起こる。そういうこともこの句には含まれていると思う。
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