羽黒蛇、大相撲について語るブログ

相撲ファンから提供された記事・データも掲載。頂いたコメントは、記事欄に掲載させて頂くことがあります。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

大達羽左ェ門@OdateUzaemon、大相撲きょうの記事、明治30年まで

2016年09月15日 | 大達羽左ェ門@OdateUzaemon
大達羽左ェ門さん(ペンネーム)が、@OdateUzaemon でツイートされた記事を時系列に並べております。

大達、明治、今日の記事、〜明治30年まで

@OdateUzaemon: 慶応2年3月6日目は剛勇陣幕に対するは小野川、前夜より風邪で頭の重い小野川はこれでは到底勝てぬと勧進元へ断りを入れに行こうとしている所に抱の留守居役らが見物に参るから場所に同道しようと言う。風邪を理由に断ろうとする小野川、しかし留守居役はこれを甚だ心得違いとする。 #sumo
@OdateUzaemon: 曰く、相手は名に負う陣幕、見物は小野川の風邪を知らぬから休めば怖れて逃げたと思う。また、抱えの我々でさえ如何にと思う取組、負けても恥辱ではない。それにもし病気でも陣幕を押したと見物が知れば小野川を天晴れと思うだろう。よく思案せよと説諭し、小野川は納得し場所へ向かう。 #sumo
@OdateUzaemon: さて、所詮勝つのは難しいが無碍に負けるのは悔しいと工夫を凝らし、十に一つ勝利を得んと如何なる機会か注文を付けたが、これが嵌まって陣幕は土俵中央に四つん這い。纏頭の山が出来、小野川小野川と誉る響動の中、風邪の神も怖れたか小野川は平生に勝る元気となったとか。 #sumo
@OdateUzaemon: この場所の小野川は三日目は幕下筆頭の新進増位山、五日目はこれも気鋭の鶴ヶ滝に敗れ五分の星、決して元気では無かったが、陣幕を破った後は千年川にも勝ち鬼面山と分けるなど一転好調に。ちなみに小野川は明治維新後の京都横綱です。 #sumo
@OdateUzaemon: 以上は明治35年1月20日、陣幕からの伝聞として掲載された記事からでした。相撲を見張って土俵下で刀をちらつかせるなど、抱えの藩が面子を賭けて殺伐としたこの時代にあって「負けてもいいから相撲を取れ」と諭した留守居役に感銘を受けたのでツイートしてみました。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治8年2月27日
綾瀬川弟子の玉手潟が大雪の中両国橋を通ると、両手を合せ欄干にうちより今にも川中に飛び込まんとする老人。玉が押さえると老人は、今日食う事も出来ぬからいっそ死ぬ、離してくれと涙を流すから、持ち合せの金を出し諭した。人々は玉を褒め称えている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治8年6月17日
雷電が召し取られたことについて、その訳を早く新聞に出せと沢山投書が来るが、まだよく分からないのでいずれ分かれば詳しく出す。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治8年6月20日
雷電が捕らえられたのは、彼の女房の母が禁制の花札を作っていた事が知れたため。母が不在のため代わりに雷電が呼び出され、その母の出てくるまで町内預けと成っていたもの。一昨日この母が帰ってきたため雷電に子細はない。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治8年6月25日
綾瀬川雷電磐石が玉垣伊勢ノ海を相手取り、金銭問題で訴えを起こしているが、おそらく年寄連を動揺させることは出来ないだろうと横網あたりの人々の専らの評判。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治9年4月15日
下総国香取郡佐原村八日市場町での興行は、東京からも百人が向かう大繁盛だが、これは同国河内郡阿波崎村の稲妻雷五郎が88歳で土俵入をするからだという。 #sumo
引退後の横綱土俵入は還暦土俵入に始まった訳ではない。境川は引退後も花相撲で土俵入を行っていたし、江戸期の阿武松は引退後も出場しているから土俵入をしていたかもしれない。
これらとは別に高齢での記念の土俵入となると、陣幕のそれが有名。明治21年及び34年の靖国大祭で白髭姿で行ったもの。それよりも前に高齢元横綱の土俵入がなされた可能性を示唆するのが本記事である。実年齢は生年享和2年説を採れば満76で史上最高齢の土俵入。
尤も実際にこの土俵入が行われたのかを示唆する資料は無い。晩年の稲妻の写真が存在するが、既にヨボヨボである。客寄せの為に評判を流し、実際には行われなかった可能性もある。いずれにせよ新出資料と思われる。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治9年4月28日
綾瀬川は大阪八軒屋の三十石船の堺屋の倅で何の不自由もない身ながら、好きだからと相撲になったが、此の節柄つまらない業をしていては済まないと相撲を辞め家業を励む事になり、別れの摺物を諸方へ配ったとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治9年7月29日
元力士綾瀬川が出す蠣売町二丁目の温泉場は多分来月二日頃より始めるという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治10年3月26日
年寄若松妻は彼が巡業で不在中稲荷で間男と忍び逢っているのを巡査に見つかり近所で大評判、この度離縁となったが、仲裁者が無筆の若松を騙して家の荷物を全て妻側が受取るよう証書に書き判を押させた。今回この謀略が判って仲裁者は第三課に送られた。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治11年2月6日
東京警視による角力並びに行司取締規則及び興行場取締規則が前日に布達される。前者は営業鑑札に関する規則、後者は桟敷の構造を堅固にする事、清潔を保つ事、賭博を禁止する事などが書かれている。なお当時の大警視は相撲に理解があった川路利良。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治11年2月19日
年寄玉垣伊勢海と、改正組高砂の三人は警視庁に呼び出され、合併するよう諭されたため、今度一組となることに決まった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治11年4月11日
京都府ではこれまで無税だった角力、行司から今度税を取り立てることになった。他国より同所へ行って興行する角力も一日に三銭五厘ずつ出すことに。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治11年6月18日
藤島が、明治元年以降の勧進帳を見せるよう玉垣伊勢の海根岸の三人に要求。藤島は先日に続いて二、三日前にも勧解所へ願い出たが、次第によっては裁判所へ訴え出るという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治12年6月14日
幕下大立と行司某が共に料理屋で泥酔し、持前の角力甚句を踊り立て跳ね廻ったが、これを注意した店に腹を立てた行司が大立の止めるのも聞かずに座敷の真ん中で小便を垂れる。止めに入った女房は投げ、署に訴え出るとした料理屋を大立が詫びて事済みに。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 大立は大達。この行司某だが、おそらく高砂改正組の行司と思われる。木村誠道の可能性が高いと考えるのは私だけだろうか。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治13年5月5日
大阪天満青物市場では賊難を防ぐため先頃より力士を十五、六名雇って夜番をさせているが、彼等が退屈しのぎに相撲の稽古を始め、これを聞いた近所の若者が稽古をつけてもらおうと我も我もと集まっているという。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治13年5月場所3日目の常陸山武蔵野の取組は、双方見合って一時間経っても立ち合わず、行司年寄困り果てたが、両者を東西の土俵際に立たせて、引く団扇と共に双方より駆け寄り取り組ませたという。八角谷風の待った以前のような、完全なる行司裁量による立合である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治13年8月1日
相撲取の裸は見苦しい、しかし衣類を着せては不都合だと思い患い、伊勢国山の原得水先生は相撲の故実を尋ねてみた。曰く、江家次第では褌の上に狩衣を着て、古今著聞集では烏帽子姿に裾をくくって取っているが、栄華物語では裸姿も見えるのだとか。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治14年2月2日
今度吉原で相撲興行が行われる事になった経緯は、火災の際の積金を渋った河内楼主人と他一同が大論戦となった所を河内楼主人女房が取りなし、和解の為梅ヶ谷一行を招いたからとか。仕掛姿の娼妓に羽織の主人連が揃い見物とあり、大評判で大入りの模様。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治14年2月8日
幕下の隼は肥後八代町滞留中、若い者に力自慢をしたが、五十貫の石を持ち上げられるかどうかで言い争いとなった。そこで隼が両肌脱いで、石を総身の力でエイヤと持ち上げたところ、筋が切れたのかそのまま倒れて死んでしまった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治14年4月23日
田子ノ浦を願人とする興行が近日兜町で予定されており、既にその筋の許可も得ていたが、突然差配人が故障を言い出し興行を拒んだので田子ノ浦は立腹し、彼を相手取り東京裁判所民事課へ訴え出た。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治14年6月22日
相撲取なら誰でも「取組む」尻軽女の小竹は、以前上汐と深い仲だったが力士なら誰でもいいという小竹に上汐が辟易、一悶着あって小竹は田舎稼ぎに出ていた。その後今度は高千穂と熱くなって妊娠。しかし高が認知を拒否した為に裁判所に訴え出た。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治15年3月5日
飯田町での興行は、切符が籤となっており、当選者に景品を渡すから大変な大入り
だったが、これは富講に類するものだとして一昨日差し止めとなった。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治16年6月13日
英人ケルベ氏が大阪にて力士と軽業師を雇い入れ、昨日米国桑港に向け横浜を出発。同行の力士は濱田庄吉小川龍太郎伊藤鐵五郎松田幸次郎で、前二人は年二百円、後二人は年三百円での約定。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年2月2日
今度の回向院での興行は、力士の優劣を検査し給料を適当に定める為行うものだか
ら、引分けなど決してせず、かつ水入りのまま土俵を下りる者は負けとするのだという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年3月6日
中橋広小路の写真師二見堂堀家氏が、回向院の相撲を早取器械で撮影。土俵入り、取組などの三葉で、いずれも鮮明に撮れたという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年3月23日
錦戸は近年中風で起居不自由、豪農の兄には無視され妻には薄情にも離縁されたが、かつての相弟子宮城野夫妻が全て世話している。宮城野は火災で家財を失っているのに何と義気に富んだ事か。宮城野弟子神力も師の心を感じ錦戸の看護を愈怠らない。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年4月26日
米国で元力士松田虎吉は英国人ビッビーと相撲を取り、第一回は英国式ルールの為に松田は投げられ気絶したが、第二回は日本式ルールで行ったから大方の予測に反し松田が勝利。ビッビーや観衆の不服で取直りとなったがこれも松田が勝利、邦人は大喜び。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治17年5月場所7日目、大達が梅ヶ谷を破った相撲は実は中入前。群集の中を大達が締込姿そのままに大手を振って会所へ引き上げている頃、土俵では清見潟と綾浪が寂しく仕切りを重ねていた...かも。 #sumo

@OdateUzaemon: 初代梅ヶ谷に年齢を尋ねると何時でも28と答えるから、お前はいつ人魚を食べたのだと問えば、梅は相撲に勝つ内は年を取らぬのだと答えた。その後梅が大達に敗れたから、改めて年齢を尋ねると、真面目な顔で「ヘイ38です」(読売、明治33年1月31) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治17年5月31日
二十七日年寄三名が華族五条君の邸で協議の結果、大達を西大関とする旨を届け出したという。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 実際には大達は張出となり、これが原因で翌年高砂からの破門騒動が勃発する。
なお、場所終了間も無くに、五条家に新大関を届け出たという記載は注目に値する。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治18年2月28日
京坂相撲の嵐山八幡山荒石らが、昨年春東京本場所で好成績だった為十両に付出した事につき、相撲仲間で紛紜があったが、この度客筋の貴顕方が仲裁して昨日両国井生村楼で和解の手打ち。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治18年4月19日
高砂門弟の為朝又五郎は一昨日より天然痘にかかったというが、同人は未痘者なので世間では入口に貼る為朝の名乗りを付けたのに疱瘡にかかったとはしこ名の甲斐もないと話している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治18年5月28日
一人の外国人が浦風の下に来て弟子入りを頼み込む。体重四十貫の米国人で力も人並み優れているから、浦風も名誉の事と喜んだが、外国人の雑居は禁制なので其の筋へ伺いの上入門の可否を返答するとして彼を一旦帰し、其の筋へ伺書を認め差し出した。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 当時は外国人は居留地に住まなければならなかった。この入門もどうも許されなかったものと思われるが、外国人が角界入門を試みた最初の例と思われる。これも「土俵のうちそと」で取り上げられている。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治19年6月9日
七尺二寸の大男、男山が大評判。力飽まで強く、横浜賑町の興行では八幡山得意の右差し足掛に全く動かず吊り出したり、神田川らの五人掛に苦もなく勝を得たりしている。これに技術が加われば本場所でも活躍できるだろうと言われている。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年3月2日
高砂に破門された大達が本所区役所に出頭し、新規鑑札下付を願い出る。区役所方は高砂と掛合い元の鑑札を用いる事を勧めるが、大達はこれを容れず。この紛擾は相撲衰微に繋がるとして雷楯山等年寄は大いに心配している。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年3月23日
高砂に大達の紛擾で、大達を今後伊勢ノ海の門人とし高砂を会所役員とせぬ事と決したが、高砂はこれを不当として境川大嶽藤島雷宮城野ら会所役員を相手に訴訟を起こした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年7月28日
緋縅即ち玉垣門人の諏訪の海今勇及び十両格行司一名は師匠の取扱いに不満を抱き、行く末技芸上達の目的無しと破門を請うに、何分埒が明かないので昨日師匠を相手取り師弟破約の説諭願をその筋に出した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年8月25日
品川で興行中の西洋力士三名が開場前に酒気に乗じて表に飛び出し、内一人が突然天秤棒で偶然通りかかった牛を殴ろうとした。これを水夫が止めようとした事から西洋力士と沢山の水夫で争論が発生。宿に逃げ込んだ力士、水夫が門口に石を投付ける騒ぎ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治20年8月31日
高砂境川の訴訟事件は和解の仲裁も整わず、高砂方は同意の年寄尾車八角放駒大山稲川らと共に別派となり、府下の相撲は二組に分かれるだろうという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治21年7月29日
相撲仲間の愛嬌者と評判で、幕下まで取上た二荒山改め武蔵野は郷里埼玉県に野見宿禰の碑を建設したいとした、親の故武蔵野の遺志を継いで奔走しており、碑文は勝伯に依頼した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治21年8月4日
大達一行に加わり北海道地方で出稼ぎしている行司柳川秋次郎は仙台に干鰯買入れの為一人止まっていたが、土地の遊人と争論して大喧嘩となり左腕を切り落とされたとの事で、東京の家族は大変心配しているが詳細は不明。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治21年8月5日
富山興行で乱闘騒ぎ。天模様が悪かったが大入なので三番勝負に入った所、雨が降り出したので入掛とし、呼出の秋田某に触れさせた。すると満場の観客大いに怒り、五六十人の若者が土俵に上り秋田に暴行を加えた。
支度部屋の片男浪と小金山が駆けつけ秋田を救おうとしたが両人も打ちまくられる。共に重傷を負ったが何とか秋田を救い出し逃げると、支度部屋に観客が殺到。風呂に入っていた三ヶ月常陸山は逃げ切ったが小錦が逃げ遅れ、観客と大喧嘩。
竹切れを持った大勢の観客を向こうに回した小錦は目の下に微傷を負い漸く逃げ出し警察署に訴え出た。その内数多の警官か出張、暴行者は拘束された。 #sumo(続く) #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治22年2月3日
今泉と北國の両二段目上位力士は既に幕内の力があるが、両人は所得を全て遊興に使い捨ててこの寒中に布一枚被って震えている始末だから、幕内の交際も出来ぬだろう、力士全体の面目にも関わるということで二段目に据え置かれたのだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治22年4月28日
小錦の評判は近来益々高く、種々の風評を為しているが、今度の場所の収入は云々とか親許に七百円送ったとか言触す者があり、これがその筋へ聞こえたと見えて小錦は本所区役所に呼び出され、自今相当の所得税を上納するよう諭示された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
平成22年6月11日
先月下旬に週刊誌が琴光喜の野球賭博について報じたが、協会は現役力士数人から野球賭博をした事があると自己申告があった事を明かした。理事会で処分を検討するが、自発的な申告を情状として酌み力士名は公表しない方針。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治22年6月13日
素行不良で尾車部屋を破門となった真鶴は大達の部屋に泣込んだが、相撲規則で他部屋の幕以上の力士を弟子とする際は五百円を先師匠に差出す定め、大達は尾車にその示談をしたが回答を得ず、不在ばかりなので高砂雷の両取締に書面を提出した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治22年7月5日
従来の相撲小屋は本場所でも高貴方には見苦しい為、ある貴顕紳士の発起で西洋形の建物とし、場所以外は興行場に貸与する事に内談が整った。場所は両国下流一つ目橋際より新大橋間の中洲二万坪の埋立計画があるため、それを借用しようと協議中である。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年2月7日
元横綱陣幕は、相撲が営利的遊技となり無益である事を嘆いている。そこで彼は、全国の力士を各鎮台ごとに分けて普段は剣術を学ばせ、有事には国家の為に働くと共に、毎年三月代表者を東京に集め優劣を定めるという計画を立て、建白書を出す予定という。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年2月26日
陣幕は以前高砂に三尺余の新刀を贈り、近日中に大達か西の海が横綱となるだろうからその際に使用されたしと伝えた。今度西が横綱免許を得たので、陣幕はこの太刀を立派な拵え付きとするべく一時借り受け、同人に改めて贈る予定だという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年3月25日
協会は回向院境内に年寄会議の為の議事堂を新設するに伴い、同院と今まで無かった借地契約を取り交わす事となったが、地代で合意できず遂に破談。回向院は相撲場立ち退きを求め、高砂も移転やむなしとの意志を示す。
この問題について回向院檀家は大いに心配していたが、先日同院差配人の内最も勢力の強かった者が死去したため、この紛議は自然消滅となる模様。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年4月3日
大達が次場所でかつての兄弟弟子と顔を合わせる事について、大達は先年の紛議で同部屋の者と不和となっているから彼等を投げつけてくれんとの意気込み。しかし如何に大達の力量挽回しても小錦には及ばぬ、むしろ西ノ海との力相撲が面白いと好角家の説。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年4月20日
来場所は、博覧会見物に伴う上京者の入場が見込まれるから、本桟敷と雛壇の間を広げ、ここに十分の立見場を設けて入場者の増加に備えることとなった。ちなみに近来桟敷土間の拡大のため立見場は僅かとなっていた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年4月25日
相撲協会では先の天覧相撲で下賜された金円を以て記念の弓を作ったが、今度はその余金で紫の天幕を新調することに決した。協会は陸軍に因んだ印を染め抜く事を希望、これは元来力士は国家有事に従軍する事もあるからと特別の詮議を以て許可された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年5月1日
高砂は今度本所区法恩寺橋通り柳島町へ牛乳搾取改良販売所を設置し、本日開業式を施行、余興として小錦一の矢などによる稽古相撲を一覧に供することになった。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年5月25日
近年病気を詐称し休場する力士が多く、役員会議でこの悪弊を予防する為の規則が議決される。大関は従来二場所負越で陥落だったがこれを毎場所監査する事にする。また欠勤は半負星とし、逆に皆勤者は成績に関わらず三等勝星とし番附給金を取り計らう。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:当時は勝星をその内容によって一等から三等に分類し、給金に反映していた。高砂の八百長対策の一つである。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年5月26日
先年大井憲太郎らの朝鮮事件に組した氏家直国氏は出獄後力士となって新世界泰平を名乗り大阪で喝采を博していたが、彼は廃娼論に反対して関西存娼会を設立、自ら会長となり、更に上京して存娼演説会を開いて持論を吐いているのだとか。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 大井憲太郎は所謂壮士であり、先に民権運動に関わった事もある自由党左派の領袖。朝鮮事件は大阪事件とも呼ばれる。氏家は巨体とはいえ36歳、入門は政治的色彩が強い。なお、上京後に力士に復した形跡は無い。「土俵のうちそと」を参考にした。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年5月30日
力士海山太郎は今度百五拾円にて年寄友綱の株を買い入れたる由(原文、但し仮名遣いと旧字のみ変更) #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 当時の年寄株売買に関する資料。資金はおそらく後援者板垣退助から出されたと思われる。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年6月18日
元横綱雲竜の追手風が死去。折柄今年5月場所が大変な不景気で、その損失決算を見て大いに気落ちしていた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年8月1日
大阪北新地の老妓重吉は元力士出来山和一の妻、夫が世を去って後身を川竹に沈めたが貞操を守ってきた。十月の33回忌では一大法会を営もうと思い頭取に相談した結果、追善相撲を興行しそこで重吉は力士に扮装して土俵に上り、興行の趣意を述べる事に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年8月3日
剣山は痔の再発の為五月大場所を欠勤したが、もし本年内に体格回復しなければ引退、武蔵川専務となる決心。また、大達は昨年秋より病気が快方に赴いたが五月感冒に罹り元気衰退、こちらも今年暮までに回復しなければ坊主となり本国に引込む決心。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年8月6日
相撲興行の売れ余り。境川の一行は買手無く食料を償う事も出来ぬ有様、回向院前合宿所で買人を一同待ち構えている。一方越後に出稼ぎの泉滝大蛇潟一行も不景気で離散の危機にあったが、庄内近傍で挽回した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治23年8月14日
大阪幕内大島は先年西の海小錦に東京相撲に加わる約束をして、一人出京し雷部屋に足を洗ったが、大島は本来鬼ヶ谷弟子なので鬼の所に行くべきであり、しかし西の海小錦との約束もあり無断で鬼の所に行く訳にも行かぬと身の置き所に困り、遂に帰阪した。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年2月27日
今泉の手前勝手は毎度の事、横須賀興行を欠勤し師匠の勘気を蒙ったが特に感じる所無く、朋友を頼んで暮らしていた。しかし再々の失策で目を掛ける者も無くなり、三度の食事にも事欠く始末。某年寄が詫を試み、改心の証に前髪を剃落すか相談中である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年3月1日
芳野山は近年境川を相続も、何故か一月以来行方不明である。好角家が様子を探る
に、一昨年の兄弟弟子黒雲の病気廃業、折柄の増位山の不評判で巡業が不調、更に昨年来の不景気で困難の折、上州で興行中何かの廉で逐電され、以降踪跡を知る者無しと聞く。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年3月26日
東京相撲を脱走し大阪に逃げた滝の音は近来同地で勝ち続けているが、その割に昇進せぬから同人や贔屓は不平を言っていた。そこでこの度ある侠客の周旋で、同人は大阪で代々大関の地位にある八陣に改名する事になった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月14日
高砂一行の名古屋興行は近来の相撲不景気の中では珍しく未曾有の好景気、千八百円の利益を得る。しかしこの折に高砂実母逝去の報せを受け、しばし沈んだが、実務を阿武松らに任せ先の利益を持って故郷千葉に帰る。(続く) #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年
近所を驚かす程の盛大な葬儀を営むと、酒樽で遠近の貧窮者を賑わせ、更に人夫を
雇って荒地に桑を植付け、人夫を鳥獣を肴に手厚くもてなす。高砂は先の利益を使い果し、更に五十円を借入れ帰京した時には残金僅か一円五十銭。(続く) #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年
しかし高砂は全く意に介せず、金は天下の融通物、桑畑が残ったのが儲け物と語っている。相変わらず胸襟の大きな爺であることだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月18日
去る明治20年相撲興行で好評だった米人ウェブストル氏の一行は又横浜に渡来、大蛇潟雷山一行と内外人の相撲を興行する趣である。外国人力士中には八幡山大達などと名乗る者がおり、ウェブストル氏は「小錦」である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月21日
板垣伯は高知や神戸の自邸で平素数人の力士を養成している。中でも鏡川に特に贔屓厚く、昨年海山の許に送ったが、鏡川が訪ねてきたと聞けば同伯は病床でも起きて面会を許す程。昨今彼の技量が進歩し、幕内と互角との説がある事に大変喜んでいる。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4年22日
ロシア皇太子来遊について、歌舞伎座で演劇をご覧に入れる事が決まったから大相撲もご遊覧に供せんとの説があり、協会ではちょうど興行の折柄なので皇太子の上覧に供したいとして高砂、雷らは協議中だという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月25日
近年休場を続けていた大達が再勤する。本年一月より年寄専業となろうとしていた
が、旧師高砂が病気が治れば元に戻ると励ま思いとどまる。稽古に励んだ結果、幕内力士を容易に倒せるようになったので、高砂に来場所からの再勤の手続きを依頼した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年4月30日
近来人気の朝汐だが入門前は不身持で、力士志望で失踪中の明治18年、徴兵適齢と
なった時は行方不明だった。東京相撲で出世した今日彼はこれを国家に相済まないと後悔し、今月上旬愛媛県に帰り徴兵忌避の自首をしたため何れ相当の処分を受けるだろう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年5月1日
海山は持病の為廃業せんとの意があり、一昨年友綱の年寄株を譲り受けたので年寄専業となろうとした。もしそうなれば海山の名跡は八幡山が相続すべき順序だが、八幡山はその名が既に高い。板垣伯は贔屓の鏡川に海山を継がせようと考えている。
しかし鏡川は本年一月に三段目に附出されたばかり、未だ幕内の技量はなく海山は継げない。そのため、板垣伯は現海山の引退を思いとどまらせ、今一二年土俵を踏ませ、鏡川の出世を待って海山を相続させようと考えている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年5月27日
関西地方は元来大阪相撲の専売場所だったが、近来広角組という案内者を得た東京相撲が山陽山陰九州地方に乗込み頗る好人気を得て、大阪方が衰退している。その回復の策として大阪相撲は東京の専売地なる北海道に巡業しようと決め、函館で興行の予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年5月28日
この頃田舎家業で稼ぎの少ない大達が、かつて背いた高砂に詫びを入れて共に巡業しようとし、高砂は喜んだが西ノ海ら弟子が反対。これに高砂がかつて喧嘩をしたといえども頼みを拒むのは不義だと憤り、結局弟子らが折れた。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon この際、大達事件の勃発時に高砂雷両部屋力士が師匠同士の対立に関わりなく団結しようと契約していた事に関して、高砂部屋力士が勝手に大達と合同する事を是とせぬ雷側が高砂方と揉めかけたが、間に海山が入って仲裁した。契約内容が不明瞭だが、大達の絶対追放か。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年6月7日
鞆の平は内癬のために一時は危篤となり、快方に向かったものの何分体格衰弱し再勤も難しく、また当人も年寄となるを欲せざるため、贔屓の周旋で近日酒屋を開業することになった。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 実際にはこの後暫く引退せず、現役のまま酒屋を営む。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年6月10日
検査役によれば、春場所で小松山と笹島の引分相撲を取り直しとしたのは八百長を疑っての事。両者は雷、剣山の部屋の力士で兄弟同然、またいずれも既に勝越していた。必死の勝負に見えたが、実際は互いにただ寄返すのみの不正な相撲だったとした。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治24年8月14日
先場所全勝の幕下大砲は小錦八幡山一行と青森巡業中だが非常の元気、幕内と雖も容易にこれに勝てない勢いなので、来場所は幕下二、三枚目で幕内と顔を合わさせ、来々場所は幕内に昇進させるのが役員の意見であると聞く。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年2月5日
力士の給金直しについて、従来は「多少、眼鏡」との但し書きが規則中にあったが、本年一月場所よりこれを廃して一律一番勝越し25銭昇給とすることになった。
#sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:明治22年改正東京大角力協会申合規則第24条、「取締及検査役の眼鏡を以て勝星を三等に別ち、一等と見做したる者には前条(給金の勝越による増額に関するもの)の他尚給金を増加する事あるべし。」とあり、これの廃止か?

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年2月10日
高砂の発案で、関取以上の皆勤者は給金を倍にすることに。仮病の休場者が多いための措置で、特に平幕上位力士は強豪役力士と幕内下位の新進に挟まれ恰も貧乏神の如く苦しいから、特に後半黒星の増えぬ内に休んでしまうのだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年2月16日
若湊は元富士ヶ嶺門人だが、親方の借金の抵当として伊勢ノ海門下となり、借金返済の暁には旧師の下に帰る心積りで稽古に励んできた。昨年若の後援者が借金を肩替わりしたが、伊勢は年明けまで自門での勤続を要請、更に今も鑑札を返さぬから、遂に出訴。 #sumo
「若湊の金銭トレード」と呼ばれる話に関する記事。元々富士ヶ嶺(二代目、元幕下荒獅子)弟子の若湊が伊勢ノ海に移籍したのは借金の抵当、つまり返済で再び富士ヶ嶺に戻る筈だった。しかし、実際は26年1月に高砂部屋に移籍している。何故富士ヶ嶺に戻らなかったのか。二代目富士ヶ嶺が没したのは明治36年8月の巡業中、この後暫く若湊が欠場して翌年1月引退、名跡を継いだ(名跡代々)から、富士ヶ嶺弟子の扱いを受けていたとも思われる。この頃富士ヶ嶺部屋が閉鎖されていたかどうかは資料不足で不明。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年3月29日
伊達宗基伯から大砲に贈られた、伊達家定紋竹に雀の化粧廻は昔谷風に贈られたのを初めとする。大砲の体格等に谷風の面影があるからとの事、今度いよいよ谷風と改名して大阪に乗込む由も同伯の意志である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年4月7日
東京相撲鑑札等級は従来上中下と区別したが、本月より一等二等三等となり、月税が異なる。一等は高砂雷西の海小錦八幡山剣山一の矢綾浪鞆の平庄之助伊之助。また関取で三等は今泉芳の山高の戸大砲で、前二人は再勤で給金半減、後二人は近来昇進のため。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年4月12日
大蛇潟は温厚篤実で将来有望、師匠宮城野は実子の如く扱い大蛇も稽古怠らず遂に関取分に進んだから、長女を娶せ名跡相続を約束した。宮城野は一昨年逝去、大蛇は一層稽古に励む。ここで病身で伸び悩んでいた荒海改鳳凰が全快し出世する。
鳳凰は大蛇潟より男振りも幾分勝っていたから、大蛇の許嫁の先代長女は密かに鳳凰に思いを掛け、大蛇の巡業中遂に怪しい仲に。大蛇の帰京後紛議となったが、家付きの娘だからと鳳凰に軍配。大蛇は彼等を見返さんと働き抜群で入幕確実、長女は面目無し。 #sumo
@OdateUzaemon: 明治25年4月12日の記事より、鳳凰が宮城野を襲名する事が決定したのはこの頃、本来継ぐべき兄弟子大蛇潟は明治22年に没した先代宮城野の意向にも関わらず襲名争いに敗れた。明治27年には先代未亡人養子となっている。ちなみに明治28年の荒馬改名は結局巡業で名乗っただけである。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年4月14日
東京相撲の谷の音、真力、鬼鹿毛らの一行は広角組の大鳴門、殿らと合併して広島から米子まで中国地方を廻ることに。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年6月8日
西の海は明治23年吉田追風代理の清田直氏から横綱免許を受け片屋入を行ってきたが未だ古式の伝授を受けていないから、今度こそ司家で故実を受けんとして熊本に乗り込んだ。ここで免許状の他に新たに横綱及び幣帛を贈与された。
また、同行の庄之助は従来紫紐に二、三の白糸を混ぜた物を用いていたが、横綱片屋入を率いる為に当日限りの紫紐の免許があり、続いて興行中使用の許可があった。そのまま今場所でも紫紐の使用が黙許されたという。 #sumo(続く) #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年6月11日
近来相撲場へステッキや仕込杖を携帯し入場する客があるが、場所柄何時どんな間違いが起こるか図りがたく、特に大場所は貴顕紳士も多く来観するため、自今なるべく危険の恐れのある品は茶屋あるいは木戸で預り、持込みを禁止しようと協議中である。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年6月12日
西の海司天竜の相撲は同体に流れたが、司天の体が少し早いと庄之助は団扇を西に上げた。これに二力士が不満を表明、庄之助が断じて西の勝とすると庄之助を盲目行司と大喝。庄之助はその場で咎めなかったが、後に趣意を糺すと過言を詫び無事に済んだ。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年6月15日
相撲社会には様々な旧弊が存在するが、一昨日雨傘を携帯し相撲場に入ろうとした田舎連中が木戸の年寄に制され、他に預けさせられたのは雨具が相撲場に禁物だから。晴天興行に雨具は不吉という理由で、例えば触太鼓でも決して雨具は用意しないのだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治25年7月27日
近来度々壮士体の者が高砂を訪れ、金銭面の助力を請う。素より政治に疎い高砂、もし誰かに賛同すれば他派から攻撃を受け相撲興行に影響するため断って来たが、無碍に謝絶するのは心苦しいとその都度弁当料と称し57円を持たせ帰してきた。
(続き)しかしその金額が少なくないため自家の家計に困難を生じ、非常の節倹を行っているという。川開きなど諸方からの招きを見合わせ、また昨今入口に、相撲営業上の外は一切の面会を謝絶する張紙をした。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年2月2日
高砂による共同稽古場設立は多くの利益をもたらしたが、特に西稽古場で驕慢の心あり遊ぶ事に屈託する横着者が多くなった。八幡山は共倒れとなるのを嫌って脱しようとするし、八角友綱らの懇願で西に来た大戸平も東稽古場に戻りたがってる。
#sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:東西稽古場の割り当ては必ずしも番付面の東西と一致しなかった模様。後に高砂排撃の狼煙を上げる大戸平に関して、「友綱が高砂から乞い受けた」が本人は東に戻りたがっているというのも興味深い。後に少し調べてみます。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年2月6日
元東京相撲行司木村玉吉の中川専太郎が、奈良県下に野見宿禰の墓を発見。六年間の調査の末、垂仁帝の御所跡と呼ばれていた所に発見。同人は今後力士から義援金を募り碑を建立し、毎年三都の力士を招いて興行を行う計画であるという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年2月9日
大達が二段目時点で脱走した際世話を受けていた尾州河内屋を訪ねた折、酒を飲んだ後、店の断るのを無理に遊女を買って結局その後毎日遊び、その上代金の支払いを延期した。翌本場所大達は欠勤して金が無いとして代金を支払わぬから店主人と腕力沙汰に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年2月26日
幕下虹ヶ嶽は体格肥満で一時は幕内候補者と称されたが近来番付を落としている。しかし如才無い性質の為親方雷の女房に取り入り、部屋では却って幕内力士より権力を持っている。その為他の部屋の力士との折り合いが悪く、先頃も粉紜を起こした。
今度雷部屋の力士は相談し、一同暇を取るかあるいは虹ヶ嶽を放逐するか選ぶよう師匠に迫った。その為遂に虹は破門となった。同人は一旦故郷阿波に帰り、大阪力士となる積もりだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年4月16日
海山は本月上旬大阪天満神社での興行を終えた後、興賛丸に乗込み多度津へ向け出発したが、同地に現れず行方不明に。船場まで見送ったため、航海中の投身や誤っての落下、あるいは途中荷揚した高松での脱走かと訝しがられている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年4月23日
鉄砲突得意の若湊は三年前より梅毒にかかり技量が鈍っていたが、三月頃より元気を取り戻し殆ど元の若湊に回復した。他には西の海小錦一行の幕下升田川、玉龍もますます元気であるという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年4月26日
小錦は寄席新柳亭の長女おかめと婚約していたが、病没してしまった。このおかめは明治初年の小柳の娘、小柳は高砂と兄弟の間柄だった為に小錦との縁談が纏り、明春頃結婚の予定だった。おかめの死んだのが小柳の十三回忌の同日だったのは哀れである。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月3日
八幡山が内情により西共同稽古場を去り、東共同稽古場組に加入した。また、西共同稽古場では大達、達の矢らを引き入れたので、来場所番付の西は大戸平達の矢の両大関となるだろう。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 共同稽古場は高砂が明治23年に設立したもの。東が高砂方、西が玉垣方だから、八幡山の東への加入は一門からの離反である。大達一派は先の紛擾の影響もあり当初から共同稽古場自体に不参加だった。@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 前場所番付では西は大戸平八幡山の両大関、達の矢が関脇。記事の記載は八幡山が東に廻り一門から完全に離脱することを表すが、前場所全休の達の矢の大関昇進はどう考えてもありえない、記者のミス。実際には八幡山は西に留まっている。@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 以上のような事情もあり、八幡山の西共同稽古場離脱がそのまま一門離脱を示すとした記事の見解も必ずしも正しいとは言えず、検討を要する。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月8日
力士行司で年寄名義を兼務する者は給金二人分を給与され、更に年寄配当金まで受けており、出来過ぎとの苦情があった。更にこの度幕内皆勤者の給金を二倍にすると決し、苦情が沸騰した為、自今師匠名義相続を除き現役力士行司の年寄兼務を禁止する事に。@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 行司木村庄太郎が藤島相続で行司を辞したのはこれが原因という。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月13日
近年高砂に反する年寄が多く、これを黙視出来ぬ高砂は取締辞任を発表したが、これに驚いた協会は高砂に永年取締を委託する事を全会一致で決議、72年寄連署で高砂に委任状を差出し、高砂はこれを承諾した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月22日
共同稽古場が解体へ。高砂雷らが力士奨励のため設立したが利害関係が伴い、今春には高砂雷で東西に別れる。更に友綱部屋が西部屋を退き東部屋に加入しようとするに及び、遂に共同稽古場の解体を決定、同盟年寄は何れも承諾した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月24日
西の海、小錦を始め相撲社会で所得税を納める者は十五日赤十字社に入社。大戸平、伊勢の海の両人もこの頃同社に加入した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年6月24日
幕下で売出中の雷山は体格肥大で力量優れ、先場所も数番の勝越で来場所の幕内候補だが、十日目藤の嶽との相撲で四つに組んだまま止まって分けたのは不正相撲だと検査役が認めたため、この科条で雷山の番付は依然旧のままとなるだろうと云う。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 明治26年5月、西十両2で4勝2敗1預1分(藤ノ嶽)の雷山は翌場所東十両3である。また、東十両筆頭で2勝3敗1分の藤ノ嶽が翌場所西十両6も罰則とみられる。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年7月3日
木村銀次郎は横浜在留英国人と米国人を雇い、日英米人合併相撲興行をしたき旨外務大臣に出願、許可された為目下興行中の鉞り若山両大関の組に差し加える予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月3日
本所区緑町の某が今年の酷暑を当て込み川中大相撲の興行を計画、既に出願した。両国中洲最寄りに大伝馬舟二艘を浮かべ、これに角材割板を渡し、上に畳を敷き柱を立て土俵を作る。周りに大小の舟を浮かべ桟敷土間に代用、観客は小舟で送り迎えると云う。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月7日
鞆の平は年長だが年寄になるを欲せず立派な商店を開店する見込があって出勤を続けていたが、近頃頼みの豪商某氏と行き違いを生じて絶交を言い渡されてしまい、的外れとなってしまった。結局種々奔走の末大嶽を襲名する事に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月15日
両国橋中洲で興行を出願していた川中相撲は東京府知事により不認可。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月10日
東京相撲筆頭の秀の山が老衰で死去。旧来筆頭は年寄中の古老から選ばれ、今の取締の様に相撲全体の総括を行ってきたが、取締役新設以来は有名無実の名誉職であった。秀の山の次に筆頭となるべき高砂が現正取締なので、今回限りで廃止に。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月18日
去る六月頃から東京市内で素人相撲が流行しているが、土俵に四本柱を建て天幕を打巡らし桟敷を設けるなどあまりに大業なので、その筋により一度差し止めとなった。熱心家は、今後は多少の本業者を加え、正式の手続きを踏み出願するとの由。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治26年8月28日
今泉は京阪地方興行中不品行のためにまたも師匠をしくじり、仲間も呆れて取りなす者も無く困り果て、遂にある人の忠告によって大阪相撲に身を投じ、虎林ら一行と関西地方を回っているという。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年1月26日
芝区愛宕下町での興行で、先日の若木野に大栄の取組は大熱戦、大の爪取りに若宙に一回りしてから直立し大の背後に回って突き出した。これに桟敷観戦の外国人三名が、纏頭に帽子三個を投げ入れた。後彼らは桟敷に来た若に五円を与え技術の巧妙を賞した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年2月19日
雷は三島駅旅籠屋に見に覚えのない三百円の請求裁判を起こされ、これを弁護人に相談すると、裁判では全て知らぬで通すのが良いと助言される。すると雷、法廷では住所姓名役職等何を尋問されても「一向に存じません」で通したから弁護人は冷汗。
この為相撲社会で「一向に存じません」が流行語となり、昨今では真面目な協議の席上でも「一向に存じません」と言う者があるから、雷も不快の体で頬を膨らませ、これを更に面白がる徒もいるとか。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:ちなみに記事中では雷の名前は一度も出されず。
そのまま抜き出すと「相撲社会に在て其名雷霆の轟くが如くに聞え渡たる何の何太夫とか云へる大年寄」。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年2月20日
新川改音羽山は技倆に富み有望だったが本年一月場所三日目に大達の稽古場で卒中症で死亡した。後継については、当人に適当な門弟が無いので近々兄弟分の九紋龍が音羽山を相続する。 #sumo
@OdateUzaemon: 1先の明治27年の音羽山死亡記事に関しての補足。名跡代々等参考に
しました。まず、新川改の死亡記事に関しては存在せず、生家に稽古中死亡と伝わるとあるが、今回見つけたのがまさにその死亡記事。雷系の彼が場所中大達の稽古場にいたのは不自然だが、とりあえずそこには触れない。 #sumo
@OdateUzaemon: 2次に、後継問題について。「兄弟分の九紋龍」というのが不明。当時の番付が解らないから何とも言えないが、この頃の九紋龍といえば既に引退してい
る元十両がいる。この九紋龍は入門は音羽山だが、改正組事件時に高砂に付いてい
き、そのまま高砂の弟子となった人物である。 #sumo
@OdateUzaemon: 3高砂部屋で引退後も同名で世話人を勤めた後、引退後11年の明治33年4月に間垣を襲名した(名跡代々には明治34年頃とあるが、前年に襲名記事有り)。少なくとも明治33年現在は世話人だった。一時的でも音羽山を継いだ可能性があるのか?言わば音羽山系を裏切った人物だが... #sumo
@OdateUzaemon: 3新川没後、音羽山襲名がはっきり分かるのはこの時まだ現役の梅垣が明治30年に引退した折。この梅垣は雷門人、系統としては新川に近いが、新川は没時佐野山部屋にいた(先々代佐野山養子)ため直接の関わりではない。この名跡のやり取りで何か問題があった可能性もある。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年3月31日
立嵐と鬼の臍の両人は侠客土浦直こと坂本直吉の護衛に雇われ、彼の侠客関根大助の襲撃の際直吉の先方隊に加わり、同家に乱入しようとした容疑で拘留されたが、一昨日釈放された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年4月10日
大戸平は一月全休のため大関の地位を保てないが、病気の為なので特別に張出大関にしてはとの意見もあった。しかし、今まで張出となった剣山大鳴門八幡山は何れも再び正大関に戻れなかったから、張出大関は不吉とのことで結局関脇とすることになった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年4月27日
明治座五月狂言で小柳平助伝を演じるにつき、同座では小柳に関して調べている。彼を殺した殿り不動山は境川門からの移籍、文久2年春小柳が陣幕に勝った日、両名が酩酊し帰宅、更に暴食したのを我儘と叱ったのを逆恨みされたのだという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年5月6日
信州地方での高砂一行の興行は連日大入で各力士の意気込み溢れ、西の海小錦の名乗りに拍手喝采、立上がるや否や獅子奮迅の勢に突掛る小錦を西突戻し四つになり揉合い、両体流れる途端小錦は肋を、西は手首を負傷。為に靖国神社祭典相撲は共に休場する。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年8月22日
東京相撲は広角組に対し、大阪旧組とは共に家業をせぬ旨契約したが、先年の大戸平一行の違約に続いて谷の音一行が秋田で旧組と合併興行。広角組頭取中村芝吉代理人が秋田に赴いた所違反が確認された為、雷八角らに三千円の罰金を要求しめいる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治27年8月23日
東京西の海一行と、谷の音一行と大阪旧組の合併組が秋田で同時に興行となり、対決に。西の海は初切を廃し飛付新手三人抜の真剣勝負を仕組み、これが大当りで集客に成功。一方の旧組側は木戸銭値下げで対抗したが、結局客足が遠のき惨敗で興行打切りに。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年1月30日
高砂浦五郎は、上総木更津町鳥居崎で興行の際、地元の郡の出征者家族の貧困者へ金十二圓を寄贈した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年1月31日
先頃廃業した平の戸改御用木は挨拶廻りの為まだ在京だが、彼が稽古場に来てかつての同僚と昼飯を食していると、山の音が来て、廃業者が協会の炊出しを食らうとは何事だと罵り、更に御用木を蹴倒したので乱闘寸前となったが、周囲が宥めて事なきを得た。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年2月28日
君ヶ浜へ、この度の戦争で力士五十余名を遠征軍夫に編成したいとの内命があり、これを雷に伝える。協会は、今までの従軍願が認可されなかったのに今回君ヶ浜に内命が下り協会に沙汰が無かった事を不審としたが、召集は名誉、速に手続きに及ぶという。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年3月1日
君ヶ浜による力士の軍夫募集は同人の請負仕事と協会で探知したので雷は申し出を拒絶。すると君ヶ浜は勝手に岩戸川勢以下十余名の力士を、自己の門弟と共に引率し出発したから、勝手に弟子を連れて行かれた年寄連は激怒、同人を追放すると呟いている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年4月4日
今泉の放蕩は昨年居を構え妻を迎えてから収まっていたが、持病また発して、昨月師匠高砂の名誉を賭けた三都合併相撲を無断欠勤、これに高砂が激昂して遂に破門。困った今泉一家は客筋の周旋で、柳橋で待合を経営する予定。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年4月20日
大阪南地での東京大阪合併相撲で大阪荒虎と東京小錦の一番、荒虎の突落に軍配が上がったが朝汐の物言で預となるところを、小錦師匠高砂は検査役に対し、物言にならぬ相撲だと大喝、遂に荒虎の勝となる。この件によって高砂の信用は更に高まった。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年4月23日
巡業で久留米を訪れた雷は宿屋主人今村嘉助女房と兼てより親しい為饗応を受けた
が、これに怫然たる嘉助が雷を告発、雷は拘引されたとの噂。同地新聞にも掲載さ
れ、雷の妻は大変心配し同地に赴く覚悟だったが、本人から帰途につくとの電報があり一安心。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月13日
西の海鳳凰の相撲で伊之助は鳳凰の踏出を見逃し、鳳凰に軍扇を挙げ、更に検査役もこれを見逃したが、高砂が詰問、結局鳳凰に踏出があり紛議の末預りとなった。この問題で伊之助は謹慎、検査役は辞任を申し出た。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon あくまで高砂側を正しいとする記事内容だが、実際には門弟の西を勝ちとする高砂の物言いに無理があり、後の彼の失脚へと繋がっていく。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月18日
場所皆勤者の給金を倍にしたにも関わらず、欠勤者が多いため更なる改良の協議中である。具体的には力士の給料を上げ、また不勤者の番付は容赦なく引下げるという。他に、勝星が同点の力士は東西関係無く取組ませるともいう。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月23日
鳳凰は先に清軍の鳳凰城が脆くも陥落した事を縁起が悪いと気にかけており、また明春には海山に凌駕される状勢なためか、今度師匠の旧名を継いで荒馬馬五郎と改名した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月25日
回向院夏場所は寛政年間以降でも類のない欠勤者の多さで未曾有の不景気。損失は千円以上になると見られ、各年寄一人あたり十八、九円の持ち出しとなるから、弟子が無く給料は大場所頼りの連中は非常に困難を極めている。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年6月26日
放蕩無頼の今泉は岩本所警察署長の執り成しで帰参が許されたが、西の海小錦ら部屋の力士は皆愛想を尽かしているのみならず、共に稼業をすれば危険の恐れもあると各々忌避している為、当分大達羽左衛門の連中に預けられた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年7月1日
大戸平大砲が師匠の妻を放逐。大戸平の妻お花が大の巡業中に浪費して大が帰って来る時途方に暮れ、師匠の内儀おくらに相談してお花は上州地方に芸妓出稼ぎをする事に決したが、これは大戸平の外聞に関わるとお花の知己が内々に中止させた。これがいつしか大戸平と師匠の知る所となり大戸は立腹、弟分の大砲にもこれを知らせる。大砲は以前から師匠の気の弱いのにつけ込み我儘に振舞うおくらを憎しと思っていたから、大戸大砲二人でおくらを追込み、遂におくらが離縁を乞い立去った。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年7月29日
友綱部屋で力士一同が脱走する粉紜。師匠が海山ばかりを厚遇し、我儘増長したため一同不平を唱え、既に八幡山の湊川も何か面白くない所があり友綱と絶交していた。今回玉垣が台湾行きの軍夫を募集したのを機会に、病人鬼若と褌担ぎ一人の外は脱走した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年8月13日
三段目梅の谷は十八歳、24年に梅ヶ谷の名跡を相続する約定で雷の養子となった。しかし、近来雷は大砲を養子に迎え長女に娶せたため、まず大砲が梅ヶ谷を継続するだろうから、昨今梅の谷は大砲を敬って兄貴と呼んでいるとのこと。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治28年8月19日
大碇は本年六月大関となったが以前より支障伊勢ノ海に不平があり、場所後は浅草の自宅に引籠もり巡業に同行せず公園近傍を散歩していた。しかし流石の大碇も贔屓が減り居喰が困難になったからか、東海道辺に向ったから、或いは愛知県に帰郷したと伝う。 #sumo


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年1月29日
去る25日、小錦は大碇に押切りで敗れた。この内情はと言うと、この前日小錦に横綱免許を与える評議が決定しており、素より内気の小錦は大碇との立合中にその事が頭に浮かび、つい勝ち急いでしまったのだとか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年1月30日
陣幕久五郎は尺八を好み、前清国公使が笛に巧なのを聞いて訪れ、互いにその妙を戦わせた。陣幕が横綱記念碑建設に奔走するのを聞いた前公使は、これを補助しようとしたが戦争で沙汰やみに。しかしこの度戦争終結に伴い改めて金百圓を贈った。
#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年2月1日
大戸平による紛擾事件で、八角等五検査役が力士側の檄告に基づき趣意書を本所警察署長室田氏に提出。その要旨は、取締二名選出を選挙で行い任期一年とする事や、休場者を翌場所五枚降下する事などが含まれる。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:取締二名に関する記載は、これ以前には任期制がとられていなかった事を示唆し、これが高砂永久取締説の実体であることは武者成一氏の指摘の通り。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年2月9日
陣幕が深川に横綱記念碑建設をするに伴い、その資金募集運動をかつて土俵で相対した元両国伊勢ヶ濱に依頼、伊勢も近年金が無いから衣類などの雑費をくれるならと承諾。そこで、伊勢ヶ濱が陣幕両国の相撲を描いた黒塗りの俥を引いて運動することに。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年4月15日
雷は大兵肥満の奇童大塚義光(13)を養子に迎え入れたが、同人は先日錣山が媒酌人を経て既に養子に貰う約束をしていたとして、媒酌人から父久五郎に苦情。雷は先約の存在を知らなかったため、大いに迷惑している由。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年4月20日
高砂は熊本興行中の先月31日、吉田司家から「相撲大意」の巻を授かる。右は古来例のない大名誉であり、高砂の斯道隆盛への多年の精励によるものである。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年5月8日
小錦への横綱免許状は五条子爵及び吉田追風氏代理清田直の両氏より授与されたが、横綱の免許というのは谷風阿武松以来の三名のみで、他の横綱は皆免状あるいは證状であった。 注:小錦にも免状と証されるものも贈られている。記事の意味する所が今一つ不明ですが、分かり次第ツイートします。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年6月22日
横浜花相撲の小松山鬼鹿毛の取組は小松が鬼を襷反りにかけ同体に倒れたが、行司木村瀬平は小松に軍配を上げ、不服が出た。この際瀬平は相撲の取組手から団扇を小松に与えた理由を滔々と弁舌し、満場大喝采となった。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年7月4日
幕内力士の勢力は年寄を凌ぎ、増長した力士は役員外の年寄を小遣同様に使ったり脱走を散らつかせて巨額の借金前借を申込んでいる。不平の為休場した大戸平大砲が漸く出勤したと思えば大碇唐辛一力横車若島らが逐電、小松山も給金前借の件より脱走。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治29年8月5日
関の戸は近来ますます肥満、人力車を雇おうとしても車夫が恐れて皆応じない。忌々しいと徒歩を決心する。途中九段通の赤馬車が通ったから呼び止めたが生憎満員でと断られる。しかしその馬車が直後に他の客を乗せたから関の戸腹が立って堪らぬ。
炎暑の中両股が擦れて歩けぬ関の戸、余儀無く二人曳を雇ったが賃銭を通常の二三倍取られてしまう。桟敷の女将にこの話をすると、此の辺の車夫は関の戸を乗せると一人曳ではその後一日仕事が出来ぬと恐れていると聞かされた。
腹を抱えて面白がる女将、関の戸は己の肥満を嘆き、今後の田舎廻では三食麦飯を決意して信越興行へ出発したのだとか。


@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年1月31日
大関大戸平は力量人格共に優れ、横綱小錦に比肩するから贔屓筋には来場所横綱となる事と語る者がいる。しかし、彼は明治29年5月欠勤したのみならず、鳳凰との大関争いもあることだからと、協会では協議の末横綱は不穏当と決した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年2月10日
式守伊之助が軍扇を紫紐にしたいと協会に申し出たが、庄之助でさえ房に二三の白糸があるからと、先に行司間での同意を求める。庄之助誠道瀬平らは、もし伊之助が紫紐を用いるなら今後の庄之助は皆伊之助の上に立ち紫紐を用いると主張、結局沙汰止みに。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年2月15日
木村瀬平は突然木刀を帯用し始め、これに雷や検査役は、木刀は庄之助伊之助が吉田司家免許を得て帯用するもの、みだりに使ってはならぬと注意すれば、瀬平は福草履を許された以上木刀帯用は旧来の仕来り、故障あらば自身が申し開くと答え、協会は黙認。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年2月18日
一昨日の小錦鳳凰の勝負はほぼ同体に落ちたのを鳳凰に軍扇、これに見物の中村勘太郎が激怒して土俵中央に躍り出る。力士の長たる小錦が物言いを附けたのに無視して呼出が拍子木を入れたのは奇怪至極と舞鶴屋は暴廻り、余義無く高砂屋若者が担ぎ下ろす。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年4月6日
四谷西念寺の相撲興行で鳳凰が五人掛。第一番の国見山の意気込み凄まじく、獅子奮迅の勢いで突掛けたが叩込まれる。三番目の幕下強豪鶴ヶ濱も投げ出されたが、最後の梅ノ谷が金剛力の寄りから大櫓、鳳凰遂に敗れる。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年5月8日
獅子王の軍扇は吉田豊後守が朝廷から賜ってから吉田家に伝わってきたが、近年は式守蝸牛家に保存されている。伊之助が本年一月から紫紐を許された事に伴い、獅子王の軍扇の使用を伊勢の海に請求、横綱方屋入の時のみ携帯が許された。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年7月31日
神田三崎町での東京大阪合併興行で東京方霧島に大阪方勇龍の取組は双方取疲れた様子なので東京方検査役浦風が引分を求めたが、大阪行司高岡音羽や大阪方検査役陣幕は無視、浦風は憤然として黙止していた。すると音羽は独断で突然引分とする。浦風が何故引分たか問えば、音羽は廻しが外れた為と答えたが、浦風は自分達が最前より分けろと言うのに応ぜず無断で分ける法があるか、何時までも相撲さすべしと猛り、観客も味方したから行司と陣幕は狼狽。浦風に詫びを入れその場を済ませた。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年8月1日
元両国伊勢ヶ濱は既に68の高齢、存命の子供が13名いるが、親父が頑固で威張るから引き取り世話する者が無い。その為近来贔屓や知人の食客となり或いは下宿住いをしているが、老いてますます盛ん、下宿先の26の雇女と通じ遂に婚姻の式を挙行した。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年8月17日
大阪協会は八陣の横綱免許を司家に求めたが、大阪協会は免許手続をするのが初めてなので東京協会に添書を求めた所、雷個人の添書を得た。しかし司家は協会全体の添書を要求、雷は巡業中の各組に照会したが返答は何れも曖昧で、八陣の横綱は覚束ない。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治30年8月22日
大阪八陣の横綱免許を巡って東京協会中でも粉紜。吉田追風氏への添書について雷が協会内に照会した所、巡業中の武蔵川友綱は承諾したが、八角は京阪間には実力に差があると反対。大阪協会は更に添書を要求、雷は対応に苦慮している。 #sumo
ーー
@OdateUzaemon: 寝られないから資料を漁っていたら角力新報のコピーを発見。明治30年1月創刊、相撲雑誌の嚆矢である。写真は第三号より常山が横綱秀の山に頭突きで勝利した逸話。弘化4年3月の話である。 #sumo http://t.co/PZQQ5wWiMZ
@OdateUzaemon: 角力新報は月刊だったが休刊が多く、決して速報性が高い訳では無かったが、幕末から明治初期の逸話など貴重な資料となっている。僅か9号で廃刊となってしまったが、その原因は後年の談によれば、柳沢伯が大戸平の借金について書いた事だったという。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治34年夏6日目の萬朝報より。
明治30年代の回向院の小屋掛で、20年代から続く土俵上のテントがあったのかどうかは研究家の方の間でも意見が分かれていますが、本記載はその存在を示唆していると思います。 #sumo http://t.co/Zgd4To1eSR
ーー
@OdateUzaemon: 怪童力士足立山の生涯星取整理完了。全盛は明治39年3月、幕下東31で全勝した場所かな。九日目の氷見ヶ濱戦、巨体を利してため出した相撲あたりが足立の真骨頂だろう。ちなみに引分相撲は病後の43年6月2日目一陣戦まで一度も無く、幕下以下の分は少ないとはいえ足立の積極相撲が窺える。
明治36年5月場所前@OdateUzaemon: 足立山が入門間もない頃、鼻血が止まらず一升も出て病院で治療を受けたという記事を発見。後年の紫班病、腎臓病と併せて考えて、小児の頃から何か疾患があったのではないかと疑ってしまう。先天性か否か含めて、知識不足だからこれ以上述べ立てるのは避けるけど...

@OdateUzaemon: 大達についても、指が動かなかったり腕が曲がらなかったりして、何か膠原病の類じゃないかという気がしないでもないんだよなあ。そうしたら消化器系の異常や急激な衰えも単に暴飲暴食が原因では無かったという結論に至り、汚名を雪ぐ事になるかもしれない。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 大達羽左ェ門@OdateUzaemon、... | トップ | 2016年9月場所、殊勲賞二人は... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

大達羽左ェ門@OdateUzaemon」カテゴリの最新記事