武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

風呂敷 FUROSHIKI

2018-01-01 | 独言(ひとりごと)

 明けましておめでとうございます。

 先日、ポルトガルテレビのニュース情報番組のなかで『フロシキ』に関するレポートがあった。「日本にはフロシキという便利でお洒落なものがあって、日本人はそれに何でも包んで持ち歩く」というものであった。そして日本人の僕でさえ知らない、様々な包み方が紹介されていた。「ポルトガル人は使い捨ての紙袋やビニル袋を使い、日本人に比べていかに資源の無駄使いをしていることか。日本の伝統文化はエコで素晴らしい。」と締めくくったレポートであった。

 でもそのレポートを見たポルトガル人が実際に日本に行ってみたならば、道行く人の誰も風呂敷など使っていないのを見てむしろがっかりするのかも知れない。それどころか日本の過重包装をみて驚くことは間違いなしだ。お菓子などは必要以上幾重にも包まれているし、スーパーの野菜でも魚でも殆どがトレーに乗せられている。

 風呂敷は ORIGAMI(折り紙)同様、そのまま FUROSHIKI と表されている。

 風呂敷の様な布は奈良時代から使われていた。日本だけではなくチベットや更にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸を南下、グアテマラやペルー、ボリビアのインディオたちも昔から使っている。大きな民族織の布に何でも包んで背中に担いでいる姿はインディオの象徴でもある。何れにしてもモンゴロイド民族の伝統なのだろう。

 風呂敷という呼び名になったのは江戸時代になってからと言われている。諸説はあるものの、『各地で温泉や銭湯が流行り始め、侍が着物を脱いで他人の着物と一緒にならない様に、その布の上で脱ぎ、そのまま結んで区別しておいた。』のが風呂敷と言われる所以だという。今の銭湯や温泉の脱衣籠の様な役割だったのだろう。風呂敷には家紋なども施されるようにもなった。

 チャールス・ブロンソンの西部劇で三船敏郎が侍として共演した映画があった。侍の三船敏郎が流暢に英語を喋っていた。一緒に馬に乗ってアメリカ西部の荒野を旅するのだけれど、休憩場所で天然に沸いている温泉があった。三船敏郎は喜んで湯に浸かった。その纏めてあった着物、刀などをチャールス・ブロンソンは悪戯半分で隠してしまった。その時、風呂敷に包まれていたかどうかは忘れてしまったが、三船敏郎の「着物を返せ!」という台詞が日本語だったのが印象的であった。

 僕はポルトガルで額縁を包むのに風呂敷を使っている。風呂敷と言ってもネルのシーツを真四角に切ったものを幾つか用意していて、それに包んで持ち歩くことにしているだけのはなしだ。

 ポルトガルの額縁は箱などには入っていない。何かで包まなければならない訳だけれど、柔らかいネル生地で包めば傷はつかないし、結び目を持てば持ち運びにも便利だ。

 個展の時にもそれで搬入した。両脇に抱えられるから2倍の速さで運ぶことができる。画廊のペドロは僕のそんなやりかたを見て「テクノロジー・ジャパン」と評した。

 僕は一瞬首を傾げた。最も古臭い風呂敷をテクノロジーとはこれ如何に。確かに風呂敷は折り畳んで持ち運び、どんな大きなものでも、糊もガムテープもハサミも必要なく包むことが出来る。合理的な布だ。そんな合理性は日本人のDNAに組み込まれていて、最先端技術に生かされているのかも知れない。

 セトゥーバルの美術館でグループ展をした時にも、そのネル生地に30号の額縁2枚を包み搬入した。僕の作品が1番大きかった。搬出の時に、僕は美術館の床に大風呂敷を広げて30号を真ん中に置き、結び目を作った。大きい絵だから学芸員がクルマまで運ぶのを手伝おうと横で待ち構えていて、「クルマまで片方を持ちますよ」と言ってくれたが、僕が脇にひょいと担いだのを見て、その学芸員も驚いていたが「何と日本人はスマートなのだろう」と思ったのかも知れない。そんな感心した様な顔をして僕を見ていた。

 日本人も昔は風呂敷をよく使っていた。子供の頃、毎年1回、越中さんが大きな風呂敷包みを担いで家にやってくる。1年の内に使った置き薬の補充にやってくるのだが、母は越中さんが来るのを随分歓迎していた様にも思う。お陰でちょっとした風邪ひき、腹痛、怪我などは初期段階で治せた。おまけに置いて帰る紙風船を母はすぐに膨らませて歌を歌いながら手毬遊びをしていたのが懐かしく思い出される。

 僕は高校を卒業して天王寺美術館半地下のデッサン研究所に通っていた。そこには様々なアルバイトの情報が流れてくる。東京オリンピックの次の年、初めてサインペンと言うものが売り出された時で、その宣伝販売のアルバイトで高島屋の文房具売り場に立ったことがある。そのアルバイトは画学生にとっては最適とも言うべきもので、そのカラーサインペンを使って絵を描いて買い物客の目を引き付ける訳だけれど、未だその当時はマジックインクの黒、赤、青の3色しかなかったのが、その売り出したサインペンは12色もの色があった。今となっては当たり前のことだが当時としては画期的だったのだ。僕は出来るだけ満遍なく全ての色を使いカラフルなイラストを描いてそのブースに貼り付けた。それは買い物客よりも女店員に人気があって、「これちょうだい」と言って、僕の描いたイラストを持って行く女店員もたくさんいた。

 そんな画学生に最適なアルバイトばかりではない。呉服屋のアルバイトをしたことがある。デッサン研究所が終わった夕方からほんの少しの時間のアルバイトで、呉服屋からアルサロの楽屋とでも言おうか?ホステスが化粧をしたり着替えをしたりする場所だが、頭がつかえそうな天井の低いだだっ広い畳敷きの部屋だったが、両方に鏡がずらりと並んでいて、その前にホステスが何十人も座って化粧をしたり着替えをしたりしている。そんな場所だが、そんな中に梱り(こうり)に入って大風呂敷に包まれた荷物を届けるのである。そこに呉服屋から派遣されているおばさんが待ち構えていて、ホステスさんに着物を勧め買ってもらうのである。風呂敷の中身は着物の反物で、季節にあわせた様々な反物がぎっしりと詰まっていて、相当の重さもあったのかも知れないが、必死さの余り、あまり重さは感じなかった様にも思う。呉服店からミゼットに載せ、アルサロに着いたら従業員通用口から狭い通路を通り、又、狭くて急な梯子段の様な階段を登る。ちょうど越中さんのスタイルそのままである。その部屋ではたくさんのホステスが下着のままで或いは乳房も露わに化粧をしていて、僕などが入って行ってもお構いなしなので、僕の方が目のやり場に困ってしまう、という具合であった。1つのアルサロでの販売は1週間に1度位だったと思うが、毎日、別のアルサロにその梱りの入った風呂敷包みを運ぶことになる。そんなアルバイトであった。勿論、僕はミゼットを運転して風呂敷包みを運ぶだけで販売をしたりはしない。

 日本でも額縁を運ぶのに僕は風呂敷を使っている。尤も最近、実家には風呂敷などはなかなかなくて、インド綿の真四角に切られたテーブルクロスなどを買って来て使っているが、持ち運びには便利だ。ただ、縮緬などの風呂敷に比べてインド綿は破れやすい。昔はどこの家庭にも縮緬風呂敷の1枚や2枚はあった。

 落語の話ではないけれど、空き巣が家に上がり込んで先ず最初に探すのが風呂敷だそうだ。大風呂敷を畳の真ん中に広げ、そこに目ぼしい着物などを重ねていく。それを肩に担いで退散する訳であるが、たいていが唐草模様で、唐草模様は四方八方どこまでも延びることから縁起が良いそうで、風呂敷の定番であった。その唐草模様は元々はイスラムの模様で、ポルトガル人を介して日本に伝わったものらしい。空き巣は風呂敷も持たないで手ぶらで他人の家に侵入し、その家の風呂敷をも使う。とは究極のエコである。アラジンの魔法の絨毯ではないけれど、魔法の風呂敷である。

 そして『出来もしないことを言う。法螺を吹く』ことを『大風呂敷を広げる』とも言う。

 ポルトガルは本当に紙を無駄に使う。テーブルクロスにも使い捨ての紙。紙ナプキン。包装紙。紙箱。買い物袋。クリスマス時には大きなゴミ収集箱が紙くずで溢れかえる。

 セトゥーバル郊外にはパルプ工場があり毎日大量のパルプを生産している。日本からもそのパルプを買い付ける貨物船が定期的にセトゥーバルの港に入港する。パルプの原料はポルトガル全土で植栽されているユーカリの木で、ユーカリの枝を満載した大型トレーラーがそのパルプ工場に頻繁に出入りしている。そして山火事の原因の多くは燃えやすいユーカリの木なのだ。我が家からもそのパルプ工場の巨大煙突が見える。ちょうどそのあたりから初日の出が昇る。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。VIT

パルプ工場の煙突とセトゥーバル港の初日の出(我が家のベランダから撮影)

 

 

 

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加藤正雄が送ってくれた本

2017-11-30 | 独言(ひとりごと)

『Dada Dada Dada Dada,スケッチだ!』加藤正雄著

 昨日『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』を読了した。読了したからといって取り立てて書くこともないのだが、この本は特別だ。もう15年も前になるか?加藤正雄が送ってくれた本だからだ。

 送ってくれた当初は外国人が日本のことを報告した本と言うのに殆ど興味がなかった。さ~っと一通りは目を通したもののそのまま放っておいた。当時は未だポルトガルに来てそれ程は経っていなかったからか、日本のことよりもポルトガルやヨーロッパのことに興味があったのは致し方のないことだろう。

 『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』は明治時代イギリス人が本国イギリスの新聞社宛にレポートをするために書いた日記である。また、ゴードン・スミスは大英博物館へ日本で採取した、哺乳動物、魚類、貝類などを標本として送ることもしていた。丁度日露戦争の時代、日本と英国は同盟国で日本は活気の漲る時代でもあった。日記は8冊にも及ぶが、イギリス本国で忘れ去られた存在になっていた。それが最近になって発見され、日本人の翻訳で1993年に出版された本である。勿論、当時、100年以上も昔のイギリスでは出版されてはいるのだが、当時のイギリス人が興味の対象とする部分と現代の日本人とでは興味の対象となるところは違う。

 加藤正雄が亡くなったという知らせは呉城さんからのメールで知った。2017年9月2日のことであった。今年2017年4月のNACKシニア展が僕にとっては最後になってしまった。

 NACKシニア展には藤井満先生の賛助出品が不可欠だと僕は主張していた。その作品をお借りするために奈良のご自宅に伺ったのだが、加藤正雄を誘った。加藤正雄は快く一緒に行ってくれた。と言うより、誘ったことを喜んでいたのは間違いがない。

 加藤正雄は数年も前から自宅でお母さんの介護をしていた。いろいろと聞かされていたが、大変そうで、良くやっているな。と思って感心もしていた。

 そして少し前にお母さんが倒れられ、救急車で病院に運ばれ、そのまま、病院の隣にある老人ホームに入所された。という話を聞いていた。毎日、必ず、見舞いに行くそうである。老人ホームは完全介護だから、見舞いに行っても、顔を見て話しをするだけで、介護の心配はいらない。自宅で介護していた時より、老人ホームに入られてからの方がお元気になられた様で、お母さんはその都度「何しに来た」と毒付かれるそうで、それを加藤正雄は嬉しそうに苦笑いをしながら話してくれていた。

 今までよく頑張って、手を離れたわけだから、楽になれて良かったなと僕などは思っていた。以前なら「介護があるから」と何処にも誘うことは出来なかったし、NACKシニア展の当番も他の人で賄いは付くので無理には来なくて良い様に皆で図らっていた。と言っても展覧会の当番は時間を拘束されるかも知れないが、楽しいものである。そして励みにもなるので、そのために催っていると言っても過言ではないのかも知れない。

 今年はお母さんが老人ホームに入られ介護はしなくてよくなったから皆がする程度の当番ならしても良さそうに思えたが、以前と同じように殆ど出席はしなかった。何故かは判らない。介護で気が張っていたのが急に不必要になり、気が抜けたとは考えられるが、何か以前の元気はなかった。

 加藤正雄はNACKシニア展の世話役をしてくれていた。発起人の一人だし、最初は六車隆一さんと一緒に世話人をしてくれていたが、六車隆一さんが亡くなってしまってからは一人でするしかなかったのだろう。僕は海外で出来ないし、あとは皆、先輩ばかりでやはり一番若い加藤正雄がするしかないのは皆の暗黙の了解でもあったのだろう。それは介護をしながらでもそれ程負担もなくすることは出来たのだと思う。

 今年のNACKシニア展の搬出日。加藤正雄は先輩、呉城さんのクルマで一緒にやってきた。それは毎回同じで不思議ではない。加藤正雄と呉城さんは同じ堺市でそう遠くはないのだろう。僕は呉城さんのお宅には伺ったことはないので判らないが。

 その搬出の日、藤井満先生の作品を宅配便で送り返すためにマサゴ画廊近くのコンビニまで加藤正雄と一緒に行った。送料を会費から支払うためでもあった。

 搬出は素早く済ませることができた。僕には兄が軽トラで迎えに来てくれていたので、「お先に」と言って先に帰った。田中さんも吉田さんもそれぞれの片付けが終わった順に別々に帰った。加藤正雄も作品の梱包は素早くできていたのだと思う。呉城さんのクルマに乗せるだけである。慌ただしい時であったが、それが加藤正雄とは最後になった。

 ポルトガルに戻って、例年ならすぐにでも加藤正雄は手紙をくれる。何も別に用事がない時は加藤正雄が先に手紙をくれて僕が返事を返すというのが通例であった。加藤正雄の手紙はいつも新聞の折り込みチラシ片面印刷の裏に乱雑に書きなぐった手紙だ。どこから読んでも構わない内容だから良いのだが、航空郵便の送料を考えると、もっと薄手の紙に小さな字で書いた方が安上がりな訳であるが、そういったことには頓着しない。チラシの表の広告も楽しめると思っているのかも知れないが、最近はパチンコ屋の広告などが多く楽しむまではいかない。そんな手紙が今年は全くなかった。加藤正雄はインターネットをしないから僕が海外に居る時には郵便が唯一の連絡手段だ。

 9月になり9月号のブログと『セトゥーバルだより』を配信した後、そろそろ加藤正雄に手紙でも書こうかなと思っていた。

 そんな矢先、呉城さんからメールが届いた。それには『加藤正雄に出した郵便も届いていない様だし、電話も通じない。だから加藤正雄の自宅まで行ってみた。』そうである。そうするとご近所の話で、「1か月ほど前、自宅前で倒れて、救急車で病院へ、そのまま帰らぬ人になってしまった。」とのことで、その日のうちに僕にメールをくれたものである。それが9月2日であった。

 加藤正雄は高校の美術部の同級生で1年生からずっと一緒だった。同じクラスになったことはなかったが、15クラスほどある中でいつも隣あたりのクラスにいた。美術部には僕たちの学年は多かった。上級生の3年生は3人。実質来ている人は加賀谷さんの1人だけ。2年生は新井、六車、田中、村上さんの4人。1年生の僕たちは、上久保、柴村、小笠原、山根、辻、福岡、波多野、摺出寺、米谷、そして加藤正雄と僕。その他にも早くに辞めた人も2~3人は居たので10人以上は居た。1学年下はまた市村、野木井、相野の3人だけであった。

 高校のクラブ活動は運動部ではないけれど、何か一致団結して事に当たる。という気風が漲っていた。写生にも一緒に行くし、展覧会は他校との交流試合の様な気持ちで臨んだものだ。ところが加藤正雄だけは違った。美術部の皆とは一緒に行動はしない。スケッチにも一人で行くし、展覧会にも出さない時が多かった。合宿には参加しない。それでも一人で黙々と絵を描いている。それが加藤正雄であった。でもそれが個性を大切にする本来の絵描きの姿なのだ。と後になって皆が気付いたのかも知れない。

 卒業してから僕などは高校へは全く行かなかったのだが、加藤正雄は現役時代とは打って変わって、高校美術部に顔を出すようになっていた。そして顧問の藤井満先生、後輩、先輩、皆の橋渡し役になっていた。

 僕たち美術部出身者は美術大学に進学する人が多かった。武蔵野美術大学、多摩美術大学、そして大阪芸術大学、あるいはデザイナー学園など。でも加藤正雄は近畿大学政経学部である。

 大学を卒業してからは藤井満先生の紹介でテキスタイルデザインの工房に入った。ちょうどその頃、僕は大阪芸術大学に行きながら高石事務所、後の音楽舎、別名アート音楽出版、別名URCレコード(株)でアートディレクターとして働いていた。月刊誌『フォークリポート』のレイアウトなどもする。僕も表紙やイラストを描いたが、加藤正雄にも毎月1枚のイラストを描いてもらっていた。加藤正雄の工房と近かったらしいから、しょっちゅう僕の事務所に遊びに来ていた。

 僕はアート音楽出版でアートディレクターとして働いていたが、結婚してヨーロッパに行く準備も進めていて、その頃には布忍というところのぼろの長屋にMUZと暮らしていた。そこにも加藤正雄はしょっちゅう遊びに来ていた。大和川を越えた大阪の郊外と言った場所だが加藤正雄の住む堺市とは直線距離でほんの近くだったのだろうと思う。電車でなら一旦天王寺まで出て長3角形の2辺を行くので随分と時間もかかるが、自転車ならすぐの距離の筈だ。土曜日の夜などは必ず決まって自転車でやってきた。我が家で一緒にテレビの『トム・ジョーンズ・ショー』を観るためである。加藤正雄も僕もMUZもトム・ジョーンズが好きな訳ではなかった。その歌と仕草に滑稽さを見出して殊更大喜びをするためであった。

 加藤正雄の工房は『安藤テキスタイル工房』と言った。安藤さんは藤井満先生と確か同期の人で僕も何度かお会いしたが、気さくでとても柔和な人でテキスタイルデザインの仕事以外にプロの狂言師でもあった。その頃は入場券を頂いてよく能、狂言を鑑賞させてもらいに出かけた。

 ところが加藤正雄はテキスタイルデザインでは満足ではなかった。イラストレーターになりたいと夢を持っていた。実はフランスの画家にはテキスタイルデザイン出身の画家がかなりいる。ルノワールもそうだし、マチスもそうだ。確かデュフィもそうだ。画家としての基礎がテキスタイルデザインの中にあるのだと思う。でも加藤正雄は安藤テキスタイル工房を辞めた。

 僕はストックホルムに住んだ。加藤正雄はよく手紙をくれた。僕も返事を書いた。手紙には書き易い相手と書き辛い相手がいるが、加藤正雄ほど書き易い相手はない。要するに、いわゆる乱筆乱文で一向に構わないのだ。お互いに気にしないからだと思う。加藤正雄に出した手紙は藤井先生に渡り編集され『NACK機関紙』に掲載されたこともあった。

 その頃か加藤正雄は『月刊プレイボーイ』のイラストの仕事にありついていた。イラストレーターとしての夢は叶いつつあったのだと思う。でも東京での一人暮らしに耐えられなくなったのか、大阪の実家にすぐに舞い戻っていた。

 暫くして加藤正雄はストックホルムにやって来た。僕はそろそろニューヨークへ行こうと思っていた頃で、ストックホルム大学も終わり、アルバイトに専念していた頃だったと思う。加藤正雄にもアルバイトを勧めた。でもあまり気乗りはしていなかった様だ。

 毎早朝にはフィンランド人、スウェーデン人と少林寺拳法の練習をしていたのだが、加藤正雄にも参加させた。まるで高校のクラブ活動を引きずっていた感があったのかも知れない。加藤正雄は「僕はやるのならボクシングの方がやりたい。」と言っていたくらいだから、少林寺拳法もあまり気乗りではなかったのだろう。

 そして僕はヨーロッパの最後にスカンジナビア半島最北への旅を計画していたのだが、加藤正雄も誘った。オスロまでは一緒に行ったがそれより北へは行きたがらなくなって、一人ストックホルムのマンションに戻った。僕たちが戻るまで待っているものと思っていたが、戻った時には加藤正雄は日本へ帰ってしまって居なかった。

 虫の知らせがあったのかも知れない。日本に戻って生死を分ける大病をした。手術は巧く行きその後は元気を取り戻していた。

 僕たちはニューヨークで1年暮らした後1年を南米旅行にでかけた。日本を発って6年後に日本に戻りMUZの故郷の宮崎で飲食店をすることになった。

 そこにも2度ほど加藤正雄は遊びに来た。いや、僕たちが住む高城町のすぐ傍に加藤正雄がデザインを請け負っていたゴム関係の会社があってそれの出張で来たと言っていたのだが、僕たちの店に入り浸ってレコードを掛けたり、おしぼりを巻く手伝いをしたりしてとても会社の出張とは思えなかった。

 高校美術部のOB展が1971年から続いていた。僕も宮崎から帰省のついでにと思い毎回参加した。加藤正雄はもちろん殆ど皆勤賞で参加していた。

 大阪に戻ってからの加藤正雄の仕事はイラストレーターではなく、地味な堅いところのパンフレットなどのグラフィックデザインの仕事が多かった様で、ようやく喰える程度の仕事だったのだろうと思う。

 僕が宮崎を引き上げてポルトガルに移住した頃からだと思うが、加藤正雄はスケッチにのめり込んでいった。僕などから見れば到底絵にならないところだと思うのだが、地元堺や大阪の臨海工業地帯などを好んで描き始めた。加藤正雄の自宅から自転車で行くことができる範囲なのだが、6号サイズのスケッチブックを見開きにワイドにして描く。

 それは絵にならないどころか加藤正雄は面白い絵にしてしまう。そこにも強烈な個性が窺い知ることができる。イーゼルは使わない。地べたにスケッチブックを置くか、適当な台、例えば橋の欄干とか、などに直接べたっと置いて描き進める。したがって鉛筆の線は力強い。初日は鉛筆だけだそうで、2回目、3回目に彩色を施すと言っていたから、何日も掛って1枚のスケッチを仕上げるのだろう。

 僕などは油彩のエスキースとしてスケッチを描くけれど、加藤正雄のスケッチはそのものが個性溢れる作品なのだ。

http://www.geocities.jp/nack735/katomasao.html

 それは後に『Dada Dada Dada Dada,スケッチだ!』という本になった。スケッチに飽きたりするとその裏面に、その時の気持ちなどを綴る。落書き的な日記と言えるのかも知れないが、それが面白い。ジャズのこと、その時に出会った人のことなど、本にはその裏面の記述なども印刷されてやはりユニークな本が出来上がっている。

スケッチの裏面。

 高校の同窓会展NACK展には初めは独自の抽象的な油彩を出品していたが、NACKシニア展が始まった、6~7年前からは、スケッチの出品であった。「油彩の道具は他人にあげてしまった。」と言っていた。

 スケッチブックから1枚ずつ外すのは嫌がって展覧会に出品する作品も額縁の中にスケッチブックが1冊丸ごと入ったものでかなりの重量があった。NACKシニア展などにはいつも3点の出品だったが、額縁の中には何十枚かのスケッチが隠されていたことになる。そんなスケッチブックが何冊存在するのか僕は知らない。何年も描き続けていたから恐らく相当の冊数に上るのであろう。

 加藤正雄が亡くなったという知らせを受けて、僕は呆然としている。未だ信じられない気持だ。その2年前、六車隆一さんが亡くなって、その気持ちの整理がつかないまま、相次いで加藤正雄を失ってしまったことになってしまった。

 そして加藤正雄からの膨大な手紙を読み返している。

スケッチの裏面。

 そうして加藤正雄が送ってくれた『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』を読み始めたのだ。今回は小さい文字の注釈なども丁寧に読んだし、ゆっくりと加藤正雄のことを想いながら読みすすめた。読み始めた途中から、加藤正雄は僕に「お前も日記を公開しろ!」と言っている様な気がし始めたのだ。僕の日記は絵のことについては多分に企業秘密的なところ?もあるし、その他は自分自身の記録で、加藤正雄の日記とは違い、何も面白いことはないのだが…。10月の末日から今のところ欠かさず、毎日掲載している『ポルトガル淡彩スケッチ』のページに載せはじめて1か月が過ぎたところだ。

http://blog.goo.ne.jp/takemotohitoshi

 加藤正雄は生涯を独身で通した。加藤正雄を理解できる人は少数派だったろうと思う。僕も近しいところに居ながら100%理解できていたとは言えないのかも知れない。加藤正雄とはず~っと仲が良かった訳ではない。しばしば特に若い頃などは絵画に関しては意見の違いなどで議論し、衝突もした。美術に対して音楽に対しての好みも少しは違っていた様にも感じる。お互いに我の強さも際立って<水と油>或いは平行線的なところもあったのだと思う。

 そしてそれを超越した無二の友人であり、良きライヴァルでもあった。手紙を書いても送る相手が居なくなってしまった寂しさを感じている。

 僕には何の挨拶もなしに、あまりにも早く逝きすぎだぞ。

VIT

『Dada Dada Dada Dada,スケッチだ!』加藤正雄著 裏表紙。

 

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横断歩道 Faixa de pedestres

2017-10-31 | 独言(ひとりごと)

 我が家のある地区ではしょっちゅう工事や何かが行われていて、騒音の絶えることがない。ブルドーザーの音。芝を刈る音。チェーンソーの音。救急車やパトカーのサイレン。列車の音。船の汽笛。でもいずれの騒音も遠くから丘を昇ってくる様な騒音で気になる程でもない。むしろ生活音と言ったものだろう。そして夜は夜で近所にうるさ過ぎる犬が居て、夜中じゅう吠えている。夜、寝静まった頃になるとごみ収集車がやってきて、がらがらがら~と騒音をたてる。

 ごみは普通の燃えるゴミの容器が3つ。それの他に分別用、紙専用が2つあり、ガラス専用、プラスティック専用が一つずつ、それぞれ専用のトラックが収集にやってくる。背丈ほどもある高さと幅、奥行きも1メートル以上はある大きな容器だが、トラックの運転手が1人でクレーン操作をする。

 その場所は市水道局の向こう側にあり、我が家の南側のベランダから南西下方向50メートル程のところに見える。

 その辺りで先日は大規模に道路を掘り起こしての工事があった。水道管の老朽化で新しいのに付け替えた様だ。舗装も終わり、歩道の石畳も終わって、全て終わったな、と思っていたら、又、工事のクルマがやって来ていた。

 気にも留めないでアトリエに戻り油彩を描いていた。絵にひと区切りが終わって南のベランダに来てみると、両方の車線とも、綺麗に横断歩道が出来上がっていた。横断歩道を作るのには騒音はなかった。ペンキを塗るだけである。そしてもう既にクルマが横切っている。素早く乾くものなのだ。それだけ絵を長く描いていたということだろうか。油彩はなかなか乾かない。色によって違いがあるが、早くて48時間、乾きの遅い色だと1週間もかかる。僕が好んで使う赤色系統は特に乾きが遅い。

 

新しく描かれた横断歩道とゴミ収集車

 こんな住宅地に、まさか横断歩道が必要だとは思わなかったが、あったほうが良いのだろう。見ているとゴミを捨てにしょっちゅう人が横断をしている場所だ。その真ん中には中央分離帯があり、そこは近隣住民の駐車スペースとなっている。早速、乳母車が通っているが、横断歩道とは違うところを横切っている。歩道は石畳で横断歩道の中央分離帯にも石畳があるので、それを避けて平坦なアスファルトの車道のみを斜めに横切っている様だ。

 ポルトガルには日本ほど信号機はない。最近は信号機が少なくなって、ロータリーが増えている。日本でも昔はあちこちにロータリーがあったが、殆ど全てが姿を消してしまった。ポルトガルではそのロータリーがどんどん復活している。

 ロータリーは便利だと思う。クルマも人もあまり待たなくて済む。道を間違えても次のロータリーまで行き引き返してくることもできる。又、道が確認出来るまでロータリーをぐるぐる何回でも周ることもできる。

 そして信号機のない横断歩道も多くある。横断歩道で人が渡ろうとするとクルマは必ず止まる。

 宮崎でもたまに信号機のない横断歩道がある。そこで渡ろうとして待っていても一向にクルマは止まってはくれない。少しばかり横断歩道に踏み出して渡ろうとしても止まらない。止まるどころか大きく右車線にはみ出して、歩行者を睨みつけながら通り過ぎるクルマもいるくらいだ。危なくてしょうがない。とにかく日本のクルマは信号機がないところでは止まらない。信号機のない横断歩道自体滅多にないものだから止まる準備が出来ていないでいる。そして日本人には歩行者優先という意識は薄らいでいる様に思う。

 日本人はクルマに対して遠慮しすぎだ。小学生が下校時に横断歩道を渡っている。クルマに待たせない様にと走って渡る。あれは危ない。右左確認しながらゆっくり渡るべきだ。そして渡り終えると待ってくれたクルマに対してお辞儀をする。大人からその様に指導されているのであろう。それは良いことだと思うが、あれには感心する。

 ポルトガル人で急いで渡る人はいない。歩行者優先だから当然なのである。そして半分渡ったところセンターラインのあたりで必ず反対車線を確認する。クルマを決して信用はしていない証拠だ。でもそれが必要なのだと思う。そして渡り終えてちょっと片手を挙げたりして会釈を返す人もいる。感じが良いと思う。信号機のある横断歩道ではそうはいかない。

 日本では反対車線のクルマの陰から歩行者が走り出してくるのを警戒して徐行する。でもポルトガルでは走り出す人はいないからそこまで神経を尖らせる運転手も居ない。日本の方が危険だと思う。もしポルトガル人が日本で運転をすれば必ず人身事故を引き起こしてしまうのではないかと思う。

 ロータリーが増えているのと同時に信号機のない横断歩道も今後増えていくのかも知れない。

 

セトゥーバルで恐らく1番大きな、信号機の付いた横断歩道。

 勿論、信号機のある横断歩道も多くある。でも信号が赤でもクルマが来ていなかったらどんどんと渡る。セトゥーバルのメルカド近くの横断歩道などは団体で渡る。とにかく歩行者優先なのだろう。クルマが来ていないと分かれば、お巡りさんだって赤信号でも横断歩道を渡る。お巡りさんが赤信号で渡るものだから、僕たちも一緒になって渡る。でもお巡りさんは僕たちに注意をしない。クルマが来ていないと判断できれば渡っても良いのだろうか。

 我が家の南のベランダから見える道は『ルア・デ・ノッサ・セニョーラ・ダ・カルモ』という長い名前が付いている。『我らが聖母カルモ道』とでも訳せるのだろうか。だらだらと長い坂道だが、道の始まりの角に小学校があり、横断歩道が2つある。そして更に下から昇ってくる道と交差し、それを過ぎたところにも横断歩道がある。下から昇ってきたクルマは右折してすぐの横断歩道だから運転は慎重にしなければならないところだが、この横断歩道は割合横断する人が多い。一旦止まってギアをローに入れなおして、サイドブレーキをかけ、発進することになる。

 我が家から見える新しい横断歩道までの間に、もうひとつ横断歩道がある。合計5つになったが何れにも信号機はない。そこにもゴミ箱のスペース、そしてバス停があり、横断する人も多いのだろう。でも曲がってすぐの横断歩道ほどではない。

 その横断歩道では時々、犬が横断しているのを見かける。放し飼いにされているのか、元々、野良犬なのか。セトゥーバルにはそういった自由にしている犬が居る。そんな犬が実に賢い。道を斜めに走ったりはしない。道を渡るのに横断歩道を使う。横断歩道の真ん中を通る。人が渡るときは歩調を合わせる様に一緒に渡る。決して走ったりはしない。クルマも犬を跳ねたくはないから、一時停車する。停車して待ってくれたからと言って前足を挙げて挨拶をしたりはしない。

 信号のある横断歩道で犬は青信号になってから渡る。犬は色盲だと聞いたことがある。青も赤も判らないのかも知れないが、クルマが止まるのを待ってから横断するのであろう。犬もどこまで解っているのであろうかと感心するが実に賢い。

 我が家の近辺には猫が多い。先日も水道局の空き地で子猫が6匹も生まれているのが確認できている。子猫も大きくなれば親離れしてどこかへ行ってしまう。そしてそのまま居残っている猫も居る。

 猫は道の縁ぎりぎりを通る。そして目的地まで斜めであろうが一目散に道路を横切る。猫が悠然と横断歩道を渡っているのは見たことがない。

 横断歩道といえばビートルズの『アビイ・ロード』を懐かしく思い浮かべる。それが発売された1969年頃、僕はアート音楽出版、別名音楽舎、別名URCレコード(株)に居て、レコードジャケットのデザインやコンサートポスター『フォークリポート』という雑誌の表紙、イラスト、レイアウトなどをしていた。

 『アビイ・ロード』のレコードジャケットは仲間内でも話題となった。先頭を歩く白いスーツ姿のジョン・レノンは牧師。黒いスーツのリンゴ・スターは葬儀屋。素足のポール・マッカートニーは死者。そしてジーンズ姿のジョージ・ハリソンは墓堀人。アビイ・ロード・スタジオのすぐ前の横断歩道で撮影したらしいが、ポール・マッカートニーのアイデアだそうだ。

 アビィ・ロード・スタジオは多くの名盤を生み出しているスタジオだ。エイミィ・ワインハウスがトニー・ベネットとデュエットで歌った『Body and Soul』はエイミィ・ワインハウスの最後の録音となって話題となった。

 ビートルズのアビィ・ロードが発売された、ちょうどその頃、東京から遠藤賢司が大阪事務所に遊びに来ていて、僕とMUZは遠藤賢司の写真を撮影しておこうと外に連れ出した。何れレコードジャケットやフォークリポートに使えるかも知れないと思ったからだ。横断歩道を幾つも渡って、気が付けば、古いレトロなビルが多く残る、堂島あたりまで来てしまっていたのを覚えている。その時の写真は確かフォークリポートには使ったと思うが、僕は遠藤賢司のレコードには携わらなかったのでレコードには使っていない。東京事務所制作で作ったのだと思う。その後の活躍は耳にしていたが、これを書いている10月25日に遠藤賢司が亡くなったというニュースが飛び込んできてしまった。ご冥福をお祈りしたい。

 それより以前には千葉県の佐原に居て、成田から佐原までの国道51号線付け替え工事に伴う、測量のアルバイトをしていた。その前に荒川などの測量を日雇いアルバイトで時々していたのだが、測量会社の社長から「佐原に一緒に行かないか。」と誘われての佐原滞在であった。

 当時の51号線の道路とその周辺を測量して平面図に起こしていく。小さな墓地や井戸などは見落としてはならないことは当然だが、資材置き場や家庭菜園なども描き込んで行く。そして運転しやすく事故の起こりにくいクロソイドカーブとかターンカーブなどと言うカーブを設計し、新しく付け替える道路がどの様に出来上がるのか、設計図を描く。空き地や森林、畑ばかりとは限らない。そこに墓地や邸宅などがあれば別のラインを考える。建設省はその設計図をみて判断をする。そして土地買収などに動く。

 測量会社の社員たちは旅館に滞在していたのだが、社長以下社員たちは毎晩宴会騒ぎで浴びるほど酒を呑み、ある日などは、翌日に建設省に提出しなければならない、祖図のトレースが未だ出来ていないでいた。皆が酔っ払って寝てしまった中で、僕は徹夜で祖図のトレースを描きあげたことがあった。その時点での祖図には信号機や横断歩道を描き込むことまでは必要ではなかった。社長からは正社員にならないかと誘われた。

 それより更に少し以前、興味本位でサンドイッチマンのアルバイトをしたことがある。会社は吉祥寺にあった。吉祥寺ではクラスメートなどに見つかってしまうかも知れないと思い、八王子を希望した。丁度クリスマスの時期であった。八王子の駅前をキャバレーのプラカードを持って行ったり来たりするだけの仕事である。人々の退社時間の僅かな間のアルバイトで時間給は良かった。プラカードには表裏両方ともに絵柄がある。「たまには裏表をひっくり返すのだよ」と先輩は教えてくれた。その当時の八王子駅前は未だアスファルト舗装もされていなくて、雪解け後のぬかるみ道で身体を芯から冷やした。要領を教えてくれた先輩はビルの狭い隙間に身体を隠すことも教えてくれた。勿論、ぬかるみ道だったから横断歩道などはなかったのだと思う。

 最近、日本ではスクランブル交差点などという横断歩道が流行っていて、宮崎などにもお目見えしている。日本発の方式ではないらしいが、海外では日本的な風景の一つとしてスクランブル交差点を人々が一斉に動き出す映像が紹介されたりもする。

 そして最近の横断歩道にはLEDが埋め込まれたところなどもある。緑とか赤とか、まるでクリスマスのイルミネーションの如く美しいがそれに見とれていては危ない。何気なく赤とか緑とか書いたが、あれは信号と連動しているのであろうか。

 セトゥーバルには昔から白い石と黒い石を組み合わせた石畳横断歩道などもある。人や犬が渡っていなくても停まりたくなる横断歩道である。VIT

 

白い石と黒い石を組み合わせて造られた横断歩道。

 

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コーヒーと眠れない夜 Noite sem sono com café.

2017-09-30 | 独言(ひとりごと)

毎朝、自宅で飲む深煎り濃めでたっぷりのコーヒー。器はポルトガルに来てすぐにリスボンの珈琲専門店で買った英国ダッチス製(Duchess)のコーヒーカップ。もう既に30年近くも使い続けていることになる。絵柄は野草。

 僕の人生の内で初めてコーヒーを飲んだ日。それ程大げさに騒ぎ立てることもないのだが、それは全く覚えていない。人生の中で初めてビールを飲んだ日も覚えていないし、初めてウイスキーを呑んだ日も覚えていないのと同様に覚えていない。

 コーヒーは、或いは家にインスタントコーヒー、ネスカフェでもあり、それを飲んだのが始まりだったのかも知れない。インスタントのネスカフェも出始めだったと思うが、家庭でインスタントではないコーヒーを飲む家庭は殆どなかった時代であったと思う。

 中学生や高校生では喫茶店には行くことは出来なかった筈だ。高校生で喫茶店にでも入ろうものなら停学処分も覚悟の上だ。

 僕が高校を出て東京に居た頃の喫茶店のコーヒーはその当時、80円程であった。上野の美術館へ行った帰りには秋葉原の中華料理店にいつも寄っていて、秋葉原のラーメンが1杯50円、ワンタンが1杯40円で、40円のワンタンと50円のライス(ワンタンより白飯の方が高かった。)で計90円で腹一杯にし、下宿先まで帰ったのを覚えている。50円のラーメンと80円のコーヒーでは当然ラーメンを選ぶ。

  

ブラジルとアンゴラ。我が家で買ったデルタコーヒー250g入りの空き袋

 高校を出て東京に行く前には道頓堀のジャズ喫茶『ファイブ・スポット』で喫茶バーテンダーのアルバイトをしていた。毎日、忙しくて朝から晩までコーヒーを点てていた。未だ、コーヒーの味も判らないのにお客様に出すコーヒーを点てていたのだ。

 普通の喫茶店で60~80円のコーヒーがファイブ・スポットでは120円もした。その界隈では一番高いコーヒーを点てていたことになる。1回に15杯分ずつ点てる。布フィルターのドリップであった。大きなホウロウ引きポットに布フィルターを輪ゴムで止める。それに15杯分のコーヒー豆の粉を入れる。15杯分の量った水を入れた小さいほうのホウロウ引きのポットのお湯が湧いたら、布フィルターの上から少しずつ注ぎ入れる。注文が来たら小鍋で温め直してコーヒーカップに注ぐ。

 でも自分でゆっくり味わって飲んだ記憶はない。味を見るのは木村社長の役目であった。毎朝、必ず店に現れてバーテンダーの居るカウンター近くに席を取り、コーヒーを注文する。ボーイは伝票を切る。木村社長は無表情にもコーヒーを楽しんでいる様にも見えた。木村社長は120円のお金を払って店を出てゆく。店長の中野主任は顔をこわ張らせながらも120円を受け取り「有難うございました。」と言いながら木村社長を見送る。尤も大音量のジャズ喫茶であるから「有難うございました」も半ばかき消されている。木村社長が姿を見せるのは1日1回、その時だけであった。

 その後、「大学に行きながらでも出来るのなら」と言って、母は南綿屋町にあった小さなおんぼろ喫茶店を買ってくれた。『ピッコロ』という名前だったが、そのまま使った。カウンターに5~6人と4人掛けボックス席が2つの小さな喫茶店であった。ジュークボックスが置いてあったがすぐに取り払いジャズを掛けた。その頃にはどんどんコーヒーを飲んでいたことになる。

   

ベトナム、チモール。各国の美女が民族衣装で登場。

 1970年の大阪万博ではインド館でカレーを食べ、ブラジル館でコーヒーを飲んだ。ブラジル館のコーヒーは薫り高く流石と思ったのを覚えている。

 海外に出る前、少しの間には昼はガソリンスタンドで仕事をし、夜は針中野駅前の『花時計』という喫茶店でバーテンダーのアルバイトをして渡航費用をせっせと貯めた。MUZも阿倍野の『木村屋』という老舗喫茶店でウエイトレスのアルバイトをして2人で渡航費用を貯めた。

 1971年からストックホルムに4年余りを過ごしたが、その時はコーヒーをよく飲んだ。スウェーデンはアメリカン風で軽く、ブラックで飲む人が多かった様な気がする。それで僕もブラックで飲み始めたのだと思うが、未だにコーヒーには砂糖は入れない。スウェーデンの多くはドリップマシーンであった。一度に何杯分が出来るのかは知らないが、大きなざる型紙フィルターにコーヒーの粉を入れ、スウィッチを入れるだけである。アメリカ映画のファミリーレストランなどと同じだが、それでも淹れたては美味しい。そのまま保温することになるから時間が経てばエグミが出て飲まれたものではなくなるが、淹れたては美味しい。

 ストックホルムではコックをしていた。朝の仕込みが終わり、お昼前のひと時はコック全員が集まってテーブルを囲みコーヒーを飲む。シェフはギリシャ人のコンスタンティン、副シェフはオーストリア人、その他に亡命ポーランド人やポルトガル人のルイス、そして日本人の僕。コックにスウェーデン人は居なかったが会話は当然スウェーデン語であった。

 スウェーデン語教室の帰りにも必ず生徒仲間とコーヒーを飲んだ。自宅でもコーヒーは飲んだ。珈琲豆専門店にでも行けばいろいろと銘柄なども売られていたのだろうが、普通のスーパーで買っていたのだがまあまあいけた。

 ヨーロッパ中をフォルクスワーゲン・マイクロバスの中で寝られるように自分で改造して旅をした。北から南に下るにつれて、コーヒーも替ってくる。スカンジナビアではドリップが主流だが南に下れば殆どがエスプレッソになる。ポーランドのコーヒーも変わっていた。KAWA(名前は忘れた)と言ったかと思うが、ガラスコップにコーヒーの粉を直接入れる。それに熱湯を注ぎ入れる。粉が底に沈んだら上澄みを飲む。簡単なので日本でもやってみたが、日本の粉では沈まない。挽きかたがちょっと違うのかも知れない。

 ニューヨークでもコックをやっていた。ランチは3時で終わり、後片付けを済ませ、ディナーの仕込みが始まる5時までは少しの時間が出来る。オーナーのタキさんは皆を近くのコーヒーショップに誘うことも良くあった。映画に出てくるようなカウンターの店で、やはり味はアメリカンでマグカップにたっぷりであった。スタバなどは未だなかった時代だと思う。

  

ポルトガルはヴィアナ・デ・カステロの民族衣装の美女。家庭用デスカフェイナードの空き袋。

 ニューヨークからリオデジャネイロに飛んだ。ブラジルは今のポルトガルと同じデミタスカップである。南米でもコーヒーはよく飲んだ。食事の後、コーヒータイム、1日に何杯も飲んだ。ただみたいに安かった。ブラジルからパラグアイ、アルゼンチン、チリ、ボリビア、ペルー、エクアドル、コロンビア、そしてホンジュラス、グアテマラ、ベリーズ、メキシコの12か国を10か月もかけて旅をした。

 アルゼンチンでは少しの間、イギリス人青年と一緒になって旅を共にした。アルゼンチンにはイギリス人のコミューンがあって、そんなところではコーヒーではなくティー(紅茶)を供す。他のヨーロッパの国々とは異なり、イギリスはティー文化なのだと思った。かつての植民地によって、趣向品の文化も異なってくるのだ。イギリス人旅行者はアルゼンチン在住イギリス人家庭でイギリス文化を味わい故国を懐かしむのだ。その彼は更に、アルゼンチン沖にありながらイギリス領のフォークランド島に行くと言っていたのでそこで別れた。我々はジブラルタル海峡を越え最南端まで行った。

 コロンビアの奥地の遺跡のある村に行った。コーヒー畑が広がっていた。そんなところに粗末な小屋があり、その入り口あたりには莚(むしろ)を敷き、コーヒーの豆が広げられ天火干しされていた。そして小屋にはコーヒーの張り紙がしてある。「ここでコーヒーを飲ませるのだ。」と思い、小屋(店)に入ってみた。そしてコーヒーを注文した。暫くして出てきたのが、お湯と黄色いネスカフェの大きな缶でテーブルの真ん中にでんと置かれた。

 最近はコーヒーの産地をあまり言わないのかも知れないが、コロンビア、ブラジル、グアテマラ、キリマンジャロ、モカ、マンデリン、ハワイ・コナ、ブルーマウンテン、などと言ってかつては味わったものだ。

 そして焙煎、ブレンドの仕方などでその違いを楽しんだ。大阪、南に福島珈琲店だったか名前は忘れたが老舗喫茶店があった。美味しいと評判であった。その頃はどちらかと言うと、深煎りの苦みの強い物よりも、浅煎りで薫り高いコーヒーが好まれ始めていたのだと思うが、福島珈琲店のコーヒーは苦みの強い深煎りであった。僕も深煎りコーヒーが好みで福島珈琲店のコーヒーは旨いと思った。ジャズ喫茶『バンビ』のコーヒーも深煎りで旨かった。

   

ケニヤとパプアニューギニア。シーカル・コーヒーの空き袋。

 宮崎では店をしていた。最初は『レストハウス・山あい』という名前のドライブインであったが建物もリフォームし『山あい珈琲園』という名前に変えメニューをカレー専門にし、ジャズをかけた。珈琲園という名前にしたが、珈琲の木を栽培していたわけではない。店内に背丈ほどの2本の鉢植えのコーヒーの木があったことはあったが、実が生るまでには行かなかった。そして紙フィルターのドリップからその頃流行り始めていたサイフォン方式に変えた。

 今、日本に一時帰国した折には、宮崎では自分で紙フィルターのドリップを点てている。大阪では実家の近くで幼馴染が喫茶店『英登(エイト)06-6713-0951』というのを経営していて、そこの御主人、マスターの淹れるコーヒーはサイフォンで薫り高く品格を感じさせる旨さがあり、もっぱらそのコーヒーを楽しんでいる。楽しんでいると言っても毎朝8時過ぎにモーニングサービスを食べに行くだけである。『英登』は毎朝6時からの営業だそうだがいつも常連客で賑わっている。コーヒーだけではなくパンも旨い。サンドイッチとサラダ、ゆで卵が付いてモーニングセットが350円と安い。実家では新聞を取っていないから喫茶『英登』で新聞を読むことになる。

喫茶「英登(エイト)」のモーニングセット

 世界中でコーヒーの消費量は増えているのだと思う。日本でも普通に家庭で淹れる様になったし、喫茶店の他にスタバの様な店も多くでき、マクドナルドやファミレスなどでも多く飲まれている。そしてコンビニでも手軽に淹れたてが安くで味わえる。むしろ昔ながらの喫茶店の経営は苦しそうだ。コーヒーだけではやっていけないからモーニングやランチをやらざるを得ないのだろう。コーヒーだけで勝負していた、マサゴ画廊の向かいの老舗喫茶店は昨年、閉店してしまった。

 ポルトガルのコーヒーは超深煎りである。デミタスカップに半分程、どろりとしたコーヒーが入ってくる。「シェイオ」(いっぱい)と言ってデミタスカップの上まで注いでもらう。それでもまだどろりとしていて日本のものより遥かに濃い。それをブラックで飲む。ポルトガル人ではブラックで飲む人は殆ど居ない。

 

ヴェラ・クルスとブレンド・コーヒー。何れも粗挽きのドリップ・サイフォン用。

 スーパーで買うパック入りのコーヒーも深煎りで挽きも細かい。勿論、細挽きのエスプレッソ用と粗挽きのドリップ・サイフォン用が売られているが、ドリップ・サイフォン用でも日本の挽きかたよりも細かい。それを我が家では紙フィルターでドリップにしている。お湯が落ちるのに時間がかかる。

 毎朝10時はコーヒータイムである。深煎りのコーヒーをたっぷりと飲む。でも1日に何杯もは飲まない。その時の1杯だけである。午後からコーヒーを飲むと眠られなくなる。

 いつの頃からかコーヒーを飲むと寝られなくなっている。最初は夜に飲むと駄目で、それから夕方、午後には駄目、と徐々に時間が早くなってきている。今は午前中なら大丈夫。というところである。それは紅茶でも緑茶でも同じだ。情けないことであるがしょうがない。コーヒー好きには残念なことには違いない。

 父も母も夜にでもコーヒーを飲んでいた。そして「平気だ。関係なく眠れるよ。」とも言っていた。だから遺伝ではないのだろう。父は浴びるほどの酒飲みで、母は全く駄目であった。酒に弱いDNAは母から受け継いでいる。でもカフェインとDNAとは関係なさそうだ。

 外食の時、食後にはカフェインレスコーヒーを飲む。ポルトガル語では「デスカフェイナード」と言って注文する。味は普通のコーヒーと全く変わらない。これなら眠ることが出来る。ポルトガルだけに限らず欧米諸国ではレストランでもカフェでも露店市の食堂でもどこにでもデスカフェイナードは置いてある。大きなレストランなどでは2台の豆挽き器が設置してあって注文によって使い分ける。2台がないところでは袋入りのデスカフェイナードの袋をちぎってエスプレッソの機械に入れ、他の普通のコーヒーと間違わない様にカップソーサーの上にその袋を乗せて、そのまま客に出すところもある。

  

カフェやレストランで使う1人前ずつ入ったデスカフェイナードの袋とそれを敷いたカフェ

 日本でもスタバなどはデカフェといってカフェインレスコーヒーを置いてあるらしいが、普通の喫茶店ではなかなか普及はしていない。コーヒー好きとしては午後からもコーヒーを飲みたい。もっと普及すれば良いのにと思う。

 よく「私はコーヒーを飲んでも夜は普通に眠れます。」とか「寝る前にもコーヒーを飲むけれど、私には関係ないわ。」とか言う人が居る。そんな人を羨ましいと思う。

 でも更に良く聞いてみると。「眠れない時は睡眠薬を飲みます。」などとも言う。結局自分では気が付かなくてもカフェインが効いているのだと思う。睡眠薬に頼るくらいならコーヒーを飲まない方がよっぽど良いに決まっている。

 知人のお宅や事務所、画廊などにお邪魔をしてコーヒーを出して頂くことがある。点てる前に聞いて頂ければ「眠れなくなりますから。」とお断りも出来るが、何も聞かれないで突然お出し頂くこともある。そんな時は折角淹れて頂いたコーヒーを飲まないわけにはいかない。心の中で「今夜は眠れなくても本でも読んで過ごすかな。」などと思いながら、美味しく頂く。嫌いなコーヒーではないから美味しく頂くわけである。夜寝る時には覚悟の上だから読みたい本と照明器具、ベッドスタンドなどを確かめてべッドに入る。そんな時に限って5ページも進まないうちに眠ってしまっていたりする。VIT

 

殆ど飲んでしまったエスプレッソ

 

コーヒーノキはアカネ科、Rubiaceae、コーヒーノキ(コフィア)属、Coffea、アフリカ原産、常緑多年草。

学名:Coffea、和名:コーヒーノキ、葡名:Cafeeiro、

アフリカ西部~中部からマダガスカル島と周辺諸島にかけて多数の野生種が自生。野生種の殆どが絶滅危惧種に指定されている。

コーヒーノキ属には4亜種66種以上があるとされている。

エチオピア原産のアラビカ種はブラジルやコロンビアで品種改良が進み、200以上の品種があり、多くが中南米で栽培されていて世界消費量の7~8割を占める。

コンゴ原産のロブスタ種は主に東南アジアで栽培され世界消費量の2~3割である。(Wikipediaより)

 

上記ブログを読んだ大阪に住む妹が早速下記のメールをくれました。

<初めて我が家で珈琲を飲んだのは私が幼稚園児か小学校低学年の頃かに、清太郎おじさんか外国航路の船医をしていてお土産に生のコーヒー豆を持って来てくれ、おかんがそれを鍋で煎りすりこぎで擂り、入れてくれたのが最初だったのでは無いかと思うのですが・・・。まあ小さい頃のことであやふやではありますが・・・。>(メールの一部抜粋)

そう言えばそういうことがあったと、このメールを読んで、思い出しました。妹が幼稚園児だとすれば、昭和30年頃のことと思われます。母がフライパンか何かで生のコーヒー豆を煎り、すり鉢と擂り粉木で挽いていたのをはっきりと思い出しました。それが最初だったかどうかは判りませんが、そういうことはありました。コーヒー豆をすり鉢で擦ると言うのも、果たして出来たのかな。と思いますが、それより方法はなかったのでしょう。その後、我が家にはコーヒーミルも買って置いてありました。コーヒーミルは僕たちもパリのバンブの蚤の市で赤い可愛いのを買って、ヨーロッパの旅行中はそれをずっと使っていました。今は宮崎に置いてあり時々は使っています。

 

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画材店の会員登録。Registro de membros da loja de material de pintura

2017-09-01 | 独言(ひとりごと)

 画材店の会員登録をした。3~4年前からこのカセム町にある画材店でのみ買うようになっていた。画材の量販店といった趣の店で、広くて品数は多いし、自分で選ぶことが出来るし、他店よりはかなり安い。

 ずっと以前に画廊のペドロがクルマで乗せて行ってくれたことがあったが、1度行ったきりで、暫くは行かなかった。ペドロの運転は恐ろしいのを通り越している。いつ死んでもおかしくはない運転であった。高速道路でも両手を離して携帯を掛けようとするし、話に夢中で高速の出口をしょっちゅう通り過ごしてしまう。でもペドロは未だ元気に生きている。

 それにカセム町はあまりにも遠いし、道が複雑で自分だけでは到底行けそうになかったからだ。それでそのままリスボンの画材店で買っていたのだが、3~4年前からこのカセム町の画材店でのみ買うようになった。

 元々画材は1年に1度、まとめ買いをしていた。だからカセム町に行くのも1年に1度。行く時は1年ぶりということになるから、毎回、行く前には「道が判るかな」と不安な気持ちになるのは否めない。

 カセムという町とマサマという町の中間にあるのだが、ペドロやリスボンの画廊のザンベジは「マサマの画材店」と言っていたから、てっきりマサマ町にあるものと思い込んでいた。だから最初の何回かはマサマの高速出口で降りて、道を尋ねながら、何とかたどり着いていた。がもう一度行ってみろ。と言われても自分の記憶だけでは行くことが出来ないほど複雑であった。でも正確にはカセム町の工場団地内にあるし、マサマ出口から行くよりもカセムの高速出口から行った方が判りやすいのを発見した。

 リスボンからシントラ行きの無料の高速道路に乗り、ベンフィカのサッカー場を左手に見、マサマ町出口を通り過ぎカセム町の出口で降りる。鉄道の高架を潜り抜け10階建て程のビルが建ち並ぶ住宅街を、記憶を辿りながら、道なりに走らせる。僕はどちらかと言うと方向音痴ではないし、道は覚える方であると思っている。それで他人に道を尋ねなくても、何となく迷わずに工場団地に入り込むことが出来る様になった。

 入り込むというより工場団地の入口付近にその画材店がある。工場団地のどこにでもある様な特徴のない建物だがすぐに判る。そして昨年もこの時期に行った。

 ポルトガルでは8月下旬と1月の正月明け頃に一斉にバーゲン時期を迎える。ブティックや普通の商店なども「SALD(バーゲン)」などと張り紙をしている。スーパーでも同じだ。

 そしてポルトガルは9月が新学期なので、その前の8月下旬は学用品のバーゲンセール時期でもある。スーパーの特設場には文房具が並ぶ。

 カセム町の画材店にも文房具もある。わざわざ子供を連れて工場団地内の画材店に文房具を買いに訪れる人も居ない様に思うが、昨年はそのスーパーの真似事をして文房具のサルドをやっていた。勿論、画材もそれなりに安くなっていた。

 でもその方式に問題がある。バーゲンといってもその時に割り引くのではなく、レシートに割引分のクーポンを印字し、そのクーポンにより次回に買った買い物の中から差し引くという複雑な方式だ。これは大手のスーパーがこの方式をやっていて、それで顧客を増やしている。まあ、近くのスーパーなら、しょっちゅう行くわけだからその方式でも構わないのだけれど、たまにしか買い物をしない画材店でこの方式を導入しても全くなじまないと思う。

 それでも昨年は買った画材が多かったこともあり、その割引分を捨てるわけには行かず、1週間後に再び訪れ、その分で余分に油彩チューブの何本かを買った。2回目の出費はゼロである。カセム町までは結構なガソリン代と時間労力がかかるが、その割引分を捨てるわけにはゆかなかった。

 今年もたまたま昨年同様この時期に行くことになった。

 画材店に行くついでにその周辺の鉄道駅を取材することにした。カセムの先にはシントラがある。そのあたりにはリスボンとシントラを結ぶ鉄道が走っていて、リスボンのベッドタウンとなっているので駅も多いし、列車の本数も多い。

 それにシントラというところは、かつて詩人バイロンが『地上の楽園エデンの園』と讃えた自然豊かで世界遺産のお城なども幾つかある1級の観光地である。そこからユーラシア大陸最西端のロカ岬へ行く拠点ともなっている。

 そのシントラ駅と画材店のあるカセム駅、それにその手前のケルース宮殿のあるケルース駅を取材することにした。何れも何度も行っているところだが駅の取材は初めてである。駅を取材した後、最後にカセム町の画材店で画材の仕入れをするつもりで朝早く家を出た。

 お陰で駅は3つではなく7つも取材することが出来た。クルマで走っている途中『鉄道駅こちら』の標識が目に付くのだ。

 しかしそれで非常に疲れた。アレンテージョなどの田舎道なら何時間走ってもあまり疲れないのだが、都会は疲れる。

 最初に終着駅のシントラ駅を取材し、高速道でケルースに戻り、そこで昼食と駅取材、そして街中の道を見覚えのあるマサマ町からカセム町に入った。その間、鉄道駅7つである。

 朝、家を出てリスボンを抜ける頃は通勤ラッシュが未だ続いていた。そしてシントラからケルースに戻る高速道の反対車線では大変な渋滞が起こっていた。事故でもあったのだろう。この路線は片側3~5車線の大きな高速道だがそれ以上に交通量は多く、交通事故多発路線である。

 画材店に到着した時にはかなり疲れていた。画材店入口には昨年の様な『SALD』の横断幕はなかった。店に入るとすぐに若い女性店員が応対してくれた。昨年には居なかった人だ。感じが良く親切な上に愛嬌もある。どの様な店でも店員の愛嬌が良いと気持ちよく買い物ができる。そして一気に疲れは吹き飛んでしまった。

 品物を選んでから「今年はサルドはないのですか?」と言ってみた。遠くの方で店長の男がこちらをちらちらと見ている。たぶん僕のことを、見覚えがあるな。などと思っているのだろう。僕ははっきりと覚えている。女店員は「サルドはないですが、今、会員登録すれば今回の買い物から10パーセントの割引になります。次回からも納税番号を言って頂ければいつでも10パーセントの割引です。」と言ったので会員登録をすることにした。

 登録は無料で、日本の家電量販店などでもある方式と同じだが、別にクレジットカードなどは作らなくても良い。

 店内にあるパソコンを操作しての会員登録である。それは全て女店員が操作してくれた。僕は名刺を出した。それには名前、住所、電話番号、eメールアドレスなどが載せてあるから全てそれを見ながらやってくれた。納税番号は別の納税カードを出した。ポルトガルではこの番号が必要な場合が多い。日本の住基カードの様なものなのだろう。

 そして国籍を選ぶ欄が出てきた。「国籍はJAPÃO ですよね?」と聞くので「はいJAPÃO です。」と答えた。ずらりと並んだ国名から選ぶのだけれど、何度探してもJAPÃO が出てこない。女店員も首を傾げる。3~40は国名が並んでいるが、JAPÃOもJAPANもNIPPONもZIPANGUも出てこない。ヨーロッパの国々を中心にアメリカ、ブラジル、アンゴラ、モザンビークなどもあるのにJAPÃOがない。まさか日本人が会員登録をするのまでは想定にはなかったに違いない。そしてこの欄では選ぶだけで書き込むことはできない。

 でもそんな国籍などはどうでも良いのだろう。女店員は仕方なく「ポルトガル国籍でも良いですか?」と言いながらポルトガルを選んだ。僕は画材店の登録ではポルトガル人になってしまった。

 店長が大きな荷物を抱えて近くを通ろうとした時、女店員は店長に向かって「JAPÃO がないわよ~」と言った。店長は荷物を落としそうになりながら苦笑いを噛み殺し、足早に通り過ぎた。昨年、割引分のクーポンだけで、出費なしで買い物をした時に対応してくれたのはこの店長であった。店長もようやく僕の顔を思い出したのかもしれない。

 とにかくあの大手スーパーの割引方式は1年だけで終わって良かったなと思う。誰が考えてもおかしな、画材店にはなじまない方式だ。お陰で今回は続けざまに2度も行かなくて済んだ。

 リスボンの画材店に比べると同じ品物でもかなり安いのにも拘わらず、更に10パーセントも安く仕入れることが出来た今回の画材である。早速一巻き買ったキャンバスから大小数枚分を切って木枠に張ってみた。100パーセント麻のなかなか手触りが良い真っ白いキャンバス。さてイメージは出来上がりつつあるのだが、これで良い絵が描けるだろうか。 VIT

 

 

 

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