ゆううつ気まぐれふさぎ猫

物書き志望の葉月の悪戦苦闘の日々

春の雨

2012-03-31 10:56:35 | 雑記
南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした、
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が、
私の舌をぬらした。

西脇順三郎「ギリシャ的抒情詩」より「雨」

空気が柔らかくなるとわけもなくこの場面を思い浮かべてしまうのだけれど、以下のイメージも腐女子心を刺激するなんとも言えない味わいがあって好きだ。


黄色い菫が咲く頃の昔、
海豚は天にも海にも頭をもたげ、
尖った船に花が飾られ
ディオニソスは夢みつつ航海する
模様のある皿の中で顔を洗って
宝石商人と一緒に地中海を渡った
その少年の名は忘れられた。
麗な忘却の朝。

同上より「皿」



ある方から「業が深い」と評された。
ひどくうれしい。というよりも、そうだったのかと目から鱗が落ちる思いでおもわず膝を打つ。そんな型通りの所作でにんまりと受け入れた。

そうだ。私は業が深い。その業の深さを他人に見せたくないばっかりに、偏屈という硬い鎧で全身武装していたのだ。
気づかせて下さって、感謝しております。

こうなったら「因業婆あ」を目指しましょう。



春の嵐が過ぎ去り、光射す。黄色い花が揺れる。
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型通り

2012-03-29 20:29:27 | 雑記
芸を「人」で見せるか、それとも「型」で見せるのか。

型通りの表現という言い方をすれば、それは創作を志す者にとってはむしろ否定的な意味合いが強い。
曰く「オリジナリティがない」ということ。
けれど、果たしてそうだろうか。
「型通り」の「型」を身につけることなく表現することの脆さというか滑稽さを昨今目にする場面が多くて、辟易する。

いたずらに感情を込めた演奏や動きで表現された音楽や舞踏の痛さ加減は半端ない。

伝えるものは何なのだろう。
それがきちんと伝わっているのかどうかさえ彼らの念頭にはない。
まずは自身のパフォーマンスが第一義。

もうお腹いっぱいです。止めてください。

役を「型で見せる」と評された歌舞伎役者の演技を見た。
その型の素晴らしさに息をのむ。
八十をとうに越えた男性が、嫉妬と悔しさに身もだえする小娘を演じてそこに何ら違和感がない。
足を止め、袖を噛み、一瞬すべての動きを止めて、はらりと袖を入れ替える。
若竹色から朱色へと。
遠くに聞こえるのは思いを寄せる男性が別の女性との婚儀が決まり、それを口々に祝う人々の声。
それは確かに「型」なのだろうけれど、型通りに見せられた娘の心の動きが生々しくこちらの心に伝わってくる。表現されたものを味わう醍醐味。それ以上でもそれ以下でもない。

誰が書いたのかわからないけれど、この物語はおもしろい。

そんなふうに評されるものを書いてみたい。
できれば書き残したい。

なんて偉そうに講釈垂れている私ですが、最初の段階はもう自分の感情感覚情念に頼りっきりなわけです。どれだけ自分を盛り込めば気が済むんだよってくらいに。
でき上がった代物のなんという不細工なこと。
そして「型」に嵌めていきます。伝えるために。
こうして仕上がったものが結果おもしろくなかったとしたら、それは最初の勝手気ままに書いていた素材そのものが凡庸でつまらないものだったのでしょう。と、思うようにしています。

あれ。
結局、私は「型通り」に表現できない人間ではないですか。
そんな論旨になってしまう。おかしいなあ。

けれど、「なんでも好きなように表現すればいいんだよ」という輩の言葉は信用していません。
不自由で制限があってその枷を打ち破ろうと身もだえする動きのなかに表現の芽は生えてくるのだと直感しているから。


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経過報告、その後

2012-03-24 20:12:52 | 経過報告
後から思うと、もしかして今が結構楽しい時期だったりするのかも、という考えが昨夜ふと心をよぎった。
やきもきしながら編集氏からの返信を待っているこの時が。

「ああ、今頃はきっと日程の調節やら出版計画の報告やらをしてらっしゃるのかもしれない。あの、原稿その他の紙類がごっそり積まれた机の陰で。作業の途中で電話がかかる。『ああ、米澤さん。原稿の進み具合はどうですか?今度いっしょに甘いもの食べましょう』とか言いながらも書類から目を離さない、そんな忙しさの最中でも、私みたいな末端物書きに思いを馳せてくださっているのね、きっと」

そんな妄想全開。

たまたま目に留まってわざわざ連絡して下さって、それからの腐れ縁。
あっさり叶ってしまった人たちにはこの艱難辛苦の日々、わからないだろうと、なぜかドヤ顔で吹聴してみたくなる。
あとでスランプになって干されるよりも、苦労の先取りのつもりの日々。

「いつお会いできますか」
「もう少しお待ちください」
この果てしない繰り返しに暗澹たる思いで過ごした日々もやがては懐かしく思い出されるのだろうか。
一日も早くその日が来ることを願っていたはずなのに、もしかしてそれらの行為、自分、楽しんでなかった、とふと感じる。もう二度とできないかもしれないと思うと、さびしいのかな。
なぜなら、その時だけは、有能編集氏を独占できたと(錯覚であれ)感じたわけだし。

まあ、とにかく、前に進まねば。



経過報告。

四月中には編集氏に会えます。
彼の体調がすこぶる悪くなければ。


そして、ここでもう一度年頭の決意を記しておきます。
「今年中には二冊、本を出版するぞ」と。

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サワン

2012-03-21 11:30:23 | 雑記
それは違うだろうと、夜も遅いのにテレビに向かって声を荒げていた。

「彼女は最後まで生きようとしていました」

だったらどうして意識の鮮明なときに助けを呼ばない。
家賃よりも先になにがなんでも食料を手に入れようとしない。
他人の嘲笑などかまうものかと役所で暴れて保護を訴えない。

もう、頑張りたくなかったのかもしれない。
目に映るものはどれも見たくないものばかりなので、永遠に目を瞑っていられる状態にしたかったのかもしれない。
わからない。それは誰にも。
だけど、国営放送の解釈には違和感を覚えずにはいられなかった。

自死を認めるようなコメントを控えたのだろうか。いろいろと差し障りがあるだろうからね。



「屋根の上のサワン」

昨日の日記に付け加え。
小説を書く行為は私にとって崖を鎖伝いに登っていくことにも似ている。
次の手がかりをしっかり握って全身を支えながら登っていく。
足場がぐらつくこともある。手に力が入らないこともある。
ときおり、目指す頂上の、その先にある空を見上げる。
なにげなく、思いつきで書き込んだ「屋根の上のサワン」を読む少女。
これが次の手がかりとなって物語がひとつ、ぐいっと進みました。


だけど私はまだ「屋根の上のサワン」を読んでいない。
読まなければ。読みたくなってきたぞ。


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推敲の日々

2012-03-20 11:49:49 | 執筆
推敲は、決して好きな作業ではない。
けれど、時間を忘れて夢中になるのも事実だ。
やってもやっても果てがないのだけれど、ある一点でぴたりと収まった気がする瞬間があって、その時は達成感めいたものを感じる。
たらたらと文章を書いている時には決して味わえない充実感のようなもの。

以前にも書いたが私はプロット、筋立てなどほとんど行なわず、浮かんだイメージやら設定で百枚くらいは一気に書いてしまうタイプだ。
その間は自分の感性が全てで、流れとか周囲の状況とかはほぼ見えていないし、無視しても構わないくらい傍若無人な態度で文章を打ち続けている。

板東玉三郎氏が言った、「まったく情念のみで踊る」状態。
けれどその踊りは「決して人様にお見せする代物ではない」。

この文章の存在は次の一文で保証される。
導き出され、次々と連なっていく文章。段落。場面。
最初の段階ではとにかく自分のイメージを如何に描くかが大事。一番の読者である自分の楽しみのために書いていると断言して憚らない。

けれど、それじゃあ、鍵つき日記と変わらない。
そこで止まっていいのか。

さて、推敲作業が待っている。
その前に、ここで一度構成を見直す作業を前回の小説から採用している。
物語全体を支えるくらい柱は頑丈に組み立てられているか点検するのだ。
今回の小説、前半部分終了の時点で見直してみたのですが、思っていたよりも結構まともに建っていました。書いている最中は好き勝手やっていた感じだったのですが、あとで読み直してみてみると、とてつもなく不自然な箇所はそんなになく、ちょっと拍子抜け。
(それでもいくつか入れ替えたり削除したり、視点を変えたりしましたが)
そうして推敲に取り掛かります。

まず、基本的な文章手直し。同じ言葉が近場にある場合は言い換え可能か検討したり、感情感覚ではなく行動で表現したり。
そして視点。これはもう舐めるように点検します。
(その結果、他人の書いた物語の視点のブレが気になる気になる)
流れ。不自然ではないか。説明不足、逆に言い過ぎてくどくなっていないか、なるべく他者の目で読み直してみる。初めてこの文章に目を通したと仮定して、書き手としての私が最初に設定した情景を再現できているかどうか。
これはさすがに多かったです。なにしろ「書き手の私」はすべてをお見通しでわかっているのに、「読み手の私」はそんなことまったく関知しない。
どこをどう通ったらその場所にいけるのか説明してよ。
だからどうして彼女はそんな表情をしているの。
おいおい右手と左手の動きが逆だよ、とか。出てくる出てくる。
何度読み直しても意味が通じないのは、もしかして本来必要のない描写なのかもしれないと、ばっさり切り捨てた箇所も。

と、夢中になってやっていると時間が過ぎたことも忘れる。
けれどその作業は、元の「作品」があるからできること。
浮かび上がり沸き起こるイメージがあるから、それをしっかり固定して誰かに差し出すことができる。

そして再び、浮かんでは消えるイメージの断片を懸命に捉えて文章にしていく日々が待っています。
正直、苦しいです。けれど、やっぱり楽しい。
勢いよく書ける日があるかと思えば、遅々として進まない時もある。
それでも向き合っていこうと思う。書き上がることだけは信じているので。

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