孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

早朝の効く効く詐欺

2015年01月31日 | 日記
歳をとると、朝目覚めるのが早くなる。私は念のため、目覚まし時計の他に、携帯電話の目覚まし機構をセットして寝るのだが、ほぼ100%それらがなる前に目が覚めてしまう。特につらいことはないのでいいのだが、あまり早く起きると時間をもてあましてしまい、ボーっとテレビを見てしまうことが多い。

早朝の番組は、通信販売の宣伝番組が多く、しかもその商品が高齢者向けの健康食品ばかりであることに気がついた。つまり私のように、朝早く目覚めてしまう高齢者を対象にした番組なのです。世間の高齢者たちはみなさん朝早く目覚めて、テレビを見ているんだと少し安心しました。

しかし、その内容を見ると、少しバカバカしくなって、見続ける気になりません。商品を無料で進呈するから、とかいった甘言に乗せられたとすぐわかる高齢者たちが、口々においしいだの、飲みやすいだの、安心するだのというどうでもいいコメントをしゃべって、ニコニコするばかり。

深海ざめの軟骨を砕いて飲めば膝の痛みが治るとか、コラーゲンが含まれているから肌がぷるんぷるんになるとか・・・こんなことを信用する人がいるんだろうかと疑わしくなるが、値段が心憎いくらいの買いたくなる設定価格のせいか、買う人はいるんだろう。

砕いたサメの軟骨やコラーゲンを口かtら飲んで、果たして体はその成分のまま吸収するものだろうか?ちょっと考えれば分かると思うのだが。

見ていると腹が立ってくるので最近は見ないようにしているのだが、有名人が小遣い稼ぎではしゃぎまくっているCMは、ほとんど犯罪にしか見えないのです。

困った新聞社です。

2015年01月31日 | 日記
今月13日付朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」に、「少女に爆発物を巻き付けて自爆を強いる過激派の卑劣。70年前、特攻という人間爆弾に称賛を送った国があった」という記述があったそうですが、まったく酷いコラムです。

この新聞は、日本と日本人が嫌いで嫌いで仕方ないのは分かっていますが、嘘を記事にしてまで日本を貶めようとするのは、これは十分に国家反逆罪に相当する、犯罪ではないでしょうか?

ありていに言えば、ルールに基いて殺し合いをする戦争と、無差別に無辜の市民を殺そうとする自爆テロとを同一視するのは、意図的としか思えません。

この新聞社は、同じ系列のテレビや週刊誌を通じても自分たちの主張を浸透させようとしていますので、実にタチが悪い。今の今でも、「イスラム国」に同情するようなコメントを、テレビを通じて垂れ流しているそうです。

しかも、有名な女優や歌手を巧みに仕込んで、彼らの口を通して国民を洗脳しようとするから、もう悪質としか言えません。読む側や見る側が、純粋であればあるほど、コロッと洗脳されてしまいます。

そして、これまで事件を起こした新興宗教を見るまでもなく、いったん洗脳されると、元に戻るには莫大な労力を要するものなんです。我々は、学習する能力をもっと研ぎ澄ます必要があります。

恐怖!隣の全聾ドライバー

2015年01月31日 | 日記
最近、道路を逆送する車の事故が多発しているそうです。多くは高齢者の運転だそうです。この前、私も交通量の多いバイパス道路で、おじいさんがママチャリを必死にこいでいるのを見ました。

これは、他言は無用ですが、うちの隣に住むお爺さん。死んだ親父と同い年でしたから、今年で88歳になるはずです、耳が遠くなって、最近はほとんど聞こえないそうです。(息子さん夫婦によると)

ビニールハウスで野菜を作っているので、毎日軽4輪トラックを運転しています。見ているこちらが怖いです。そのうち大きな事故にならなければいいが・・・と近所でも噂話をしています。

田舎だから、車がないと確かに困るんですがね。事故はもらいたくないし・・・。その内大きな社会問題に取り上げられるでしょうね。

コンプレックスの裏返し

2015年01月31日 | 日記
最近、日本文化に興味を抱く外国人を紹介したり、日本を訪れる外国人観光客に密着してレポートする番組がやたらと増えているような気がする。海外のグルメを紹介したり、街角散歩をするような番組は相変わらず多いが、日本人が日本文化を外人に礼賛されて、それを見て喜び驚く、というバラエティー番組が増えた。

あるいは、プロなのか素人なのか分からないが、外国人がこぶしを捻って演歌を歌って点数を争う番組もあった。日本人も習わないような盆栽だとか、染物だとかにわざわざ日本に来てまで弟子入りして、修行に励んでいる外国人を特集して紹介する番組もあった。

私も、アメリカにいたとき、親日家らしい方が自分の印鑑を自慢げに見せてくれたことがあったが、その時はすこし驚いた。シェイドンというドイツ系の方で、その印鑑をよく見ると、「舎殿」と彫られていた。きっと、自分の名前にどんな漢字を当てはめるか相談して、決めたのだろうが、なかなか品があって、字の座りもよく、センスがいいと思った。

今や、外国人観光客は年間1300万人に達するのだという。富士山が、ユネスコの世界文化遺産に登録されたときなど、地元の観光客相手の土産物屋や旅館などは、これで売り上げが倍増するだろうと、飛び上がって喜んでいた。しかし、実際に大喜びして山登りに来たのは日本人だったので、当時地元の観光産業関係者は、拍子抜けしていたのが面白かった。

私も当時、富士山五合目で外国人相手の登山指導をしていたとき、世界遺産のことを聞いてみた。ほとんどの人がその事実は知っていたが、彼らはあえてこう付け加えるのだった。「世界遺産に登録されたから、今日来たわけではないですよ。前から一度登ってみたかったからです。」

「世界遺産、世界遺産」とから騒ぎする日本人登山者たちより、ずっと落ち着いた外国人登山者たちを見て、日本人の特性を見せられた気がしたものだった。案外、「富士山は登る山というより、観る山である」ということを理解しているのは、海外から来る観光客なのかもしれません。

秋になって、「今夏は世界遺産登録の影響か、海外からの登山客が増えたようだ」という報道を聞いたときは、「何を根拠にそんな嘘をいうんだろうか?」と私はいぶかしく思ったものでした。第一、外見で外国人か日本人かを判断するのは困難なこと。増えた外国人観光客といっても大きく増えたのは、中国や他のアジアの観光客だったはずです。

そもそも登山口で外国人登山客を数えていたことなどありえない。全体の登山客だって正確にはあくしていません。あくまで、観光産業に従事する人たち向けの「希望的観測」だったのでしょう。

我らが誇る富士山が世界的なブランドになったと、県知事を筆頭にみんなで大喜びするのは結構なことです。また、われらが伝統的な日本文化を多くの外国人が学ぼうとする姿を見て喜ぶことも結構なこと。ただ私は、それもこれも、本来私たちが海外に対して、未だにつよい劣等意識(コンプレックス)を心の底に持っている所為だと分析しています。そんなコンプレックスの裏返しが、温泉を楽しむ欧米人観光客を特集した番組を流したり、ハロウィンに馬鹿騒ぎする若者たちを報道したりするのでしょう。

これらの遠因は、恐らく子供の頃からの教育にあるのかもしれません。いわゆる自虐的な思いを植えつけられ、自国の文化や歴史に何の誇りも持たせないような教育が行われている所為ではないでしょうか。そもそも教える方がその目的で進めてきたことだとすれば、それは見事に効果を達成したと言えると思います。

病院でのプライバシー

2015年01月30日 | 日記
病院は特に嫌いなわけでもないが、待合室で聞きたくもない会話を聞くのだけは堪えられないときがある。それは時には、近所の人の悪口を言い合うお年寄りたちであり、それが悪口でなくとも、大きな声で話す必要のない近所の噂話であったりする。

中でも、看護婦が血圧を計りにきて、大きな声でその値を告げ、ちょっと高いから薬はちゃんと飲んでるのかとか、塩分は言った通り控えているかとか・・・「あなたは主治医か?」といいたくなるほど、まるで患者をみる医者のような口ぶりであったりする。診察を終えて出てきた老婆にも、さっき医者が言ったことを大声で繰り返しているが、お節介もほどほどにしろよと怒鳴りたくなることがある。

看護婦は良かれと思っているのだろうが、プライバシーという感性はまったく持ち合わせていないようだ。人の病状や病名を大声で披露して、得意がっているようにすら見えることがある。こんな病院はもう来るまいと思ったが、田舎には他に選択肢がない。やはり、ここは憎まれ口を叩くしかないか・・・。

エゴ丸出しではないか。

2015年01月30日 | 日記
このところ連日報道される「イスラム国」の人質のニュースですが、どうも私は報道を見ていて違和感を感じています。同時に、数年前に、富士山五合目で、夏のシーズン中、登山指導のお手伝いをしたときの記憶がよみがえってきます。それは、あまりいい気分のしなかった思い出です。

私は、主に外国人登山者の案内を担当したのですが、「事件」は日本人登山者でした。しかも、高齢の単独行の登山者でした。下山途中で、あと30分もあるけば、無事に五合目に着くというあたりで、斜面に滑落したそうで、後続の若者がそのお年寄りを発見し、ほとんど日没後の暗闇だったので、携帯電話でその状況を連絡し、救助隊が向かったそうです。

やがて、5~6人の救助隊が駆けつけ、無事に救助された老人は、五合目の詰め所に戻って、手当てと事情聴取を受けたそうです。同時に、家族にも連絡したので、自宅から息子夫婦が引き取りに駆けつけました。

落ち着きを取り戻した老人が、急変したのはその時です。まず、救助隊に向かって、なぜこのような大人数で救助に来たのだ。事を荒立ててわざと大騒ぎしているのか、と食って掛かったそうです。さらに、救助隊に連絡した若者にも、何で余計なことをしてくれたんだと怒りまくったそうです。暗闇で滑落するのを見たし、我々では救助できないと判断したのですと、若者が穏やかに説明しても、その老人は火に油を注ぐように興奮するばかりだったようで、近くにいた息子夫婦たちは、体裁が悪そうに父親をなだめるだけだったそうです。

老人は、近くの町で米穀店を経営する身で、翌日の新聞に記事となって掲載されるのではないかと、痛く心配されていた様子でした。そして、翌朝の朝刊にはしっかり記事になっていました。

よく、日本人は規律を重んじ、公衆道徳を守り、礼儀正しく、謙虚で穏やかな国民だと絶賛されます。一面では当たっているのでしょうが、実態は、それとかけ離れた人が五万といます。富士山五合目で、二ヶ月も登山客を見ていると、それを嫌でも見せ付けられます。日本人とは、かくも自分勝手で、公衆道徳などお構いなく傍若無人に行動し、平気で嘘をいい、他人を貶めることをする人間だったのかという一面をこれでもかと見せ付けられます。

登り口に一番近い場所に、救助隊や警察車両、それに身障者用に確保された駐車スペースがあります。普段は、進入禁止のバリケードが設置されて、駐車はできませんが、深夜や早朝に着いた登山客が、それを除去して、勝手に駐車して登っていくなど、日常茶飯事でした。バスやタクシー用に確保された駐車スペースに平気で駐車するなど毎日のこと。木陰にゴミが詰まった買い物袋が隠されていたり、インスタントラーメンを食べ残してそのまま駐車場に残していくのもよく見ました。

まさに、エゴ丸出しの醜い光景の連続でした。思い出すだに、吐き気がします。あの時と似たような感覚が、もどってきたようで、最近ニュースを見るのが憂鬱です。

九段坂で鼻歌を

2015年01月27日 | 日記
昨年の春、生れて初めて靖国神社を参拝しました。きっかけは、島倉千代子の死でした。購読しているローカル紙は、読み応えのない実に安っぽい新聞です。地元では、広告チラシが欲しくて購読する人が大半で、記事を楽しみに購読する人などいるはずがありません。「広告チラシの包み紙」だと揶揄されるほどです。

特にどの新聞にもある、1面のコラムは、毎日駄文を羅列していて、小学生に作文を書かせた方が、ずっとマシな文章を書くはずです。そのコラムが、島倉千代子の亡くなった次の日に、珍しく興味深い文章を掲載していました。私が知らなかったエピソードを教えてくれて、「なんだ、たまには普通の文章も書けるじゃないか。」と、お世辞を言いたくなったものです。

島倉千代子は、私がこの世に生れてから2年後に、「東京だよおっかさん」という曲で、一躍有名になりました。そして年末の紅白歌合戦の常連になりました。なんと30年連続で出場することになったそうです。その島倉千代子が、そこかしこで、寂しそうに呟いたのが、「東京だよおっかさん」のことでした。大好きな曲なのに、NHKは紅白で歌わせてくれないのだと言うのです。

そして、その理由というのが、何とも馬鹿げているんです。「東京だよおっかさん」の2番の歌詞。それは、こういう詩です。♪やさしかった 兄さんが 田舎の話を 聞きたいと 桜の下で さぞかし 待つだろ おっかさん あれが あれが九段坂 会ったら 泣くでしょ 兄さんも ♪

「桜の下」が、「九段坂」という言葉が、「靖国神社」を連想させるのが、NHKの気に入らないようだったのです。英霊たちが祀られている靖国神社を連想させる歌を歌わせないということは、放送法で決められているのでしょうか?この歌は戦争を賛美する歌なのでしょうか?

一体何がNHKは気に入らないんだ?靖国神社のどこが悪いんだ?国民が気に入った歌謡曲を絶対に歌わせない理由は何なのだろうか?私は、一度靖国神社を訪れたくてたまらなくなりました。そして、無理やり時間を都合して、上京したのでした。

当日、行きも帰りも、九段坂を歩きながら、私は「東京だよおっかさん」のメロディーを思う存分口ずさみました。

紀子三部作のひとつ

2015年01月26日 | 日記
週末図書館に借りた本の返却に行き、新たに2冊借りてきました。仕事で覚えなければならない専門知識に関する本で、いわゆる「サルでも分かる○○」といった入門書を探してたら、丁度いいのが見つかったので借りてきました。ついでにDVDコーナーものぞいてみると、小津安二郎の「晩春」があったので、ケースを手に取り眺めていると、旅先の旅館の布団の上で語り合う、親子役の笠智衆と原節子の写真が目に入り、急に観たくなって、こちらも借りてきました。

「晩春」は、いわゆる「紀子三部作」の一つで、「東京物語」、「麦秋」と並ぶ、小津安二郎のモノクロ映画の秀作です。父親役が笠智衆、娘役が原節子。その娘の名前が三作とも「紀子(のりこ)」なので、「紀子三部作」と呼ばれています。

妻に先立たれ、父娘二人暮しをしてきたのですが、娘が年頃になりいつまでも父親の面倒をさせておくわけにはいかないと悟った笠智衆が、いろいろ娘を説得して見合いを薦めるが、紀子は父との暮らしが一番幸せだと言って、頑なに拒むという物語が展開します。脇役に杉村春子が出ていて、これがまた名演技を披露しています。

小津映画には常連の笠智衆は老け役がほとんどですが、当時はまだ40代の青年だったはずです。この映画でも、老けた父親の役を見事に味わい深く演じています。お父さんは後妻をもらうから、心配せず嫁いでくれと方便を言って娘を説得するのですが、紀子は「お父さんは奥さんをおもらいになっていいから、私はこのままお父さんと一緒にいたい・・」と言って父親を困らせます。

その時父親の吐いたセリフが、「お父さんはもう56歳だ。お父さんの人生はもう終りに近いんだ。だけど、お前はこれからだ・・・」でした。笠智衆の演技に見入って、聞き流してしまうところですが、ちょっと待ってくださいよ。「56歳で人生が終りに近い・・」って??そんな馬鹿な!!俺もう来年、60歳だぜっ!!人生終りかよっ!!

この映画は1949年の封切です。考えてみれば、当時は60歳になれば、寿命で亡くなっていく人がバタバタいたものだったでしょう。思わず、苦笑いして映画もエンディングを迎えました。

目を背けたくなる冬の光景数々・・

2015年01月25日 | 日記
年末から年明けにかけて、決ったようにニュースで取り上げられる風物に、私はいつも見るたびに不快な気分にさせられるものがあります。それは、まず、最近なんだか定着しつつあるハロウィン。何ですか?あれは。最初は、どこかの西洋かぶれの裕福な若奥さんが、外国暮らしで見た向こうの習慣を、意味なんて分からないが、日本でも広めてやれという邪な動機でスタートしたんじゃないかと、勝手に想像していますが、意味も分からず西洋人のまねをして、何が楽しいのか??

続いて、クリスマスノバか騒ぎ。勤め先の事務所にも結構大きいクリスマスツリーが飾られますが、私は内心「アホらしい・・」と思っています。クリスマスの悪口を言い出すと、野暮だと言われそうなので、決して口に出すことはありませんが、私は「クリスマスなんて、あんなもん、まったく関心がありません。」と本当は大声で叫びたいんです、毎年。

そして、歳が明けると毎年ニュースで取り上げる、福袋の奪い合いシーン。朝早くから行列を作って、開店と同時に店内になだれ込み、格闘技も真っ青になるような、ひったくり合いが繰り広げられます。「反吐がでるような」という形容がありますが、実際まともに見たら、私は反吐が出るんじゃないかと思います。

正月気分がようやく抜けたなあと感ずると、1月はもうすぐ終りになり、テレビCMなどでは、バレンタインデーが滑った、転んだと言い始めます。馬鹿みたいな、チョコレート騒ぎが始まります。昔から縁のなかった私は、ただ息を潜めて時が過ぎ去るのを待つだけなのです。先週は、職場でチョコレートの注文表が回覧されてきました。どうも、欲しかったら自分で買う時代になったようです。


思い出す、若王子事件

2015年01月25日 | 日記
それは私がフィリピン勤務を始める随分前のことでしたが、日本の銀行のフィリピン支店の支店長が、マニラで誘拐され、身代金を要求された事件がありました。「若王子」という名前もなんだかドラマチックでしたし、犯人が送りつけてきた若王子さんのやつれた姿と、指を詰められたように見える手がはっきりと写った写真が非常に衝撃的だったのを覚えています。

「イスラム国」に捕らえられた日本人がどうなるかというニュースで、朝からテレビは大騒ぎですが、当時の若王子さんのときも、てんやわんやだったように記憶しています。当時は要求された身代金は、プロの交渉機関を通じて支払われたようですが、解放された若王子さんの指は傷もなく、しっかりと5本あったので、あの写真は指先を1本折り曲げて撮影したものだったとわかり、「なーんだ・・・。してやられたなあwww」という、まるで小話のオチを聞いたときのような気分になったものでした。

ただ、この事件が世間に与えた影響はかなり大きく、フィリピンは危険極まりないところだと印象付けたのは間違いありませんでした。そのため、しばらくして、私がフィリピンに赴任するとなったときは、親兄弟・親類・友人から猛反対をされました。子供が小さいのに家族を残して、フィリピンなんぞに単身赴任するとは・・・お前は一体何を考えているんだ?大事な時期に、男親がいないとなると、子供はきっとグレてしまうだろう。お前は、子供の教育を放棄するのか?

何度か決心がぐらつきましたが、私はどちらかと言うと、「親はなくても子は育つ」という楽天的な考えをもってましたし、八百屋さんや魚屋さんなど自営業のお宅の子供は両親といつも一緒に大きくなって、そのためにみんな優良児に育っていくものなのか?という疑問も感じていましたので、周りのご忠告は適当に聞き流すことにしました。

おかげさまで、3人の子供達は特に道をはずすことなく、世間に迷惑をかけることもなく順調に成人しました。また、私も10年弱のフィリピン勤務の中で、危険な目に会うこともなく、無事任務を終えて帰国しました。

フィリピンは安全な国だとは言えないかも知れませんが、事件に巻き込まれないようにするには、コツがあると思います。一つは、普段から派手な格好は避けること。もう一つは、危ないと思われるところには近づかないこと。これだけです。

ミシュランを蹴ったお店のガイドブック

2015年01月24日 | 日記
回転寿司でも十分に満足できるので、トロ一貫が何千円もするようなお鮨屋さんなど行くこともないし、特に行きたい気もしません。だから、安倍総理とアメリカの大統領が東京の高級鮨屋で食事したという、ニュースを見ても何の感情も抱きませんでした。

ただ、その鮨屋は、ミシュランガイドで星をいくつ獲得した店だと聞いたときは、それなら行きたくもないと、私の中の天邪鬼が囁きました。何年前からだったか、この、おフランスのタイヤメーカーが発行するレストランガイドブックが食通の話題になります。

聞けば、このガイドブックの出版元が密かに送り込む審査員が、事前に店内の雰囲気だとか、料理を査定して、二つ星とか三ツ星とかランクを決めるのだそうです。世界の主だった街で実行し、それが東京から日本に上陸し、かなりの数の和食・洋食レストランを格付けしたようです。

最初これを知ったときは、「フランス人が、果たして日本人の味付けが評価できるのかしらん。それは外人好みの味付けだという査定なのか、日本食としておいしい味付けを評価するのかしらん?」などなど、いろいろ疑問を感じ、少し胡散臭さも抱きました。

そして、そうやってガイドブック側がお墨付きを与えようとした際に、それを辞退したお店が結構あったと聞いたとき、私は「よく言った。それでこそ日本の料理人だ。」と、膝を打ったものでした。想像するに、それら辞退したお店の思いは、「けっ!フランス人などに日本の味が分かってたまるかい!」というものだったでしょう。あるいは、その評価のために、ミーハーの旅行客が押し寄せてきたら、迷惑だと思ったからかもしれません。

ミシュランガイドブックが置かれていても、私は手に取ろうとも思わないだろうし、どこの店が星いくつ・・・など、まったくどうでもいいことです。ただ、もしも、ミシュラン評価を辞退した店のガイドブック、というものがあれば、間違いなくお金を払っても購入するでしょう。誰か出版してくれないか?

便利な言葉、「自己責任」

2015年01月24日 | 日記
シンガポールの知られざる観光スポットに、プラウ ラビンとかいう離れ小島があります。何があるかと言えば、何もないのが人気の理由です。10人も乗れないような小さなボートで島に渡ると、ひなびた食堂や売店が何件かあります。それから、貸し自転車の店が何件かあり、様々な種類の自転車が用意されています。あとは何もない、熱帯雨林だけが取柄の島です。シンガポールの人は、みんなそれを求めて週末に集まってくるそうです。

サイクリングロードと、海岸沿いに作られた散歩コースは、見ごたえのあるきれいな海と、うっそうとした自然のジャングルを満喫でき、時間の経つのを忘れさせてくれます。海岸沿いに、小さな小屋があり、トイレの看板が見えたので立ち寄ると、そこは貸しボートも営業しているようで、いくつかの貸しボートが入り江に浮かんでいました。入り江はきれいなエメラルドグリーンの水を湛え、ビロードのような海面がわずかにボートを揺らしていました。

岩場からのぞくと、恐らく水深は2メートル以上はあったと思います。上着を脱ぎ捨て飛び込みたくなる衝動に駆られました。しかし、その衝動も、近くのコンクリートの壁に落書きのように書かれた文章を見た途端、霧消してしまいました。そこには白いペンキで、YOU CAN SWIM AT YOUR OWN RISK ! と書かれていたのです。

やさしく訳すと、「自己責任で、泳いでください」 しかし、それを読んだときの私の受けた印象は、「泳ぎたければ、勝手にどうぞ。誰も関知しません!」 といったもので、私の自制心に強く訴えかけました。

「自己責任」という言葉は重宝する言い方で、富士登山にきた若者に今日の天候では危険だと注意を喚起したとき、「ええ、分かってます。自己責任で登りますから・・・。」というセリフをかなりの頻度で耳にしたものです。

実際は、7~8月の登山シーズンで救助隊の出動要請は数十回になるとのことです。彼らは自らがリスクを背負って果敢に救助に向かいます。我々は、はたで見ていて、危険なことを承知で、自己責任で注意を振り切って遭難したのだから、あんな連中を公費で助けるのは少し過保護ではないか・・・と耳打ちしたものでした。

その時、私はあのシンガポールの小島で見た落書きのことを思い出したものです。

神社の参拝、二拝二拍手一拝の由来は?

2015年01月22日 | 日記
何年か前のことですが、富士山五合目で外国人登山客に登山案内と観光案内をする仕事をしたことがあります。欧米だけでなく、中南米や東南アジアからの登山客もいて、さすがに日本を代表する山だなあと再認識したものです。しかし、好きだからどんな格好で登ってもいいと言うものではなく、3000m級の山登りにはそれなりの登山装備と知識が必要です。それを案内・指導するのが我々の業務でした。

中には東京からマウンテンバイクで箱根を越えてやってきたつわものがいました。しかも、立ち話をすると、突然富士山に登ってみたくなり、しかも自転車で行ける所まで行きたかったので、思い立ったその日に中古の自転車を購入したそうだ。話をしているだけで、こちらも何かチャレンジしたくなってくるような気分にさせられました。

五合目に無事下山してきた登山客と雑談するのは、楽しみの一つでした。日本に来るだけあって、日本の文化にはある程度知識があり、突っ込んだ質問をされることもあります。我々も、富士山に関する予備知識を事前に叩き込んでおくだけでなく、外国人から質問されそうなことを調べ上げ、英語でどう説明するか勉強しておきました。

富士宮には全国の浅間神社の総本宮である浅間大社があります。そこを事前に参拝した際に、神社の参拝の仕方、「二拝二拍手一拝」の説明表示がされていましたので、私は、近くの詰め所にいた巫女さんに、その由来について教えて欲しいとお願いしました。なぜ、二拝二拍手一拝なのでしょうか。どういう意味があるのでしょうか。そう聞きました。

巫女さんは、困った表情で、「少しお待ちください。」と言い、誰かに電話をしました。こういうことを聞かれたが、何て答えたらよいでしょうか・・・と聞いているようだった。30秒ほど待っていると、巫女さんが戻ってきました。そして彼女の答えは、「あのう、昔からそう決っている・・・ということです。」でした。

高峰秀子「二十四の瞳」の思い出

2015年01月18日 | 日記
坪井栄の「二十四の瞳」をはじめて読んだのは、確か私が中学のときだったと記憶します。小豆島の小学校に赴任した新米教師と12人の子供達とのふれあいを描いた小説で、当時は感動したと言うほどではなかったにせよ、何となくほのぼのとした気分になったのが、読後の感想でした。

この小説は何度か違う監督によって、映画化やテレビドラマ化されたと思いますが、初めて観たのは木下恵介監督、高峰秀子主演の映画で、4~5年前のことだったと思います。高峰秀子は私の一番好きな女優で、彼女の出ている映画をいろいろ観ているうちにめぐり合いました。子供達が成長するにつれて、体格が大きくなっていくのですが、不自然な感じが出ないように、体は大きいが顔がそっくりな子役を募集して配役しているため、ドキュメント映画を観ているような感覚にさせられます。

決して裕福ではない子供達の家は、当時の時代背景もあり、様々な人生を歩むことになります。そして、男の子たちは成長して召集令状を受け、戦地に行き悲惨な結果となります。しかし、2時間以上の上映時間の中では、一度も銃声や戦闘シーンはありません。しかし、これは明らかに、強烈な反戦映画だと言えます。

2年前に他界した親父が、老人ホームにいる時、私はこの映画のDVDを施設にもって行き、介護士に頼んで、他のお年寄りたちと一緒に食堂の大型テレビで観ることは可能か尋ねました。時々、DVDの鑑賞会をしているとの事なので、快諾してもらいました。その後、施設に出向いた際に、介護士の方に反響を伺ったところ、子供が成長して戦地に出征するシーンでは、親父が映画にあわせて大きな声で軍歌を歌ってたそうです。それを見て、他のお年寄りたちが、普段無口な親父が大声で歌ったので、みんなとても驚いていたとも言ってました。

私が映画好きになったのは、親父の影響が大きいので、この映画はきっと親父の好みに合っていると確信していました。あちこちが悪くなって、入退院を繰り返しましたが、最後は実にあっけなく息を引き取った親父は、きっと映画を観てつかの間の時間、自分が体験した青春時代を思い出したのでしょう。

1.17で思い出す・・・。

2015年01月17日 | 日記
1.17は阪神淡路大震災の日です。もう20年前のことですが、そのときを思い出すと、二昔前があっという間に過ぎたことを思い知らされます。今年の新成人たちが生れたのが20年前ですから、当然のことです。

当時、私はフィリピンの工場に赴任していました。しかも、マニラからかなり離れた場所にある工業団地の工場で、パソコンなどなく情報量が今とは画然の差がありました。その日は出張で別の街に移動中で、夕方ボロホテルにチェックインし、フィリピン人が作ったお粗末なチャーハンの食事を済ませてから部屋に戻り、シャワーを浴びて汗を流しました。髪をタオルで拭きながらテレビを付けると、ニュース番組のようでした。

高速道路らしきガラガラに崩れた映像や、何か爆撃を受けた後のどこかの街の中継が延々と続いていて、私はきっと中近東あたりでまた戦争が始まったのかと、のんびり映像を見ていました。なかなか音が出ないので、一体どこなんだろうと思いながらみ続けていると、漢字らしき文字で書かれた看板がぺしゃんこに崩れた家屋と共に目に入りました。うん?中国か?アジアのどこかなのか?すると、俯瞰の映像に切り替わり、続いて瓦礫の中に立ってマイクを持つ男性がカメラの方を無言で見ています。

数秒後、男性は話し始めました。それは、日本語で阪神地区を襲った地震の被害を映像と共に伝えるものでした。日本か!?地震が起きたのか!?事の重大さがようやく理解できた私は、不謹慎かもしれませんが、私の実家のある場所でなかったこと、それに勤め先がある場所でなかったことを認識して、正直少し安心しました。

次の日、慌しく情報を集め始めると、被災地には当時工場で組み立てしていた製品の部品を供給してくれる会社が何社もあり、しかもそれらの多くが甚大な被害に遭ったということが判明し、我々は本社とのやり取りでそれぞれの部品在庫を確認し合い、いつまで生産可能かを計算したり、供給先の被害状況の情報収集に躍起になったり、いつから供給が可能となるか、別の仕入先は見つかるか、などなど終日てんてこ舞いになって対応することになったのです。

時間がたつにつれて、その時こうだったということがいろいろ分かってきましたが、中でも記憶に残るのは、旧社会党の村山政権が原因で自衛隊の緊急救助が遅れたのではないか、ということ。これは東日本の震災被害の時にも、時の政権がアメリカの災害支援の申し出を最初断ったことにも通じますが、政治家たちのイデオロギーが、災害救助にも大きく影響するものだと言う点を、否が応でも認識させるものでした。

それと、もう一点。これは外国のメディアが伝えていたようですが、災害直後、被災地のあるコンビニが瓦礫の中でかろうじて店舗が残り、店の商品もなんとか助かりました。店員がシャッターを閉めて店を閉めないと強奪にあうかもしれないと、進言すると、オーナーは、「みんな困っているんや。代金は後から持ってきてくれればエエと言え。店は閉めるな。」そう言って、被災者に貴重な水や食料を供給したそうです。「数ヵ月後、あの時は助かりましたと言って代金を届けてくれたのですが、その合計が、当時の商品代金よりもかなり多いんですよ。」オーナーのこの言葉を聞いたときは、日本以外では考えられないだろうなあ、と私はいい気分になりました。

さらに、これは蛇足ですが、確かアメリカのメディアが伝えたようですが、当時被災地では、日本の最大の暴力団が、被災民に炊き出しをしていた。アメリカで言えば、マフィアが被災者に食料の炊き出しをするなどということが、いったい起こりうるだろうか、と不思議がっていたようです(笑)