孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

強盗どもの多様性に満ちた末裔たち

2016年08月06日 | 外国ネタ
ブラジルのカーニバルを見るたびに、私は疑問に感ずることがある。

南米の先住民に、あのようなオドロオドロしいコスチュームで狂ったようにケツを振る文化は存在した形跡はないはずだ。



では、侵略して先住民を皆殺しにしたスペインやポルトガルにあのような踊りの原型はあったか。どうも、それは見当たらないようだ。肌をあらわにして踊り狂う文化があったか。それも疑わしい。



スペインやポルトガル人たちは、インディオが死に絶えたあと、労働力としてアフリカ大陸から黒人を大量に持ち込んだ。アフリカ大陸西岸の部族に働き手となる黒人を捕まえさせて安く買い取り、奴隷船に積めるだけ積んで持ち運んだのだった。



300人積み込んでも、生きて南米大陸に届くのは半分にも満たなかったという。病気や体力不足で弱った奴隷は、海に投げ込まれ、次々に大西洋の魚の餌になっていった。



アフリカ大陸でかき集められた黒人奴隷達は、当時のキリスト教では人間とみなしていなかったため、侵略者達は自分達のしていることに何の躊躇もなかった。



これは、北米でも同じ事で、アメリカ南部で黒人差別法として悪名高いジム・クロウ法は1968年、ほんの48年前まで存在していたことを考えればよい。バスの載る場所や水のみ場など、有色人種と白人は明確に分けられていた。黒人との混血はもちろん白人とは見なされなかった。

私が1975年にパプア・ニューギニアに行ったときは、まだそこは独立しておらず国連がオーストラリアに委託して統治していた。

到着した晩、街の映画館に入ったときは、私たちは白人とは鉄柵で区別された有色人種用の座席の方に案内されたのだった。キリスト教の名の下にどういった非人道的な行いが続けられてきたかを押さえておくことは大切だ。

南米に運ばれたアフリカの黒人奴隷達は、部族によって独自の文化を持ち込んだようだ。しかし文化といっても、せいぜい髪型や粗末な打楽器のようなものだった。







今日始ったリオ五輪の開会式でも、各国の最後尾に打楽器らしき物をもったエスコート役のブラジル人たちがいたが、数百年前の黒人奴隷達の部族文化を彷彿とさせた。

そして、当時の奴隷たちのアイデンティティーであった奇異な髪型が変化していって、あのカーニバルで見るど派手な飾りやコスチュームになっているのかもしれない。

今朝の朝日新聞で、リオデジャネイロ支局長が偉そうに記事を寄稿していた。曰く・・

『ブラジルは、多様性を誇り他文化に寛容な国だ。(中略)人種や国籍・宗教に関係なく誰もが公平なルールで競い合うのが、五輪が描く理想の姿だ・・・島国日本と対照的なブラジルが持つ多様性・・・お金をかけない大会運営。東京が学ぶべき面も多いだろう。』

日本が嫌いで仕方ない朝日新聞の支局長らしい御卓見で、読んでいる途中で噴出しそうになってしまったが、リオは今や世界で一番危険に満ちた街である。

五輪開催中にテロ事件が起きないことを祈るのみである。選手村のトイレの水が流れないくらいホンの話の種に過ぎない。五輪が終わって帰国して、数週間を経ても体に異常を感じなければ、それはかなり幸運だったと初めて安心して喜んでいいのかもしれない。




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