小津安二郎の『麦秋』のロケ地のひとつ、長谷の大仏を見てきた。8月16日の当ブログ【『麦秋』聖地めぐり】に貼り付けたいくつかの画像は、昭和26年頃の大仏の画像である。
『麦秋』より
その後大仏は、昭和34年に2年半かけて、免震構造を取り入れるなどの、「昭和の大修理」を経て、さらに昨年3月に18日間かけて、その後の経過を調査するなどの、「健康診断」を受けているそうだ。
本来、木造の大仏殿の中にあったのだが、明応地震(1498年)の被害で木造の大仏殿はながされた。以来、【露座の大仏】と呼ばれるような現在の状況を保っている。
『麦秋』が撮影された当時と坐像の前が少し変っていたが、かつて与謝野晶子に「美男」と呼ばせた通り、大仏のお顔は昔と同じようにハンサムであった。
木造大仏殿の礎石は、今でも当時のまま置かれている。ベンチ代わりに観光客たちが腰を下ろして、休憩していた。
通路は非常に狭いが、大仏の胎内に入ることもできる。入場料は20円だった。内部の階段が狭くて急なため、足元には十分注意する必要がある。
外部(背中にある窓)から入るかすかな光だけで、内部はほとんど真っ暗だった。
境内にいた参拝者たちの、恐らく3割くらいは欧米の観光客であったと思う。残念ながら、烏の群れみたいに騒々しく大声で喋る隣国の観光客も何グループか見かけ、民度の低さを晒していたのは、残念であった。
大仏は、少し猫背の格好で、そんな参拝者たちを無言で見ているようだった。
『麦秋』より
その後大仏は、昭和34年に2年半かけて、免震構造を取り入れるなどの、「昭和の大修理」を経て、さらに昨年3月に18日間かけて、その後の経過を調査するなどの、「健康診断」を受けているそうだ。
本来、木造の大仏殿の中にあったのだが、明応地震(1498年)の被害で木造の大仏殿はながされた。以来、【露座の大仏】と呼ばれるような現在の状況を保っている。
『麦秋』が撮影された当時と坐像の前が少し変っていたが、かつて与謝野晶子に「美男」と呼ばせた通り、大仏のお顔は昔と同じようにハンサムであった。
木造大仏殿の礎石は、今でも当時のまま置かれている。ベンチ代わりに観光客たちが腰を下ろして、休憩していた。
通路は非常に狭いが、大仏の胎内に入ることもできる。入場料は20円だった。内部の階段が狭くて急なため、足元には十分注意する必要がある。
外部(背中にある窓)から入るかすかな光だけで、内部はほとんど真っ暗だった。
境内にいた参拝者たちの、恐らく3割くらいは欧米の観光客であったと思う。残念ながら、烏の群れみたいに騒々しく大声で喋る隣国の観光客も何グループか見かけ、民度の低さを晒していたのは、残念であった。
大仏は、少し猫背の格好で、そんな参拝者たちを無言で見ているようだった。