北朝鮮からの不信な漁船だか、工作船だか得体の分らない木造船が日本海沿岸に漂着しているのは、本来ならもう少し大騒ぎになるべき事件なのだろう。
しかし、この手の事件は日本のマスコミはなるべく報道すまいと、足並みを揃えて無視しようとするのが常だ。
ところが、北海道の無人島・松前小島に上陸した朝鮮人船員がいたとなっては、マスコミも無視するわけにはいかなかったようだ。
工作船?漁船?
しかも、一人や二人ではなく、数日間島に居座ったようだから驚いた。
さらに、島にある漁業者用の小屋の玄関は壊され、島内で使うバイク、小屋にあったテレビや冷蔵庫などの電化製品、ドアノブまでも無くなっていて、残っていたのはドアの蝶番だけだったという。
灯台用の太陽光発電パネルもはずされていたが、重かったのかはずされたまま放置されていたそうだ。
伝染病が怖い!
日本の巡視船が近づくと、船上の北朝鮮人はバイクなど盗んだ物を海に投げ込んだそうだ。
昨日、このニュースを見たとき、反射的に私は「朝鮮通信使」のことを連想して、噴出してしまった。
まさしく、朝鮮人そのものの行動で、何百年経っても、朝鮮人はやはり朝鮮人である。
室町以降、支那や朝鮮の先進的な文化をもたらした文化交流使節団だとか、よく偉そうなことを今の朝鮮人や日本の朝鮮人シンパが吹聴しているが、あれは真っ赤な嘘で、アレは、単なる朝貢目的の窃盗集団でしかなかったというのが事実らしい。
朝鮮人窃盗団
木を曲げるという技術すら朝鮮半島には無くて、彼らは川に大きな水車が廻っているのを目にするたびに、作り方を教えろとうるさかったそうだ。しかも、毎回来るたびに聞いてきたそうで、学ぶことすら出来なかったのは、それなりの理由があった。
当時の朝鮮の支配階級、両班(やんばん)は、奴隷たちから略奪するのみで、ものづくり職人などは軽蔑する対象でしかなかったのだ。
木製車輪が作れないので、物を運ぶ大八車もなく、木を輪切りにして車輪代わりに使っていた。
せっかく、何度も日本に貢物を献上に来て、そのたびに水車の作り方をしつこく聞いて帰ったのに、朝鮮ではその後もずっと水車など現れなかったそうだ。
今、日本のあちこちの自治体では、在日朝鮮人たちの工作活動で、この朝鮮人朝貢集団のことを、あたかも有益な文化交流使節団であったかのようにふれ回って、記念行事化する動きがあるが、歴史捏造の片棒を担ぐのはいかがなものだろか。
九州から江戸までの長旅の途中、彼らは宿に泊まるたびに、食器から調度品、布団に至るまで、ありとあらゆる物を盗むのが常だった。
そして、朝になると、それが当時の彼らの習慣だったのか、宿の前の街道にズラーっと並んで、一斉に用を足したそうで、周りの町人たちは大迷惑だったという。
田舎では、庭先で鶏を飼っていた。彼らはそれが好物なのか、盗み取っては首を絞めて、その生肉をかじるのだった。そういう光景を絵にした資料が今でも存在している。
有名な、鶏を盗んで追われる朝鮮人の絵・・
鶏泥棒
馬上で脇に盗んだ鶏を抱えて、その生肉をかじる朝鮮人・・
鶏を食う
道中では、日本人とのいざこざが多く、当時から彼らは日本に迷惑をかけ続けていることに、まったく変わりが無い。
木造不審船は、北朝鮮の送り込んだ工作員たちとみるのが、まともな見方だろう。日本海沿岸で暮らす人たちは、海だけでなく家の周辺も監視を怠らない方がいい状況になっている。
しかし、この手の事件は日本のマスコミはなるべく報道すまいと、足並みを揃えて無視しようとするのが常だ。
ところが、北海道の無人島・松前小島に上陸した朝鮮人船員がいたとなっては、マスコミも無視するわけにはいかなかったようだ。
工作船?漁船?
しかも、一人や二人ではなく、数日間島に居座ったようだから驚いた。
さらに、島にある漁業者用の小屋の玄関は壊され、島内で使うバイク、小屋にあったテレビや冷蔵庫などの電化製品、ドアノブまでも無くなっていて、残っていたのはドアの蝶番だけだったという。
灯台用の太陽光発電パネルもはずされていたが、重かったのかはずされたまま放置されていたそうだ。
伝染病が怖い!
日本の巡視船が近づくと、船上の北朝鮮人はバイクなど盗んだ物を海に投げ込んだそうだ。
昨日、このニュースを見たとき、反射的に私は「朝鮮通信使」のことを連想して、噴出してしまった。
まさしく、朝鮮人そのものの行動で、何百年経っても、朝鮮人はやはり朝鮮人である。
室町以降、支那や朝鮮の先進的な文化をもたらした文化交流使節団だとか、よく偉そうなことを今の朝鮮人や日本の朝鮮人シンパが吹聴しているが、あれは真っ赤な嘘で、アレは、単なる朝貢目的の窃盗集団でしかなかったというのが事実らしい。
朝鮮人窃盗団
木を曲げるという技術すら朝鮮半島には無くて、彼らは川に大きな水車が廻っているのを目にするたびに、作り方を教えろとうるさかったそうだ。しかも、毎回来るたびに聞いてきたそうで、学ぶことすら出来なかったのは、それなりの理由があった。
当時の朝鮮の支配階級、両班(やんばん)は、奴隷たちから略奪するのみで、ものづくり職人などは軽蔑する対象でしかなかったのだ。
木製車輪が作れないので、物を運ぶ大八車もなく、木を輪切りにして車輪代わりに使っていた。
せっかく、何度も日本に貢物を献上に来て、そのたびに水車の作り方をしつこく聞いて帰ったのに、朝鮮ではその後もずっと水車など現れなかったそうだ。
今、日本のあちこちの自治体では、在日朝鮮人たちの工作活動で、この朝鮮人朝貢集団のことを、あたかも有益な文化交流使節団であったかのようにふれ回って、記念行事化する動きがあるが、歴史捏造の片棒を担ぐのはいかがなものだろか。
九州から江戸までの長旅の途中、彼らは宿に泊まるたびに、食器から調度品、布団に至るまで、ありとあらゆる物を盗むのが常だった。
そして、朝になると、それが当時の彼らの習慣だったのか、宿の前の街道にズラーっと並んで、一斉に用を足したそうで、周りの町人たちは大迷惑だったという。
田舎では、庭先で鶏を飼っていた。彼らはそれが好物なのか、盗み取っては首を絞めて、その生肉をかじるのだった。そういう光景を絵にした資料が今でも存在している。
有名な、鶏を盗んで追われる朝鮮人の絵・・
鶏泥棒
馬上で脇に盗んだ鶏を抱えて、その生肉をかじる朝鮮人・・
鶏を食う
道中では、日本人とのいざこざが多く、当時から彼らは日本に迷惑をかけ続けていることに、まったく変わりが無い。
木造不審船は、北朝鮮の送り込んだ工作員たちとみるのが、まともな見方だろう。日本海沿岸で暮らす人たちは、海だけでなく家の周辺も監視を怠らない方がいい状況になっている。