・<ZERO>から響く声

シンガーソングライター箱崎恭子の歌う思春期日記です。
胃もたれ注意!

世界と私

2012-05-23 | 思うこと

日曜日のその後。


どーーうしても歌が歌いたくなって、でもカラオケやスタジオの狭い部屋に行く気分ではなく
だけどどーーしても、どーーしても歌いたくて
ふと電車からの景色を見て思い立った、そこから近い河原に向かいました。

不安な気持ちの時に安心できるものや、どうしても欲しいものが手に入りそうで手に入れたくてたまらない時に
異様にドキドキする感じ、わかります?

私はいつも、大好きなミュージシャンのライブに行く時や、実際にお会いできた時にいつも感じる異様な緊張と興奮なんですが。
自分のライブの時は、そこまで気持ちを浮かせてしまうとまず駄目なので、冷静な興奮といった感じなんだけど。

ともかくそんな風に、いてもたってもいられない気持ちで向かいました。
こんなに一心に、泣きそうなくらいどうしても、と思うことが、私には他にいくつあるだろう、と思いながら。


で、河原の斜面にさりげなく腰を下ろして
(実際にはその斜面に座るのは容易ではないので、それを知っている人からするとそこにいるのは全然さりげなくないんだけど)
家で歌うよりももっと自由に、2時間ずっと歌い続けていました。

本当は弾く弾かないに関わらず、傍にギターでもあるともっと全然カメレオン的になれたんだけど
でもやっぱり、思ったより全然大丈夫なもんだな、って思ったよ。

こういう変人エピソードを書くにはやはり若干の勇気を必要とするため3日悩んだんだけど(笑)、
今回はそこがポイントなのではなくて
少し離れた場所に、おとうさんとキャッチボールをしている、小学校低学年の超元気な男の子がいてね。

その親子がもう本当におもしろくて素敵で、もう本当に本当に、歌いながら見てるだけで凄く幸せな気持ちになって。


例えば二人でなぜか本気野球をしてるんだけど、めっちゃいいボールを打ち返したかと思ったら
次のボールでは男の子の手からバットがすぽっと抜けて、あり得ないくらい凄い距離バットが飛んでいったり(笑)。

打ったらちゃんと架空ベースに沿って走るんだけど、途中必ずランナーにボールをぶつけるタイミングがお互い来るんだけど
全力で当てにかかって、外したらまたそのボールを全力で取りに行ったり。

少年は楽しすぎるのか途中意味もなく、いきなり側転したり(笑)。
それを何度も何度も、思い付いた瞬間に。

全力で走って全力で遊んで、興奮がマックスに達したら側転して飛び跳ねてそれを全身で表現して。


なんかもうそれ見てたら本当にこっちまで楽しすぎて、自由で、うれしくて、幸せで
河原にいる人は私をどう見てるだろうとか、後ろの土手を走ったり歩くランナーにどう思われるかとか、
そんなこと本当にどうでもよくなるくらいで。

すっごい楽しく歌っていました。
まぁ所詮トランペットや楽器と違って、そんな迷惑になるような音圧は出ないですからね。
そんなに広い場所で一人で、気になるのは純粋に人からどう思われるかだけ。

でも、どうだっていいよねぇ〜そんなこと本当に(笑)。

じゃああの子があの側転を、この側転は人からどう思われるか、なんて思ってやっているはずもなくて。

自意識過剰にどんどん自ら窮屈になる必要ないじゃん、と、自分をかばうもの脱ぎ捨てたら
楽しくて幸せで、もうどうしようもなかったよ。

ああこれでまたイタい奴、ヤバイ奴だと思われてしまうのでしょうか。

くっだらねー(笑)。



私ね、自分自身はわりかし繊細で心配性な方なので、人よりそこそこできることに関しても
やっぱりその都度純粋に心配になるんです。

私にできるんだろうか、とか、できなかったらどうしよう、とか。
でもだいたい大抵のことは満点に近かったり及第点には余裕をもってできたりして、その都度結果に安心するというか。

それと同じで、こういう自分も


『あなたもこうなれば変わるわよ』


って周りの人達が口を揃えて言うように、本当に私も変わっちゃうのかな、いつかはなくなるのかな、
私もこういう状況になれば、皆が仕方ないっていうこの行動をしてしまうのかな、って
言われる度にいつも真面目に考えたりしていて。

で、それを私をよく知る友人達に言うと


「いやいやあなたはそんな風にはならないでしょ(笑)。」


とか


「いやいやあなたはその状況が不当で嫌だと思えば、自分の意思でそこからきっぱり遠ざかりますよ(笑)。」


と、驚くくらい一様に、皆不思議なほどの潔さで、鼻で笑い飛ばすんだけど。

で、実際そういう状況になってしばらくした時にそのことを思い出して、
でも自分がやっぱり変わらず自分のままであることを確認して

「なんだぁ〜(笑)。」

って安心することの繰返しで。

意外と私は私を覚えて私らしい行動をしている、というわけではなくて
やっぱり私の自然な発想や行為が私というものの本質なのかな(笑) って、
少しほっとしながら思ったりしています。

それをいちいち疑って心配しているのも、また私らしいなぁと(笑)。


「これしちゃったらこうなるものだよ。」

って簡単に言ってしまえる人の気持ちはわからないけど、それを自分の意志で、納得してやってるんだったら
そんな言い方になるのかな、ってたまに思うことがあります。

うーーん。

「好きになったらしてあげたくなっちゃうものだよ。」

は、アリだな。 そうではなく。 うーーん。。


なるべくわかりやすい例えで言うと

「彼氏できたら、もう男友達とは友達でいられなくなるものだよ。」

とか。

「大人になったら、河原で歌なんて歌えなくなるものだよ。」

とか(笑)。

「テレビに出るくらいにまで知名度が上がったミュージシャンと、まともに話なんてしてもらえないよ。」

とか?


それって本当にそうなのかな?

だって自分でそうじゃない方を選ぶことだってできるじゃない。
もしくは、そんなのただの、そう言って都合よく諦めたり納得したいだけの勝手な思い込みかもしれない。

実際に最後の例なんて、私は全然そうじゃなかったし。
路上のガードレールに座って2時間お喋りできても、楽しくて夢中で、いつまでだって話せる気がした。
そのくらい、ちゃんと、話の通じる優しくて温かい、同じ人間だった。



誰かの言うように、私がもしそうなったとしたら
それは私が自分でそれを選ばなかったってだけの話じゃないのかな、って私はいつも思っていて。
もしくはそれを実現する為の努力を、単に怠っただけだったり。

で、私はそれを選ばなかったけど、同じ状況のまた別の人は、そうじゃない道を選ぶかもしれないし、
選んだとしても何の不思議もない。

たったそれだけのことをどうしてこんなに一様に、まるで決定事項のような物言いで


「だから仕方ないのよ」


なんて簡単に言ってしまえるんだろう。
そんな人達を、世界を、いつも不思議な気持ちで眺めています。
本当にわからなくて。

嫌ならそこから動けばいいのにな。
自分の決めたこととして納得してそこに居続けるのなら、そんな言い方じゃなく、誇りを持って言えばいい。
もっと愉しそうにしたらいい。


世の中が正しいことばかりではなかったり、人としてあるべき姿や理想ばかりでいられないのは十分わかるし
別に正しさだけが全てじゃないし、無理にそうある意味も必要も私はないと思っているけれど
だけどこういうものは、考えもせずに諦めた時点で、もう手に入れる可能性すら持てないものなんだな、って
大人になった今、よく実感しています。

こういうの、今考えないでいつ考えるんだろう。

今動かないで、いつ動くの?



私は私が守るもの、行うこと、世間の常識や慣習のせいにするんじゃなくて、私らしさだと言いたい。

それが他人のそれと同じでも、違っても、私がそれを選んだのなら、それだけが真実だし、それだけでいい。

そんなに痛くもないことを、いちいち痛がるなんて馬鹿みたい。

自分をもっと知りたいし、好きなものをもっと、もっと愛したいです。


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復活祭

2012-05-18 | 思うこと

ここ3日間、朝は Fast3 を聴いております。

どんなに気持ちが落ち込んだ夜でも、少しの時間でもいいからぐっすり眠って
翌朝にこの音楽聴けば、7割は回復しちゃいます。 ベンリーゼ。

iPodの充電がもう虫の息ですけど!(笑)


特に言いたいわけでもない、説明めいた言葉をたくさん言わなくちゃいけなかったり
他人の性格や人生の悩みを逐一見せられて意見を求められて、それが頭や心をずっと占めている状態って
それがあんまり続いたり、いろんな場所で求められたり、自分のコンディションの悪い時に重なったりすると
物凄くストレスフルで、その窮屈さにじわじわ余裕がなくなります。

自由ばんざーい。


私だっていつもいつも誰かの為に、親身な言葉を言ってあげられるわけじゃない。
そんな、コンビニのATMみたいにさ。

ちゃんと心で思って、ちゃんと頭で考えて、優しさも想像力も知性も総動員して出ている言葉だからこそ
相手が望む熱を持っているけれど、それって物凄く体力がいる。

それを湧水みたいに無限に湧き出るものだと勘違いしてしまう人とは、だから関係は続いていかないものなんだなー。


私、人間関係を築くにおいて一番大切なものって、想像力だと思うんです。

向き合う相手が感じていること、思っていること、私を思うからこそ我慢して言えないこと
それを言われないからってないものとして踏み潰して歩いていたら、関係なんて続かない。

向き合った私から見えている相手の一面なんて、その人のほんのごく一部なんだから
私に関することよりも遥かに多くの考えるべきことや、やるべきことや、思うことがその人の中や向こう側にあって
それだけ想像できれば、限られた私の為の時間や思いをありがたく思って大切にしようと思えるし。

思いっきり大切にした後はなるべく手をかけさせないで、
私以外のものに安心して向き直る、お手伝いをしたいと思えてくるというか。
気持ちよく送り出すって言葉が近いのかな。


そんな風に、いつも自分の都合ばかり呑ませたり使い捨てにしあうんじゃなくて、
お互いにその思いをありがたく受け取って、次は自分がさりげなくお返ししようと思い合えたら
関係ってとてもいい状態でキープできる可能性を持つ気がします。

自分の都合を押し付けることをそっくりそのまま、相手の都合を想像して尊重し合う、にシフトできれば
バトンはきれいに回っていく気がしますが、どうでしょう?

結局はそれを地道に積み上げた先の信頼関係が築き上げられてからがスタートであって
それもないままに、上辺の行為だけ真似ても駄目だってことですね。


自分を思ってくれてる人との関係って、
私を何とも思わない人とのそれより、何倍も慎重に、何倍も繊細に扱わないと
愛情や思いをかけてもらっているぶん、ずっと柔らかくてもろくて壊れやすい。

安心して胡座をかく、なんてもっての外です、私から言わせてもらえれば。
私はもう少し安心した方がいいと言われるけれど、それと甘えて胡座をかくのはまた次元の違う話だし。

壊してからじゃもう遅い、って、わかってるようでやっぱりなかなかわかりきれていないものだなぁと思います。

私も含めてね。
生涯のテーマですね。



さて、自己の存在の過小評価と責任の回避について書きたかったけど、また長くなるのでそれは次回に(笑)。

毎日あっついねー!(笑)


先週から久しぶりにストレスの穴にハマってしまって、地味にちょっと大変だったけど
1週間以上かけて、ようやく元気が出てきました。

たまにハマるとあまりに久しぶりすぎて、抜け方わからなくてびっくりしちゃった!(笑)

もう、無理なものは無理、と割り切って、バッサリ切る!
どうしようもない時くらい、甘えられるものに甘えてみる!
普段なかなか人に甘えないから許してもらえる特権なんだと開き直ってね。
許されるどころか、やっと頼ったか、と喜ばれるこの不思議。


さー今日も楽しみましょー。 ヘイホー

ていうかベンリーゼ、なかなかよいな…。 使お。 (ニヤリ)

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愛を込めて、お返事の回です

2012-05-08 | 思うこと

ドラマ 「リーガル・ハイ」が大っ好きです。

おもしろすぎるー。 どうしよー。 演技してる人達も楽しそうー。 いいなーいいなー。

生まれて初めてのドラマDVD購入を今から真剣に悩んでおりますが、
これって絶対初回に見る時が1番おもしろいんだよね。

できる限り心と身体に吸い込む為に、真っさらな気持ちで毎週テレビに向かうことを、
心底味わって楽しませて頂いております。
大好きなミュージシャンのライブと同じよね。

こんな気持ちは毎回1回きりだー。 どうしよー 幸せすぎるー いつかは終わる事も寂しいー。

じゅわっと味わってこの感覚を大切にします。


さて、「一人の休日」の記事にコメントを頂いた、まちさんにお返事をしていたら
なかなかノッてきて本文級の長さになってしまったので、いっそのことお返事を本文にするなんていう斬新な日ってどう?
いいじゃんいいじゃーん、やっちゃえーい。

ということで、好きな方への若干フランクなお喋りが止まらなくなった感満載の私が垣間見えちゃってますがすみません。
(↑ 古美門先生ばりの早口で)

きっかけはまちさん宛だけど、結局読んで下さってる皆さんへのお手紙みたいになっちゃいました。
長いでーす。 あ、覚悟済みか。

てことでお返事の巻。 ゴー。




そうそう! そうなんですよー。

一見ダサイようなことも、そのやり方や、やる人によっては
逆にそれが味になってめちゃくちゃかっこいいことだってありますよね?

私ね、世間一般で安易に言われる 『ダサイ』 や 『イタい』 の評価って、
その事自体ではなくて、それをやる人自体に大いに依存してると思うんですよ。

だって例えば、世間一般でいう女子ウケしない感じの、
いかにもヲタクで社交的じゃない人(あくまでイメージ的な例えです)が、
休日は家で引きこもってゲームしかしないなんていうのは
きっとその子からしたら『イタい奴』だったりするのかもしれないけど
じゃあ嵐の二宮くんはどうなの? っていうと、たぶんそれは違うんですよね。

だって嵐だもん(笑)。 何やっててもかっこいいっしょ(笑)、みたいな。

こういう発想の矛盾も、意識はされてないけど結構一般的じゃないですか。

今の時代ならあり得ない、ネルシャツをケミカルウォッシュジーンズにインするファッションも
きっと突然それでパリコレを歩かれれば『カッコイイ』になるわけだし。


で、このブログ見てるだけで私のキャラや姿形を知らない人なら


『一人花見なんてイタすぎ。 つーかこいつ全体的に何語っちゃってんの。 イタすぎ(笑)。』


って思う人だって当然いると思うんですけど、そんなのは思う人は思うし、思わない人は思わない、
たったそれだけの話だと思うんですよねー。

私も自分の文章見て、よく自分イタいなーって思うこともありますけど
でも万人から見てイタくない人になりたいなんて私は思わないし、それこそただの 『無』 ですよね。

自分話す為にブログやってんのに、無を望むなら作る意味すらないわけだし。

そこ勝手に恥じて、コソコソ当たり障りのない無を演じるくらいなら、
そんなもの出さない方がましだと私は思っていて。


こないだ紹介した、私が今大好きで読んでる「バター!!!」って漫画のセリフで、凄く好きなセリフがまだ他にもあって。


『 もっとさー 「おれはスゲー」「おれはカッコイー」って開き直れよ 自分に酔うの  見苦しんだよ 照れたりさ
  自分のことスキでもキライでもない半端なやつの踊りってー (シーン続く)』


ていうとこ読んだりすると、

「そう! そう! そう!!」

って本当に興奮したり。 そうなんすよ! って。

「つまんない! そんなやつの踊りなんて1番つまんない!」

って声を大にして言いたくなる。

こういうのね、こういう感覚的な、概念みたいな発想を言葉にして
それをまた登場人物のセリフとして、人間性としてサラッと出してこれちゃう辺りがもうたまんない! って思うんですけど。

感動しきりです。



調整でも何でもなく、単にビビって加減された表現なんて、おもしろくもくそもないわけですよね。

「表現」と「矢面」はイコールなんだから、それ恐がってこそこそするくらいなら、
それこそ自分の心の中だけに止めておけばいいだけの話で。

でも出しちゃった以上は、責任もって開き直るしかないわけですよ。
どんなものでも見せちゃった以上はお目汚しだと私は思っているので。
それ恥ずかしがる、大丈夫って安心させてほしい、って、どんだけ甘えてんだよ、って私だったら自分に言いたくなるし。

それって人付き合いでも同じですよね。

出す言葉も態度も、出した以上は責任が発生するって私は思ってるので。
それが相手にとって気にならないものかどうかは、自分が出す時から既に当てにすべきものではないと思っているし。

その責任を取る気がないからなのかはわからないけど、自分隠して同調し合ってるふりする関係もありだとは思うけど
それって何が楽しいんだろうって私は思ってしまう方です。

できる限り、そういう関係は最低限にしていたいんですよね。
その時間がもったいないし、それに付き合わせてる相手にも敬意も何もないように感じてしまうから。


でもこういうのも、じゃあ人間として思いやりのかけらもなく協調性の無い、反社会的な対応しか取れない人を擁護するのか
と、極端に取られてしまうこともあるのかもしれないけど
でも私からしたら恐がって何もしていないのに、そういうちょっと出力レベルの強い人を指差して


「あいつらはないわー。」


って笑い合ってる自分達は、口だけわかったふりでイタいなー
とかは思ったりはしないんだ、って不思議になるというか。

自分は違う、絶対にイタくないってどうして言い切ることができるんだろう、って思っちゃうんですよね。


「ううん、あなたは大丈夫。 私も大丈夫だよね?! そうだよね?! よかったぁーー。」


みたいな協定を組んでる人の中だけでの独特な価値基準だなって思ってしまうというか。

それってその輪から遠く離れた人達から見ると、十分イタく見えるんだから、じゃあもうイタいイタい言い合う意味ないよ

って思わないのかなー、不思議だなー、って私は思って見ています(笑)。


その子は普通にいい子だし、悪気があって言ってるわけじゃないから
あんまりいたずらにつついちゃいけないなと思って、私の思考を押し付けたりしないようにそっとしてましたけど。

でもおもしろいトピックもらったな、って、対その子を内包する概念の一つ としてはいろいろ考えましたねー。
面白かったな。

でね、


「ああこの普段は私に従順でおとなしいこの子に、つーかハコザキまじイタいわ、って思われてたら萌えるー! きゃーーっっ、アガルーーー!!」


って一人で想像萌えして興奮してました(笑)。
で、本人にそれは伝えたら、ちょっとついてけないって顔して引かれてました(笑)。 あははっ

これって何だろう、あんまり理解してもらえないんだけど私だけのマニアポイントなのかな?
この残念さも意外と好きなんだと思いますが(笑)。



話はちょっと長くなり過ぎてますが、いい機会なのであと少し。

最近ね、 『一緒』 って何だろうってよく思うんですよ。

『性別が一緒』 とか 『この時期に○○したから一緒』 とかで、
『これだけ一緒なんだから話が合うはず』 とか言われることが多いことが、ちょっと意味がわからなくて。

特に性別って、本当にその75%くらいを、考えるまでもなく無条件にクリアしてると思われてる
ということに唖然とするというか。

例えば、考え方や発想や言葉の使い方や好きな物が 「一緒」 な男子よりも
「女子」 ってだけで、絶対こっちの方が話が合う 「はず」 って思い込んでたり、言い切っちゃう人が理解できなくて
日常でよく頭を抱えることがあったりします。

これって何でしょう。 文化なのかな?

絶対的にそうじゃないと言ってるわけじゃなくて、もちろんそういう場合もあるとは思うんですけど
あまりに盲目的に、それを信じて疑わないことが常識、みたいな空気がよくわからなくてー。


思想も、形も、生い立ちも、状況も、全てが完全に一致する人間なんてこの世のどこにも存在しなくて
人が人を構成する上では、想像を遥かに絶する数の特徴や、色調や空気感や、個々を形どる要因があるのに
そのたった目に見えるいくつかの要因が 「一緒」 なだけで

「私と似てる」

とか

「君たちはここが一緒だからきっと気が合うよ」

って容易く信じられている人を見る度に、いいとか悪いとかじゃなく、ただその発想に理解ができなくて、
その度に少しの孤独をそこで私は感じているんですよね。

共通の言語がまたわからない瞬間、というか。
それが別に寂しいとかいうわけでもないんですけど、ただ、事実として。

それって 『一緒』 が安心する世界の人は盲目に信じられている、安心を得る魔法の言葉みたいなもので
私は 『一緒』 が特に安心には繋がらないから、その信じ方がわからないのかな、って最近は思っているんですけど。

そして、孤独を恐がっている人は、きっと 『一緒』 に安心を感じやすいのかな、とも。

そういう人ほど、なぜか反して


「でも自分はちょっと変わってる。 みんなと一緒、『普通』になんてされたくない。」


って言いたがってる気がするんですけど、どうなんですかねー。

じゃあ 『一緒』 から自分で離れたらいいのに(笑)、って、イヤイヤ期のお子さんを見てるような気持ちです。
ちょっとかわいい。


つまりは結局、孤独を恐がっている人は、『変わってる』人にはなり得ないってことですよね。
真の意味で『変わってる』人って、孤独を味わってしまうものだから。

それって将棋を本気でやる気もないのに、棋士のタイトルだけ欲しがるみたいなものですよね。

で、本気でタイトル目指して将棋をやっている人は
タイトル取って凄いと思われようが、将棋を知らない人から凄いかどうかわかんないって思われようが
そんなのおそらくどうだっていいっていうことです。

なぜ今将棋が突然出たかと言いますと、そうですね、「3月のライオン」の新刊が出て読んだばかりだからですね(笑)。

音楽やってる人だって、絵描いてる人だってそう。

自分の表現物にずっと満足しきりで続けてる人なんていない。
むしろやればやるほど足りなくて愕然とするから、次を求めてしまう。
それが外から見て凄いと言われようが言われまいが、そんなのは副産物でしかないんだよね。

見つめてるものは自分しかなくて、その中で出会えるものは、真っ暗な闇でしかないんだもの。
その孤独を一度でも味わったら、人から見て変わってるかどうかなんて、どうでもいいことに思える気がするけどな。



ちょっと長くなり過ぎましたが、とりあえず思ったことを書いてみましたー。
てかもう後半からまちさん宛の返事ではなく、いつもの私の文章に(笑)。

でもこういうのをめんどくさがらずに書かないと、
ブログってすぐ置き去りになっちゃうんだなって気付いたよ(笑)。
おかげで携帯の中は書きかけのゴミでいっぱいです。

Sちゃんズ、待っててくれてありがとー!
ていうかこのセリフ何様ー?(笑) 恐縮ですー! むしろごめんなさいー!(笑)


一人一人が孤独や、「一人であること」を受け入れた上での関係が、私は好きです。

自分の甘えを相手に押し付けるのではなくて、自分の孤独を受け入れた上で誰かと寄り添うから
本当に相手を思いやれる余裕ができるのではないかな、と私は思うな。

ギブ&テイクを脅し合って強制し合うような関係は、もうめんどくさくて無理だなー。

向き合う人にはいつでも敬意を持っていたいから。
それを持てない相手と、嘘をついて向き合ってるふりはしたくないのです。

私なりの精一杯の誠意です。



以上、皆様へ。 愛を込めて。

こんな私ですが、これからもどうぞよろしくお願いします。


ってほんと何様ー?(笑) 復帰コンサートのつもりー?(笑)

おもろいです。 ありがとうございます。

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私の基本

2012-05-07 | 思うこと

余すことなく受け止めたいと思って毎日を生きています。

そんなこと、望めば望むほど 無理なことだとわかりはしても。


今を、未来を、自分を、外の世界を、リスクを、可能性を、他の手段を、その結果の想定を。
物心ついた歳から、考えずに生きてきたことなんてない。

「そんなことまで考えてたら、動けなくなるよ」

と、よく人には言われてしまうけど、それでも私は考えています。


考えて、選ぶ。

それによって手にできそうなもの、それによって失うもの。

ちゃんと顔の正面10cmに置いて、わかって、自分で選びとる。

「見えてなかった」 なんて言い訳は許さない。

選んでいる間にも増えていくリスクなんて想定済み。



『考えすぎたら動けなくなる』 なら、『考え抜いてそれでも動く』 人になればいい。

『考えるばかりで楽しめない』 なら、『考えた後、全てを楽しむ』 人になればいい。

余白を楽しめなくなるとよく人には言われるけれど、
考え抜くことくらいでは、余白を全て塗り潰すことなんてできない。


むしろ、余白を減らした後に残った余白を、私は余さず楽しみたいのです。

考え抜くことでその範囲を可能な限り絞りきり、全力をかけるべきところで身体全部を使って味わう。

だって。

誰かを好きになって、その人に好きになってもらいたいと心から思うとき、
その人のことを考えずにはいられない。

それと同じように、毎日身の回りにあるものや、日々の時間や限られた人生に
誠実であればあるほど、考えずにはいられないはず。

ただ、大切に思っているだけ。


想定外のことにがっかりして、誰かのせいにしたくない。
愚痴ばかり言って済ませたりもしたくない。

そんな甘え方を、私は人生で1番したくないだけ。


この方が、より自分で選んだことばかりで、誰のせいにもしなくてすむ。

だって、誰のものでもない、私自身の人生なんだから。

自分で決める、自分で選ぶ。

その結果得る痛みや哀しみならば、むしろうれしいとまで、思うことができるのです。


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新年と命

2012-01-01 | 思うこと



あけましておめでとうございます。

昨年もこのぐだぐだブログをご愛読頂き、本当にありがとうございました。
相変わらずぐだぐだっぷりはそのままですが、今年もよろしくお願いいたします。


さて、今年も年の瀬は愛知県にて。
そして今もう帰京中のこの夜逃げっぷり。 はやっ!

ええ大丈夫です、もうタイヤでこの距離を乗り越えようなんて馬鹿な真似はしばらくしませんので
一人しっぽりスイスイらくらく新幹線イェーイ!!

ふっふっふっ、静岡くん、キミなんて

「そうだ文庫本持って来たんだった、ごそごそごそ。。 あ、やばい富士山もう過ぎた?!」

なんつってる間に瞬殺で通過っすよ。
ヒーッヒッヒ!

もーーみじおろし!!(←必殺技的な使い方)

あまりにあっという間すぎて、降りる時に完全に慌てふためいている、というオプション付きですわ。

こ ー ま ー る ー


いつの間に愛知がこんなに身近な存在になってしまったのか、我ながら謎です。

が。

とりあえず、愛知では毎回

「あぁそうか、これも赤味噌だもんね! 赤味噌だから恭子ちゃんは駄目だね!」

と言われ続けていますが、そもそも赤味噌どころか白味噌でも何でもとにかく味噌自体が苦手、ということを
毎回ちゃんと説明したいのに、未だ理解されてるのかどうだかわからないこのもどかしさ。

無駄に手をぶんぶん振り回したくなっちゃうこの感じ、ですよね〜。

「あぁ、うん、そう、いや、あの、うん、うん! 別にいいんだけどね?!」

みたいなね。

あ、心の声だしね。


そして滞在中には友人のもうじき1歳ベイビーと戯れ、もう3歳ボーイを少しだけお預かりし、楽しかわゆい一時も過ごせました。

もうじき1歳ベイビーが、巧みな攻撃と驚くべき執着心により
大人用のポテトフライをついにすっぽり口に入れた瞬間、慌てふためく大人達。

ていうか私。

「あわわわわ」

って、漫画みたいにほんとに言っちゃうものね。
子どもって本当に無限大。 おーこわ


なんて言ってる間にあっという間に過ぎて行った年の瀬でした。
あ、まだまだ年始は続くのか。

今年は身内事ですが個人的に少し静かな気分で年越しを迎えていて、命についてゆっくり考え事をしています。

例えば命が今まさに消えゆこうとしている時、

「頑張れ!って言ってきたよ」

とか

「きっとまだまだ頑張ってくれるよ!」

とかいう言葉が、ごくごく自然に、当たり前のように飛び交うのだけど
私はその命に 「頑張ってほしい!」 とは思っていない場合の、この温度差って不思議だな、とか。

誤解をされたくないのであまり事細かに書く気はないけれど、命って、本人も周りも望みを諦めてはいけない状況と
それを望むことはただ単に、健康に生き残っている私達のエゴなんじゃないか、と思える状況がある気がするというか。

年齢的に何度も危機に陥って、その度に何度も苦しい場面を経て来た命があったとして
私は何か起こったときのその命に対して、かける言葉が

「よく頑張ってるよねぇ。。 苦しいねぇ。。」

しか浮かばないのだけど、その周りでは圧倒的に

「頑張って! まだまだ長生きしてよ!」

「きっと今回も今までみたいに頑張ってくれるよ! 大丈夫だよ!」

というニュアンスの言葉しか飛び交わなくて、これ以上無理に頑張ってほしいとは思わない私からすると
その「大丈夫」は驚くくらい、私にはほとんど馴染んでこない言葉なんだなぁ、と考えたりする。

無謀な生還を願うよりも、とにかく苦痛のない今を祈りたい私との、この温度差と疎外感。
確かに思う側の気の持ちようとして後々楽なのは、1秒たりとも死なんて疑わないことなのかもしれないけれど。

社交辞令的な言葉っていうこともあるんだろうとも、或いは思ってみたり。
何だろう、私がその命に対して社交辞令を口にしたい距離感ではないからなのかもしれないけど。

私を励ましたり、気遣ってくれる思いも中にはあるのはよくよくわかるし、それに対しては心底ありがたく思うんだけどね。

あぁだから私は、大切な時ほど人に状況を言わないのかも。
きっと、そこで言わせてしまうどんな言葉にも、私自身がフィットしない気がしちゃうんだろうな。
それが申し訳なくて。


こんなにしんどい人が、今まだこれ以上頑張らないといけない理由って何だろうって
思ってしまう自分がおかしいんだろうか、と、たまに思ったりもする。

だけどそんなに頑張った命が、これまでのように奇跡的にまたここに戻って来れたとしても
また来年かそう遠くない未来に、同じ道を辿ることが容易にわかっているのに
そして、本当にそれを防ごうと行動を起こす人は、私から見る限り誰一人いないのに。

可能性のある日常にこそ無関心で、その状況をどこか仕方ないと思っている人達の方が
こういう時、驚くくらい簡単に 「頑張れ」 って口にする。

頑張って、頑張って、だけど毎日静かに少しずつ、ここに辿り着こうとしていたのに?

わかっていて、未来を生きようとする私達は、それを少しずつ、見ないようにしていただけなのに?
自分たちが平穏に、生きていく為に。
そうして毎日少しずつ、小さな誤差を取りこぼしていっているのに。

そういう罪悪感を私は毎日少しずつ自分に刻んでいて、たまに夜道を泣いて歩いたりしながら、わかりたくないほどわかっているから
できる時にできる限りのことをしながらも、だけど頑張れば頑張るほど、その存在を愛しく思えば思うほど
罪悪や悲しみはその速度を増して行くばかりで。

それをある角度では、覚悟と呼ぶのかもしれないけれど。
そう言うのなら、私はあらゆる命に日々覚悟を決めている。
絶対なんて有り得ない。

毎日毎日わかっているから、こういう時に急に神様に祈ったり、命に対して願ったりしないのかもしれない、と
静かに結論付けてみたりする。

消えていく命に吐く罪悪は、私の為で、その人の為じゃない。

だったら私は私の罪を、日々静かに受け止める外ない。
それに対する慰めの言葉は、私には特に必要なものじゃない。


「取り返しのつかないものを取りこぼしたという経験の大きさは、人それぞれ違うんですよ。 だから日々の小さなものものにかける気持ちも、それぞれで全く違う。」


こんな時、この言葉がぐるぐると胸の中を駆けて行く。

不思議な事だと思うのだけれど、私の命に深く刻まれたたったひとつの大きな罪悪は
あらゆる罪から私を守ってくれているみたいだ。
まるで、大きすぎる痛みが、それに比べれば小さな傷の存在を忘れさせてくれるみたいに。

そんな泣いてしまえる罪悪感なんて、どれだけ打ちのめされたとしても
頭で理解できている時点で受け入れられることはわかるから。
だったら黙って受け入れる。
泣きながらでも、堪えながらでも、自分でちゃんと受け止める。

結局は、理解できない物事ほど恐いものはないのだ。
自分の存在や命を越えて、圧倒的に積み上げられた事実ほど。
泣くことすら叶わない痛みほど。


静かに、静かに、向き合っている年の境目。

失うことへの私自身の悲しみより先に、今はその命の存在と、私と積み上げてきてくれた時間に
ただ静かに、感謝していたい。


両親よりも遥かに永い年月、小さな私を守り、傍にいてくれた、大切な大切な命。
どうか、どうか優しい波に揺られていますように。


やっと、あの人に会えるんだね。 私はそれが少し羨ましい。
だから大丈夫、きっと恐くない。




聞こえる?








…聞こえる?






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カオスと至福

2011-12-05 | 思うこと



おっと日付が開いてしまいました。


だいたい1日深く思い悩んでも、次の日には解決策に向けてケロッとしている私。

今回も翌日には黙々と別のことに考えを巡らせていたのですが、なぜか心配してくれた友人達からたくさんメールがきました。
かかかかか書き方が悪かったのかな?!

特に誰と言い争っているわけでもないので大丈夫なんですよ、とお伝えする文章書くのもまた言い訳めいててめんどくさくて
ついつい筆が止まりましたが、サラっと書いて次行きましょう。


だけどやっぱりいつも、ここに抽象的なトピックで物を書くことは難しいなぁと思ったりしています。

ここではかなり私の内面にある意志の強い部分が中心になっているので、実体の私に触れずにここだけ知っている方々には
やっぱり与える印象が違うんだろうねぇ、とは友人談。

日常の私はどちらかというと、人との衝突を好まない方です。
家族以外と感情的に話をするなんてことは、ほぼないくらいに。

初対面や関係の浅い方には、よく

「おっとり系だよね。 怒ることなんかあるの?」

と言われていて

「だからやっぱり言われちゃうのかなぁ」

と私をよく知る友人は呟いてました。

「何でも苦労なく飄々と手に入れてるみたいに見える人には、とにかく全てが気に入らないのかも。 あなたまた、そういう土俵に全然上がらないからねぇ。」

なんて、どれだけ私を褒めてくれる気ですか(笑)、ってくらいの身内びいきな言葉。
ありがたいね。

感情的に返したりしない分、私にはとても大事にそれを受け取って噛み砕くところがあるので
やっぱり否定の言葉や言葉の裏に隠された感情みたいなものも、肯定的な言葉と同じように一度は受け取ってしまうよね。

だけどやっぱり否定しあうだけがお互いを認め合うことだとは、私は思いたくないし
自分とはまるで違う意志も生き方も、否定や訂正ではなく、それはそれとしてある意味尊重できないか
と、常々考えたりしています。
自分もいろいろ気をつけないとな、と。

ここでは私が何を考えているかを書きたいので、敢えて否定してるようにも取れる書き方をしているけど。

本当は、どっちだっていいのよ。
自分さえ、自分の生きたいと思う生き方がわかっていれば。

と、このくらいで言い訳タイムは許して頂くとして(笑)。



以上のことをふまえ、先週は


「気持ちを整えたい」

 ↓

「それには暮らしを整える」

 ↓

「…為に、リズムを整える」

 ↓

「…為に、環境を整える」

 ↓

「…為に、大規模掃除とついでに模様替え!!」


と、模様替えと収納に関して血眼になるほど心血注いでいました。
なんて平和で幸せな悩み!(笑)

ちょうど本屋で手に取った、ドイツ式のシンプルに暮らしを整える的な本の効果も相俟って
昨日は1日中片付けまくって磨きまくったので、今、家の中がかなり満足のいく仕上がりです。


そうしてそこからの早起き!

やばい  やばい  やばい  やばい  ヤバイ  やばーい

きっ、気持ちいい!!  よすぎ!!  軽く死んでもいいくらい!  だけどまだ死にたくない!

と、今朝の早朝のキッチンで危うく鼻血が出そうになりました。


はーーーー、幸せ。。。

買い足したい家具の金額計算するとガクガク震えて魂消えそうになるけど、とりあえずとても幸せ。

幸せ 幸せ 幸せ 幸せ 幸せ 幸せ  幸せすぎる!!


今朝、6:54に薄明るかったリビングが一気に朝の光で満たされた瞬間
言葉にできないくらいの感動を覚えました。

例えば海外の凄い景色を見に行かなくても、私はこの場所でこんなにも感動しているんだけどなぁ とふと思いながら。

だからきっと私は、ガンジス川を見て人生観を変えたいとは思わないのかもしれないな。
わざわざ遠くに行かなくても、信じられないくらいの絶望も幸福も、こんなにすぐ傍にあるのに。

あの頃。

死んでいく人間を一人きりで背負っていた私は、
私からすると考えられないくらいの幸福な生活を、さも当然のように歎いている人々に囲まれ混乱し
死人の重みに沈んでいく私を、大人は誰も助けてくれなかった。

そんなカオスなら、この心に十分に焼き付けてきたからなのかなぁ、とも。

見たことのない景色は、確かに私も見に行ってみたいけどね。

外からの刺激を受け取るだけの安全な場所を、人はたまには壊してみたいと思うのだろうか。
それは、本当に安全でなくなることはないという自信と余裕から?



カオスの中で自己崩壊していく時の静か過ぎる恐怖と虚無は、しかしこの朝のこの上ない感動に、私を連れて来てくれた。



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みっともなく泣いてしまう

2011-11-28 | 思うこと



以前ここに載せようと書いていた、 「泣かない夜明け」 の歌詞を見つけたので上げました。

もう6、7年前に書いた曲だけど、この季節になると気付くとよく歌っている歌。



書きたいことあったんだけど、書く前に寝る時間が来てしまいました。

私は基本的には思っていることの1割も伝えられないと思っている人間で、
だけど人は誰一人として、全く同じ物を見て生きてきたわけではなく
また、例え同じ物を見てこれたとしても、同じ物を感じられているわけじゃない。

だからこそ人と人との結びつきには無限の可能性があるのだと思うけど、
時として言葉はとても厄介で、とてももどかしく、私はいつもどこかでそれを諦めざるを得ない。


だけど、きっと思いは伝わるのよね。

どんな言葉でも、どんな正反対の発想でも、もしその根底に愛だけがあれば
きっとそれを届ける為に言葉は生まれたんだと、思うことができるのかもしれない。



言葉を発することによって誤解をされてしまうことを恐れるあまり
私はいつも口をつぐんでしまいがちだけど。

「そんな大切なこと、どうして話してくれなかったの。」

と、結果としていつも誰かに涙顔で言われてしまうけれど
だって、もう大切すぎて悲しすぎて愛しすぎて、どうしていいかわからないことだってあるでしょう?

未だに、どうしていいかわからなくて立ち尽くして、この身体の温度も意味も
全てがよくわからないことってあるでしょう?


感じることが多すぎて、どうしていいかわからない程の感情が次から次に押し寄せてきて
このままじゃどうにもできないまま溺れてしまうから、私は考えることで その波の端を何とか掴もうとする。

そうしなければ、もう生きられない。
それを性格と呼ぶのだと思う。


「出会った時から、ハコは、物事を驚く程とても深く考え抜いている人でした。 私はそんな、考えすぎるほど考えるハコが大好きです。」


赤い靴の彼女が、前に宣言してくれた言葉がふいによぎった。

こんな風に、言葉は時に私を暖かく包んでくれる。

どうしていいかわからない私を、更にどうしていいかわからなくさせてしまうくらい
圧倒的に、強く、抱きしめてくれる。

優しくされることに戸惑ってしまうのは、今も昔も変わらぬままで
誰かが私に優しければ優しいほど、私はそれが勿体なくて、申し訳なくて、幸福すぎて泣いてしまう。



私の言葉も、いつかこんな風に大切な誰かを包めるといいな。

私も、言葉にできずにみっともなく泣いてしまうくらい、みんな、大好きだよ。


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歩くとき

2011-11-10 | 思うこと



悲しいこと、思い出して、何食わぬ顔で涙を垂れ流しながら歩くとき

だけどどこかでしんみりと、あぁ、こんな私は幸せだなぁ と思っている。


だけど

「悲しいと思えることがあってうれしい」

なんて言ってる私はきっと

「テストを見るとうきうきする」

と言っていた元東大生みたいに、理解できないものとして見られたりするのかな、と思うと少しおもしろい。


本当のことなのに。

東大生ではなく私の言葉。

すとんと、すんなり、私にはその意味がわかる。




不都合を全て排除して、手にしてうれしいものや、都合のいいものだけに囲まれて生きるだなんてぞっとする。

傷のひとつもなく、傷に触れる無邪気な風の存在すら知らずに生きるということなんて。


思い出すだけで泣いてしまうほどの、幸福を知ってしまったということだろう。

痛みの存在はいつも、どうやっても受け止めきれない幸福の記憶を、その圧倒的な存在を、必ず私に思い出させる。



どうしよう。

大切すぎた存在を失ってしまったことが悲しすぎればすぎるほど、私は幸福すぎる自分の今が恐くなる。

それはこの幸福を失うことが恐いわけではないからこそ そのぶん余計に、恐いと思う感覚はリアリティーを増す。


ただ、幸福それ自体が恐いことなのだ。

身を固くして泣いてしまうほど恐い。

こわい、こわい、恐い、こわい。。



一度愛してしまったことは、恐怖なくしてはその現在を維持できない。

ただ黙ってやり過ごす。 音楽だけはこういう時、いつも私の味方だ。


もうこれ以上、私の大切にならなくていいのに。

もうこれ以上、愛しいものなんかできなくていい。 何も手にしたくない。



失うということは、永遠にその幸福を反芻することができるという絶望だ。


だから私は大切なものを手にする度に、その幸福という名の絶望から

繰り返し、永遠に、逃れることはできないのだ。



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幸福への長い手紙

2011-10-31 | 思うこと



明日から11月。 早いものですね〜。

昨日は珍しく頭をフル回転で使った1日だったので、とっても疲れた週末となりました。
そのおかげで今日も朝から1日ぐったり。


いやぁ、やりたいことってありすぎて難しいです。

それに向けて努力しないといけない時はそのプレッシャーや存在感で、そこにその予定があるだけで毎日とっても苦しいのに
それが通り過ぎて頑張らなくてもよくなると、なぜだかまた無性に触れたくなる。

その成果物や副産物ではなく、努力なくしては到底手にできないものを追いかけたり焦がれたりすることそれ自体に
私は何らかの中毒性でもって味をしめているのかもしれないな。

やりたいこと、全て並べてったら人生ひとつじゃとても時間が足りない。
簡単にできることじゃ意味がないから、届かないことを確認しては打ち砕かれて苦しいばっかりで。

だけどこんなに楽しいのはどうしてだろう。

目に見える何かが返ってこなくても、全力で走れる自分がここに在るだけで
自分の全てを駆使して挑みたい目標が見えているだけで、こんなにも幸福を感じるのはなぜだろう。



今日、昼間一緒にいる若い男の子が、週末に参列した美人な同僚の結婚式が盛大で素晴らしすぎたらしく
1日中うわごとのように

「いいなぁ。。 羨ましいなぁ。。」

と言い続けていました。

その気持ち、私はその素敵な場にはいなかったからわからないのかもしれないんだけど、だけど私にはあまりに遠い言葉だったので
夕方には彼のその言葉でキャパオーバーになってしまって、船酔いのようにすっかり気持ち悪くなってしまいました。
あ、あと昨日頭を使いすぎたせいだろうな。。

最初の方は受容して相槌を打って、同じように同意して返してた私も、夕方には言葉尽きて

「でもきっとあなたの式に参列した人はあなたの人柄が表れた式や、あなたが仲間とやりたいって言ってる音楽余興をいいなぁって絶対思いますよ。 お友達いっぱいいるから、同じように盛大にできるじゃないですかー。」

とか

「ハネムーンが羨ましいって、行きたいなら海外だってあなたは全然行けるじゃないですか(笑)」

とか、余計なお世話な反論ばかりしてしまいました。

違うよね、わかってる、こういう正論めいたものが欲しくて言ってるわけじゃないよね。
そんなの、羨ましいと思う気持ちは彼の自由で、それを制限する権利は誰にもないのにね、わかってる、ごめんよ、
と、帰り道にぐったりしながらちょっと反省。

あまりに異物な言葉がどうしても身体に馴染まなくて、苦しくなってしまった私の都合で出た言葉でした。


そしたら仲のいい友人がその状況を見ていて

「こないだ文献で読んだんだけど、幸福の感じ方には2種類あって、ボトムアップとトップダウンだったっけな? …ていうんだって。 で、確かボトムアップは感じる幸福が現状に常に追加されていく感じ方で、トップダウンは現状より上に幸せの理想があって、だからまだ 『あれが足りない、これも足りない』 っていつも思っちゃう感じ方なんだって。 で、日本人はほとんどトップダウンの人ばっかりなんだって。 だけどハコちゃんは明らかに前者だから、周りに馴染めないのはある意味当たり前だよね。」

と、そっと冷静に分析してくれました。

それが本当であるかどうかは別として、そう言って寄り添ってくれる言葉がありがたかったな。
理解してくれる人がいるだけで、本当に楽になる。


私にも羨ましいって感情はごくたまにだけどもちろんあるし、自分以外のものを 「いいなぁ」 って思う感覚も当然あるんだけど
だけど結局それって自分の問題で完結していることというか。

何かを羨めることって、私は本当はとても贅沢なことだと思っているから。
だってそれは結局根底まで潜っていけば、自分にだってそれを手にできる権利があるってどこかで思ってるから発生する感情で。

逆にそうじゃないと精神は崩壊してしまう。
あまりに違う二つの境遇を、もしも一緒に並べて考えてしまったら。

例えばアフリカやどこかの常に生死をかけた環境の中育ってる子どもからしたら、
私達のこの生活なんて羨ましい以外の何物でもないのかもしれない。

だけど彼等にはきっと私達を羨んでいる余裕すらなくて、想定の範囲外というか、
私達のこの生活なんて発想にも上らないんじゃないかと思うというか。
その発想すら、余裕のある贅沢な行為に思えてしまう気がする。 もしも私がそこにいたとしたら。

これはちょっと極端すぎるけど。

羨ましいと思うことが決していいとか悪いとか言っているわけじゃなくて、ただ素直に私の中で馴染まない言葉だったから
それを浴びすぎた今、ちょっとプスプス不完全燃焼してしまっているだけなのですが。



他人って、そんなにいい物を持ってるように見えるものなのだろうか。

自分って、そんなにいい物を持たされてない気がするもの…?

だけど私は神様に

「最初から持たせてもらおうだなんて甘えんな。 欲しけりゃ自分で獲得しろ。」

と教えてもらって生きてきた気がしているので、まぁ地味に自分の誕生日を知っていることや
おいしいものを食べて勉強できる環境にいさせてもらった幼少期を、本当にありがたいと思っているのだけど。

だけどこれは過剰すぎるともよく言われていて

「人生において限りなく貧乏性」

と、確かに呼ばれていますね、ええ。


でもね、幸せなんて結局は自分の尺度で、最後には誰にも干渉され得ないものだと思うから。
私は例えば他人からの賞賛をいくらかき集めても、自分の幸福には交わり得ない。 絶対に。
ありがたいなぁと、胸をふんわり包んでくれるものではあるかもしれないけれど。

だって私の人生の幸福が、私以外の外部の尺度で計れるわけがないもの。
大切な人生を、幸運にも与えてもらったこの存在の価値判断を、自分以外のものに委ねるなんて勿体ない。
実体のない、空虚な幻影に。


人や何かを羨むことが、そういう感情の共有やそれについての会話が
繋がりを感じるツールになっている気がするのは私だけなのかな。

それに同調できなければその集団の仲間にはなれないような、この不思議な感覚の正体は何だろう。

何かを認めたり褒めたりする手段に、私は羨望という方法をあまり使わないし、使えない。
素敵だなって思うことは素敵だなって言うし、でもだからといって私も同じものが欲しいとは思わない。


折り合えない大きな流れの中で、たまに私はとても大きな孤独を感じるけれど
そんな孤独ともどこか一方で親しく微笑み合っているような自分を見ては、やっぱり楽しくて笑ってしまう。

やりたいことがあるなら、それを持つ誰かを羨んでいるより、自分でそれを取りに走った方が絶対に速い。

望んだものが手に入るか入らないかは知らないけれど、ただじっと見ているだけでそれが獲得できるほど人生は甘くないし
例えば容易に手にできたそれに、騙されるほど人は馬鹿じゃない。

と、私は思っています。 ピロリン



長年愛用した体重計が壊れてしまったので、今日新しい体重計が届きました。

ちょうど1ヶ月で今月の目標体重は達成してました。
骨格筋率は「やや多い」、体年齢は26歳!

私らしく生きるために、今はあらゆる努力をしていたいし、それができる自分に感謝をしています。

私、人から羨まれるようなものは何も持ってないけれど、とても大好きな友人や、心から愛している家族がいる。

そしてこの身体が今日もきちんとここにあって、喜びやせつなさを感じる心で生きていられること、本当に幸せに思っているのです。

これから先に出会う予定の、絶対的に大きな幸福に手を伸ばそうとしていることに耐えられず
昨夜湯舟でひとりこっそりと泣いたこと、きっとこの流れの中じゃ、誰かに話してもわかってもらえないのかもしれない。


朝目が覚めたらカーテンが優しく光っていること。

例えばそれだけで、私の人生はまたひとつ 幸福なものへと足を進めていく。





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映画館と生きること

2011-10-11 | 思うこと



もやしが食べたい。

今からキッチンでひと料理しやんす。
しかし冷蔵庫にもやしはないっ! (平泉成さんの声で)


昨日はお休みではなかったので、帰り道に極小ですが冒険をしてみました。

映画のチケットを取り、知らない道をずんずん歩いて行きたかったお店でご飯を食べ、またずんずん歩いて戻り、映画を見て帰りました。

「ツレがうつになりまして。」
公開直後だったので1番大きなスクリーンの1番後ろの真ん中の席で、一人ソファに座ったようなくつろぎの時間。

私は原作を知っているからストーリーに関してはふむふむといった感じで、やっぱり見るところは俳優陣。
堺さんが役作りからか本当に痩せてて、ちょっと心配してしまうくらいでした。 なのに腹筋はガッツリ割れてるとこが凄いけど。
ちゃんと病気っぽく見えちゃうから、本当に役者さんって凄いな。
そしてお二人の夫婦役はやっぱりなんだかほんわかしてて、とてもいいですね。

基本私は映画は一人で見ることの方が圧倒的に多いので(一人でしっぽり見る系の映画しか見ないからかもしれないけど)
だから昨日の冒険は、とても自然な一人時間だった気がします。



そして心が行き詰まる時は、とにかくひたすら歩くに限る。
泣きながらでも笑いながらでも何だっていいから、一区切りの整理ができるまで とにかく私は歩きます。 一人で。

それは見方によっては寂しいことなのかもしれないけれど、じゃあ寂しくない人生って何、って私は思うから。
それはただその深みを知らないだけなんじゃないかって。

孤独を知ることは自分を知るということで、自分を知らないままに歩く人生なんてつまらない。

死ぬ時は例え誰と一緒に死んでも、誰に見守られながらでも、必ず一人きりで人は死ぬ。
誰も連れてはいけないし、何も持っては行けず、その身ひとつでありとあらゆるものに別れを告げる。

その時にそれが寂しいだなんて格好わるいこと、私は絶対に思いたくないのです。

置いていってしまう人への謝罪の気持ちと、その幸福な未来への限りない願いと、溢れる感謝と、

「あ〜でも楽しかった」

っていう気持ちだけ持って私は死にたい。
例えどんなに恐くても。


死ぬことは恐いことだと、私は1番大切な人から教えてもらいました。

あぁ、死ぬ直前に人はその未知なる世界にこんなにも純粋に恐怖を感じるのか、と
それは言葉だけではなく、この身をもって体験することによって私が知ったこと。

だから私は自らがその命を全うする時には、できればその恐怖すら愉しんで死にたい。 味わって、貴重な経験として堪能して。

そこからすれば今現在の一時の寂しさなんて、なんだかとても小さすぎる感傷のような気がしてしまう。
それを無心に排除したところで、この人生というテーマからすれば あまりに小さな行動すぎて。


身体全部で愉しむこと。 心全部で味わうこと。
痛みはそうして、たったひとつの自分になる。

そんな自分で笑っていたいなぁ。
あまりに知り過ぎてしまったこと、無くしてってお願いしてもリセットボタンはどこにもないのなら。

消えない苦しみに胸を潰されて、夜道を一人きりで泣きながら歩く夜を何百回繰り返したとしても
その度に私は自分を確認できて、それでも笑う自分を好きになれる。

それはとても幸福な人生だと思える。

私を覆う全ての哀しみが今の私を作っている。
どこにもいない、ただひとつの私を存在させる。



幸せってきっとこういうことだ。

さぁ、ご飯を作って食べようか。




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