無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

唐津焼 五代目中野陶痴氏講演会

2016-10-17 10:05:04 | 音楽・芸術・文学

萬谷さんの2階で、唐津焼五代目中野陶痴氏の作品展と講演会が開催された。それに先だって、添え釜(茶会)も行われた。まったく学習能力の無い私は、またしても懐紙無しで向かい、隣の方に分けて貰う事になる。(懐紙は無地のが良いな。私の唯一持っているのは、月にススキが描いてあって、秋しか使えない。春に持っていった時には恥ずかしい思いをしたことがあった。)

さて、唐津焼の話である。唐津焼は佐賀県唐津市周辺の焼き物で、古くは400年ほど前の室町時代末から桃山時代にかけて、岸岳城主波多氏の庇護の元に雑陶を中心に焼かれていた。そこに文禄慶長の役で多数の朝鮮陶工達が日本に連れてこられた。有田の祖と言われる李三平も、その中の一人で、最初は唐津を焼いていた。つまり、最初の唐津は焼き物全般を指していたようだ。一緒に連れてこられた学者達は朝鮮に帰ったが、陶工達は身分も保障され扱いがまるで朝鮮とは違っていたので戻るのが嫌で逃げ隠れし、ついには日本にそのまま残る道を選んだ。朝鮮では物を造る職人は最下層の身分なのである。

朝鮮陶工達が来る前の日本では、ロクロは手で回す手ロクロであり、窯は地下に潜った穴窯や半分地上に出た半地下窯だった。これは多量の薪を喰い効率が悪かった。朝鮮から伝えられたロクロは蹴りロクロで、窯は登り窯だった。登り窯は熱効率も良く、大きな作品も作ることが出来た。この技術は優れていたが、作品そのものは煌びやかな物ではない。豊臣秀吉の金ピカ大好きと違い、千利休は素朴さを良しとした。朝鮮の焼き物の普通さを良しとしたのである。

唐津の辺りは良い土が取れたのだろう。李三平は白い土を発見し、有田焼に枝分かれする。

唐津の土は「砂目」だと言われている。砂が混じっている訳では無く、質が荒い事を意味する。また非常に粘着性の高い細かい砂目の物もあり、鉄分を多く含んでいる土は、黒褐色に焼き上がる。ともかく沢山の種類の土が、この唐津辺りで搬出されるようだ。

この花瓶は、粉引き唐津と呼ばれる物で、褐色の土を使い、素地が生乾きの時に化粧土を全面にかけて乾燥させた後、長石釉薬や木灰釉薬を掛けて焼き上げる。(水引草とホトトギスで、こんなバランスの取れた生け花になるのかと驚く、花瓶のお値段はゼロが2個取れたら買えるかもと驚く。)

唐津焼は種類が多く、絵唐津、朝鮮唐津、斑唐津、三島唐津、黄唐津、青唐津、黒唐津、刷毛目唐津、櫛目唐津、彫唐津、蛇蝎(じゃかつ)唐津、瀬戸唐津、二彩唐津、献上唐津、奥高麗などなど幅が広い。

唐津は幾分低い温度で焼き上げる。その種類に応じて、焼く温度が違う。登り窯の中でも、置く位置で温度が違う。それを利用して作品を並べ、薪を入れるのだが、温度加減が難しい。絵唐津も1200℃から1300℃だが、温度が変化せぬように絶やさず薪をくべ、冷やすのにも時間を要する。斑唐津の白い釉薬はケイ酸分を含んでおり、朝鮮唐津は高い温度を好むが、とても歩留まりが悪く、良い物を完成させるのに難しい。出来の悪い物はバンバンと割るそうだ。

絵唐津。絵唐津の絵は、自然の草・花・鳥などを描いていると思うのだが、一見何だか分からない絵が特徴なのだそうだ。中野さんは面白い。さてさて、生け花が見事である。

古くから茶碗を「一井戸、二楽、三唐津」と呼ばれて来たが、唐津が3位なのでなく、語呂の良さで親しまれていたらしい。唐津焼は大名の加護の元で作られてきたが、徳川時代末期から明治にかけて、中野焼きは中絶に直面したらしい。しかし、唯一御茶碗窯として生き残った。

魯山人の絵だ!お値段はいかほどか!

ちなみに、唐津駅前の獅子の祭りの山車(実物の70%の大きさ)は、中野窯の作品だそうだ。個別に部分を作り、焼くのに20日間も掛けた。冷ますのに1週間を要した大物である。

 

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