山形駅西口の山形テルサで建築士会主催の「浸水被害住宅の技術対策講習会」が開催された。
講師は秋田県建築士会会員で、秋田市上下水道部に勤務されている佐々木氏である。
秋田県は再三に渡って水害にやられている。昨年は秋田市が水に浸かった。
参考にと、講習の合間に回ってきた岡山県のマニュアル。
岡山では総社市の市長さんの災害対策を思い出す。
画期的な取り組みをされていた。
その取り組みの際に、登山家の野口健氏との繋がりを知り、認定NPO法人ピーク・エイドの活動に賛同する。
野口氏は能登半島地震の際にも、沢山の寝袋を被災地へ届けていた。
欲しい物は探す、その手助けになれば良いなと思う。
蕎麦屋のラーメン
よってけポポラと沢渡豆腐店の中間に、美味しいと評判の「はくよう」がある。
冷たい肉蕎麦、温かい肉蕎麦も良いなと思いつつ、ラーメンにする。
美味しいながらも、何時まで経っても、熱いスープのままだった。
吾輩は猫舌である。
先日、S氏から三角油揚げを頂く。
酒田では油揚げと言うと厚揚げの方を呼ぶ。
寿司のお稲荷さんに使う薄い油揚げは、その名の通り薄揚げと呼ぶ。
S氏の三角揚げは、薄揚げと厚揚げの中間の様で、結構大きめである。
これを温めて玉ねぎのみじん切りと一味唐辛子をかけ、醤油で頂くと実に美味しい。
山形に行く用事があったので、この三角油揚げを作っている豆腐屋さんに行ってみることにした。
東根のよってけポポラから仙台方面に走り、途中で左に折れる。
黒伏山の伏流水で作っているち言うので、黒伏山を目指す。
よってけポポラでも三角油揚げが売られているが、この沢渡豆腐屋さんの物ではない。
ここは、どこにも卸していないそうで、豆腐や油揚げが欲しければ直接買いに行くしか無いのである。
老夫婦でやっているそうで、出来上がった物はすぐに売り切れるそうだ。
私はしっかりと、おからも一袋貰ってきた。
長い冬休みを経て、3月4日から鐙屋古文書研究会が再開した。
宿題がある訳でもなく、予習復習もせぬので、教えて貰った筈の文字が読めない。
宿題がある訳でもなく、予習復習もせぬので、教えて貰った筈の文字が読めない。
困ったものである。
翌週の11日に、小野寺先生が木の箱を持って現れた。
史料が入った箱ごと買ってきたらしい。
酒田市内でも、ちょっと離れた場所の某家から出たもので、殆どが明治の頃の証文だった。
これは測量図のようだ。
その証文の束に混じって、面白い物が入っていた。
謝罪文なのだが、放蕩していた息子が家族に宛てた物で、後半には記名がなされている為に、その部分を省いて撮す。
謝罪文なのだが、放蕩していた息子が家族に宛てた物で、後半には記名がなされている為に、その部分を省いて撮す。
しかも原文ではなく、途中に朱字で訂正されているように、もう一度書き直すように戻された物らしい。
書いた本人も、100年以上経って他人の目に晒されるとは思ってもいなかっただろう。
史料として残ると云うのは、ある意味恐いことである。
しかし、彼はいったい何をしでかしたんだよ~~!
コンテナの中を覗くと、魚がうじゃっといた。
ハタハタではない。50-60cmの大きな魚である。
大寒の頃、酒田でもこの魚を使って盛大に祭りを開く。
ここは海鮮市場。
日曜日の「旅サラダ」に、酒田が登場していたのを知る。
今週いっぱいはTverで観ることが出来るようだ。
この海鮮市場の場面もあったのだが、休業日(工事のせいで営業していない)にぶち当たってしまっていた。
サカタントでは、今年はイカが不漁だと聞いたが、あんなに大盤振る舞いしてて良いのか?!
遊佐町でPaypayで20%バックを行っているので、ガソリンを入れに吹浦まで走る。国道7号線を走っていると、遊佐比子IC付近から日沿道の工事が最終段階になっているのが目に見えて分かった。
舗装も標識の取り付けも終わっていて、あと何が残っているんだろうと思うほどだった。
遊佐比子ICから遊佐鳥海ICまでの開通日は、3月23日である。
遊佐町長の時田さんに見せたかったな。どんなに喜んだろう。
さて、令和8年度(2026年)までは、秋田県との県境は繋がるが、ずっと後から計画されていた山形中央道路の金山以北は、令和7年度に横堀道路と新庄金山道路は開通する。
つまりは追い越されたって訳なのである。
春のような穏やかな気候に慣れてしまった私には、3月3日の大荒れにはすっかり参ってしまった。
午前中の清河八郎記念館と観音湯の種田山頭火句碑見学をバックレ、午後の部の会場設営で12時半目指して車を走らせたのだが、雪の塊で凸凹状の道路には横滑りはするし、時間はかかるしで少し苛立つ。
5分遅れで松山城址館(松山能舞台のある施設)に着くも、事前に到着していたのは1名だけだった。
事務の方にイス・テーブルの収納箇所を教えて貰い、会場に並べる。
能舞台のある部屋は、通常の長方形にはならずに、参加人数と椅子を考慮して並べて行った。
能舞台のある部屋は、通常の長方形にはならずに、参加人数と椅子を考慮して並べて行った。
小野寺先生が到着する前に、聴講者の方々が受付を済ます。
午前の部の走行距離を考えるに、無理があったのだろうと思われる。
午前の部の走行距離を考えるに、無理があったのだろうと思われる。
前半は2022年7月に観音湯の脇に建立された「俳人種田山頭火句碑」に纏わる種田山頭火と酒田について、会長の小野寺先生と酒田観光ガイド協会の豊岡紘子さんよりお話を頂いた。
種田山頭火は奥の細道の松尾芭蕉に続けとばかりに、放浪しながら句を詠んだ。
田村寛三さんの『酒田ききあるき』によれば「昭和11年7月1日午前10時頃、酒田駅に山頭火が降り立った。
坊主頭白髪・髭交じりの55歳。背は高くロイド眼鏡だが生気はなく、駅を出て左折、かつての東急イン前を通り上日枝神社境内に入った。
30分も休むと天王寺町の方へ歩く。やまぐち屋という酒屋に入り、60歳位の店主にコップ酒を頼んだ。
山頭火は一気に飲み干し、今朝鳴子から来た禅僧で全国行脚をしていると話した。さらに一文無しで酒代のかわりに俳句を2・3障子紙に書いた。
「きみだるる旅もをはりの足を洗う」と。そして死にきれないので放浪の旅を終え永平寺に行こうと思うと述べた。」
やまぐち屋さんの山頭火の書いた句は、酒田大火の折に燃えてしまい、書としては残っていない。
残っていれば、1枚ウン十万円で取引されたろう等と、巷の雀たちはさえずっている。
酒田観光ガイド協会の豊岡紘子氏に種田山頭火の句碑について伺った。
観音湯の句碑は、「何故せっかく酒田に来たのに、酒田では山頭火の句碑を建てないのか。」と天童市に住む永岡昭氏は建立の為に奔走する。
永岡氏と豊岡氏は、顔見知りでもなかったのに、何故か手伝うことになる。句碑に描く2句の書も豊岡氏の手によるものだそうだ。
今回、本来なら永岡氏からお話を伺う予定だった永岡氏の体調がすぐれない為に代理となった。
後半は、会場が松山城址なので、松山藩の歴史を学ぶ。
松山には縄文遺跡も多々出ている。山際なので酒田よりも歴史は古い。
松山の總光寺は1384年に建立された。1604年頃に最上義光・志村伊豆守によって最上街道が作られ、最上川の位置とも重なり砂越同様に旅の要所となる。
正保4年(1647)酒井忠勝の遺領14万石から2万国を3男忠恒へ分知し松山藩となる。余目廻館や大江町左沢も松山藩の領地となる。
寛永8年(1631)に左沢領主直次が死去、寛永9年加藤忠広(加藤清正の庶子)が改易され、左沢領が松山藩のものとなる。
上の書状は左沢と松山藩とのやり取りのもの。
また、左沢では青苧が名産で、米に限らず青苧も最上川舟運の需要な荷物であった。
松山城の絵地図。
南面の拡大図だが、堀の内側には城代の御屋敷の他、家老であった松森胤保の居宅もある。
これは大阪城で、ここには藩主はおらず徳川幕府から派遣された城代が務めていた。
松山藩は延宝6年(1678)から嘉永2年(1849)まで、都合18回に渡り大阪加番(城代の支配を助ける警備普請掃除など)を申し付けられている。
松山藩は延宝6年(1678)から嘉永2年(1849)まで、都合18回に渡り大阪加番(城代の支配を助ける警備普請掃除など)を申し付けられている。
移動から普請や人件費に至るまで費用は嵩んだが、持ち出し部分は幕府よりの合力米18000俵(6200両値)と差し引きすると黒字だったらしい。
かたや江戸詰めの庄内藩酒井家では、幕府名代を仰せ付けられることもあり、赤字の火の車だったのだが。
最後に酒田船箪笥の加藤涉氏より「酒田船箪笥を次世代に伝える」と題してお話いただいた。
マスコミを含めての動画は上のアドレスを参考に見てもらいたい。
加藤木工の加藤歩氏より、北前船に載せた金庫の役目をした酒田船箪笥についてお話を伺った。
河村瑞賢が西廻り航路を進める以前は、酒田から若狭湾、陸路から琵琶湖を通って大阪へ、大阪から再度船に乗り江戸へと1年3ヶ月の時間を要した。
西廻り航路では2ヶ月の輸送期間で済むことになった。
酒田船箪笥は製作の工程に、指物・金具・漆塗りがある。
この金具を作る職人が酒田では途絶え、製作中の金具は県外からの調達だった。
酒田船箪笥と言っても正真正銘のメイドイン酒田にはならないジレンマを抱えていた。
そんな折、加藤氏の苦労を知った県立酒田光陵高校の3年生達が課題研究にと、加藤氏との共同制作が実現した。
この金具を作る職人が酒田では途絶え、製作中の金具は県外からの調達だった。
酒田船箪笥と言っても正真正銘のメイドイン酒田にはならないジレンマを抱えていた。
そんな折、加藤氏の苦労を知った県立酒田光陵高校の3年生達が課題研究にと、加藤氏との共同制作が実現した。
飾り金具だけではなく、錠前などの難しい部分も作り、完成させた作品を見せて頂いた。
実に頼もしいではないか。
次世代に期待をし、加藤氏の夢である「酒田を発展させたい」を実現させよう。
この地図に載っている久村酒店(別名久村の酒場)は酒田で有名な居酒屋である。
もともと酒屋だったのが、店の中で一杯飲む客が増えて、居酒屋を開業。
その内に座敷も和室も店の一部になってしまった。常連も多い。
その内に座敷も和室も店の一部になってしまった。常連も多い。
〆鯖とゲソと厚揚げは、定番メニュー。
久村酒店から北へ行くと、中島精肉店がある。
あなたの知らない過去の酒田さんによると、酒田で最も古い精肉店だそうである。
1階が精肉店(現在も営業中)で2階は居酒屋(昔は通ったのに)だったのだが。
1階が精肉店(現在も営業中)で2階は居酒屋(昔は通ったのに)だったのだが。
何を隠そう、初代ゴジラのスーツアクターの中島春雄さんの生家である。
ここではゴジラ肉を売っている(嘘)かも知れない。
噂に聞いていた大山の酒まつりに行ってきた。
JRでは臨時列車が出るという。
何十年ぶりかで各駅停車に乗る。
酒田からは羽前大山まで40分はかからなかった。結構速い。
しかし、酒田駅でPASMOもSUICAも使えなかったのは、ちとショック。
駅から酒蔵までは意外に近い。
長い行列が見えたので、最後尾は何処かと見回したら、角を曲がってまだ続いていた。
酒まつりのチケットは2種類あって、酒蔵を巡るコースと公民館で新酒を楽しむのに別れていた。
公民館を目指す。
市長を始めとする来賓の挨拶が終わり
東京都の二元中継で酒まつりは始まった。
折り詰めがついた。鶴岡市大山の「なな八」の料理だが、お品書きと折り詰めが逆さまである。本人は気が付かない。
蔵めぐりは4箇所だが、新酒は5箇所の蔵元から届いていた。
5本の内4本が吟醸かそれ以上、大山はしぼりたてで火入れしてなくピリピリする。
漬物は本長の品物で、どれもうまい。
美味しいのが見つかったら、帰りに買うとするルートなのだと思う。
5つの蔵元の新酒を飲み比べする都度に、一升瓶に入った仕込み水で口の中を中和させる。
じゃんけん大会など一通りの行事が終わって、そろそろ電車の時間かなと外へ出た。
大山の町は、犬まつりの時のように人々が歩き回っている。
日本酒のまつりなのに、若い人が多かった。
酒田でもこんな行事が出来ないだろうかと思っても、旧市内にある酒蔵は黒森や浜中など南の地域に移転、点在している。
残っているのは上喜元くらいか。町を歩いて蔵めぐりできるのは、大山のような町でしか見込めないのだとは思う。
大山の町と駅は、保安員も鉄道マンも特別に集めて、臨時のチケット売り場も出来て、ごった返ししていた。
電車は山手線並の混み具合になり、「もう少し詰めて!」と再三に渡り声がかかる。
おかげで6分遅れで羽前大山の駅を出発するも、次の鶴岡駅で大半が降りていった。
天気が崩れ、粉雪の舞い散る酒田の停車場に着いた。
駅前が改修されて、新たにガス灯が設置された。
駅前の「Q吉」で二次会となる。
「Q吉」さんとこは、酒田に日本一のレストランと映画館を作った佐藤久一さんのお孫さんだそうだ。
ここでも飲み比べである。
お土産に買った呑み比べセット
私はこれの味見はしていない。
地元で流れた大山酒まつりのニュース
国交省による令和6年能登半島地震 専門調査結果(中間報告)が発表された。
新耐震(阪神淡路大震災以後に改訂された)で設計された橋梁などには、大きな被害はなかったが、それ以前の設計の物では被害が大きい。
建物の被害では、地域的な特徴の屋根瓦の古い民家の破損と、海岸部の津波が影響したと思う。
ただ、いくら建物を堅固にしても、地面が亀裂や隆起しては自立することは不可能だ。
ただ、いくら建物を堅固にしても、地面が亀裂や隆起しては自立することは不可能だ。
技術の進歩も、歴史を学ばねばどうにもならない。
元禄2年(1689)松尾芭蕉が奥の細道を旅した。酒田から秋田の象潟へ行った頃は、その名のごとく東の松島と比較される九十九島が潟に浮かんでいた。
文化元年6月4日(1804年7月10日)の象潟地震によって数メートルの隆起で、島々が地面に浮き上がった。
現在は田んぼの中に、松の木の生えた島々が点在している。
元禄2年(1689)松尾芭蕉が奥の細道を旅した。酒田から秋田の象潟へ行った頃は、その名のごとく東の松島と比較される九十九島が潟に浮かんでいた。
文化元年6月4日(1804年7月10日)の象潟地震によって数メートルの隆起で、島々が地面に浮き上がった。
現在は田んぼの中に、松の木の生えた島々が点在している。
日本列島は生きていて、その時々に姿を変える。
その上に、我々日本人は住まわせて貰っているのだと言うことを再認識せねばならない。
先週の土曜日に「閉館時間が過ぎています。」と強制終了された土門拳写真記念館にリベンジするために出かけた。
花は無いけど春爛漫の暖かさである。
先週の土曜日とは打って変わって、今日は家族連れが池の周りで散歩している。
展示物もじっくりと観ることが出来た。
雑木林の向こうは鳥海山。雲と一体になって大きさも分からない。
池にいる鯉たちの為に、食パンをポケットに忍ばせて行ったのだが、池に降りる階段にロープが張られていて「安全注意、餌やり禁止(ただし鳥インフルエンザの為)」とある。
面白みが半減した。大きく成長した鯉たちはパンくず等無くとも池底の泥から餌を摂ることが出来るのかもしれないなぁ。あぁつまんない。