赤い彷徨 part II
★★★★★★
永田充不安クラブ♡
 



前回までのつづき)

我々のリゾートしらかみの旅は、少々名残惜しいながらも弘前駅で終了。さて弘前といえば弘前城、という理解は城ヲタだけのものなのかもしれませんが、いずれにしてもその弘前城、訪問時は石垣の修復工事に伴い天守を移動させるというプロジェクトの真っ最中ということで天守内は一切見学できない状況でした。ちなみに、「動く!」というセリフに微妙に反応するのも恐らくガンヲタだけなのでしょうね。



当日はお天気いまいちでやや肌寒い中を駅からお城まで長い距離を皆さんに歩かせてしまい幹事失格でした。お昼は市場で、とも思っていたのですが、結局郷土料理のお店菊富士さんでいただきました。こちらは修学旅行生も受け入れているようなお店のようです。写真左上に見えるのが弘前の地のものである「いがめんち」で、イカゲソを包丁で叩いて野菜などとともに小麦粉で揚げたもののようです。



弘前城に到着です。こちらは5つある櫓門のうち東門(ひがしもん)です。言わずもがなの津軽藩の居城ですが、その津軽藩は天正18年(1590年)、大浦為信(後の津軽為信)が津軽地方を統一したことに始まったようです。



為信公は時の為政者であった豊臣秀吉から津軽地方の領有を認められ4万5千石の領地を得ます。ただ、まだその時点では堀越城という城を居城にしていたようで、弘前に城が築かれたのは少々後の話ということのようです。その弘前城と言えば桜の名所ですが、訪問したのは11月下旬ということでご覧のとおりどちらかというと紅葉シーズンでした。



中濠と思われますが、お花見シーズンはいわゆる「花筏」も見られそうです。さて為信公ですが、豊臣方、特に石田光成公と近かったながらも関ヶ原の戦いには東軍として参加しその功績から幾ばくかの加増を得ています。ただ、嫡男の信建公は大阪城にいて西軍側だったようなので、それが事実とすれば真田氏と同様お家の生き残りのために「二股をかけていた」ということなのかもしれません。



東内門です。さきほどの東門もこちらも慶長16年(1611年)に津軽藩2代藩主津軽信牧の治世で建てられたものだそうです。この信牧公は為信公の三男で、父とともに関ヶ原では東軍で参加していたとのこと。長男の信建公は病死してしまったようですね。



二ノ丸にあった与力番所です。曳屋移築されたもののようです。津軽氏ですが、関ヶ原の最中に家内で反乱があり堀越城を占領されたりごたごたがあったようで、そんなこともあってか、その後現在の弘前城のある高岡の地に築城を開始。ただ本格的に築城が進んだのはやはり2代信牧公の治世だったようです。



ただ、信牧公の家督相続に当たってもお家騒動があり、最終的に幕府裁定で信牧公が跡継ぎということになったようです。こちらは石垣修理事業の能書き。字が小さくて読めませんかね。



本丸と二の丸に架かる下乗橋と思われます。オフィシャルサイトによれば、かつて二ノ丸側に「下馬札」が置かれて藩士は馬から降りるルールだったようで、それに由来するのではないかとされています。



(つづく)

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