広島市青年連合会。

昭和21年に発足。各区の地域青年団・青年会を加盟団体とし、失われつつある地域との連携を無くさないようにと現在も活動中。

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広島市青年連合会沿革

2106年09月21日 20時50分15秒 | 基本情報
昭和21年

広島市青年連合会結成。消失した広島市にあって戦前より青年団の活動がさかんであった周辺部の仁保地区・江波地区・草津地区等を中心に牛田地区・段原地区・神崎地区等を統合した組織体か結成される。広島市青年食料危機突破運動として戦災跡地へ南瓜68,000本、芋づる180,000本を作付する。あわせて食用野草講習会を開催する。広島市に広島市青年会館の設立趣意書を提出。


昭和22年

豪軍歩兵大隊慰問柔道大会を開催。ここでは国境や人種差別などはなく歓声が上がった。木原市長宛に、県の青年連合会と連名で広島県青年会館の設立趣意書を提出。設立1周年記念市内継走大会を開催する。市長選挙に浜井信三氏を推薦し見事当選させる。又、続く市議会議員選挙でも多数の推薦者を議会に送り込む。


昭和23年

シベリア抑留引揚者出迎えを行う。深夜到着等長期にわたったので交替制で土日を利用し協力する。途中福井県で震災が発生し救援作業隊50名を10日間にわたって派遣する。広島県青年会館を設立。


昭和24年

広島平和都市建設法が施行されそれを機に、第1回廣島・長崎原爆都市青年交歓會が広島市及び、中国新聞社と共催の元に広島で開催される。長崎の聖者・永井隆博士より、バラの花の寄贈を受け市役所前庭へ長崎青年と共同植樹を行う。後に広島・長崎原爆都市青年協議会か結成される。


昭和25年

第2回廣島・長崎原爆都市青年交歓會が長崎で長崎放送局、長崎市青年連合会の共催のもとに開催される。元市長(当時は市会議員)の荒木武氏も参加する。昨年のバラの寄贈の御礼に広島城の堀の蓮の花を持参し永井隆博士邸の万人塚前の池に植樹する。


昭和26年

市青連と単位団体との関係が希薄になり組織が弱体化する。市青連組織強化対策会議が開催され、市青連と単位団体との関係強化に成功する。


昭和27年

広島・長崎原爆都市青年交歓会が非公式交流会となる。


昭和28年

社会教育課よりいただいていた広島・長崎原爆都市青年交歓会の旅費が削減された。市長に陳情に行き市長室より旅費をカンパしてもらう。


昭和29年

地域の成人式に委員長が来賓として呼ばれあいさつをした。


昭和30年

原水禁広島大会の開催に市青連が協力する。


昭和31年

結成10周年。公明選挙推進。文化祭や体育祭(全市ソフト大会・卓球大会・サイクリング大会・駅伝)を行う。市青連OBと定期気懇談会開催。広島・長崎原爆都市青年協議会が解散され交流会が中断する。


昭和32年

広島市の川をきれいにする運動を市当局と進める。青年の船建造を提案し国際的交流を進めるよう市へ働き掛ける。体育祭を継続して行う。


昭和33年

ユースホステル誘致運動始める。


昭和34年

市青連OBの助けで、中央に陳情活動を行うと共に市当局、市議会にも働き掛け牛田神田山ヘユースホステル誘致成功。


昭和35年

青年平和集会を全国の青年に呼びかけて行う。スローガンの決定で県青連と意見が合わず県青連を脱退、それに追従し12郡市が県青連を脱退する。青年平和集会が2会場に分裂して行われた。


昭和36年

文化祭や体育祭を理美容、クリーニング青年会と連携して行う。


昭和37年

日仏青年交流会が行われ、来広青年を宮島へ案内する。浜井市長杯ソフトボール大会を開催。市長に"青年の館建設"を陳情し、資金集めのためにダンスパーティや"畑英一のシャンソンのタベ"を開催する。


昭和38年

暴力追放運動を行う。多くの暴力事件が発生し青年のパトロールが始まる。


昭和39年

都市美化運動を市婦人連、市子連とともに行う。川舟に乗り川のゴミ掃除を行いRCCテレビヘ出演することになる。広島市クリーニング青年会より平和記念式典での『おしぼり奉仕』を引き継ぐ。(現在も継続)。


昭和40年

『川をきれいにしましょう』という立て札を50本作成、又中国新聞にも寄付をしてもらい、市内の川に立てる。


昭和4l年

結成20周年。選挙啓発運動を行う。選挙管理委員会の車を借りて選挙の棄権防止を呼びかける。陳情を続けて来た"青年の館"広島市青少年センターが建設される。


昭和42年

人口のドーナツ化現象が起こり中心部の青年が減少し加盟団体が減少する。


昭和43年

地域青年団掘り起こしのため夜間訪問を行う。


昭和44年

北海道羅臼の青年来広、北方領土の話を中心に交歓会を行う。又、大分青年大学との交歓会も行われ、こちらは停泊中の船を利用し原爆関係の話を中心に交歓会を行う。リーダー養成青年学級が組織され、その創成にたずさわる。第l回平和を語る市民会議に青年代表で参加。ハンセン氏病施設建設のため募金運動を行う。日本都市青年会議・第1回大阪大会(大阪万博記念)に参加、広島大会招致を目指す。山田市長より優勝旗を賜り、第1回広島市長旗争奪ソフトボール大会を開催。現在も継続。


昭和45年

勤労青少年バレボール大会を中央コートで開催。


昭和46年

地域青年団掘り起こしのため夜間訪問を行う。当時加盟が15団体だったのが25団体に増加した。


昭和47年

広青連、理美容、中央青年学級、文化実習教室と5団体連絡協議会を結成。


昭和48年

第5回市長旗争奪ソフトボール大会、第10回平和記念式典おしぼり奉仕。


昭和49年

第1回「20才の宿」を三滝ライオンズ山荘で行う。


昭和50年

広島・長崎平和文化都市提携が結ばれる。これを記念し長崎シーボルト邸より紫陽花の寄贈を受けこれを平和大通り緑地帯に植樹する。


昭和51年

結成30周年。8月に、広島・長崎原爆都市青年交歓会のOBの交流会を開催。長崎青年来広し交歓会再開の提案がなされる。9月、広島市青年、国内研修で長崎を訪問。交歓会の再開の打ち合わせを行う。『日本都市青年会議第7回広島大会』を招致、永六輔氏の講演等盛大に行われる。


昭和52年

中断されていた広島・長崎原爆都市青年交歓会が、広島・長崎青年平和文化提携交歓会として復活し第1回目は長崎市で行われる。


昭和53年

青少年によい環境を与える運動パレードに参加。和歌山市、高松市青年の国内研修の受け入れを行う。第2回広島・長崎青年平和文化提携交歓会を広島で開催する。(隔年訪問で現在も継続)


昭和54年  

西ドイツハノーバー市の青年と交歓会を行う。又、本渡市、燒津市青年の国内研修の受け入れを行う。


昭和55年

姫路市、栃木市、大津市、小松島市、大阪市、青年の国内研修の受け入れを行う。


昭和56年

広島市主催の『まちづくりを考える会』に参加、荒木市長を囲み「宿泊施設の建設」、「スポーツ施設の充実」を要望する。荒川区青年の国内研修の受け入れを行う。


昭和57年

青年組織統一検討会議が開かれるが、目的の違い等、歴史と伝統のある団体自体の統一は困難という結論に達する。広島市主催の海外留学生歓迎会に参加。


昭和58年

広島市青年連合会復活委員会を開催。"戦後の復興を青年の手で"という市青連から、新市域の青年を含んだ新しい市青連を検討する。


昭和59年

被爆都市広島・長崎青年交流会記念碑(市役所前庭に薔薇の碑、広島平和公園に紫陽花の碑)建立のための資金集めを行う。


昭和60年

国際青年年広島推進協議会設立。市青連から数名が役員に加わり、推進協主催のすベての行事に参加する。


昭和61年

結成40周年。昨年結成された国際青年年広島推進協議会が解散し、新しく広島市青年団体連絡協議会(市青協)が発足する。市青連も参加し加盟団体となる。それに伴い市役所からの捕助金も市青協経由となり、これまで行ってきた主な主催事業が市青協の主催事業に代わり、市青連は主管団体となり事業運営を行う。市青協の事業に各地域の青年団体が参加または、協力をはじめる。被爆都市広島・長崎青年交流会記念碑・紫陽花の碑を広島市青少年センター前庭に建立し、長崎シーボルト邸の紫陽花を平和大通りより移植し同時にその説明板(永井隆博士句碑)も設置する。


昭和62年

事業を市青協と話し合い、8月の『おしぼり奉仕』,『広島・長崎青年平和文化提携交歓会』,秋の『広島市長旗争奪ソフトボール大会』の3事業を主管事業としその他の主催事業は市青協の主催とすることになる。


昭和63年

広島・長崎青年平和文化提携交歓会に東京都新宿区からの参加申し入れがあり、この年から広島・長崎・新宿青年平和文化交流会となる。


平成 元 年

地域青年団体の活動メンバーが減少して行く傾向にあり、その後活動を休止したり、団体自体を解散する所が多くなる。反面、公民館等では新しく発足する青年グループも出て来た。


平成 2 年

加盟団体は協力団体となり事業を運営して行くようになる。ソフトボール大会も参加団体が年々減少して行く傾向にある。


平成 3 年

『第22回日本都市青年会議広島大会』が昭和51年の『第3回大会』以来15年ぶりに、広島市青少年センターで3日間盛大に行われ、OBも含め多数参加する。


平成 4 年

地域青年団体の減少が激しくなり事業参加団体は広青連、他青年グループ等の団体が多く参加するようになる。


平成 5 年

地域青年団の活性化を目指し各地域青年団の実態調査を行う。現存する地域青年団休は約20団体ぐらいである


平成 6 年

アジア競技大会開催。地域青年団体の活動拠点である公民館では、一館一国応援事業が行われたが、地域青年団が解散した所が多く青年団体としての協力はごく一部であった。


平成 7 年

昭和39年より主催している平和記念式典での『おしぼり奉仕』が永年の功績が認められ、被爆50周年を機に広島市より感謝状を受ける。


平成 8 年

結成50周年。広島・長崎青年平和文化交流が再開して20年を迎えた。途中加わった新宿区だけでなく、日本都市青年会議や国内研修の受け入れ等で親しくなった他の都市の青年の参加も増加しており、青年の交流会としてもますます発展している


平成 9 年

合同周年式典開催。市青連結成50周年式典。広島市理美容青年会(40周年)、広島市青年団体連絡会議(30周年)広島市青年団体連絡協議会(10周年)、と共に合同で周年式典を開催する。OB,OGを含めて約150人が参加し、団体の連携と組織の強化を申し合わせた。


平成10年

第35回平和記念式典おしぼり奉仕に日本都市青年会議の縁で群馬県太田市、神奈川県川崎市から参加があり、長崎との交流会にも参加をした。


平成11年

財団法人広島市スポーツ事業団より、サンフレッチェ広島の応援イベントへの協力依頼があり、年間6試合のイベントの協力を始める。市青協執行部との活動方針のづれの修正がうまくいかず脱退届けを提出するが総会で否決される。


平成12年

昨年の市青協への脱退届けの影響か市青協執行部の大半が辞任しその補充のため、本年度のみ、委員長が市青協の役員に就任する。財団法人広島市スポーツ事業団より、94アジア大会開催記念イベントの"広島市スポーツレクリエーションフェスティバル"への参加要請がありバザー部門へ参加する。(現在も継続)


平成13年

広島・長崎・新宿青年平和文化交流会へ、昭和63年より参加していた、東京都新宿区が財政難により、青年派遣を中止した。これにより13年間続いた三都市交流が、広島・長崎青年平和文化交流の二都市交流会となる。


平成14年

補助金の有効活用を考え、市青協に補助金の返上を申し出たが、これが脱退の意思表示と取られたので、脱退届を提出し総会で可決される。広島市長旗争奪ソフトボール大会、平和記念式典おしぼり奉仕、広島・長崎青年平和文化交流会の3事業を主催団体として引き継ぐこととなる。


平成15年

平成11年より行って来た、サンフレッチェ広島の応援イベントの効果が現れてきたので本年をもってイベント協力を終了する。


平成16年

広島・長崎平和文化都市提携を記念して建立した広島市青少年センター前庭紫陽花の碑が、設置より15年を迎え更新許可申請を行う。島根県三刀屋町より、昭和24年の第1回廣島・長崎原爆都市青年交歓會のおりに寄贈を受けた、永井隆博士邸バラを譲ってほしいとの申し出があり、広島市へ陳情、これを広島市が快諾、三刀屋町へ寄贈することになり、その贈呈式が行われる三刀屋町庁舎閉庁式に現委員長と元委員長2名、広島市長代理と共に出席する。そのとき名誉町民表彰を受けた永井隆博士の孫の徳三郎氏(現長崎永井隆記念館館長)よりバラの長崎への里帰りの打診を受ける。


平成17年

昨年、三刀屋町庁舎閉庁式で打診された、バラの長崎への里帰りが実現し、第29回広島・長崎青年平和文化交流会の時、現委員長が広島市長代理と共に持参しその贈呈式を行う。


平成18年

結成60周年。広島・長崎青年平和文化交流が再開して30年を迎えた。途中いろいろな都市の参加があったが今年は2都市交流となった。両市の教育委員会の支援体制も変わり新しい交流の方法を話し合う。今後は、青年活動実践者だけでなく、より幅広い青年の平和文化交流会として継続させることを目標とする。昨年、里帰りした、長崎永井隆記念館のバラがうまく根付き小さな花を咲かせた。第8代委員長正本良忠氏が叙勲を受け、祝いの会を開催する。長年事務局を設置してきた広島市青少年センターより退去勧告を受け、㈶広島市ひとまち」ネットワークの調整により、活動拠点を広島市祇園公民館に移す。平和記念式典ボランティアの募集受付、広島市長旗ソフトボール大会の実行委員会等も祇園公民館に移す。あわせて、広島市情報交流プラザに連絡先(メールボックス)を設置する。



平成19年

広島市教育委員会より広島市の補助金募集に応募してみてはとの勧めがあり、これに挑戦する。
非常な難関であったが、なんとか平和記念式典ボランティアの用具更新と、広島・長崎青年平和文化交流会の派遣枠増員の2事業が認められ、補助金の交付を受ける。
永井隆博士生誕100周年。今年の長崎交流は、昨年の話し合いをもとに、学校、職域にも、募集枠を広げ、10名の青年派遣を達成する。永井隆記念館を訪問し館長と交流し、本事業のますますの発展を約束する。



平成20年  

昭和44年より継続してきた広島市長旗争奪ソフトボール大会が40回目の記念大会を迎えた。参加団体はひところに比べて減少したが、広島市教育委員会青少年育成部、祇園公民館館長等、来賓として参加いただき、盛り上げていただいた。当時、広島市長旗争奪と、名の付いた大会はいくつかあったが、現在は本大会のみとなっている。これも、地域青年団や、新しく参加していただいている各種団体のおかげである。今後も継続の要望があり、新しい団体の参加も募り発展を祈念する。



平成21年  

広島・長崎青年平和文化交流会の派遣事業が2度目の補助金の交付を受け行われた。今回は参加者が学生のみになったが連続の参加者もおり、長崎での受け入れも2年3年と継続して活動する人が増えてきた。昔の青年団同士の交流会とまでは行かないが、厚みのある事業に戻りつつあると感じる、広島経済大学の岡本貞雄教授の参加もいただき、さまざまな指導助言をいただく。例年どおり永井隆記念館を訪問し館長と交流し、本事業の継続的な発展を約束する。


平成22年  

広島・長崎青年平和文化交流会の長崎側は、教育委員会の主催のため毎年派遣者が変わるが、受け入れには、前年度の広島側派遣者の協力が増加しており担当職員との再会を果たし広島の厚みを見せることができた。長崎青年との来年の再会も約束するようになり複数年わたる交流が復活しつつある。 

平成23年 
 
広島市の助成金募集に再度応募を行う。非常な難関であったが、なんとか広島・長崎青年平和文化交流会事業が認められ、補助金の交付を受け広島・長崎青年平和文化交流会の派遣事業が3度目の補助金事業として行われた。今回は参加者が学生のみになり、派遣人員も6名と少なくなったが行動的な参加者が多く、長崎青年との交流や施設見学等にも積極的に参加いただき長崎市教委からも喜ばれる。例年どおり永井隆記念館を訪問し館長と交流し、本事業の継続的な発展を約束する。


平成24年  

昨年広島・長崎青年平和文化交流会に派遣した学生の参加があり、長崎青年の受け入れに参加したいとの申し出があり全ての行程に参加してくれた。長崎で相当な刺激を受けたようで積極的に交流し、色々な案内をしてくれ、来年以降も継続して派遣や受け入れに参加したいとの申し出があった。また、被爆体験講話やおしぼりサービスに広島経済大学の岡本貞雄教授の参加もいただき、さまざまな指導助言をいただく。  

平成25年  

広島・長崎青年平和文化交流会の派遣事業が4度目の補助金の交付を受け行われた。今回は参加者
が学生だけでなく、おしぼりボランティア継続的に参加してくれていた社会人も参加いただき、又連続の参加者もおり、長崎でも昨年、一昨年来広した青年が受入れに参加しくれており参加者同士が再開を喜ぶ場面があり、昔の青年団同士の交流会のときみたいに、厚みのある事業に戻りつつあると感じる。広島経済大学の岡本貞雄教授には平成21年以来2度目の参加をいただき、さまざまな指導助言をいただく。例年どおり永井隆記念館を訪問し館長と交流し、本事業の継続的な発展を約束する。広島・長崎平和文化都市提携を記念して植栽した平和大通りの永井隆博士邸バラが衰弱し、その保存委員会を立ち上げる。       








主催事業
・平和記念式典おしぼり奉仕                (昭和39年より現在も継続)
・広島市長旗争奪ソフトボール大会            (昭和44年より現在も継続)
・広島・長崎青年平和文化交流会             (昭和21年より昭和31年迄
                                  で途中中断し昭和52年より
                                  再開し現在も継続)

協力事業
・広島アジア大会記念
「広島市スポーツレクリエーションフェスティバル」      バザー部門へ参加
・公民館まつり                            バザー部門へ参加
・明るい選挙推進協議会                     選挙啓発事業協力
・広島市成人祭                           記念品配布協力
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