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尻毛三兄妹弟の建て替え大作戦(その11)・・・掘れば宝物が出るか

2017-10-08 22:39:51 | 建て替え大作戦

尻毛三兄妹弟の建て替え大作戦(その11)・・・掘れば宝物が出るか

 

尻毛家の敷地の近くには 北方城跡があります。

 

以下 北方町の教育委員会 発行の資料によると

北方城は伊賀太郎左衛門光就(みつなり)が築城し居城とした。

光就の曽孫 安東伊賀守(いがのかみ)守就(もろなり)は 斎藤氏滅亡後、織田信長に仕え

元亀元年(1570)6月 姉川の合戦 翌年の長嶋一向一揆に参戦し功を立てた。

 しかし、天正8年(1580)嫡子の河渡(現 瑞穂市)城主尚就(なおなり)が甲斐武田と内通したという嫌疑で

信長の勘気を受けたので、守就は北方城を出て 武儀郡谷口村(現 関市)に蟄居した。

 天正10年6月2日 信長が本能寺で明智光秀に討たれると 守就は一族旧臣を集め 北方に入ったが

稲葉一鉄・貞道父子に攻められ、千代母ヶ淵に追い詰められて戦死する。

これを北方合戦と言う。

 江戸時代には 旗本戸田家陣屋になり 奉行役所 代官屋敷等が 並んでいた。

大井神社の南 東西 160メートル 南北340メートルが 北方城跡と 推定されている。

現在の城跡は本丸の一部と考えられている。

我が家の敷地はこの城跡内にあります。

 

建物を新築する場合 「埋蔵文化財包蔵地確認依頼書」を北方町の教育委員会に 提出する。

そして 県の教育委員会に送られる。

新築はその返事待ちであります。

 

拙者は当地から何も出ないと考えましたが、(もしかすると と思いながら) 届出書を提出しました。

(続く)

 

 


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