「男性‐性」は「家」という憩いの場を得ないことには、絶対的に孤独であり、世界で遭遇する剥き出しの事物をただ受動的に享受するばかりである。
そこに主体性はなく、したがって倫理も成立しない。
それでは「家」とはどのように得られるものであるのか?
「家」が形作られるのは、それまで座を占めていた「女性‐性」が一部分「退却」し、「空いた空間」ができることに基づく。
そこに「男性‐性」は安住の地を見出すわけである。
「家」をもった「男性‐性」は、世界内の事物を合理的かつ効率よく取得するようになるが、これこそが「労働」なのである。
「労働」により取得された価値は「女性‐性」により「料理」され、「糧」となる。
ところで、同じ「家」に住む「男性‐性」と「女性‐性」は、各々が全体性として対峙しているわけではなく、相互に結びついて、その結びつきにおいて全体を構成している。
一方が他方を「主体的に」欲するのではなく、相互に相手側にこちら側が「愛されている」という受動的信憑において相互に愛するのである。
そのときの「愛撫」は、相手に何物かを与えるのでもなければ、相手から何物かを奪う行為でもない。
それは「男性‐性」と「女性‐性」とが結びついて構成された全体を、いわば自動車のアクセルを踏み込むようにアイドリングさせることなのである。
その「愛撫」によってもたらされた「エクスタシー」は、相手が「エクスタシー」に浸っているという確信から派生するのだ。
相互に「愛されている」という受動的確信のなかにこそ、主体的に「愛する」ことが実現されるわけである。
ただ肝心なのは、「女性‐性」は一歩引き下がっているということである。
「家」は「女性‐性」の「退却」によって形作られたものだからである。
一歩先んじている「男性‐性」は「責任は私にある」という自らの有責性を宣言することになる。
これこそが「家」をもち、「労働」し、「愛」する「大人」の主体性であり、それによってこそ倫理が基礎づけられるのである。
・・・興奮してここまで書いたが、ちょっと自信おまへん(苦笑)
間違ってたら堪忍。
そこに主体性はなく、したがって倫理も成立しない。
それでは「家」とはどのように得られるものであるのか?
「家」が形作られるのは、それまで座を占めていた「女性‐性」が一部分「退却」し、「空いた空間」ができることに基づく。
そこに「男性‐性」は安住の地を見出すわけである。
「家」をもった「男性‐性」は、世界内の事物を合理的かつ効率よく取得するようになるが、これこそが「労働」なのである。
「労働」により取得された価値は「女性‐性」により「料理」され、「糧」となる。
ところで、同じ「家」に住む「男性‐性」と「女性‐性」は、各々が全体性として対峙しているわけではなく、相互に結びついて、その結びつきにおいて全体を構成している。
一方が他方を「主体的に」欲するのではなく、相互に相手側にこちら側が「愛されている」という受動的信憑において相互に愛するのである。
そのときの「愛撫」は、相手に何物かを与えるのでもなければ、相手から何物かを奪う行為でもない。
それは「男性‐性」と「女性‐性」とが結びついて構成された全体を、いわば自動車のアクセルを踏み込むようにアイドリングさせることなのである。
その「愛撫」によってもたらされた「エクスタシー」は、相手が「エクスタシー」に浸っているという確信から派生するのだ。
相互に「愛されている」という受動的確信のなかにこそ、主体的に「愛する」ことが実現されるわけである。
ただ肝心なのは、「女性‐性」は一歩引き下がっているということである。
「家」は「女性‐性」の「退却」によって形作られたものだからである。
一歩先んじている「男性‐性」は「責任は私にある」という自らの有責性を宣言することになる。
これこそが「家」をもち、「労働」し、「愛」する「大人」の主体性であり、それによってこそ倫理が基礎づけられるのである。
・・・興奮してここまで書いたが、ちょっと自信おまへん(苦笑)
間違ってたら堪忍。