kouheiのへそ曲がり日記

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『レヴィナスと愛の現象学』を読んで・・・

2015-12-14 15:43:09 | 日記
「男性‐性」は「家」という憩いの場を得ないことには、絶対的に孤独であり、世界で遭遇する剥き出しの事物をただ受動的に享受するばかりである。
そこに主体性はなく、したがって倫理も成立しない。

それでは「家」とはどのように得られるものであるのか?

「家」が形作られるのは、それまで座を占めていた「女性‐性」が一部分「退却」し、「空いた空間」ができることに基づく。
そこに「男性‐性」は安住の地を見出すわけである。

「家」をもった「男性‐性」は、世界内の事物を合理的かつ効率よく取得するようになるが、これこそが「労働」なのである。
「労働」により取得された価値は「女性‐性」により「料理」され、「糧」となる。

ところで、同じ「家」に住む「男性‐性」と「女性‐性」は、各々が全体性として対峙しているわけではなく、相互に結びついて、その結びつきにおいて全体を構成している。

一方が他方を「主体的に」欲するのではなく、相互に相手側にこちら側が「愛されている」という受動的信憑において相互に愛するのである。
そのときの「愛撫」は、相手に何物かを与えるのでもなければ、相手から何物かを奪う行為でもない。

それは「男性‐性」と「女性‐性」とが結びついて構成された全体を、いわば自動車のアクセルを踏み込むようにアイドリングさせることなのである。
その「愛撫」によってもたらされた「エクスタシー」は、相手が「エクスタシー」に浸っているという確信から派生するのだ。

相互に「愛されている」という受動的確信のなかにこそ、主体的に「愛する」ことが実現されるわけである。

ただ肝心なのは、「女性‐性」は一歩引き下がっているということである。
「家」は「女性‐性」の「退却」によって形作られたものだからである。

一歩先んじている「男性‐性」は「責任は私にある」という自らの有責性を宣言することになる。
これこそが「家」をもち、「労働」し、「愛」する「大人」の主体性であり、それによってこそ倫理が基礎づけられるのである。

・・・興奮してここまで書いたが、ちょっと自信おまへん(苦笑)
間違ってたら堪忍。

個人番号カード申請

2015-12-01 13:08:31 | 日記
数ヶ月前に運転免許の更新をした。
ご承知のとおり、証明写真屋さんは壊滅状態にあり、自分で街中の証明写真撮影機で撮影し、写真を所定の大きさにカッターを用いて切らねばならず、あまり器用でない僕は死ぬほど面倒くさい思いをした。

そんな今日この頃、いよいよ我が家にも個人番号の通知書が届いたのである。
僕は個人番号カードをつくるためには写真が必要になることは何かで聞いており、これは免許のために撮影した写真のあまりを流用すればいいと思っていた。

だが、よく説明書を読むと、免許用の写真と大きさが全然違うのである。
(あちゃ~、また撮影機で写真を撮り、自分で切らねばならんのかぁ)と思ったが、申請の方法はいくつかあり、なんと対応している機種であれば、街中の証明写真撮影機で直接申請できるとある。

デジタルカメラがあればパソコンから申請できるし、スマホがあればそれで写真を撮って申請すればいい(QRコードを読み込む)。
だが家には、デジタルカメラもスマホもないのだ。

残された道は、写真を申請用紙に貼付して郵送するか、証明写真撮影機で送信するかだけである。
ハイテク好きの僕は、当然後者を選んだ。

送信機能完備の撮影機の場所をパソコンで検索すると、我が街には1台もなかった。
隣接する市にはあったのだが、駅から遠い。
やむなく急行電車で15分ほど行った場所にある撮影機に的を絞った。
駅のすぐそばだったから。

改札を出るとすぐの所にあった。
まず個人番号カード申請のボタンを押し、申請書のQRコードをバーコードリーダーにかざし、申請番号に間違いがないことを確認した。

そしてお金を入れ、写真を撮影し、規約に同意するためのボタンを押し、最後に送信ボタンを押すと、お釣りと申請確認書(撮った写真)がでてき、それで完了である。
なんかハイテクな感じで気分良かった(笑)

ここまで深く考えもせずにいたのだが、さきほどニュースで個人番号制度の違憲性に関する訴訟が始まったとの報を目にした。
う~ん、もうちょっと考えねばならんな。
さて、この制度にはどんな問題点があるのか、いろんな人の意見を聴き、少し勉強してみます。