吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

サランヘの風景 ニ

2007年01月14日 10時15分14秒 | 玄界灘を越えて
 サランヘの風景  二

 古谷!待っちょれや!どついたるでぇ、はかんくせぇだと!……。
 信介は廊下をでようとした古谷を呼びとめた。古谷はじぶんに手向かう同級生はいないとおもっていたのでびくっとした顔でふりむいた瞬間、箒の柄で古谷の顔面をひっぱたいた。まさかとゆだんした古谷は悲鳴をあげてい廊下に蹲った。信介はすかさず柄を背中になぐりおろした。大阪にいた頃、ラポ(鬼ヤンマ)とるのに竹竿ふりの名人だったので狙いは正確だ。ユルセ!ユルセ!と低い泣き声が耳にはいった。金山のどもりもう一度いうてみぃ!顔がつぶれてもええんか!と叫んだ。ほかの者は突然、古谷がたおされたので愕然とした顔つきでまわりをとりまいた。信介はそばに突っ立ったままの金山に、「俺、悪くないやろ!」といった。
「こ、こ、ったらやつ、泣けばいい!」金山もつぶやいた。風間はきかねぇな!風間は朝鮮がすきなんだべ………とつぶやく子もいたが信介にはきこえなかった。

 父の経営するミシン工場は南小樽駅坂したの入船川にめんして建っている。
 日がな一日中、電動ミシンの唸る音が間断なくひびいてくる。前の広場には樹齢をへたブラタナスの木があって工場棟につづいて道路にめんして伯父の経営する学生服専門問屋があり、前をながれる入船川が二百米ほどさきの岸壁に注ぐ。川の所々に木橋がかかって、橋の真ん中から港のほうをながめると柳並木のトンルだった。川面は夕方になると虹のようにきらめいてさわやかな音を奏でる。
 ついこの間まで柳並木の間をしきりに舞っていたアキアジムシがどこかに影をひそめたと思ったら、冷たい北風がふきはじめ、天狗山裾に白っぽい吹雪が集まってきたと思ったら雪がちらついてまもなく街ぜんたいが吹雪につつまれた。根雪にはまだ日があったがたちまち二十センチほどの積雪になった。荷馬車ひきが慌てて馬橇に交換するさぎょうがかしこに見られた。 
 校庭で金山が首をななめにしながらはしゃいで駆けている。
 金山は雪が好きなのか口を大きくひらいて散りおちる小雪をなめている。
「き、き、きょぅお、お、おれのう、うちさ来いば…」と金山がいった。
「うんゆくゆく、…」信介はのどがつかえそうな返事をした。
 …ひとめーふためーみやこしーよめごーいつやのーむこさん、ななやでやーくしーきせるではたいたーすこーんと金山は不思議にもどもらずにうたいながらかけだした。

サランヘりの風景 一

2007年01月13日 10時05分57秒 | 玄界灘を越えて
 サランヘの風景  一

 教壇のまえに立って恥ずかしそうにぴょこんとおじぎして頬を赤くした金山徹のつぎはぎだらけのコール天ズボンの、風間信介はふと昼食時間になると教室をぬけでて校庭の隅でひとりぼっちになって鉄棒遊びをして飢えをまぎらわしている欠食児童を脳裏に浮かべ、金山もそんな生徒かも…と思った。それまでも転校してきた何人かの生徒が突然席を空にしていつのまにかでてこなくなることゃ、学校を休んで荷車の後をおして働く生徒もときどき街でみかけたので、金山もそんな境遇にちがいないと思った。
 昭和の初期、北海道一の経済都市の小樽では各地からやってくる季節労働者や、出面取りと呼ぶその日暮らしの人足の子供にそんな境遇の子がいた。そんな環境から全道で一番早く学校給食もはじまったが、児童の栄養より、欠食児童の救済が目的だった。
 しかし金山徹は服装こそ貧しかったがどことなく表情に気品があって、澄んだ美しい眼と、キリッとした眉ときちっとむすんだ口元に信介は内心ハッとした思いだった。
「金山徹君だ、吃りだが算術の秀才だ!…」と五年三組担任の札幌師範をでたばかりの坊主頭のN先生が皆に紹介した。
 信介は大阪から転校してきて、関西弁のなまりが消えず、小樽はべをつけるさかいなんや田舎くそうて、言葉もでぇへんさかい…と作文を書いて皆の前で朗読させられたことがあり、転校生のかたみの狭い雰囲気を思ってなんとなく金山に同情めいた気持ちになった。 その日、下校時間に校門をでた金山が第一大通りの坂道をくだってゆく後を追った。信介とおなじ通学路である。ときどきけんけん跳びしながら金山は入船二丁目の十字路で信介にむかってぺこんとお辞儀して駄菓子屋のかどから姿をけした。それから何日かして小樽湾を見下ろす天狗山に初冠雪があり、学校の教室のストーブにも石炭がくべられ、休み時間になると皆がストーブのまわりに集まった。
「カ、カ、カ、ラスがカカァ、カァゴッコ(吃り)の糞カラス!」と喧嘩ばかりしていばっていた古谷という沖仲士の子が金山の吃りをまねて馬鹿にした。 
 信介はなんで吃りの真似すんのや!このアホンダラ!と喉まででかかったが我慢した。 その日、帰り道で信介は金山話しかけた。
「金山君、いつかあの古谷をはりたおすから…」と慰めた。
「カ、カ、カ、ザマ、お、お、れゴ、ゴッコダバすかたねぇ…」と視線を落として言った。 そんな出来事があって数日がたったある日、
 自由画の時間に信介が描いた八角壺をよく描けている、このうわぐすりの色の変化は素晴らしい…とほめられた。大阪にいた頃、友達の家でみた青い八角壺に飴玉が仰山はいっていてともだちのおんちゃんが手にいっぱいにぎらせてくれた。その壺の美しさを思い出し、クレパス画で描いたのだ。先生はそれを黒板にはった。すると後ろの席で古谷が…八角壺ははんかくせぇとおなじだべさ、糞壺だべとつぶやく声を耳にした。
 休み時間の小使さんの打ち鳴らす鐘で、廊下へでた途端、掃除用の箒が眼にはいった。

昭和初期 小樽の小学校 二十六

2006年12月25日 12時29分24秒 | 玄界灘を越えて
昭和初期 小樽の小学校  二十六

 溺死騒ぎの日
 十五夜の朝、母は今夜はおいしい月見だんごどっさりつくるけんね…と言った。
 その日、おひるから太郎のさんぽで岸壁まで時間をかけた。
 それから水天宮の階段をのぼつて小樽港の風景を写生した。それまでなんどもここへ来て港風景をクレパス画で描いていた。その日のおおがたの白い汽船はギリシャ船と北日本汽船の船長の息子で同級生の野口君から聞いていた。
 野口くんも東京ら小樽へ父がてんきんしてきたのだった。
 うまく描いた写生にまんぞくしてだいいち大通りを量徳寺への坂道をあるいていたら工場の能勢というミシン工にであった。
 …ひろちゃんこれから日活のエノケン見につれてってあげるから行くかい!といったのですぐ返事した。
 とちゅうからやったので、二時間たってまたみなおしたのでおわったのは日もくれた七時前やった。
 能勢は休みなのでそのまま街へ酒のみにでかけた。
 家につくなり…お前だまってどこへ行ってたんよ、海水浴にいっておぼれたんかもしれんいうて駐在のおまわりさんに様子をきいたばかりじゃ!罰やからそのままそこで立ってなさい!家にあげんから!とかんかんに怒られた。わけをはなしてやっとゆるしてもろうたが朝からたのしみやった月見団子はもらえんかった。 
 ちずこがあとでこっそり皿にもってぼくの部屋にとどけてくれた。
 その頃、まいにちのように築港ちかくの海水浴場のインカマで溺れる事件がおきていた。 インカマは海底の岩の割れ目にぽっかり開いた穴のことでそこへ足がはさまるとぬけなくなって溺れるときいていた。                           家の近くに山田写真館があり、その一人息子で二年上のクラスの一郎くんが三日まえにインカマで溺れて死んだばかりやった。

昭和初期 小樽の小学校 二十五

2006年12月23日 06時06分01秒 | 玄界灘を越えて
昭和初期 小樽の小学校  二十五

 深川が自転車の荷台にさくらんぼを山積みにした篭をつけてやってきた。
 …いいなあ!ふかちゃんはまいにちたべとるんやろ!…
 ぼくはうらやましゅうていった。
 …今年は大豊作なんだ!たべきれねぇだ!…
 …ふーん、明日も持ってきてよ!…
 …したら今日、ぼくの家さ来いさ、帰りにのってかえるべ!…   
 深川の家は入船のおくの霧が丘にある。いつか風邪ひいてやすんだ時、母の使いでたずねた。家のまわりはポプラなみきがならんでいた。
 チャッペと言うしば犬がいてぼくの頬をなんどもなめた。
 おバチャンが五銭も小遣いをくれた。おばバチャンの目は深川とちごうてまっすぐやった。 深川の目は斜めにむいとるからぼくをみてもほんまに見とるかわからん目や。
 ぼくはさくらんぼの木にのぼつて遠くの景色をながめた。小樽港にぎょうさんの汽船がていはくして、赤灯台と白灯台のまんなかを白い大型汽船が波をけって入港してくるのが見えた。
 さくらんぼを籠にいれながらおおきいのをえらんで口にいれた。
 大阪のウメちゃんにたべさせたらびっくりするやろな、と思いながらウメちゃんのかわりや言うて口にいれた。
 かえりに自転車の斜め乗りをして住吉神社前から第二大通れの坂をくだった。
 ちずこたちも大喜びやった。手塩や上川はさくらんぼがならいそうだ。
 深川のおばちゃんはこんどべこ餅つくってあげると約束してくれた。五月の節句がくると小樽の家々ではどこでもべこ餅をつくと父から聞いている。べことは牛のことをいうのでぼくはべこ年や、というとちずこがおいしそうだわ、たべたいわとぼくの目をみてわらった。

昭和初期 小樽の小学校 二十四

2006年12月04日 12時29分31秒 | 玄界灘を越えて
昭和初期 小樽の小学校    二十四          

 小樽の市民にとっては花見の季節はひとしおたのしい。長い長い冬の雪が消えて天狗山の裾野の淡い草のいぶきとあちこちでなくかっこうりの声、港からの警笛まで春らしい。 入船川の音も天狗山の雪どけ水でごうごうと威張った音をたてている。
 ニシン馬車の鈴音もけいきがいい。
 あしのふとい土方馬なのに走る時はかっこうよくあしが軽快だ。
 今日はあさから皆そわそわして落ち着かないのはおひるから花見にゆくことになっていたからだ。小樽公園にむかってひだりがはの丘陵は桜ケ丘とよばれる桜の名所であ。
 深川が朝から公園に行って、紅白の天幕をはる場所をとった。
 ちょうど丘のなかほどの桜の幹にひもをまきつけ、コの字型に天幕をはり、筵を敷き詰めてきゅうごしらえのかいじょうが出来た。
 お昼前にたこ虎からおりづめ弁当が届いたのでほかの男子工員達が店のリヤカーに積んで、麦酒や清酒、サイダーなどといっしょに公園に出発した。ぼくも太郎の首輪に綱をつけて公園にむかった。
 太郎にも今日はとくべつのごちそうで魚ではなく馬肉のこまぎれを五百匁もにこんでこ鍋に用意した。
 桜ケ丘のかしこから威勢のいい唄がきこえてくる。どこかよその団体のはやくも歌声が花びらをちらすようにひびいてくる。
 深川がまっかな顔して…おかみさん一つどうぞ!とすすめたのは一升瓶の日本酒だ。
 酒に強い母はさぁお前もどうぞと深川にすすめた。
 ちずこたち女工員は皆、おいしそうにおりづめを開いている。
 …ハァーしまーでむーすめじゅうろーくーこいごころ!…と女工員主任の八重子が黄色い声を張り上げた。
 それそれっ!調子をつけたのはかんぬきミシン工の仁井田だ。
 ぼくはギョロッとした目で皆をみている太郎にもってきた小鍋から肉を出してあげた。 すこし意地悪に待てっ!とどなったらたべようとしていたのがじれったくクゥーと鳴いた。 

昭和初期 小樽の小学校 二十三

2006年11月29日 15時00分19秒 | 玄界灘を越えて
昭和初期 小樽の小学校    二十三          

 オタモイ海岸を見た時に海にはほんまに竜宮城があるんやと思った。あんまり美しいこうけいなんで息がつまるほどかんげきした。
 工場がやすみなので父が寮の工員さんたちをつれてオタモイけんがくに行った。
 オタモイは小樽湾の西海岸のむこうの断崖つづきのいわばのまだむこうのだんがいのしたにある海岸でその西となりが塩谷海水浴場、その西に蘭島海水浴場がある。なつになると小樽のしみんたちはひがしの石ころだらけの浅利、銭箱、張碓、海水浴か、塩谷、蘭島の海水浴場にゆくが塩谷と蘭島は砂浜になってしかも遠浅になので人気が高い。同じ砂浜でも蘭島はなぜか砂鉄のすなだからまっくろである。
 臍くらすいの深さで足指で砂をほじくると大きなアサリ貝やハマグリ貝がとれるそうだ・なつになったらちずこがつれてってくれるとやくそくした。
 乗り合いバスに乗って入船町から第一大通りをとおって小樽駅から西の坂道を走って長崎街をぬけて峠をこすとみごとに青い日本海のかいがんが見えてきた。
 父がたのんだ料理屋の弁当には卵焼きやかまぼこ、焼き魚、金時豆、小魚のつくだに、羊かんや、数の子など大阪からくる時に食べた駅弁当みたいな折り詰めべんとうだ。
 海はどこまでも透き通った色で大きな岩のまわりに昆布がゆらいで魚のたいぐんがさっとおよき、おきにはまっしろな雲がもくもくそらにのぼっていた。
 父は深川や母と輪になってお酒をのんでいる。母は祖父以来酒の強いいえがらじゃき…と言ってちょっとのさけでよってしまう父とははんたいに五合くらいのんでも顔もそのままやった。
 深川はゆでだこのように顔をまっかにしている。
 ぼくはちずこがあけてくれたラムネが大好きで二本ものんだのでゲツプゲップが続いて笑われた。
 オタモイはぜっぺきの島でとなりの高島はアイヌことばで昆布や海草がながれつくところとちずこが言った。
 …ヒロちゃんそのコンブかまぼことわたしのようかんとばくるべさ…と言う。
 ばくるはこうかんするとおそわっていたので…うん!ばくるばくる!と言って弁当箱をさしだした。

昭和初期 小樽の小学校 二十二

2006年11月28日 06時17分05秒 | 玄界灘を越えて
昭和初期 小樽の小学校    二十二

 つぎの日曜日ちずこを描くことを約束した。
 手塩のともだちに送ると言う。
…えんぴつ画でええやろう!ほおをぼかすときれいやでェ!…
 ぼくは画板を首からさげて絵かきみたいなきもちになった。
 ちずこもこうばから椅子をもちだしてすわった。母のするようにうすいほおべにをつけておけしょうしてい。
 …クレパスやないからけしょうの色はでぇへんのや!…
 …したらあとで頬にあかいべにつけたらいいべさ…
 …かえってこすれてあかんわ!…
 ぼくはしせいがかたむいとるので直した。
 …ああちょしたらもちょこいべさ!…
 …なんや!ちょすもなんもせぇへんでェ!…もちくいたいか?…
 …ちがうったら!ちょすはさわること…もちょよ、もちょこいはくすぐったいことよ! …ふーん小樽べんってどこからきたことばや!アイヌか?…
 …アイヌ言葉は綺麗よ、風はレラ、神様はカムイ、すなが多いところはオタルナイ…
 …ちずこはがっこうで頭が一番やったろう!ようおぼえとるわ!…
 ぼくはいそいで顔のりんかくを描いた。
 目がとてもきれいやった。
 …ああ!太郎!駄目よ!餌入れかっぱがえしてほんとにはんかくせぇ太郎だわ!…
 ちずこが言ったので後ろを見ると太郎があしで餌入れをふんずけている。
 …かっぱがどないしたんや、太郎は足で餌入れふんずけたんやろ!…
 …ふんずけてひっくりかえしたからかっぱがえすと言ったのよ!…
 …けさ母ちゃんはみそ汁をかっぱがえしよったでェ!…
 …ヒロちゃんも頭がいいさ!そんな時につかうのよ!…
 ちずこがぼくの目をじっとみるのでぼくの顔がほてってしまいよった。
 …いよいよべこもちがくるわねぇ…早いものだわ!…
 …へこのもちってうまいんか!…
 …べこの餅じゃないの、父さんの目がねの色、べっこう亀のこうらのいろでしょう、茶  色がにてるからべこと言うの…あまくておいしいもちは大好きよ…男の節句で北海道  はどこでも作る季節なの…すると夏はすぐそこよ…
 …ちずこは夏が大好きなんやな…
 …大好きよ!野山はフレップという名のイチゴがいっぱいなるし、ユリの根っこほりし  てむしてたべるとほかほかしておいしいし、やまではカムイかっこうがなく嬉しくな  っちゃうわ!…
 …ぼくも夏大好きや、いろんな虫、ぎょうさんとれるでェ!… 
  描きあげたちずこの胸につけた花もようのかざりがとてもよくにあった。

昭和初期 小樽の小学校 二十一

2006年11月27日 17時23分06秒 | 玄界灘を越えて
昭和初期 小樽の小学校  二十一

 太郎の食欲はものもの凄い。ぼくもまけんんほどの食いしんぼうやが太郎にはかなわん。 いちばで貰うアラはこの頃、大きいバケツに一杯やった。店のリヤカーで運ばんとあかんようになった。
 それを夕方かまどで炊くとアラのにおいが部屋にたたよってきぶんがわるくなった。 …こらっ!太郎!そんなに食うな!いちばからはこぶのがたいへんなんや!とぼくは不平を言い出した。それで夕方ちずこがてつだうようになった。魚屋のおっさんはちずこが行くととても親切やった。バケツからぼくんちの大きいバケツにうつすのはおっさんがやってくれはった。
 この頃はアブラコだけでなくニシンのアラもぎょうさんでてくる。
 太郎はぺろっと平らげるとかならず僕の顔をみて舌をなんどもぺろっと出す。
 もうあげへんさかい太郎の食いしん坊!とぼくは頭をひっぱたいても涼しい顔でしっぽをふる。
 さんぽは入船の坂道を量徳小学校に向かい、駅の橋からはんたいの坂道をくだると海陽亭というおおきな屋敷の料亭の入り口のポブラの樹でかならず太郎は小便をする。
 そこにほかの野良犬がちよこちよこ走ってきて小便するのを見た太郎は低い声でうなりだす。そのほえ声はすぐ野良に聞こえてあわてた野良は川のほうに走り出した。太郎が歩く時の綱をひく力は大人が二人でもとめれん力やったが、僕はようじんのため早く綱をはって歩きだすと棒で尻をたたいて待てっ!と気合いを入れた。
 今は待てっ!とよしっ!と伏せっ!の三っつがききわけられるようになった。太郎にとって一番怖いのはぼくとぼくのもつ棒切れや。強い太郎でもおもいっきり棒が当たるとクゥと声をだすのはつらいんやろう。
 でもそんな仕付けをしとかんといざ太郎が他の犬にかみつくことがあったらおさまらなくなるから、と深川が言う。

昭和初期 小樽の小学校 二十

2006年11月26日 16時40分28秒 | 玄界灘を越えて
昭和初期 小樽の小学校   二十
 
 冬、街には一米ほどの根雪がつもると翌年の四月まで雪はとけずに街は雪とこおりにとざされる。
 そんな時、かつやくするのは橇である。どの家にもおおがたとこどもようのこがた橇がそなえつけてある。
 ぼくの家のよこに石炭小屋がある。今は初夏をむかえようとしているので石炭はからっぽやが夏のおわりにはじゆんびのため石炭でいっぱいになる。小屋の奥にではいりぐちがあってそこからじかに部屋につながって大雪の日でも外にでないで石炭をほじゅうできるようになっていた。
 冬にかつやくするのがからふと犬である。深川は真冬はいつものはんぶんほど早くこうばにつくという。
 クロに橇をひっぱらせてはしるので奥沢から坂道がおおいのでこうばへつく時間は二十分もかからない。自転車をほしがっていたが百円もするので買えないそうだ。
 …小口先生さたのんでさかりがくるとお前の力では手におえんがァ!昨日、深川にたのんで手術してもろうたガ!…と父はぼくが学校から戻るとおしえてくれた。
…さかりってなんや?…ぼくは三時のおやつ時間にちずこに聞いた。
…ヒロちゃんもうさかりがきたの!まだまだはやいわよ!…
…はやいことあらへんでェ!たろうのさかりや!…
…たろうもはやいわねぇ!このあいだきたばかりでしょう…
…これからきたらこまるさかいに昨日深川にたのんだと父ちゃんが言うた…
…そうか予防よねぇ、喧嘩犬だからいまからしとかないとねぇ…
…ちずこもさかりあるんか?…
…フッフッフッフ!しらないわよ!…
 ちずこは顔をまっかにして鉄瓶をとりに下へおりて行った。

昭和初期 小樽の小学校 十九

2006年11月25日 18時38分25秒 | 玄界灘を越えて
昭和初期 小樽の小学校   十九
 
 ミシン工係長に深川という兄ちゃんがおった。いつも流行歌を歌いながら電動ミシンをふんでぬうと、児童服をうしろに放り投げていた。うけとるほうはアイロン使いがじゅくれんしたちずこやった。ミシン工のうしろにひとりづつアイロン女工員がいて一組になって仕上げ工にわたすのである。深川が…娘十六、こいごころ!とうたうとむうすーめ二十ヨーあきちやったア!とかってにちずこはかえうたをうたう。ちずこは声をふるわすのがうまい。同じ北見方面からきた女工員たちはほかの工員といっしょにキャアキャア!と甲高い声で笑ってはやしたてる。父はべつの部屋で鉢まきしてぷあつい反物のかさねたものを裁断機で型にそってきっている。深川は少年のころからひきとって教えたミシン工で母も父もはやくにあの世にいってたった一人暮らしだ。奥沢水源池のちかくの丘のちっちゃな農家の倅やった。やせほそった顔の頬はいつも赤い。
 目がすこしひんがらやった。ひんがらは大阪弁で目が斜めにむいてるのを言った。大阪弁というのはまちがいで土佐べんかもしれない。母が時々言うことばだ。
 深川の家にも犬がいた。名前はクロだ。いろが黒いから黒がいいべ!とももらった時につけた名前と言う。その犬を太郎にあわせるために連れてきた。
 からふと犬で毛もふさふさして耳がぴんと立って格好がええ犬やった。
 おとなしそうにしっぽをふってぼくが頭をなでると余計にしっぽをふった。
 太郎も仲間にあえてうれしそうに尻尾をふった。
 太郎のあごは子犬なのに肉がだらんとたれさがっている。父が言うにはもし喧嘩させたら樺太犬もつよくて熊もたおすこともあるが土佐犬にはかなわんがャ!と言った。
 さむさには強くてひょうてんか三十度で毛もこおってつららみたいになっても平気だと言う。
 太郎は土佐犬やからさむさには弱い。でも人間みたいにぶるぶるふるえなかった。
 小樽のまちに一番多い犬は茶色のしば犬でそのつぎが白い秋田犬、毛の多いからふと犬の雑種である。アカも芝犬や。                        
 毎朝のさんぼでであうのはきまってたこ虎の茶色いよくほえるボチで、カネタマル文具屋のとなりの肉屋のシロは秋田犬だ。