裏いち投稿者日記

投稿者では括れないような内容に関する記述。

イラク人質事件、こう思う

2004-11-02 02:19:46 | Weblog
 別にイラクに限ったことではない。人質事件なんて世界中のどこでも起きている。東南アジアでの日本人誘拐事件なども数年に一回は発生している。
 今回の事件は犯人側の要求に日本政府が応じなかったから殺害された、事件はそれだけでしょう。それにいろんな付加情報を意図する意図しないを限らず垂れ流してしまうから変な世論が形成されてしまう。
 事件はそれだけだと思います。今までの積み重ねの結果を理解しましょうや。

イメージで惑わされていかないためにも意見を書く

2004-10-28 01:51:44 | Weblog
イラクで武装勢力が邦人拘束、自衛隊撤退を要求
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041027-00000002-yom-int

 イラクで暗躍するヨルダン人テロリスト、アブムサブ・ザルカウィ容疑者の率いる「イラクの聖戦アル・カーイダ組織」とみられる武装組織は26日、イラクで拉致・拘束したとする日本人男性のビデオ映像をインターネットに流し、日本政府が48時間以内にイラクに駐留する自衛隊を撤退させなければこの男性を殺害すると警告した。

 イラクで再び日本人が拘束されたとのこと。それについて論ではなく意見を書く前に、体験して感じたことを書きます。
 大学で社会科学研究会というサークルに入っているのですが、そこの先輩がお話していた、今年の6月にイラクへ向かったオッサンのことを記したいと思います。

 その方は反米デモや基地闘争など、様々な政府との戦いに参加しておられるそうで、今回も借金をしてまでイラクへと向かったそうです。
 何の準備もなしにイラクへ向かったというわけではありません。万が一、自分の身に何かが起こった場合を考え、自分の意志を書き表した文書をその先輩に託したり、アルジャジーラテレビに声明文を送ったそうです。恐らく政府の助けは借りないとのことでしょう。
 イラク隣国まで到着し、何とかイラクに入れないものかとしていると息子がイラク国内で戦っているという男性と知り合い入国。息子に「私はあなたたちを応援している」と言いお金を送ったそう。
 イラク滞在は1日あまりで、出国には夜通し車を走らせて乗り切ったとのこと。また、その後も猛一度イラクを訪れたそうですが、その詳細については語らず、現在はまた再び行くための準備をしているそうです。

 その生き方、良いとも思わないし悪いとも思いません。ただ、自分らしく生きているなと思うばかりです。

 今回の事件、自衛隊の撤退にはいい機会だと思うのですが。人質はどうであれ何の役にも立たない自衛隊は撤退するのが最善でしょう。これが意見です。
 世論というのは見えない部分で広がっていき、時に暴力的な支配を握ったりします。今回はそういうことにならなければと思います。自分がならないように、意見を明示しておきました。

資本家と労働者の二元対立という構図

2004-10-20 23:41:33 | Weblog
 どうにも釈然としない。本当にこれしか道は無いのか。

 最近、また反戦運動家の人に声をかけられて情勢討論をやっています。11・7の労働者団結集会への誘いを込めているのでしょう。労働者が団結して資本家を打倒するという熱弁を自分に奮ってきます。

 正直、反論できません。確かに資本主義の行き着くところまで行き着いてしまった感じだし、戦争が企業の利潤目的であることも否定はしない。だからといって団結しての闘争しか道はないと言われると、それこそ怖くなってしまう。

 共和党と民主党のように、資本家と労働者という二元対立にしてしまっていいものか……。反論はできない。確たる論を持ち合わせていないし。だからと言って同調もできない。労働者という団体の中に入る自分が何だか許せないから。

 労働者側に入ることで何だか自分が頑張ってきたことが全て終わってしまう気がする。どうにかして自分なりの面白い文章を作っていこうとするささやかな営みが、闘う事で終わってしまう気がする。

 打倒しなければならないということで、そんなものは二の次だと言うかも知れないけど、……ここまでだ。異論をかけるのは。この後はどう考えても次の手が読めて何も口に出せなくなる。やはり最下層の人間のことを考えるべきなんだろうな。

 昔から、世の中のことは軽々しく批判して見せて自分はどうなんだ?という風な人間にはなりたくないと思っていたけれども、どうにも手が出ない。でも、その考えを変える気はない。

 そう考えていくうちに今日もまた一日が過ぎていく……。

「華氏911」の感想と影響

2004-09-08 00:22:51 | Weblog
 8月27日の金曜日、新潟旅行のついでにと映画「華氏911」を観賞してきました。平日でその日の最初の上映にもかかわらず、会場には30~40人ほどの客がおり、年齢層も幅広く多種多様な中で上映が始まりました。

 昨夜一睡もしていなかったと言うこともあって前半に10分ほど眠ってしまいましたが、ほとんどは観ることができました。

 自分は映画通でも無いので映画の手法や内容については何も知らず、またドキュメンタリーに詳しい人間でもないのでそういうものについても分からない。ただ、「流行」という分野には詳しいつもりですので、この文化に自分は、そして他人はどう感じていたのかについて記します。

 自分の感想としては「痛快」ですね。戦争と言うものそのものを批判した映画であれば「絶望」以外の感情は自粛してしまうはず。これが人為的に作り上げられた個人や集団に対してだったので「痛快」と表現しても悪く思われないのかもしれません。

 しかし、周りの反応は様々のようです。ブラックジョークで笑うおばさんもいれば、息子が戦場で亡くなられた女性の場面でカップルの彼女が泣き崩れるなど。

 結局、この映画をどう捉えるかということは日本人にとっては様々であるようです。日本人がこの映画をどう観たらいいのか、という指南文などをよく見かけましたが、日本人はそれぞれ個人の感情から観ることができた、それは自分にとっては幸運であると思います。集団として意識が固まってしまうのには未だに抵抗がありますので。

 最後に、この映画は後世にどう語り継がれていくのでしょうか。今の生の世相を現したものであるから、後の世には見られなくなっていくかもしれませんね。よく分からないのですが、ドキュメンタリーってそういうものですよね。残念です。

人を区分しているのか、されているのか

2004-08-25 01:11:29 | Weblog
 血液型。血液型による人間の区分が急速に進んでいます。世情不安の中、人々は再び血液型や占いなど何かによって自分の人格を支配されるものに依存し始めてきたように思えます。
 血液型で有名人や一般人の特徴を区別している番組を観ながら、ふっと果たして血液型の違いというのは人を区分しているものであるのだろうか、という疑問を持つようになりました。区別しているのではなく、我々が血液型という人為的なものによって区別されているのではないかと。

 「区別されている」ということには抵抗があるかもしれません。自分の性格はテレビで紹介されていた血液型の性格そのものだと反論する気持ちも確かにあります。
 しかし、それはテレビでの区分を見て、自分で無意識のうちに合わせているからではないですか?血液型で性格が分かるという事実が広まったのは、いつのころからかは分かりませんが、少なくとも物心ついたときにはそのような雑談が周りであったように思えます。
 いや、昔からそういう区分はされていなくとも、自分たちは知らず知らずのうちに分けられていたのかもしれません。大多数の人は区分されることについて受動的ですし、自分が特徴付けられたということでむしろ喜ばれる傾向にあるようです。

 そこまで書いてくると「区分している、されているからといってそれがどうかしたのか?」という批判を浴びるような気がしてなりません。持論を述べていくことに酔わないように、逆の意見は常に尊重するように心がけています。

 そもそも、人類は分類をすることで共同体の存続を保ち、発展してきた経緯があります。
 これは大学の演習授業で他の生徒が発表したものですが、世界の様々な地域の共同体で実際に行われていた象徴的分類の一つにカリエラ族の四分制というものがあります。
 これは社会は四つの名称を持つセクションに区分され、社会の成員は出生によって各セクションのいずれかに属するというものです。そのセクションはというと、
(1)能動的、冷淡、抽象的
(2)受動的、冷淡、抽象的
(3)能動的、激しやすい、具体的
(4)受動的、激しやすい、具体的
というもの。
 特筆すべきは、それが出生されたときから区分されたもので、また同じセクション同士での婚姻は許されないという制約が存在するということです。

 これはそのまんま血液型の区分を表すものではありませんか?性格の区分はもとより、もしかしたら血液型によって人間を好き嫌いしているのかもしれません。つまり、制約されているということでしょう。

 人為的に造られた血液型の性格区分によって人間が区分される。怖いです。自分はよく将来に対する警鐘を鳴らしたいときに「怖い」という言葉を使います。職業としてやってらっしゃるルポライターでしたら激しく警鐘を鳴らす文章を書いているところでしょう。
 いち大学生でしかない自分は、自分の意見としてコレぐらいの文章でしか書けませんが、「怖い」という印象は持ち続けています。
 これから将来、全ての人間は血液型によって性格を分類され続けていくのでしょうね。



参考文献(二次使用)
ロドニー・ニーダム著『象徴的分類』(1993年、みみず書房)