佐々木亜里沙さん(絵画)、瓜生裕樹(ウリュウユウキ)さん(写真)、四足獣さん(立体)による3人展だが、ここで語るのは、ウリュウさんについてだけになると思う。おふたりには、もうしわけない。
最近、怒涛の勢いで発表を続けているウリュウさんだが、個人的にはちょっと不満があった。それは、作品の質についてではなくて、1度に見られる写真の数が少ないことについてだ。
もちろん、グループ展だからしかたないべ、と言われればそれまでなんだけど、「もっと見たいなあ」と、よく思った。発表回数が多かったぶん、よけいにそう感じたのかもしれない。
今回の展覧会は、半数以上は最近のグループ展で発表済みの作品だが、そのために、最近のウリュウさんの仕事をまとめて見られる格好の機会になっていると思う。
もちろん、全点が銀塩、モノクロ写真(デザインされたパネルに貼るなど、展示にひとくふうこらした作品もあるけど)。
入り口附近に展示されているのは「想うきっかけ・旅するきっかけ 1・2・3・4」(07年)。
たしか、kanecho party(旧privyビルでひらかれたイベント)のときに発表された作品。
苫小牧、JR日高線で撮った写真のなかに、茅ヶ崎で撮った海辺の写真が1枚まじっている。
いちばん左側にあった写真になぜか心ひかれる。
王子製紙の社宅とおぼしき、まばらにたつ団地の中に、木の電柱が立っている。
それに寄り添うように、上半分を切断された木の電柱3本も立っている。
曇天(ウリュウさんの写真には、くもり空がよくにあう)。初冬なのか、木々は葉をおとしている。
人の姿はないのに、なぜかせつない1枚だ。
4枚目も、おそらくおなじ団地のなか。
草の枯れた空き地に、とけ残った雪が、なぜか一直線にのびている。
見る人に、「ここではないどこか」へ旅立つことを、促しているかのように見えるのは、なぜだろう。
つづいての「地上数cmの視線」(07年)は、3月に札幌・円山動物園でひらかれた「スネークアート展」に出品された作品。2枚。
今回も、床上ぎりぎりに展示されていた。
「現実は幻の中にこそ、ある。」(06年)も2枚からなる組み写真。
これは、清田区のTEXTUREで発表していたように記憶している。
上に飾られた写真は、飛行機雲だけをとらえたシンプルな1枚。
下は、車も人もいない、夜の道。手ブレが、スナップ風な感じをかもし出す。
「scene 30」(06年)は、題の通り30枚組。サービス判ほどの大きさに焼かれている。
昨秋、岩見沢でひらかれた「FIX! MIX! MAX!」の関連グループ展に出品され、micro.復活祭に再出品されたもの。
JRの車内にはじまり、駅の跨(こ)線橋から見た構内、野外彫刻、六条ストアという古い商店、住所表示板
24番のモスバーガーの「ドライブスルー」と書かれた路面がやや駅から離れているのを別にすれば、すべて岩見沢駅前周辺が撮影対象だ。
じつはこの地区は、レトロな建物などが目白押しなのだが、ウリュウさんは、意外なほど、それらの古びた建造物などには、正面からレンズを向けていない。
30番は、他の写真と同じサイズの鏡になっている。
これらをいま見ている「あなた」によって、一連の作品は完成するんですよ―と、ウリュウさんは言いたいのだろうか。
最後の8枚組み「消え残る光の景色」は新作。
ほとんどのグループ展などで新作を用意してきているのは、ウリュウさんらしい律儀さだと思う。
きりっとした表情であるきだす女性がいるかと思えば、歩道橋の上とおぼしきところにさびしそうにたたずむ人の影の写真がある。
夜の闇の中にぽっかりと浮かぶマチ。
闇に描かれた光の線(山岸せいじさんの個展「景」を思わせる)。
路上に投げ出されたスチールパイプのようなもの。
アスファルトにちらばった、白線をひくための白い粉。
なんだかこれらの画像が、あたらしく出発しようとする作者の姿と、遅疑逡巡している作者という、相反するイメージを、二重写しにしているような気がするのは、筆者だけだろうか。
どうしてそんなことを感じるのか、じぶんでもうまく説明できないのだが。
07年4月17日(火)-22日(日)10:00-19:00
ART-MAN Gallery(中央区南4東4 地図G)
21日18:00からはパーティー。
なお、北海道美術ネットにも書いといたけど、ウリュウさんは5月、「想いは旅をする -LIKE A ROAD MOVIE-」と題した個展を、湘南海岸と札幌の2ヵ所でひらく。
日程はつぎのとおり。
5月4日(金)-15日(火)11:00-日没、水・木耀休み、kalokalohouse(神奈川県茅ヶ崎市中海岸2-4-31)
5月21日(月)-6月3日(日)11:00-20:00、火曜休み、gallery new star(中央区南3西7 地図B)。
□ウリュウさんのサイト「day's clip」
■“SAPPORO”PHOTOS... (07年2月)
■kanecho party(06年12月)
■写真展19761012(06年10月)
■二番街de ddd ART(06年9月)
■小樽鉄路写真展(06年8-9月)
■his life,her life,this life -まちの記憶と記録展-(06年7月)
■04年3月の写真展
最近、怒涛の勢いで発表を続けているウリュウさんだが、個人的にはちょっと不満があった。それは、作品の質についてではなくて、1度に見られる写真の数が少ないことについてだ。
もちろん、グループ展だからしかたないべ、と言われればそれまでなんだけど、「もっと見たいなあ」と、よく思った。発表回数が多かったぶん、よけいにそう感じたのかもしれない。
今回の展覧会は、半数以上は最近のグループ展で発表済みの作品だが、そのために、最近のウリュウさんの仕事をまとめて見られる格好の機会になっていると思う。
もちろん、全点が銀塩、モノクロ写真(デザインされたパネルに貼るなど、展示にひとくふうこらした作品もあるけど)。
入り口附近に展示されているのは「想うきっかけ・旅するきっかけ 1・2・3・4」(07年)。
たしか、kanecho party(旧privyビルでひらかれたイベント)のときに発表された作品。
苫小牧、JR日高線で撮った写真のなかに、茅ヶ崎で撮った海辺の写真が1枚まじっている。
いちばん左側にあった写真になぜか心ひかれる。
王子製紙の社宅とおぼしき、まばらにたつ団地の中に、木の電柱が立っている。
それに寄り添うように、上半分を切断された木の電柱3本も立っている。
曇天(ウリュウさんの写真には、くもり空がよくにあう)。初冬なのか、木々は葉をおとしている。
人の姿はないのに、なぜかせつない1枚だ。
4枚目も、おそらくおなじ団地のなか。
草の枯れた空き地に、とけ残った雪が、なぜか一直線にのびている。
見る人に、「ここではないどこか」へ旅立つことを、促しているかのように見えるのは、なぜだろう。
つづいての「地上数cmの視線」(07年)は、3月に札幌・円山動物園でひらかれた「スネークアート展」に出品された作品。2枚。
今回も、床上ぎりぎりに展示されていた。
「現実は幻の中にこそ、ある。」(06年)も2枚からなる組み写真。
これは、清田区のTEXTUREで発表していたように記憶している。
上に飾られた写真は、飛行機雲だけをとらえたシンプルな1枚。
下は、車も人もいない、夜の道。手ブレが、スナップ風な感じをかもし出す。
「scene 30」(06年)は、題の通り30枚組。サービス判ほどの大きさに焼かれている。
昨秋、岩見沢でひらかれた「FIX! MIX! MAX!」の関連グループ展に出品され、micro.復活祭に再出品されたもの。
JRの車内にはじまり、駅の跨(こ)線橋から見た構内、野外彫刻、六条ストアという古い商店、住所表示板
24番のモスバーガーの「ドライブスルー」と書かれた路面がやや駅から離れているのを別にすれば、すべて岩見沢駅前周辺が撮影対象だ。
じつはこの地区は、レトロな建物などが目白押しなのだが、ウリュウさんは、意外なほど、それらの古びた建造物などには、正面からレンズを向けていない。
30番は、他の写真と同じサイズの鏡になっている。
これらをいま見ている「あなた」によって、一連の作品は完成するんですよ―と、ウリュウさんは言いたいのだろうか。
最後の8枚組み「消え残る光の景色」は新作。
ほとんどのグループ展などで新作を用意してきているのは、ウリュウさんらしい律儀さだと思う。
きりっとした表情であるきだす女性がいるかと思えば、歩道橋の上とおぼしきところにさびしそうにたたずむ人の影の写真がある。
夜の闇の中にぽっかりと浮かぶマチ。
闇に描かれた光の線(山岸せいじさんの個展「景」を思わせる)。
路上に投げ出されたスチールパイプのようなもの。
アスファルトにちらばった、白線をひくための白い粉。
なんだかこれらの画像が、あたらしく出発しようとする作者の姿と、遅疑逡巡している作者という、相反するイメージを、二重写しにしているような気がするのは、筆者だけだろうか。
どうしてそんなことを感じるのか、じぶんでもうまく説明できないのだが。
07年4月17日(火)-22日(日)10:00-19:00
ART-MAN Gallery(中央区南4東4 地図G)
21日18:00からはパーティー。
なお、北海道美術ネットにも書いといたけど、ウリュウさんは5月、「想いは旅をする -LIKE A ROAD MOVIE-」と題した個展を、湘南海岸と札幌の2ヵ所でひらく。
日程はつぎのとおり。
5月4日(金)-15日(火)11:00-日没、水・木耀休み、kalokalohouse(神奈川県茅ヶ崎市中海岸2-4-31)
5月21日(月)-6月3日(日)11:00-20:00、火曜休み、gallery new star(中央区南3西7 地図B)。
□ウリュウさんのサイト「day's clip」
■“SAPPORO”PHOTOS... (07年2月)
■kanecho party(06年12月)
■写真展19761012(06年10月)
■二番街de ddd ART(06年9月)
■小樽鉄路写真展(06年8-9月)
■his life,her life,this life -まちの記憶と記録展-(06年7月)
■04年3月の写真展
瓜生さんの写真表現へのやないさんの感想に重なるところがある。たとえば、足立君の写真世界、伊藤也寸志君の写真世界、竹本さんの写真世界と比較するとき、瓜生さんらしさの世界観というか、感受性というか、テイストというか、そこが写真表現の可能性の中心から微妙にそれているという感じがいつも舌の奥にかすかに残る。それが一体なになのかをここであえて分析しようとは思わない。わかる人にはわかるから。
やないさんが感じられたように、瓜生さんはおのれの写真表現の方向性に逡巡しているのかも知れないし、未知数の表現の可能性に向かって挑戦しているのかもしれない。
写真作品がすべてを語っている。
写真表現の方向性に逡巡しているのではなくて、むしろ、生き方じゃないかと思います。
人の人生をサカナに語っているみたいで、申し訳ないのですが。
程度問題だと思うのですが。
すくなくてもわたしは、職場をやめようかとか、そんなことで遅犠逡巡はしていませんし。
T.nakamuraさんの文章はむつかしいです。
「その自覚において」
といわれても、どの自覚なんだかわからないし
「写真表現の可能性の中心」
というのが、どういうことなのかも理解できません。
「座標軸としての、写真表現のおのれの無意識のポジションの自覚」
というのも、「の」が5つもあって、なにがどの語を修飾しているのか、判読に苦しみます。