「こうしないといけないのよ」「みんな言ってるよ」
と言われると、深く考えないで人の言うことに従ってしまうようなことありませんか?
わたしは中学生まではそのようにしていました。意志を持たない者のようで、人が赤が好きと言えば、「わたしも」と答え、白が好きと言えば「わたしも」と答えていました。
もちろん意志はあるのですが、自分を押し殺して本音を誰にも言えないでいました。
中学に入学したとき、部活を選ぶのに友達のすすめたところにしか入れませんでした。体が弱いのにバスケに入り、喘息の発作を起こして大変でした。
その中学は一学期だけ通って、神戸に引っ越すことになったのでバスケからは解放されましたが……。
いやだといえば、嫌われるのではないかという恐れがあったからです。
なぜこんなに優柔不断だったのでしょうか……。『みんな言ってる』という言葉と『恐れ』を心の中に入れてしまったからです。
昨日の家庭集会では「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)」という聖書の言葉からお話を聞きました。
心を見張るとはどういうことでしょう……。心の入口を守ることです。
『怒りや嫉妬など悪い思いを心の中に入れないように。』と言われましたが、悪い思いが心の中から次々湧いてくるようなときがあります。
悪い思いを作り出しているのではなく、入ってきているのですね。
イエス様は心に見張りを立てておられました。人々がイエス様を王としてエルサレムに連れて行こうとしたとき、イエス様はそのことを知ってひとり山に退かれます。傲慢にならないため、十字架の使命を果たすためです。
また、イエス様が弟子たちにこれから起こる十字架の苦しみのことを話したとき、ペテロがいさめて「そんなことがあなたに起こるはずはありません」と言いました。
そのときイエス様はペテロに向かって「下がれ。サタン」と言っています。
弟子をサタンと呼ぶとはずいぶんですが、きっぱりと拒否するためには、そのぐらい強く言わなければならなかったのです。
イエス様も十字架は恐ろしかったと聞いて、ゲッセマネの丘で苦しみ悶えて祈っているイエス様の姿を思い浮かべました。
十字架の道を避けることはいくらでも可能でした。でも、避けて通ってしまえば、人類を救うという神様のみこころを実行することができません。それで、恐ろしいという思いを心に入れないよう、心を守られたのです。
今のわたしはどうでしょう。悪い思い、誘惑、嫉妬や怒り……そのようなものが心の入口まで来ています。うっかりすると中に入って、あっと言う間に増大するでしょう。
祈るしかありません。
イエス様、どうか心の入口に来てください。そしてわたしの心のドアを守ってください。
「心を守ると、いのちの泉がこれからわく」のですね。いのちの泉をあふれさせてください。
追記
2012年10月31日に書いた「みんな恐怖症」という関連記事あります。ここをクリックして下までスクロールしてご覧ください。
写真はパリの凱旋門。
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