“♪衣笠~の松しらべもゆかしく♪・”という優しい歌詞で始まる校歌を持つ中学・高校に6年間通った私は、衣笠という地名を聞いただけで半世紀前の懐かしい思い出が甦る。立命館大学の京都学講座で島田康寛先生による「京都日本画家革新の旗手たち」という講座に参加すれば堂本印象美術館が無料で観賞できるというので、家内と一緒に立命館・衣笠キャンパスへ出かけた。
会場の清心館は等持院から指呼の間であるので、講座の始まる前に、歴史上有名なこの寺を半世紀ぶりに覗いてみることにした。私の中学・高校当時の等持院は薄暗い荒れ寺という印象で、とても足利家十五代の菩提寺とは思えない寺であった。寺績を綴る資料によると、当時の等持院は水上勉の「雁の寺」の舞台そのままで、夢窓国師作の庭園とされる芙蓉池は泥芥で埋まり、広い心字池も近隣の子供の魚釣りに任せ、八重もぐらが茂っていた。
等持院は華やかさに欠けることに加え、足利将軍は応仁の乱など幾多の戦争を招いたため人気が悪く、青天の土曜日でも観光客は殆どいない。等持院の庭園は夢窓疎石の作で、8代将軍義政が東山山荘(銀閣寺)を作る上でのモチーフになったと言われているが、天龍寺の曹源池のような豪華さは無く、枯山水の庭のように哲学的な思索を求める庭でもない。疲れた時に安らぎを与えるような庭である。西の芙蓉池と東の心字池の周りに有楽椿(胡蝶侘助)や石橋、躑躅がバランスよく配置され、芙蓉池の奥の茶室・清漣停がアクセントとして庭園全体を引き締めている。少し早いが、紅葉も色づき始め、秋の風情を楽しませてくれる。ただ、残念なことは、清漣停の向こうに立命館の校舎が目に入る。何十年も前のこととは言え、景観上の配慮の無さが惜しまれる。
芙蓉池を巡っていくと、東南角(方丈北側)に足利尊氏公の墓がある。室町幕府を創設した人物の墓にしては、実に目立たない墓である。足利尊氏は尊王攘夷や皇国思想では亡国の化身のように言われてきたが、筆跡を見ても案外角の取れた人物のように感じる。この墓も彼が守護・地頭に推されるままに時代を生き抜き、調和を尊んだという政治姿勢を示しているような気がする。
霊光殿に入り、歴代の足利将軍の木像、徳川家康の42歳当時の木像等を見た。室町時代は謀反、土一揆、下剋上が続いた時代であり、赤松満祐に謀殺された6代義教、応仁の乱で政治的無能をさらけ出した8代義政、将軍廃絶後は流浪の身となった15代義昭など不幸な人生を歩んだ人が多い。木像の顔と夫々の時代の出来事を照らし合わせてみると、この時代の苦しさ見えてがくるような気がする。また、徳川家康が42歳の時と言えば、彼が秀吉の軍門に下った時期である。隠忍自重の中にも秘めた闘志を感じる。
最後に逆に山門から出て、等持院を振りかえると方丈や霊光殿越しに昔のままの衣笠山が見えた。ここだけは「衣笠の松しらべ」が聞こえてくるような気がした。
午後は、「京都日本画の旗手たち」と題して、立命館大学・島田康寛先生の講義を聞く。村上華岳、小野竹喬、土田麦僊、榊原紫峰など明治、大正、昭和にかけて日本画の旗手となった人達の画風を時代の変化を交えて解説してくれたのが面白かった。特に、ヨーロッパ絵画の影響が渡欧を断念した華岳、紫峰などにも大きな影響を与えたこと。関東大震災以降の国粋主義の高揚に伴って麦僊、竹喬などの渡欧組にも新古典主義として伝統尊重に回帰していった姿が興味深かった。
実は、私はこの講座が2時に始まるものとばかり勘違いをしていた。会場に着くと既に30分も経過していた。家内から「私は60数年間、唯の一度も授業に遅刻したことは無いのに。」と残念がられる。将に、しょんぼり、懺悔!。
堂本印象美術館は印象と同じく衣笠を拠点として活躍した金島桂華の特別展をしていた。京都画壇の画家らしく写実的で美しい色合いを出す画家であるが、少し装飾的な感じがした。常設展では初期の印象の花鳥画作品「葡萄と栗鼠」「栗と四十雀」などが飾ってあったが、私にはこの伝統的で幽玄な世界の方が美しく感じた。
色づき始めたもみじ 等持院越しに見える衣笠山
山裾に沿って有名な寺院が連担しているが、これらを巡る散策路(衣かけの道)が交通量の多い観光道路になっているのが残念だ。
等持院のことはこれまで関心がなかったが、今回のブログを読んで多くのことを教えていただきました。こんどゆっくり訪れようと思っています。