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通訳案内士の歴史(その5)

2014年12月30日 18時24分38秒 | ●通訳案内士の歴史

通訳案内士の歴史(その5)

今回は、通訳案内士の歴史(その5)をお送りします。

●「通訳案内士の歴史」(すべて)(その1~5)は、下記をご覧ください。
http://hello.ac//historyofguide5.pdf

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通訳案内士の歴史(その5)
第1章太平洋戦争終戦から昭和27年(1952)の主権回復まで
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著者:瀬口寿一郎
監修:植山源一郎

第 1 章 太平洋戦争終戦から昭和27年(1952)の主権回復まで
第1節 終戦直後から国際観光の本格的な復活、昭和22年(1947)12月28日まで

昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争は我が国の「ポッダム宣言」受諾によって、ようやく敗戦という悲惨な結果、終結に至りました。
この「ポッダム宣言」は、ベルリン郊外のポッダムにおいて、アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国、さらにこの会議には参加していなかった中国(当時は中華民国でした)を加えた4カ国による「日本国の無条件降伏を定めた」共同宣言であり、これが発表されたのは、同年7月26日のことでした。

この「無条件降伏」とは何らかの条件をつけることを一切認めず、完全なる屈服を意味し、これを連合国側が求めたことは、第一次世界大戦の結果から学んだことでした。
すなわち、第一次世界大戦は、ドイツ側の降伏によって終結しましたが、この結果締結された「ベルサイユ条約」では、ドイツ側の降伏に対してある程度の条件を認めたために、ドイツにおけるヒットラーのナチス党の台頭によって、再び人類史上悲惨な世界大戦を勃発させてしまった、との歴史的な教訓、反省から学んだ結果でした。

この「ポッダム宣言」が発表されても、我が国の政府は、直ぐにこれを受諾せずに、自国民に対してのみならず、対外的にもこれを無視する態度を表明し、実際には裏面で戦争の終結を模索して、いろいろと策を弄していましたが、政府は国際情勢を正確に把握することができず、極めて拙劣な対応策で貴重な時間を無為に過ごしてしまったために、8月に入ってから、さらなる広範囲の地方都市に対する焼夷弾攻撃や、広島、長崎への2度にわたる人類史上初の原爆攻撃を受け,ついに戦争が最終段階に入った8月9日にソ連は、日ソ中立条約を破棄して宣戦を布告し、火事場泥棒的に参戦し、北方四島等を不法に占領してしまいました。

終戦によって、国民はやっと平和な時代の到来を喜びましたが、その国土は荒廃しており、あらゆる物資は不足しており、その生活は極めて困難なものでしたが、希望を持って国土再建に取り組みを開始しました。

「ポッダム宣言」を受諾した結果、我が国は連合国の占領下に統治されることになりました。
我が国は、幸いにもドイツや朝鮮半島のように分割占領されることなく、主としてアメリカ軍とイギリス連邦軍によって占領され、連合国軍最高司令官であったダグラス・マッカーサー元帥による総司令部、(General Headquarters,GHQ) による占領、統治下に置かれることになりました。
これは我が国の「ポッダム宣言受諾、無条件降伏」により我が国は統治上の主権を失い、独立回復迄は連合国軍最高司令官による統治に服することでした。

GHQ による占領方法は、占領軍による直接統治ではなく、我が国政府を通じての間接統治とし、ただ必要に応じて総司令官は、覚書、指令等を日本政府に対して発し、これを日本政府は誠実に順守、履行する義務を負っていました。
また占領軍は、間接統治の一具体的方法として、各都道府県に軍政部( Military Government Team )を設置し、地方自治体に対して必要に応じて指令等を発していました。

GHQ による日本占領政策は、昭和20年(1945)9月2日の降伏文書への調印後に直ちに発せられた、陸海軍の解体、軍需工業の停止を命令した、指令第1号に始まり、以後 GHQ は、連合国(Allied Forces) によってGHQ に対する監視機構である極東委員会(Far East Commission) が昭和20年(1945)12月27日に設立されるまでの僅か4ヶ月の間に、我が国の政治、経済、社会そして文化の領域にまで及ぶ広範な改革を急速に実施しました。
同年10月11日に出された、「日本民主化に関する五大改革」の指令は以下のようなものでした。

(1)参政権を付与して婦人を開放する
(2)労働者の団結権を認める
(3)教育の自由化、民主化を実現する
(4)国民を恐怖に陥れた特別高等警察などの弾圧機構の撤廃
(5)経済の民主化と独占的産業支配の是正

この指令は、敗戦直後の社会的、経済的混乱と国民の精神的な空白状態の中で、国会において次々に立法化され、実施されていき、従来長年にわたり続いてきた軍国主義の解体、消滅をもたらし、我が国社会の新しい枠組み作りとその民主化に多大なインパクトを与えました。
 
このような占領軍による強力な間接統治に対応するために、我が国の外務省は昭和20年(1945)8月26日にその外局として終戦連絡中央事務局を設置し、長官の下に4部15課を配し、占領軍による我が国の諸施設等への接収要求等に対応する体制を確立しました。
しかし、占領軍の全国的な展開と、その出されてくる要求の多様化に伴って、終戦連絡中央事務局もその機構を数度にわたり拡充、強化して対応して来ましたが、到底その全てに対応することは次第に困難になっており、昭和22年9月1日に占領軍の物資、役務の調達を業務とする特別調達庁が発足しました。
その結果、占領軍関係の雇用労務者に関する事務はすべて同庁に移管されました。
終戦連絡中央事務局が担う占領軍関係の業務には、(1)経済関係、(2)賠償関係,(3)設営関係の三種がありましたが、経済関係は昭和21年8月に経済安定本部に、賠償関係は同23年2月に賠償庁に、設営関係は調達庁にそれぞれ引き継がれました。
これらの総合調整機関として、昭和23年2月1日に総理庁に連絡調整事務局が設置されるとともに、終戦連絡中央事務局はその使命を終え、全面的に廃止されました。
その結果、同日以降は、特別調達庁が占領軍によって接収されていた数多くのホテル等の監督官庁となりました。

このような状況において、先ず必要とされたことは英語に堪能な人材の確保とか、要員に対する英語教育の重要性とその実施でした。
それゆえ、終戦後、必然的に英会話ブームや英語教育機関の雨後の筍的な発生現象が起きてきました。
一例として、終戦の日から僅か15日後の8月30日に東京の誠文堂・新光社が発行した「日米会話手帳」は発売と同時にベストセラーになり、僅か数ヶ月後には400万部を売り尽くしたとのことでした。

昭和21年(1946)3月4日,ラジオ放送を独占的に行ってきた「日本放送協会」は GHQ の勧告を受けて英字で NHK を名乗ることになりましたが、その1カ月前の2月1日から戦後の放送文化において特筆大書すべき事柄であった、カムカムおじさん、平川唯一講師による「英語会話」の放送講座が開始されました。
この放送は、平日の夕方に一回15分のものでしたが、それでも大好評を博し、”Come Come everybody,How do you do and How are you." の、軽快なテーマソングは大いに人口に膾炙し、一世を風靡しました。
平川講師は、戦前、アメリカのシャトルに居住して俳優として活躍していたとのことです。この放送に際して NHK が発行していたテキストは、当時の物資不足を反映して、お粗末なタブロイド版でしたが、それでも当時の聴取者は熱心に英会話を習得しようとして取り組みました。

占領軍はまもなく進駐軍と称するのが一般的になり、この呼称は昭和27年(1952)4月に対日平和条約が発効して独立を回復した以後は駐留軍とされ、平成の現在に至っています。
進駐軍の全国的な展開が開始されてから、各地で急に需要が発生した英文タイピストや英語通訳、アメリカ留学経験者やアメリカ生まれの人材を求める求人広告が全国各地の新聞を賑わすようになりました。
通訳案内士、ガイド資格所有者は、あまり多くはいませんでしたが、その就職は極めて有利で、進駐軍の英語通訳や顧問等として高給をもって迎えられ、大いに活躍の場に恵まれました。

戦時中の昭和17年(1942)11月に、悪化する戦況によって国際観光局が廃止されて以来、観光部門を所管する行政機関は存在していませんでしたが、戦後いち早く運輸省は、昭和20年(1945)11月に鉄道総局業務局旅客課内に観光係を設置し、ここに観光行政が復活しました。そして翌昭和21年6月10日にこの観光係が本来の観光事業の育成発展を目指して、観光課に昇格し、その所管事項は、次のようなものでした。

1.観光接遇事業ノ育成ニ関スル事項
2.観光ニ関スル通訳及ビ案内業者等(これは通訳案内士、ガイドのことです)ノ育成其ノ
他観光ノ斡旋ニ関スル事項
3.ホテル、旅館其ノ他観光施設ノ充実及ビ改善ニ関スル事項
4.観光記念品及ビ観光土産品ノ改善ニ関スル事項
5.観光案内資料等ノ整備ニ関スル事項
6.観光事業及ビ観光事業ニ伴ウ旅客移動ノ調査ニ関スル事項
その後も第一次吉田内閣下の国会で、昭和21年8月2日に「観光国策確立に関する建議」が衆議院で採択されています。
更に、同月7日には「国際客誘致準備に関する建議案」が33人の衆議院議員によって提出され、その提案理由書には、「敗戦後の財力没落に対処する一方法として、外貨獲得の手段を講じることが、平和条約成立後における必須条件である」として、そのための計画立案と施設準備を提言し、次のような具体的な要望を提出しています。
1.各都市に外人の趣味嗜好に適合する国営ホテルを新設
2.全国に外人向けの景勝地を選び、国営ホテルを新設、電車を準備し娯楽機関を設置
3.国営の接待者養成所を設置し、語学並びに外人心理を体得させること
国会でのこのような動向に対応して、運輸省観光課、全日本観光連盟、日本ホテル協会、日本交通公社(JTB)の四者が協力して、「日本全土を観光楽土とする」ことを方針とする「ホテル施設拡充案」の樹立に着手しました。この原案の作成者は日本ホテル協会理事長 高久甚之助(後の日本観光通訳協会 JGA 会長)でした。

戦後の外客相手の観光事業は、当然のことながら進駐軍将兵やその家族を対象とするものでした。
そのために当時、惟一の外客取り扱い旅行業者であった日本交通公社(JTB) は,昭和20年9月11日から「案内斡旋所」なるものを、銀座の服部時計店(当時は接収されて進駐軍の P.X.)など都内16ヶ所に設置して対応しました。
更に、同社は昭和21年には進駐軍の軍人の個人的な旅行の便宜を図るために、全国12箇所にこの「案内斡旋所」を設置し、この年だけでも約1、000件の旅行斡旋をしました。
なお、ガイドの要望があれば有資格ガイドを優先し、それが不足した場合にはその任に耐えうる適当な者を斡旋してなんとか対応しました。

しかし、本来の意味の国際観光事業はまだ運営不可能な状態でした。
その理由は、まだ一般観光旅客の訪日は許可されておらず、全国各地の優良ホテルの殆どは進駐軍に接収されており、賠償の対象として海運事業は封鎖されており、民間航空事業も昭和20年11月18日に GHQ によって全面的に禁止されていたからです。

輸送機関として、当時の私鉄を除いた主要鉄道は全て鉄道省所管の国有鉄道(国鉄)であり、進駐軍は特権的に占領目的遂行の名目で国鉄を自由に支配統制していました。
各主要駅には 進駐軍の鉄道運輸事務所RTO (Railroad Transportation Office) が設置され、東海道本線等の主要路線をはじめ進駐軍将兵や家族等の関係者の便宜のために特別列車が運行されたり、首都圏の路線、山手線、横須賀線や湘南電車等の一般電車や列車にも進駐軍専用車両が付けられていました。
当時のガイドの中には図うずうしくも二世の振りをして、混雑している一般車両を横目にゆったりと特権階級風に乗車を楽しむことが出来ていると誇らしげに吹聴する者もいました。

当時の我が国には高速道路などは全くなく、進駐軍には日本には道路は存在せず、ただ道路予定地があるのみだと酷評されていました。
当時の日本交通公社(JTB)本社ビルと言っても木造2階建てのバラックでしたが、その2階の隅に戦時中は休眠状態であった(社)日本観光通訳協会(JGA)の事務所は机一つで主事の鳥井辰次郎がガイドの斡旋に奮闘していました。
終戦後の昭和22年12月31日にそれまでの超巨大最強官庁であった内務省解体により省令として存在していた「案内業者取締規則」は失効してしまい、昭和24年(1949)6月15日に通訳案内士法、同年法律第210号(制定当時の名称は通訳案内業法)が新たに法律として制定されるまでは、取締法規が存在せず誰でも自由にガイド業務を営むことができました。

しかし、全くの無資格での自由就業は混乱をもたらし、業務上も不便極まりないものだったために、国による何らかの法制化が実現する前に(社)日本観光通訳協会(JGA)は、独自に昭和23年(1948)9月26日 にガイド資格試験を全国のYMCAにおいて実施しました。
この試験への受験者は東京だけで150名でした。
また、同協会(JGA)は運輸省観光課と共同主催で同年11月16日から12月13日の間、毎週、月、水、金曜日の午後5時から7時まで、ガイド講習会を実施し、その講座では我が国の美術工芸、建築、庭園、産業経済、観光土産品等について、実務に役立つものが教授されました。
しかし、同協会(JGA)による独自のガイド資格試験の実施はこの昭和23年だけで終わりました。それは、既に水面下にて政府による何らかのガイドの資格が公的に制定される動向があったからです。

当時の運輸省は、現在の J.R.東京駅の前にあり、日本交通公社(JTB)本社ビルは丸の内角の現在地という同ブロック、徒歩圏にありましたので、業務上の連絡協調等すべてにおいて、極めて円滑、便利でした。
既に記したように、日本観光通訳協会(JGA)の事務所は、日本交通公社(JTB)の本社ビル内にあり、その外客旅行斡旋部門の重要な一端を担っていました。

* 待望の民間貿易の再開とそれに伴う貿易業者(バイヤー)の訪日開始

昭和22年(1947)6月5日に GHQ の管理下において待望の民間貿易が再開され、それに伴って貿易業者をはじめとして、各種の用件を帯びた訪日外国人客や、進駐軍家族の訪日が激増してきました。
特に、同年8月15日には戦後初の国際貿易使節団の訪日が決定し、貿易庁は臨時施設部を設置して、使節団受け入れを準備しました。

民間貿易で訪日したバイヤーたちには、3週間の入国期間が認められていましたが、これは翌、23年(1948)にはこの期間が60日に延長され、さらにその後の更新も認められました。
それとともに、彼らの家族や使用人の入国も許可されることになりました。
これらのバイヤーたちは観光客ではありませんでしたが、ビジネス上で必要に応じて国内旅行があり、必然的に英語通訳やそれが可能な通訳案内士ガイドの職域も確保され、ようやくこの業界にもその前途に新しい光が差込み始めました。

* 国際観光、一般訪日観光客の入国がいよいよ再開されることになりました。

一般訪日観光客の戦後の初入国は、昭和22年(1947)12月28日に横浜に寄港した American President Line(APL)社の世界周遊クルーズの President Monroe 号の船客でした。
彼らは一時上陸を許可され、東京、鎌倉、箱根とごく限られた地域だけでしたが、東洋の神秘的な観光地である日本の観光を楽しむことができました。
このような旅行斡旋はすべて日本交通公社(JTB)によって手配され、通訳案内士、ガイドにもその本来の活躍の場が提供され復活しました。
この昭和22年には Northwest Airline(NWA)がシャトル―東京線を、Pan American Airway(PAA)がサンフランシスコ―東京線を開設しました。
但し、その乗客は外交官や公用客や商用のバイヤーたちであって、一般観光客は認められていませんでした。
進駐軍の家族等は、殆ど軍の航空機か輸送船での来日でした。

第2節 激増する訪日外国人観光客への対応策の樹立について

平和な時代の到来により、ここに本質的に平和産業である国際観光業の飛躍的な発展が期待されることになりました。
来訪外客が、我が国に到着してまず落ち着くところは滞在するホテルです。
そこが快適であって、いろいろな要望が十分に満たされることが、必須条件です。
通訳案内士ガイド業務の発生もホテル滞在客が主要なものですし、ホテルの接遇部門から旅行業者、当時は完全に日本交通公社(JTB)の独占的なものでしたが、そこへの発注から
ガイド業務が開始されました。

観光事業の育成、開発を目指して新たに、昭和21年(1946)6月11日に発足した運輸省観光課は、その発足以来、日本ホテル協会、全日本観光連盟、日本交通公社(JTB)の協力のもとに全国の主要ホテル及び洋式宿泊施設の実態調査を行い、その結果に基づいて「ホテル整備10年計画」を作成、発表しました。
それによると、既存高級ホテル及び優良日本旅館の増改築を考慮して「全国ホテル分布網」を作成して、それによる検討から開始しました。
その結果、収容能力の飛躍的な増加を図るために、国営ホテルを設営することが決定され、東京、京都、大阪及び名古屋を中心に貿易庁直営ホテルとして昭和22年8月15日に3ホテルガ、10月1日に1ホテルがさらに23年5月と8月にそれぞれ1ホテルずつ合計6ホテルが以下に示すように開業発足しました。

ホテル名称   室数  収容人員   開業年月日      所在地
 ホテルテイト    83   170   昭和22年8月15日 東京都千代田区大手町
 ホテルトウキョウ  66   116   昭和22年8月15日 東京都千代田区丸の内
 ホテルラクヨウ   64      149      昭和22年8月15日 京都市下京区(京都駅前)
 ホテルナニワ    55       60      昭和22年10月1日 大阪市北区北扇町
 ホテルヤシマ    75       75      昭和23年 5月1日  東京都中央区日本橋
 ホテルトキワ      111      130      昭和23年8月15日 名古屋市東区横代官山
   合計     454      700

この国営ホテルの適正円滑な運営を目的として、国営ホテル委員会が設置され、民間の有識経験者が委員に選任され経営指導に当たりました。
選任された委員は、帝国ホテル社長 犬丸徹三、日本ホテル協会理事長 高久甚之助、ホテルニューグランド会長 野村洋三の3名でした。
これらのホテルは、東京都千代田区大手町にホテルテイトとして設営されたものが、その後、株式会社化されて現在のパレスホテルとなり、現存し繁栄していますが、他は解散しています。
これらのホテルからは随時、それなりのガイドへの需要が、継続的、反復的に発生していました。

* 国際観光振興へ向けてホテル業界の改革、躍進

昭和22年(1947)末に、念願の国際観光が復活し来訪外客が激増するに伴い、ホテル業界に活気が吹き込まれて来ましたので、必然的にそれに付随して通訳案内士ガイド業界にも同様に光明が差し込み始めました。
但し、ガイド業務はすべて惟一の旅行業者である日本交通公社(JTB)の斡旋、手配によるものであり、実質的には同社の重要な外客旅行部門の一端を担っていた日本観光通訳協会(JGA)を通じてのものであり、その顧客は進駐軍関係やクルーズ船の船客を除いて殆ど主要ホテルの滞在客でした。
それゆえ、ガイド業務はホテル顧客の要望に対応するものであるとの見地からは、ガイド業務に従事する以上は、ホテル業界の実情にも通暁しておく必要があり、これは現在でも全く同様です。
かって明治時代を通じて、ガイドはその当時の語学技能者としての希少価値から、売り手市場を謳歌し、一部の不心得者が横暴なためにホテル業者を悩まし、そのためにホテル業者が共通の利益擁護のために、団結し決然たってホテル組合を結成したとの往時からは、まさに売り手、買い手市場の逆転は隔世の感があり、想像を絶するものがあります。

* 日本ホテル協会発足の経緯

戦時中の昭和19年(1944)10月にホテル業界統制の為に設立された「日本ホテル業統制組合」は、終戦後の22年3月1日に施行された「商工協同組合法」に基づき同日解散し、「日本ホテル協会」として新たに発足し、その理事長には引き続き高久甚之助が就任し、帝国ホテル取締役社長、支配人の地位にあった犬丸徹三が理事に選任されました。

当時のホテル業界の主要ホテルは帝国ホテルをはじめとして,そのほとんどが進駐軍に接収されており、その維持、運営に関しては、利用者の進駐軍や日本政府の管掌機関とのさまざまな折衝に苦労しており、その一方で建物の改修や新設に伴う資金や資材の確保など、懸案の数多くの問題を抱え、その解決に忙殺されていました。

そのような状況にあって、昭和22年3月18日の各新聞紙上にて連合軍最高司令官の「軍事占領を早期に終わらせ、対日講和条約締結のために遅くとも1年以内に交渉をはじめるべきである」とのマッカーサー談話が発表され、接収解除への期待感が膨らみ、対日講和条約締結後に盛況が予想される国際観光に、出来るだけ早く適切に対応しなくてはならないとの期待感とともに一方では焦燥感も芽生えていました。

この最高司令官談話は、ホテル業界や通訳案内士ガイド業界には大きな朗報でした。
こうした情勢の中で、日本ホテル協会は、新たなる発展を期して以下のような協会人事の新旧交代が実施され、又、日本観光通訳協会(JGA)でも来訪外客接遇の体制整備のために、当時失効してしまった「案内業者取締規則」に代わるガイドの資格、要件を公的に規定する法律制定に向けて、運輸省当局とともに水面下にて運動を開始していました。
これについては節を改めて後述します。

昭和23年(1948)5月15日の総会によって,日本ホテル協会の発足以来その会長の座にあった大倉喜七郎そして戦時中の昭和19年の日本ホテル業統制組合の設立以来その理事長の職にあった高久甚之助、理事として重きをなした軽井沢万平ホテル社長佐藤万平の他に3名の理事が退任し、新役員と交代しました。
新役員の陣容は以下のように決まりました。

会  長   犬丸 徹三      帝国ホテル 社長
常務理事   土屋計左右      第一ホテル 社長
  同        河西 静夫      帝国ホテル 企画課長
 理 事    小林 太郎      丸ノ内ホテル 専務取締役
  同     山口 堅吉      富士屋ホテル 社長
  同         井上 行平      名古屋観光ホテル 専務取締役
  同     岩田彦二郎      札幌グランドホテル 社長
  同     加納 謙吉      宝塚ホテル 専務取締役
  同     郡司 茂        新大阪ホテル 専務取締役
  同     七条 達馬      合資会社九州ホテル 代表社員
  同     三井 武       京都ホテル
  同     佐藤 太郎      軽井沢万平ホテル 社長
  同     高橋 蔵司      日本交通公社 理事(後に JGA 会長)
  同     間島大治郎      運輸省鉄道総局業務局 観光課長
   同     武部 英治      全日本観光連盟 事務局長
 監 事    野村 洋三      横浜ホテルニューグランド 会長
  同     金谷 真一      日光金谷ホテル 社長

この新役員の陣容から容易に目に付くことは、行政当局の官僚が僅かに1名のみとなり、実質的なホテル経営者又はその経営幹部中心の新役員になったことです。
特にその特徴は、業界の重鎮であり、先見の明に優れ、名実共に我が国ホテル業界の指導者的な存在であった、帝国ホテル社長の犬丸徹三が会長に就任されたことです。
これにより、日本ホテル協会は、我が国の国際観光業界において重要な一角を占める事になりました。
(続く)


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<ヤミガイド110番>
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JTBグループは、長期間に渡り、(正規通訳案内士よりも安く使える)ヤミガイド(無資格ガイド)を使ってきたので、業界では「ヤミの御三家」と呼ばれていますが、JTBグループに限らず、ヤミガイドの情報をお知らせください。(匿名可)
不正、不法行為を天下に公開したいと思います。

件名:ヤミガイド110番
宛先:info@hello.ac
内容:下記を必ず明記してください。
(1)旅行会社(支店)名(電話番号)、担当者名(携帯番号)
(2)ツアーの内容:催行月日、訪問場所、できれば旅行日程表
(3)ヤミガイドの氏名、携帯番号

●JTB九州が、ヤミガイドを募集した例。
このような動かぬ証拠があれば、是非、ご提供ください。
http://www.hello.ac/exam/pdf/china.pdf#zoom=100.pdf

●観光庁のアリバイ作りの<口頭での注意処分>
JTBグループと癒着関係にある観光庁は、JTB九州に対して、アリバイ作りのために、簡単な<口頭での注意処分>でお茶を濁したのみでした。誠に情けない話ですが、カネ儲けのために、官民ともに腐っているのが現状です。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=40879

●ヤミガイド問題に限らず、広く<通訳案内士業界の諸問題>については下記をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/gu6970/c/205d9d64395041166aee0c1cfeb425e7

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●「日本的事象英文説明300選」などのハロー教材をご希望の方は下記をご覧ください!
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●2014年度受験の最新情報は下記をご覧ください!
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●お問合せ
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<通訳案内士の歴史(4)>公開!

2014年09月05日 15時09分12秒 | ●通訳案内士の歴史

<通訳案内士の歴史(4)>公開!

●「通訳案内士の歴史」全編(公開分)は、下記PDFにてご覧いただけます。
http://hello.ac//historyofguide4.pdf

●皆様のご意見、ご感想、ご希望を是非お聞かせください。
宛先:info@hello.ac
件名:「通訳案内士の歴史」を読んで

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「通訳案内士の歴史」公開に寄せて
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初代ドイツ帝国宰相オットー・フィン・ビスマルクの有名な言葉に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があります。
通訳案内士の社会的、経済的地位が何故このように貶められてきたのか。国交省(運輸省)は何をしてきたのか。あるいは、何をしてこなかったのか。
日本のインバウンド業界を支配するJTBグループは、自社の金儲けのために、いかに巧みに通訳ガイドを支配、統制、搾取してきたのか。
JTBグループは、癒着関係にある国交省と一体となって、いかにして、日本が世界に誇る通訳案内士制度を崩壊させてきたのか。

通訳案内士の社会的、経済的地位向上を図るにしても、まず、通訳案内士の歴史を知ることから始めることが大切です。
私がこの業界と関わりを持ち始めた約40年前からは分かるにしても、それ以前のことになるとよく分かりません。

そこで、私が尊敬する通訳案内士業界の重鎮でおられる瀬口寿一郎氏に、氏の知っておられる通訳案内士の歴史について、是非書いていただきたいと、横浜のご自宅まで押しかけてお願いし、執筆していただいたものが、本「通訳案内士の歴史」です。

本書が、日本の通訳案内士の社会的、経済的地位向上のために、少しでも資することができれば、これに優る喜びはございません。

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<通訳案内士の歴史(4)>
著者:瀬口寿一郎
監修:植山源一郎
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第7節 太平洋戦争開戦、昭和16年12月8日(1941)から終戦、同20年8月15日まで

*開戦に至る経緯、その歴史的な背景について

昭和6年(1931)に満州事変が勃発し、それ以来、我が国の中国大陸進出は、年とともに拡大し、国際情勢は我が国に対して次第に不利になっていきました。
更に、昭和12年(1937)7月7日に支那事変(当時の呼称で、現在は日中戦争が一般的)が勃発し、戦局の全面的な拡大に伴い、我が国は必然的に戦時体制となり、同年8月には近衛内閣は、国民精神総動員実施計画を閣議決定するに至りました。

国際的な孤立を深めていた我が国とドイツは、昭和11年(1936)に日独防共協定を締結し、翌、昭和12年にはイタリアもこれに加わり、日独伊三国防共協定が成立しました。
昭和11年5月に陸海軍大臣及び次官を現役武官とする軍部大臣現役武官制の復活に続いて、昭和12年11月に宮中に大本営が設置され、ここに軍部独裁が制度的にも確立され、これ以後、我が国の政治、経済等すべてが軍部主導となり、当時の列強による帝国主義の波に飲み込まれ無謀な戦争へと突き進んでいくことになりました。

この経緯を具体的に記述すると、前述のように昭和12年7月に勃発した支那事変の影響によって、我が国への欧米からの来訪外客が減少に転じ、通訳案内士に対して苦難な展開となって行き始めました。
更に、これに追い討ちをかけるように、昭和13年(1938)には、ヨーロッパの政情がめまぐるしく動くなかで、ドイツとオーストリアが合併し、翌14年には独ソ不可侵条約が締結されました。

我が国は、ドイツ、イタリアと共に、対ソ三国軍事同盟の締結を交渉していましたが、予想外に急展開した国際情勢への対応に苦慮した、平沼騏一郎内閣は、「欧州の天地は、複雑怪奇」との言葉とともに昭和14年8月に総辞職するに至りました。
このように、欧州情勢が一瞬即発の危機を孕みつつあった当時、アメリカの不況は依然として深刻であり、一方我が国や中国などのアジア情勢も不穏であって、国際観光には不安要因が増えるだけでしたので、訪日観光客は激減状態を続け、必然的に通訳案内士にとっては死活的な打撃が与えられました。

我が国は、開国以来、国際貿易や国際観光にとって、アメリカは最も重要な相手国でした。現在でも国際観光、特にそのインバウンド旅行業界にとっては、その重要性は一層高まっています。
旅行形態も二極化現象がきわめて顕著であり、ガイドの需要はもっぱら富裕層相手になっています。
支那事変の勃発により、我が国の中国大陸進出は、国際的には侵略と捉えられ、アメリカは対日政策を硬化させてきました。

当時の我が国からアメリカへの輸出は、生糸、緑茶、缶詰類、陶磁器等の軽工業製品が主であり、その多くの品質はあまり高度ではなく、Made in Japan は安物の代名詞でした。
それでもこれらの輸出は、外貨獲得という面では国際観光とともに貴重な存在でした。
この点、戦後の我が国が奇跡的な復興を遂げ、各種のMade in Japan が世界に誇る高度な精密工業製品へと脱皮したことは驚嘆すべき快挙であり、これは現在でも国際的に認知されている事実です。
一方、アメリカからの輸入は、石油、鉄鋼、綿花や各種の工作機械等の重要物資であり、我が国の対米依存は極めて大きなものでした。

昭和15年(1940)7月22日に第二次近衛内閣が成立し、戦時統制の拡大強化と共に、国民の精神的動員を図ろうとする、新体制運動が強力に推し進められていきました。
この内閣が閣議決定し発表した、基本国策要綱によれば、「世界は今や歴史的一大転機に際会し、数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとしており、我が国は有史以来の大試練に直面している。したがって百般にわたり「速やかに根本的刷新を加え、万難を排して国防国家体制の完成に邁進する」ことが急務であるとしました。そしてドイツのヨーロッパ新秩序に呼応し、日本の「大東亜の新秩序」建設を国策の基本として明示しました。

続いて同年7月22日、大本営政府連絡会議は、「世界情勢の推移に伴う戦時処理要項」を決定し、武力行使を含む南進政策、つまり必要とする天然資源を求めて南方諸国への進出を決めたのでした。
その結果、同年9月23日、日本軍は北部フランス領インドシナ、現在のベトナムに進駐し、その数日後に、ベルリンで日独伊三国同盟が調印されました。

続いて同年10月12日に大政翼賛会、総裁は近衛内閣総理大臣が設立、発足しました。
これは国民の精神的な動員を図ろうとする、「新体制運動」を強力に推進するためのものでした。
これによって従来の政党はなくなり、様々な団体が合同して政府の施策に異議なく協力、推進する体制が確立されました。全国民の日常生活における服装から食事そのほか全てにわたり、規制し画一化していくことになりました。

この大政翼賛会は、総裁のもとに、中央本部 -- 道府県支部 -- 6大都市・郡支部 -- 市区町村支部 -- 町内会 という系列に整備され、全国民を全体主義的に統合し、それを支配、統制しようという巨大な組織でした。それは、「日本が、今世界歴史の推進力として、大東亜の、いや世界の新秩序を建設してゆくための体制」であるとし、「一億一心一体となって国家国民の総力を十二分に発揮できるような仕組み」であるとされました。

このように我が国は、軍部主導の暴走が顕著になり、アメリカとの政治的な対立が不可避な状態となってきました。

その結果、アメリカは日米通商航海条約の破棄を通告し、これが昭和15年(1940)1月に失効しました。更に、アメリカは翌、昭和16年夏に我が国の在米資産凍結、石油輸出禁止を決定し、経済的封鎖を断行しました。
一方、イギリスは欧州においてドイツ、イタリアと敵対しており、アジア地域においても我が国とは中国問題や植民地問題等その利害関係で対立していました。
このような事情から、アメリカとイギリスは政治的、軍事的にも協力関係を強化し、イギリスもアメリカに続いて我が国の在英資産凍結、日英通商条約の破棄を断行し、日英の関係も悪化し、断絶状態となりました。

このような国際情勢の悪化に伴い、東条内閣は予てから自存、自衛の為として、対米英の戦争に踏み切る覚悟を決めており、ついに昭和16年12月8日のハワイ真珠湾奇襲攻撃に踏み切り、ここに太平洋戦争の火蓋が切って落とされました。

しかし、開戦に至るまでは、このような国際情勢の下にあっても、我が国の国際観光事業は、まだ細々としてではあっても何とか継続していたのです。
既に記述したように、通訳案内士(ガイド)を当時の国策上の必要性から、鉄道省の外局として存在していた国際観光局の主導で、更に防諜上の見地から内務省の特高警察や軍の憲兵隊を含めた役員構成をして、ガイドを支配、統制する目的で「日本観光通訳協会、Japan Guide Association、 J.G.A.」が昭和14年8月に設立され、翌15年5月9日に当時の民法上の社団法人格を取得しています。同会については、もうすでに詳述しています。

因みにこの国際観光局は、既述したように昭和5年(1930)に設置され「外客誘致」の中央機関として、観光業界に対する指導、監督、助成を行って来たものですが、太平洋戦争中の昭和17年11月に廃止されました。もはや観光どころではない戦雲、戦火の過酷な状況だったわけです。それ以後は、観光事業の所管行政庁は存在しないまま、昭和20年(1945)8月15日の終戦に至ったのでした。

それではこの太平洋戦争中に通訳案内士、ガイドはどうなってしまったのでしょうか。
戦争により国際観光が途絶してしまい、来訪外客が皆無になってしまい、必然的に他の職業へと転業を余儀なくされたことは想像に難くありません。
すでに開戦に先立つ、昭和14年(1939)7月に「国民徴用令」が公布、施行されており、健康な男性のみならず女性までも必要に応じて、軍需工場等へ動員されていきました。

国民の義務として憲法上も規定されていた、「徴兵制度」も戦力増強の必要上から、漸次拡大適用され、平時ならば甲種、乙種合格者が入隊していましたが、これだけでは人員不足のために、丙種の者までや、一旦兵役が終わり除隊し、家庭に復帰した者までが再度徴兵されたりして、この徴兵制度については数多くの悲劇が発生しています。

更に、このような一般国民の動員だけでは足りず、それまでは徴兵猶予の特権が与えられていた大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていましたが、兵力不足を補うため、次第にこの徴兵猶予の対象は狭くされていきました。
昭和16年(1941)10月、大学、専門学校などの修業年限を3ケ月短縮することを決定し、同年の卒業生を対象に、12月に臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌昭和17年2月に入隊させました。さらに、同年には大学予科と高等学校も対象として修業年限を6ケ月間短縮し、9月卒業、10月入隊の措置を採りました。

このように、徴兵対象者拡大の際に対象になった高等教育機関に在籍する学生は文科系学生だけでした。
理科系学生は、兵器開発などの科学技術分野において、戦争継続に必要、不可欠として徴兵猶予が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員されただけでした。
但し、農学部の一部学科の農業経済学科や農学科は文系と看做されて徴兵対象となりました。

高等教育機関に在学中に徴兵された者を学徒と称し、彼らが陸軍・海軍に入隊するのを「学徒出陣」と称して、その第一回壮行会を昭和18年(1943)10月21日に東京の明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)にて盛大に開催しましたが、翌年の第二回以降は開催されませんでした。

なお、この「学徒出陣」は、日本国内の学生だけではなく、当時は日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地の学生や、アメリカから我が国の高等教育機関に留学中であった日系2世の学生も対象とされました。日系2世の学生は英語を母国語として駆使する者も存在し、殆ど海軍へ入隊し貴重な情報係りとして活躍しました。

戦争末期には、制海権、制空権ともに連合軍に完全に握られていましたので、アメリカ海軍など解読に手間取る暗号文などを使用しないで、通常の英語のままで交信したので、日系2世の学徒出身の海軍士官たちに活躍の場が大いにあったとのことです。

太平洋戦争勃発とほとんど同時に、わが国における外国語教育はドイツ語やイタリア語のような枢軸国の言語はともかく、英語は敵国語とか敵性語として排斥されていました。
しかし、殆どの高等教育機関への入学試験には英語が入試科目として存在していましたが、戦争末期には陸軍士官学校ではその入試科目から英語を外してしまいましたが、海軍兵学校では、海軍には英語は必要であるとして、最後になった昭和20年(1945)の入試でも英語の試験は課されていました。

太平洋戦争は、開戦から翌17年(1942)にかけて、ハワイ真珠湾攻撃、香港占領、マニラ占領、シンガポール占領(昭南市とする)、ラバウル占領(海軍の航空基地とする)、ジャワ(現在のインドネシア)占領、ラングーン(ビルマ、現在のミャンマー)占領、その他南方各地域への補給を無視した矢継ぎ早の進攻作戦ですべて多大な勝利、成果を収め、僅か4ヶ月程で、東南アジア、西南太平洋一帯の広大な資源地帯を手中に収めてしまいました。

これらの占領地で日本軍による占領政策の実施や、接収した油田等の施設の管理運営には外国語、特に英語が堪能で駆使可能な者の助力が絶対に必要でした。
国際観光が途絶し、転業を余儀なくされた、通訳案内士、ガイドでしたが、一般国民と同様に徴用対象とされ、特に軍需工場等へは産業戦士と称して、現場の作業員が不足していましたので、徴用された者もいた模様です。
しかし、実際にはごく少数ですが外国語堪能者として軍属として軍に徴用され外地の占領地域に派遣されたり、捕虜収容所の通訳として就業した者もいました。

このように、太平洋戦争の緒戦では我が軍は華々しい勝利を次々に収め、その占領地を大東亜共栄圏の各地に拡大していきました。
この大東亜共栄圏の範囲は、現在の ASEAN(Association of Southeast Asian Nations) 東南アジア諸国連合に加盟している10カ国はもとより中国や南洋諸島などを含めた広大な地域を指していました。その当時の独立国は、タイと中国(国民政府)を除いて他はすべて欧米の植民地でした。

当時の通訳案内士、ガイドは、すべて免許証の所管官庁であった警視庁や地方長官(府県知事)の支配、統制下にありましたから、その動静は容易に把握可能でしたが、占領地へ派遣する要員として必要な適格者を確保するために、当時は身元調査が行われていましたので、通訳案内士、ガイド以外にも三菱商事とか三井物産などの貿易商社の社員とか日本郵船や大阪商船の元社員などで外国語堪能者は候補者として軍当局が手当していました。しかし、昭和18年(1943)以降の戦況悪化により、派遣の取りやめとか又は反対に帰国不可能になったり、不幸にも戦禍の犠牲になった者もいました。

太平洋戦争開戦までは、通訳案内士の仕事は、殆ど惟一の来訪外客斡旋の旅行業者であった、ジャパン ツーリスト ビューロー (J.T.B.)又は帝国ホテルのような来訪外客が宿泊するホテルを通じて、その依頼によって就業していました。
戦争勃発により、国際観光が完全に途絶してしまい、通訳案内士はその結果、仕事が無くなり転業を余儀なくされたわけですが、密接な関係があった、旅行業者やホテル業者にはどのような影響があったのでしょうか、参考までに記述します。

旅行業者 J.T.B. の場合:
来訪外客の旅行斡旋は、組織としての取扱業務はそのごく一部であり、邦人客の取り扱い比率がかなり高くなっていたために、柔軟な対応で切り抜けたものと推察されます。
旅行業は、根本的には平和産業ですので、業容の縮小はやむを得ない処置でした。

ホテル業者 帝国ホテルの場合:
我が国の迎賓館的役割を担って設立された当初の顧客は、来訪外客が殆ど100%でしたが、それゆえ戦争により国際観光が途絶したことは、大きな打撃でしたが、その営業形態は明治23年(1890)の創業以来、漸次、時代の要請に対応して適切に変化、発展させてきており、来訪外客が途絶しても、邦人客の各種の需要(宴会とか婚礼、場所の利便性から事務所的機能としての利用など)が増加して来ており、営業成績は大体、順調に推移しています。
戦争中であっても、”大東亜共栄圏”内の各国からの要人の往来も活発にあり、さらに軍の高官や軍需成金等の邦人客の宿泊や宴会も盛んにあって、営業成績は好調であったと記録されています。

一例として、昭和18年(1943)11月には、帝国ホテルを会場として、大東亜会議が開催されています。
その際の出席者は、我が国からは重光葵外務大臣、青木一男大東亜大臣、タイのワンワイ・タヤコン殿下、中華民国(国民政府)の王精衛主席、満州国の張景徳国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ主席、自由インドのチャンドラ・ボースなどでした。
大東亜共栄圏の諸国と安全に往来可能な間には、各種の国際会議は殆ど帝国ホテルにて開催されましたので、それへの出席者は首席代表をはじめ随員などを含めて全体としてかなりの人数が宿泊しました。

更に、特筆大書すべき事柄は、この戦争中、緒戦の勝利を収めた昭和17年(1942)以降、我が軍が占領地にて接収した各地の一流ホテルの経営を、帝国ホテルを代表とする日本のホテル業者に委託したことです。
帝国ホテルは、シンガポールのグッドウッドパークホテルやバンコックのオリエンタルホテルなどを経営委託されていました。
日本から派遣された社員たちは、現地にてかなりの苦労をして立派な経営を終戦まで維持しましたが、中には不幸にも戦火に倒れ帰国を果たすことができなかった者もいました。
帝国ホテルが調査した昭和17年(1942)11月16日現在の占領地など南方諸地域における日本のホテル業者によるホテル経営は31ホテルにのぼっています。

*ここで、通訳案内士とは密接な関係があり、理論的には相互に基本的な協力関係がある、ホテル業者の団体について記述します。
この団体は、国際観光事業の中核の一端を占め、その役員構成から見て、如何に国の観光行政が実施されるのか、その方向性とか、特に通訳案内士に対しての明確なスタンスが判明して興味深いものがあります。

*日本ホテル協会の設立沿革と、その社団法人化された際の役員構成について、「日本ホテル略史」から引用してみます。
この設立沿革については、既に本稿の9頁にて記しています。
明治42年(1909)の設立以来、本会は32年間にわたり任意団体でしたが、太平洋戦争勃発の年である昭和16年(1941)3月5日、鉄道大臣より社団法人として認可されました。
これは、それだけ本会が社会的に重要な団体であると認知された証明です。

会員数77、支部数7、役職員は以下のとおりです。

会 長   大倉喜七郎(男爵)     
理事長   西尾 寿男(鉄道省旅客課長)   
理 事   富山 清憲(国際観光局庶務課長)   
 同    高久甚之助(ジャパン・ツーリスト・ビューロー専務理事)   
 同    田辺 多聞(朝鮮鉄道運輸課長)   
 同    鈴村 勝利(南満州鉄道旅館課長)   
 同    犬丸 徹三(帝国ホテル常務)   
 同    中谷 保(山王ホテル社長)   
 同    五百木竹四郎(丸の内会館社長)   
 同    佐藤 万平(万平ホテル社長)   
 同    山口 正造(富士屋ホテル専務)   
 同    井上 行平(名古屋観光ホテル支配人)   
 同    中居篤次郎(都ホテル常務)   
 同    大塚 常吉(京都ホテル常務)   
 同    加賀覚次郎(新大阪ホテル常務)   
 同    橋本 喜造(雲仙観光ホテル社長)   
 同    小平 真平(共進亭ホテル社長)   
監 事   金谷 真一(金谷ホテル専務)   
 同    野村 洋三(ホテルニューグランド会長)    
幹 事   吉田 団輔(鉄道省旅客課事務官)   
 同    宮部 幸三(国際観光局事務官)   
主 事   森田栄次郎(鉄道省運輸局総務課)   
 同    宮川 肇(国際観光局)     

この23名の役員構成を見ると、ホテル関係者は、帝国ホテル常務犬丸徹三以下13名であり、鉄道省関係者が10名を占め、事務局を構成すると思われる、幹事、主事各2名、合計4名は全て鉄道省関係者であって、その運営は鉄道省主導であると推測されます。

なお、理事長であった西尾寿男は後に J.T.B. に天下ってその社長に就任しています。
J.T.B. 専務理事であった、高久甚之助は後に J.G.A. の会長に天下っています。
主事の森田栄次郎も J.G.A. の事務局長に就任しています。
他の鉄道省関係者の役員も多分、それぞれ J.T.B.とかホテル業者に天下っているものと推測されます。

このような風潮は、現在まで尾を引いており、現在はその力関係から J.T.B. を主とする旅行業者の利益重視、優先で国の観光行政が運営されていることは、現実の各種行政上の施策や法令等がこれを如実に物語っています。
観光関係の各業者の社会的、経済的地位にも格差があり、全体として国益を十分に考慮した観光行政が適切に実施されているとは到底考えられません。
*太平洋戦争の終戦への経緯

我が国の長期総力戦も、満州事変勃発以来既に長期にわたっており、国内の物資も労働力も軍需生産の為に根こそぎ動員されましたが、我が国の生産力は漸次、低下傾向が顕著になり、回復は全く不可能になりました。
頼みの綱であった、南方占領地からの石油等の重要諸物資の輸送も、昭和17年後半頃からは保有船舶量の急激な減少によって、殆ど不可能な状態に陥りました。

これは昭和17年6月5日から7日にかけて戦われたミッドウェイ海戦において、わが海軍は致命的な敗北を喫してしまい、虎の子の航空母艦や熟練搭乗員を多数失ってしまい、これ以後はまともな戦闘能力を喪失してしまいました。

この時点で太平洋戦争の帰趨は客観的に決していたのですが、神風や最終的な勝利を盲信していた軍部や一般国民は依然として、旺盛な志氣を維持しており、それと共に戦争の最高指導者たちの国際情勢の把握、判断にも重大な誤りがあって、遂に二度の原爆投下やソ連の参戦まで終戦することができませんでした。

このような悲惨な経緯、尊い犠牲を払って、ようやく昭和20年8月15日に太平洋戦争は我が国の無条件降伏によって終結を迎えました。
いよいよ平和な時代の到来で、民間外交官である通訳案内士、ガイドが活躍できる待望の時代が出現したのです。

(続く)

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通訳案内士の歴史(3)を公開します!

2014年03月01日 20時34分53秒 | ●通訳案内士の歴史

通訳案内士の歴史(3)を公開します!

瀬口寿一郎氏著<通訳案内士の歴史(3)>を公開させていただきます。

●「通訳案内士の歴史」全編(公開分)は、下記PDFにてご覧いただけます。
http://hello.ac//historyofguide.pdf

●皆様のご意見、ご感想、ご希望を是非お聞かせください。
(瀬口氏にもお伝えします)
宛先:info@hello.ac

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<通訳案内士の歴史(3)>
著者:瀬口寿一郎
監修:植山源一郎
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第6節 昭和初期から太平洋戦争開戦まで

大正15年(1926)12月25日、大正天皇が崩御、皇太子裕仁親王が直ちに皇位を継承し、元号が昭和となりました。昭和元年は僅かに7日で終わりました。
昭和の幕開けは実質的には、翌昭和2年からでした。そして昭和時代は実に64年間も続き、その内容は、歴史上、実に波乱万丈というべきものであり、当時の世界情勢から、我が国は次第に軍国主義的な傾向を強め、そのために平和産業である国際観光の最先端を担うガイドにとっては受難の時代に入りました。

*時代背景について

*昭和初期の国内状況

我が国は、第一次世界大戦では主戦場のヨーロッパからは遠く離れており、何の被害を受けることもなく、全くの漁夫の利を収めたのでしたが、それも僅かな期間であり、大戦後の大正9年から始まった戦後恐慌は長引いて慢性化し、同15年秋には不況は極めて深刻な様相を呈するようになっていました。

昭和2年(1927)3月から4月にかけて、ついに金融恐慌が勃発し、台湾銀行が破綻し、総合商社で財閥であった鈴木商店の倒産が発生し、銀行の取り付け騒ぎは全国に広がり、激化しました。同年4月22日には3週間のモラトリアム(支払猶予令)が公布、即日施行となり、この日から2日間、全国の銀行は一斉休業するに至りました。

その後も株式・商品相場は低迷し、輸出の主商品であった生糸価格をはじめ諸物価の大暴落があり、企業の操業短縮や倒産が続発し、一方で、中国大陸における日貨排斥運動の激化等もあって、輸出は激減してしまいました。

ガイド業界と密接な関係があるホテル業界も深刻な打撃を受け、全ホテルの85%が倒産するほどの状況でしたが(運輸省大臣官房観光部編「ホテル業の現状と問題点」昭和45年刊)、ガイドの需要が発生する一流ホテルは何とか生き延びましたが、来訪外客の激減に伴い、必然的にガイド業界も不況の波に襲われたものと推測されます。
それは、来訪外客の主流であったアメリカが後述する様に、大恐慌に見舞われていたからです。

*大恐慌による国際状況とその我が国への影響について
昭和4年(1929)10月24日、ニューヨーク株式市場が大暴落し、この「暗黒の木曜日」に端を発した、世界恐慌が始まりました。アメリカではこの大恐慌初期の3年間に工業生産はほぼ半減し、5000以上の銀行が閉鎖され、失業者は1000万人を超えました。

この大恐慌はヨーロッパ各國へも波及し、世界恐慌となり、これが昭和4年末から5年初めには我が国にも波及し、いわゆる「昭和恐慌」が発生しました。
株式・商品市場は激しく崩落し、企業の生産活動は落ち込み、中小企業や商店などの倒産が相次ぎ、大企業も人員整理でこのような苦境を何とか凌ごうと努めた有様でした。当時、流行した言葉に「大学は出たけれど」というのがあり、これが如実に就職難や失業者の増大を物語っています。

因みに、一例を挙げると、東京帝国大学卒業者の就職率でさえ3割程度でした。
一方で、社会不安からエロ・グロ・ナンセンスが巷に氾濫し、米価、生糸価格等の大暴落もあって、農村の疲弊も著しく、この農業恐慌が政情不安定をかきたて、このような社会的、経済的情勢の中で、軍部ファシズムの波が急速に高まり、明治後半以来、中国大陸への進出を推し進めてきた我が国は、昭和6年9月に起こった満州事変をきっかけに、昭和の15年戦争へと泥沼に陥って行きました。

このような社会状況においては、ガイド業界が深く関与する国際観光事業にも必然的に深刻な悪影響が発生していきました。
昭和7年(1932)には訪日観光客数は約21、000人に落ち込み,大正6年(1917)以来の最低を記録しました。この激減の原因は、ただ単に世界不況などの経済的原因だけではなく、我が国を取り巻く国際関係の悪化がありました。

前述したように、我が国の軍部,関東軍は昭和6年9月に満州事変を引き起こし、翌7年2月には全満州、すなわち現在の中国東北部をほぼ手中に収め、またこの7年1月には上海事変も発生していました。このような動きに対して、我が国に対する国際世論は硬化し、国際連盟は満州問題調査のために、リットン調査団を派遣し、昭和7年2月同調査団は日本、中国、満州の現地調査を行い、同年10月1日我が国に対する報告書を発表し、それを日本政府へ通達したのですが、その内容は厳しく、我が国に不利なものであり、結局、我が国は翌昭和8年3月、ついに国際連盟を脱退する羽目に陥りました。

このように我が国は、国際的孤立を余儀なくされる方向をたどることになったのですが、これは、諸外国との友好親善、相互理解の推進を目的とする国際観光の振興とは根本的に矛盾することでしたが、当時の我が国にあっては、「満州は日本の生命線」であり、「義は我にあり」とする主義、主張が支配的であり、そのような風潮のもとにおいて、我が国の立場についても海外諸国の理解を求め、同時に国際収支の改善にも取り組み、わが国独自の立場で国策として国際観光を推進しようと官民あげて努めたのでした。

このような趣旨に基づく具体的な施策としては以下のようなものがありました。

*鉄道省の外局として「国際観光局」の創設

昭和5年(1930)4月24日勅令第83号をもって、「外客誘致ニ関スル施設ノ統一、連絡及ビ促進ヲ図ル」中央機関として、鉄道省の外局として「国際観光局」が創設されました。これは鉄道大臣の管理下にあって超鉄道的な事業を行う機関でした。

それまで官庁関係において、観光ないしは観光事業という文字はほとんど使用されていませんでしたので、この事実は、それまでの我が国の行政における観光の位置づけと無関係ではありえず、したがって「国際観光局」の誕生は我が国観光史のなかでも特筆大書すべき画期的な出来事でした。

この国際観光局の初代局長となった新井尭爾はその著書「観光の日本と将来」昭和6年刊において素晴らしい見識を示しています。すなわち「近年の如く、一般経済界が不況のドン底に喘ぎ、諸事業が萎靡不振の秋にあっては、この観光事業は、国家としても国民としても尤も有利な事業であって、或る点から言えば、観光事業こそ今日の日本に残された唯一の積極的事業であると観ることもできる」と記しています。

それまでの我が国では、官庁を含めて一般には、観光と言う概念には低俗な遊覧ないしは娯楽程度にしか扱われて来ませんでしたが、こうして従来よりは一段と高い次元で認識されることになり、そればかりではなく、観光は一流国民としての自信と誇りを示す行為であり、事業であるとして、大きな抱負が込められるに至りました。

ここで更に、この観光についての考察を深めるために、国際観光局の「観光事業十年の回顧」昭和15年刊から引用すると「観光の字源は、周代に於ける易経の観卦六四の”観国之光利用賓干王”から出ている。(中略)輝かしい国の光をしめし賓客を優遇する意味と取られ、これは大帝国の建設者たる天分を誇っていた古代ローマ人シセロの云う”ホスピタリス(歓待)は国家のほまれなり”と共に東西相通じて観光が大国民の襟度と矜持をしめすものであることを教えている。

異国の人々を誘致し、こころよく優遇することは、比類なき歴史、伝統、風光、文化を有するすぐれたる国にしてはじめてよくこれをなし得るのであって、いわゆる長者の落付きは自らの国力国情に対する確信と、その確信から生ずる気持ちの余裕から生まれるのである。駸々乎として進んで止まざるわが国柄であるからこそ、観光国日本として、その姿を惜しみなく外国に宣揚し、七つの海から国の光を慕って寄り集う外人に歓待の手を差し延ぶべきである、と云う大抱負が、すなわちこの観光局の命名となったのである」と極めて明確にその観光の字源と命名の由縁を記しています。

*国際観光推進のための組織面の整備について

このような国策を推進するために創設された国際観光局は、創設からおよそ2年間は、主として外客誘致促進のための組織面の整備に力を注ぎました。
そのためにまず、設立されたのが、昭和5年(1930)7月2日勅令第130号による「国際観光委員会」でした。

この委員会は、鉄道大臣を会長として、官民各方面の権威を委員(60名以内)に選び、外客誘致に関する事項を調査、審議する諮問機関でした。
この委員の一人として、ガイド業界と密接な関係がある、帝国ホテル社長大倉喜七郎(明治期財界の重鎮であり帝国ホテル設立の発起人であり、同ホテル社長であった大倉喜八郎の子息)が有力メンバーとして選ばれていました。

諮問第1号は「外客誘致に関し急速実施を要する事項並びに其の実行方策如何」というものであり、鉄道大臣への答申でこの「急速実施を要する事項」とされたのは、海外宣伝の方策の確立、旅行斡旋機関の充実改善、ホテルの整備改善等合計13事項でした。これは外客接遇の第一線の任務を担当するガイドにとっては極めて重要なものでした。

特に注目すべき事項は、外客誘致のためには海外での広報、宣伝を活発に実施するべきだとの答申であり、その具体的な内容は、専門機関を設置して組織的かつ大規模に行うべきであるとしたことです。

この答申に基づき、国際観光局の指導のもとに、対外観光宣伝の実行にあたる中枢機関として、昭和6年12月9日に(財)国際観光協会(会長は鉄道大臣)が設立されました。
同協会は、鉄道省からの拠出金(25万円)を主とし、民間関係機関からの会費(約6万円)その他を資金として、アメリカに主力をおいて海外に対する観光宣伝活動を本格化させ、まずニューヨークに宣伝事務所を開設し、また同地における我が国からの官民の駐在員をメンバーとする実行委員会を設置しました。

同協会の設立以前、既に昭和4年に対米共同広告委員会が設けられ活動を開始していましたが、その業務はこの国際観光協会に引き継がれました。この対米共同広告委員会の業務は実際にはジャパン・ツーリスト・ビューローが実施しており、その具体的な業務は、英文日本案内の発行、アメリカで発行される雑誌、新聞への広告掲載、アメリカの旅行業者10名や一流雑誌記者夫妻16名の日本への招待旅行の実施などでした。

当時、来訪外客の人数から見れば中国からも多かったのですが外貨獲得という見地からは、アメリカ人客が最も重要でした。このような招待旅行は現在でも我が国の対外観光推進機関である日本政府観光局(国際観光振興機構)などが実施しています。このような公的機関によるものとは別に、我が国の有力国際的企業、例えばトヨタ自動車やホンダ、CANONや武田薬品工業などが自社の製品販売促進の為にいわゆる、インセンテイブ・ツアー(褒賞旅行)を実施しており、これはガイド業界にとっては極めて重要な職域となっています。

*観光事業調査会の設置

昭和7年4月、前記の国際観光委員会の答申に基づき、観光事業に関する調査会が設置されました。観光地、ホテル、接遇事項(ここでガイドが正式に登場し、政府関連機関で初めて重要事項として調査、審議の対象とされました)の各調査会に分かれ、それぞれ関係事項の調査、研究に取り組みました。

*観光地調査会について

我が国への来訪外客の主要目的は、外交官やビジネス客は別として純粋な観光客では、観光地訪問であり、これはマルコポーロ以来神秘的で夙に自然の景勝地に優れ、洗練された独特な文化、芸術に基づく歴史的な建造物、例えば日光東照宮の二社一寺や京都、奈良の多くの神社、仏閣などにも富んでおり、来訪外客に対しては極めて魅力的な多くの観光地、例えば冨士、箱根や伊勢、志摩等の多くの国立公園や別府などの温泉地にも恵まれています。

これは日本人があまり認識していない事実ですが、多くの世界漫遊家たちの一致した意見では、日本ほど各種、変化に富んだ観光資源に恵まれている国は世界には他に存在していないということです。それゆえ、観光事業調査会の一委員会として、観光地についての調査、研究が行われることになりました。ガイド業務の重要な部分としては、来訪外客を厳選された名所、旧跡等へ案内することですので、この事業はガイド業界にとっては重要な関係があるものです。

*ホテル調査会について

来訪外客にとって宿泊拠点となるホテルの重要性は、記すまでもないことです。またガイド業界にとってはその業務需要発生の最も主要な源泉であって、死活的に重要かつ密接な関係があります。このホテル調査会は以下のような委員によって構成、組織されました。

国際観光局長、国際観光局事業課長、鉄道省運輸局旅客課長、内務省地方局財務課長、内務省警保局警務課長、大蔵省預金部資金局運用部資金課長、日本ホテル協会を代表する者、ジャパン・ツーリスト・ビューローを代表する者、銀行関係者、建築専門家、国際観光委員会委員および幹事、観光事業に関し学識経験ある者。

これらの顔ぶれから見て、当時の時代風潮が判断可能です。大蔵省や銀行関係者そして建築専門家などが委員として入る必要があったのは、当時国策としてホテルの増設や設備改善、経営助成などが必要とされ、そのために資金関係者等の参加が要請されたからでした。

*接遇事項調査会について

来訪外客に対する接遇業務の重要性は,つとに一般社会にも認識されており、とくに外客誘致が国策として取り上げられてからは、その重要性は尚一層、高まりました。

この接遇事項として、調査、審議された主要項目としては、二つあり、その一つは、来訪外客接遇、斡旋機関として明治期に設立された喜賓会の業務を引き継いだ、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、明治45年3月創設(当初の邦語名は”日本旅行協会”)の事業を調査、審議した結果、これを保護、強化、育成することでした。

ジャパン・ツーリスト・ビューロー(以下JTBと称す)は、昭和2年7月に当時の民法上の社団法人となり、その本部は東京・丸の内の現在地に設置され、我が国各地の主要都市に支部、案内所を設け、また海外では、ニューヨーク、ロスアンゼルス、ロンドン、香港などにある国際観光協会と共同の宣伝事務所に職員を派遣するなど、広く活発に内外旅客に対して旅行斡旋業務を行いました。

昭和16年(1941)には時勢を反映して、その名称を「東亜旅行社」と変更し、さらに戦時中の昭和18年(1943)には再度これを「東亜交通公社」と変更しています。これは太平洋戦争の緒戦の勝利により、南方の日本軍による多くの占領地(具体的には、香港、シンガポール、マニラ、ジャカルタ、ラングーン等かなりの都市、地域)への人員派遣、交流上の必要から軍属等の要員の旅行斡旋業務が発生していましたが、この旅行の用語には、なにか旅行気分のような悠長な語感が感じられたためなのか、これを「交通」とし、その公共的な使命遂行から「交通公社」とし、その業務範囲が日本国内のみならず、大東亜共栄圏の全域に及ぶことから「東亜交通公社」としたものと推察されます。

このJTBは、当時から鉄道省国際観光局と密接な関係を持ち、一種の半官半民的な存在であって、多くの鉄道省の官吏(現在用語では国家公務員)がJTBをはじめその関連企業等に天下っており、その弊風は従来、長年にわたり継続していました。

このJTBは、昭和20年8月(1945)の終戦後に、財団法人日本交通公社と改称し、さらに昭和38年(1963)にその営業部門を分離して新たに株式会社日本交通公社を設立し、その後この社名を変更して、現在は、株式会社ジェイテイービーとなっています。

一方、この財団法人日本交通公社は、平成20年(2008)12月、経営の透明性確保と所管省庁との癒着防止を目的とした新公益法人制度が始まり、平成25年(2013)11月までに、所管省庁の認可が必要な「公益社団・公益財団法人」か認可の不要な「一般社団・一般財団」に分かれることになりましたので、平成24年に「公益財団法人」の認可を取得して、これに移行しました。

公益財団法人日本交通公社(英文名:Japan Travel Bureau Foundation)は、純粋に公益推進に徹しており,組織の使命である観光文化の振興の為、旅行、観光に関する独自の視点に立った自主研究や自主事業に取り組み、旅行者や観光地の動向に関するデータの収集、分析、セミナー・シンポジウムを通じた研究成果の公表、書籍の出版に加えて「旅の図書館」の運営などに務めています(同社刊行の概要から)。
しかし、インバウンド業界において最大、最強の(株)JTBは、従来長年にわたり自社の営業上の利便からガイド業界に対してこれを支配、統制することにより多大な影響力を及ぼしてきました。
しかし、その一方において、それを唯々諾々として無批判的に受け入れていたガイド一般やその指導層に確固とした見識が欠如しており、ガイドとしての専門職の社会的な使命を自覚せず,いかにしてその社会的、経済的地位の向上、確立を図り、併せて国家、社会に貢献すべきかという理念がガイド業界一般に全く存在していませんでした。

*日本観光通訳協会(J.G.A. Japan Guide Association)の設立

明治期においてガイドが職業として確立して以来,その同業者同志が団結して、連絡、協調、資質の向上等、同業者間の共通の利益を保護したり増進するために、自主的且つ任意に初めてその同業者団体を設立したのは、明治12年(1879)の開誘社でした。

この日本、初のガイド団体「開誘社」設立を主導した人物は、伊藤鶴吉という横浜在住のガイドであり、彼はかの有名な明治初期における、イザベラ・バード女史(IsabellaL.Bird)の東京から北海道までの旅行に同行、ガイドをして、同女史の旅行記「日本奥地紀行」(UnbeatentracksinJapan)の中でItoという名前で記述されています。

この「開誘社」の他に、明治30年(1897)に「東洋通弁協会」が設立されており、こちらは矢島健次郎という人物が主導したものと思われ、この名前が出ています。
なお、この両団体は内務省令の「案内業者取締規則」が施行される、明治40年(1907)の前年、すなわち明治39年(1906)に合併して「横浜通訳協志会」との名称を名乗り、その会長には前記の伊藤鶴吉が就任していました。

しかし、この「横浜通訳協志会」はその会長であった伊藤鶴吉が大正2年(1913)に死亡して以来その後の活動状況が不明です。解散とか分裂或いは新団体の設立とか何らかの動向があったものと推察されますが詳細は不明です。そしてどのような経緯からか、大正2年以降に新たに「全日本外賓通訳業連合組合」との名称の団体が設立されており、この団体は当時既に有力な来訪外客斡旋組織であったジャパン・ツーリスト・ビューローと密接な関係があったものと推察されます。

それは、国際観光局刊行の「観光事業十年の回顧」の中に、「大正四年、全日本外賓通訳業連合組合代表福田春吉氏からビューローに対し同組合に相当の補助後援を得度き旨の申し出あり、ビューロー理事会はこの申し出に対しては即答せず暫く同組合の経過成績を見ることとし、必要あらば生野幹事若しくは他の適任者一名を名誉会員の如き名称を以て入会せしめてもよろしかろうという申合わせをしている」との記述がありますが、これはこのガイド団体の代表者が、その運営に自主独立の精神を失って、ビューローへの追従、従属を自ら申し出ている告白であって、詳細な事情は不明ですが、何か問題を孕んでいるものと見受けられます。

昭和13年刊行の「国際観光事業論」によれば、「神奈川県外賓案内業組合」とか「日本通訳協会」との名称の団体があったことが分かります。同書によれば”現在ガイド相互間の親睦、業務の向上発展を図る目的を持って日本通訳協会(会員数29名)、神奈川県外賓案内業組合(同31名)、神戸国際観光通訳協会(同13名)があるが、いずれも地方的なものであってまだ我が国のガイドを打って一丸とした全国的なガイド組合は存在しない”と記述されています。

我が国、初のガイドの同業者団体である、明治12年(1879)設立の開誘社や続いて、明治30年(1897)に設立された、東洋通弁協会はいずれもガイド自身が自主的、任意に設立した任意団体、すなわち法律的には、法人格、権利能力のない任意団体でした。
しかし、これから記述する「日本観光通訳協会J.G.A. Japan Guide Association、以下J.G.A.と記す」の設立経緯はこれらとは根本的に異なり、当時の国際、国内情勢から社会的に重要性を増してきたガイドを国家的に支配、統制する必要性から、この目的をもって設立されたものです。
これは以下に見る,諸文献から極めて明白です。

昭和15年(1940)刊の国際観光局による「観光事業十年の回顧」によれば「J.G.A.」の設立理由について以下のように記述しています。「観光客接遇の第一線に立つ通訳案内業者の連絡協調を図ると共にその品性地位の向上、業務の研究改善に努めるため業者を打って一丸とした統一的協会を結成することはわが国情、文化を外人に正しく理解せしめる上からはもとより、他方に於いては現下の重大問題である国家の機密保護の上からも頗る緊要なるものがあり、予てから業者の間にその創設が要望されていたが、国際観光局においてもその重要性に鑑み業者間を斡旋して昭和14年8月社団法人日本観光通訳協会を創設した」としています。
ここに明白に記述されているようにJ.G.A.は,国家による行政上の必要から、それも”現下の重大問題である国家の機密保護の上からも頗る緊要なものがあり”創設されたものです。

*昭和14年(1939)頃の時代背景について

もうすでに昭和12年から始まっていた、我が国と中国(当時の呼称は、支那でした)の間で行われた長期間かつ、大規模な戦闘が進行中であり、ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったために、事変と称し、我が国政府はこれを”支那事変”と公称していました。現在の我が国のマスメディアでは”日中戦争”としています。この戦争が、中国大陸におけるアメリカやイギリスの利害とも衝突し、その他の事情から、我が国を取り巻く国際状況が緊迫し、結局これが発展して昭和16年12月8日に勃発した太平洋戦争へと拡大されて行きました。

昭和14年当時、我が国がこのように戦争を行っており、社会、経済体制としても、軍備増強を必要としており、一方で国策として、外貨獲得とか、諸外国との友好親善をも要請されているという、この矛盾した国策の下にあって、ガイド業界は非常に微妙な立場に置かれていました。
既に記述したように、我が国は、明治期に日清、日露の両戦争に勝利しており、大正期においては、第一次世界大戦に参戦して望外な漁夫の利を収めるという上昇気流に乗っており、アジアでは唯一の工業先進国であり、軍事的にも列強国の一つでした。

それゆえ、欧米各国からはいろいろな面から注目されており、我が国の軍部はその軍事機密が仮想敵国へ漏れるのを神経質なほど警戒していました。
来訪外客が風光明媚な観光地として訪問し、写真を撮ったりするところが軍港や要塞であったり、軍需工場の生産能力や鉄道の輸送能力を調査したりと、いわゆるスパイ行為には厳しい法律を制定して防止していました。その代表的な法律が「軍機保護法」でした。
当時、外国語を理解し、外国人、とくに来訪外客と職業上折衝するガイドには、国家保安上、十分な警戒心を持ち、どのような点に注意を払うべきかの詳細な指導をする必要があるとされたわけでした。

このような当時の社会状況において、ジャパン・ツーリスト・ビューローは、昭和14年(1939)6月にガイドとの会合を懇談会との名目で開催し、ガイド約30名の他にビューローを代表する者や、警視庁外事課の係官等の関係者が出席して、以下の4項目を議題として協議しました。それらは「案内業者(ガイド)の指導、教養」、「外人接遇の方法」、「防諜の問題」、「ガイド組合の改善」などでした。

ここで協議された4項目の議題は、極めて重要ですので、どのような理由でこれらの事項が協議されたのか、その具体的な内容とその由縁を記述します。

*「案内業者(ガイド)の指導、教養」について

どの職業でも全てそうなのですが、必ず少数の不心得者が存在しています。
明治期にガイドが職業として確立されて以来、一部の品行不良のガイドが存在しており、これらの者の行状があまりにも酷く、とくに基本的に協調関係にあったホテル業界との間にいろいろなトラブルを発生させていました。

このトラブルの具体例の一つとして、すでに第4節にて記述したように、ホテルへの歩合要求がありました。ガイドは、外客を各地のホテルへ同行、案内した際に、外国語に不自由なホテル側のサービスに干渉し、料理や経営方針にまで口出しして、いろいろと歩合を請求したり、態度も傲慢な者がいて、ホテル側ではガイドの機嫌を損ねぬように大変な気を配っていたようです。

「日本ホテル略史」にて日光金谷ホテルの金谷真一はこの間の事情を、以下のように如実に語っています「明治初年よりガイドは渡来外国人の内地旅行上重要なる役目を果たしたり、渡来外人は是非共是等ガイドに依って指導せらる外無く、他方旅舎としても言葉も通ぜずガイドに食物の世話、ベッド其の他万端を任せ、彼等はホテルの支配人以上のサービスを外人旅行者に与えたり、従って客から受ける支払い等に至るまで世話になる必要があり、ホテルでは宿泊料の一割ぐらいを謝礼の意味で提供して居った」。
そして箱根宮ノ下の富士屋ホテルの山口仙之助も同書にて同様な趣旨のことを記述しています。
このような事情から、ガイドの教養や資質が問題とされ,その向上、改善が強く要請されたわけです。

*「外人接遇の方法」について

これは次の「防諜の問題」と密接に関連していますが、ポイントはガイドは民間外交官であって、我が国民を代表してその国情全般や産業、経済、文化等を来訪外客に対して説明し、国際間の友好、親善の推進に貢献することをその使命としているのですが、躍進日本、一流国家の国民としての矜持を忘れることのないように心がけるということです。

当時から既に、来訪外客に接遇するガイドやホテルマンなどは礼節を保ち、温かき接遇をすることの必要性はしきりに強調され、この接遇が行き届いているか否かによって、従来からいかに多くの来訪外客が親日家となったり、反対に反日家となったりしたのかの事実が指摘され、これらの来訪外客が自国に帰ってからの言動が、その国の対日輿論の動向にいかに重要な役割、影響を及ぼしているかが強調されました。
現在、これは我が国特有の「オモテナシの心」として再認識されています。

*「防諜の問題」について

この懇談会に警視庁外事課の係官が出席していたのは、この防諜についてその重要性を具体的にガイドに対して説明する必要があったからでした。この「防諜」とはスパイの侵入を防止し、軍事機密等が漏れることを防ぐことです。国家の機密保護ともされています。

警視庁外事課は警視庁の特別高等警察、いわゆる特高の一部門であり、外事警察とも言われており、その職務は日本に居る外国人の視察、取り締まりや監視をし、海外にいる日本人共産主義者の調査も行っていました。
当時の我が国は、この防諜の問題をあまりにも重視したために、「警察国家日本」との甚だ好ましからぬ批評をも耳にするのであると、当局自身がその「国際観光事業論」において認めています。

ガイドはとくにその職業上から来訪外客と折衝を保ち、旅行に随行して各地を案内するわけですが、その外客が純粋な観光客ではなくて、我が国の軍事機密を調査、研究することを目的としている場合があるかもしれませんので、外事警察としては、ガイドを通じて万一、国家機密が漏れるようなことがあってはならないと、事前にガイドに対して一種の予防教育を与えました。

これには、外客との質疑応答の内容に注意するとか、写真撮影でもその場所に十分注意して、我が国には「撮影禁止」の掲示がある場所がかなり多いので、来訪外客には事前に訪問地によっては的確な注意を与える必要がありました。
特に、当時の我が国には軍港、海軍工廠とか要塞、軍事施設、軍事訓練場など軍部としては、あまり一般人が近づくことを好まない場所がかなりありました。

*「ガイド組合の改善」について

国際観光局としては、その所管の国際観光事業の有する国策的重要性から、その政策を強力且つ効率的に実施するために、それがガイドを対象とする場合には、個々のガイド業者を相手にすることは効率も悪く、その効果もあまり期待できないことから、結局、国際観光局が主導して、行政が自由に支配、統制可能なガイド団体を設立することでした。

表面的な設立理由については、既に「日本観光通訳協会J.G.A. Japan Guide Association」の設立について、の箇所にて記述しています。
つまり「ガイド組合の改善」という名目で、ガイドを集め、国策上で必要とする防諜などの知識を与えるとともに、観光教育を与え、全国的に統一のとれた業界団体を官主導で設立して、国策に沿ってこの業界団体を通じてガイドを自由に支配、統制することを意図して設立されたのが、現在までも同じ名称で存在しているJ.G.A.なのです。
このJ.G.A.は昭和15年の設立時においては、当時の民法上の社団法人(これは公益社団法人でした)が平成26年現在は、認可がいらない一般社団法人となっています。
この社団とは法律上は自然人の集まりを意味し、2人以上で設立可能です。

当初のJ.G.Aは当時の国際観光局主導で設立されましたので、その「会長には鷹司伸輔公を推戴し、役員には各官庁関係官其の他民間諸団体の有力者を委嘱し、朝野密接なる連携の下に、その指導、監督に当たることとなって居り、今後の発展が期待されている」(国際関係事業論から)と記述されています。
この初代会長に推戴された鷹司伸輔公の”公”は公爵を意味し、貴族の最高位であり、貴族院議員を歴任されていますが、どのような経緯から「社団法人日本観光通訳協会J.G.A.」の初代会長に就任されたのかは不明です。多分、国際観光局がJ.G.A.の権威付けの為に委嘱したものと推察されます。其の他の役員には、以下の官庁、企業等からの利益代表者が就任しています。

国際観光局、鉄道省、内務省、外務省、大蔵省、警視庁、憲兵司令部,日本旅行協会(これはJ.T.B.です)、日本ホテル協会、日本郵船等でガイドは約100名参加し、そのうち8名が役員(理事)に就任したとされていますが、J.G.A.は当初から正会員であるガイドから選出される理事よりも其の他の会員から選出される理事数が多かったのですが、漸次改善され、現在はほぼ同数となっています。会を代表する会長は、従来永らく監督官庁からの天下りか、J.T.B.の社長か会長の兼務でした。

しかし、J.T.B.が多額の助成金の拠出を止めてからは、現在は正会員のガイドから選出されていますが、J.G.A.には賛助会員制度があり、理事会が承認すれば誰でも賛助会員として入会可能です。J.G.A.の事務所は、設立当初から長年にわたり、J.T.B.の社屋内にあり、実質的にはJ.T.B.の外人旅行取り扱い部門の一部を構成していました。
しかし、戦後になってから、インバウンド旅行業者の数が漸次、増加したために、J.G.A.の事務所をいつまでも、J.T.B.の社屋内に同居させておくことに批判が出始めたために、昭和30年代になってからJ.G.A.は場所的にJ.T.B.から離れて独自の事務所を構えて運営していますが、人脈的な繋がりは依然として残されている模様です。
なお、設立当初のJ.G.A.の事業中主なものは以下のような事項でした。

1.外客並びに旅行斡旋者の申し込みに対する会員の推薦
2.通訳案内業者の指導、啓発
3.通訳案内業実務の改善発達に必要なる講演会、研究会、講習会の開催
4.観光事業関係者との連絡協調
5.観光客の接遇改善の研究
6.工芸品、特産品、名産品、土産品等の研究

これらは公益法人としての使命の一端であり、J.G.A.が戦前において国策上必要とする国際観光事業において、来訪外客接遇のプロ集団として、当時の社会情勢から自主、独立性を欠いたとは言え、それなりの機能を発揮し、国益に貢献した事実はそれなりに評価すべきものと考えられます。

J.G.A.は既にその歴史的な使命を終えたものと考えられますので、今後どのように運営されていくのか、非常に興味深いものがあります。
現在、誰でも入会できる一般社団法人であって、プロガイドだけの有資格者、同業者団体ではないために、国際的なプロガイド団体だけで構成されているWorld Federation of Tourist Guide Associations,WFTGAへの参加資格がありません。
今後、WFTGAが、国連のUNESCOやWorld Travel Organizationとの連携活動を活発に展開して加盟各国における「通訳案内士の社会的、経済的地位の向上、確立」に向けて新たなる旅立ちがある潮流にあってはJ.G.A.は結局、時代遅れの一団体に留まることでしょう。

(続く)

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通訳案内士の歴史(その1)

2014年02月01日 10時24分14秒 | ●通訳案内士の歴史

初代ドイツ帝国宰相オットー・フィン・ビスマルクの有名な言葉に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があります。

通訳案内士の社会的、経済的地位が何故このように貶められてきたのか。

国交省(運輸省)は何をしてきたのか。あるいは、何をしてこなかったのか。
日本のインバウンド業界を支配するJTBグループは、自社の金儲けのために、いかに巧みに通訳ガイドを支配、統制、搾取してきたのか。
JTBグループは、癒着関係にある国交省と一体となって、いかにして、日本が世界に誇る通訳案内士制度を崩壊させてきたのか。

通訳案内士の社会的、経済的地位向上を図るにしても、まず、通訳案内士の歴史を知ることから始めることが大切です。私がこの業界と関わりを持ち始めた約40年前からは、大体のことは分かるにしても、それ以前のことになるとよく分かりません。そこで、かなり以前から、私が尊敬する通訳案内士業界の重鎮でおられる瀬口寿一郎氏に、氏の知っておられる通訳案内士の歴史について、是非書いていただきたいと、横浜のご自宅まで押しかけてお願いしてきました。

下記において、「通訳案内士の歴史」を完成したところから、順次ご紹介させていただきますので、是非お読みいただきたいと存じます。

 ●「通訳案内士の歴史」全編(公開分)は、下記PDFにてご覧いただけます。
http://hello.ac//historyofguide.pdf

●「通訳案内士の歴史」は、下記ブログにてもご覧いただけます。
http://blog.goo.ne.jp/gu6970/c/b1f983ace556bb4dcb519bf6f7ed7e2e

●皆様のご意見、ご感想、ご希望を是非お聞かせください。(瀬口氏にもお伝えします)

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通訳案内士の歴史


●著者 瀬口寿一郎氏略歴

1951年、通訳案内業試験(現通訳案内士試験)(英語)合格。
免許取得(英語)以後、日本交通公社をはじめ、主要インバウンド旅行業者において、随時、フリーランスガイドとして就業した。
1963年、ドンファン・カルロス スペイン国王夫妻(新婚旅行)、1964年、世界銀行東京総会におけるエクルス米国、連邦準備銀行総裁夫妻等の国賓級VIPをはじめとして、重要団体のガイドとして豊富な就業経験を有する。
その間、中央大学法学部を卒業し、同大学院法学研究科修士課程(刑事法専攻)履修、法学修士の学位を取得する。
1990年、円高によるインバウンド業界不況のため、帝国ホテルに転就職し、管理職のDuty Managerとなる。
帝国ホテル定年退職後、神田外語キャリアーカレッジにおいて、「通訳案内業国家試験通信講座」の主任講師を勤める。
1981年6月、任意団体として「全日本通訳案内業者連盟」を設立。
1994年4月、これを国土交通大臣の認可を得て事業協同組合としての法人格を取得し、理事長に就任し、同組合の基礎を築いた。
5年間の理事長執務後は、理事として在任し、2012年末に、一身上の理由にて同組合を脱退し現在に至る。

●監修 ハロー通訳アカデミー学院長 植山源一郎

<はじめに>

我が国において、通訳案内士という職業が、その社会的な重要性から法令上、初めて正式に規定されたのは、実に1世紀以上も前の明治40年(西暦1907年)であり、その名称は「案内業者取締規則、明治40年7月内務省令第21号」というものでした。


これは観光関係法令としては我が国、最古のものであり、これが幾多の変遷を経て、現行の「通訳案内士法、最終改正、平成25年5月10日法律第12号」となったものです。

この概説では、通訳案内士(以下便宜上通称のガイドと記す)の歴史をその創設期から現在に至るまで幾つかの時代的背景を特徴として、時代区分をなし、その社会的、経済的地位にも触れて概説を試みているものです。
歴史を通観しこれを学ぶことは、現代人の素養として不可欠なものです。

従来からガイドとして就業するためには、比較的にも困難な語学関連では唯一の国家試験に合格し、あらゆる分野の国情を把握し、それなりの専門知識を具備することが要請され、殆どのガイドはそれに応えてきましたが、それにもかかわらず、その社会的、経済的な地位は漸次、低下するのみでした。

この原因は客観的にもいろいろとあり、ガイド自身の努力だけではいかんともしがたい点があった事実は否定出来ませんが、一方ではガイド自身でとるべき可能で妥当適切な対策、手段をとることを怠り自らその墓穴を掘った感が無きにしも非ずであったことも、これまた否定できない事実です。

このガイドについての歴史概説を学び、いろいろとその歴史的な意義や事実を知り、それらの評価を試みることは、今まさにその公正妥当な職業存続の正念場にあるガイドにとっては必要不可欠な重要事項です。

是非、ガイドの皆様方はもとよりこの職業に関心をお持ちの方々がこの概説から多くを学び、その職業が持つ重要な社会的意義を認識し、その地位向上、確立に資されることを衷心より期待するものです。


第1章 通訳案内士の創設期から太平洋戦争開戦まで
第1節 幕末における創設の背景、意義とその時代背景

ガイドという業務、職業は来訪外客を相手とすることから、その歴史的な起源は徳川幕府による鎖国政策が嘉永6年(1853年)のペリー来航によって廃止され、安政5年(1859年)に函館、横浜、長崎(下田は閉鎖)が開港され、それらの各地に外国人居留地が設置され、その結果として、制限付きとはいえ、外国人の国内旅行が認められることになり、ここで初めて彼らを案内するガイド業務が発生したものです。

但しその需要はごく限定的なものであり、そのガイド業務に従事することになった者は、それらの外国人の身近にいた者とか、それらの者の紹介によって、そのような外国人の要望に対応可能な最低限の外国語の知識を有していた者でした。

200余年以上も続いた鎖国政策のために、外国語を解する日本人は、ごく一部の長崎通辞のような特別な者以外には存在せず、ただ史実としては、ごく少数の漂流民でたまたま漂着した外国でその土地の言葉を習得して、幸運にも帰国を果たした者が存在していた程度でした。


それらの者の内で代表的な人物が、中浜万次郎です。
しかし、当時の国情から彼がガイドを職業としたわけではありませんが、彼がアメリカを初めて我が国へ伝え、同時に初めて我が国をアメリカへ紹介した人物であった事実は間違いありません。

ここで、簡単に中浜万次郎(1827-1898)について記しますと、もと土佐の漁師で14歳の時、出漁中に遭難したが、幸運にもアメリカの捕鯨船に救われ、その船長に才能を見込まれ、アメリカで教育を受け、帰国後の1853年、幕府に幕臣として登用され、外交文書の翻訳や通訳を務め、軍艦操練所教授をも務め、鎖国から開国に揺らぐ激動期の我が国の歴史において重要な役割を果たし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人でした。

*幕末における国情と当時の日本人の西欧体験について  

嘉永6年(1853)ペリーが率いるアメリカ東インド艦隊の来航は日本人の眠りを覚ます衝撃的な事件でした。
それは当時、「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四はいで夜も寝られず」と詠われた川柳が如実に物語っています。

日本は外圧によって、鎖国の重い扉を開き、開国するに至ったわけでしたが、国内では「開国」と「攘夷」に分かれ騒然とした状況でした。
そのような状況にあっても冷静な開明派は、先ずは諸外国を知るために、使節団の派遣、使節団への強引な参加、視察の旅、留学、密航などさまざまなものでしたが、主なものとしては下記のようなものがありました。

万延元年(1860)遣米使節 (日米修好条約批准書交換のため。咸臨丸には福沢諭吉や中浜万次郎も乗り組んでいた。)
文久元年(1861)遣欧使節 (開港の延期交渉のため。福沢諭吉も参加)
文久3年(1863)英国留学 (横浜のジャーデン・マセソン商会の仲介で伊藤博文、井上薫ら密航)
文久3年(1863)遣仏使節
慶応3年(1867)遣仏使節 (パリ万国博覧会参加および将軍慶喜の弟、昭武の留学、渋沢栄一が参加)
明治4年(1871)岩倉使節団(条約改正予備交渉および欧米視察、岩倉具視以下の明治新政府のリーダーら総員46人、留学生を合わせると約100人)

彼らが得た西欧体験は、その後の我が国の歩みに極めて大きな影響を与えました。
明治維新後、欧米への留学、視察に出かける日本人は漸次増加し、彼らの西欧体験は明治およびそれ以降の政治、経済、文化等を先導していく動力源となり、彼らの中からガイドとして就業可能な語学力、素養を具備した多数の人材が輩出したであろうことは容易に推察可能です。

第2節 ガイド業務に対する需要の発生とその供給源

我が国の開国によって海外から人と物が急速に入り込んできました。
その入口となったのが開港・開市場です。

ペリーの浦賀来航の翌年、嘉永7年(1854),神奈川で結ばれた日米和親条約において下田、箱館(明治2年以降、函館)の開港、開市場における外国人の遊歩区域そのほかが取り決められ、さらに安政5年(1858)日米修好条約が締結され、下田,箱館に加えて神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港および江戸、大坂の開市が取り決められました。

開港場には外国人居留地を設けることになり、そこでの外国人の建物購入および建築等による「居留」が認められました。
遊歩区域は原則として10里四方(約1600平方キロメートル)以内とされ、一方、開市場では商用のための一時的滞在、家屋の賃借すなわち「逗留」が認められ、この日米間の条約をモデルとして、ロシア、オランダ、フランスとの間にも修好通商条約が締結されました。

*鹿鳴館の隣に出現したグランドホテル

我が国においてガイド業務の需要の発生は、来訪外客が宿泊するホテルからまず発生しました。
そのようなホテルとして首都東京において、最高、最大なものとしては帝国ホテルがありました。

帝国ホテルは明治23年(1890)11月3日にほぼ現在の場所において開業しましたが、これは我が国の国際観光において新時代の幕開けを告げる画期的な意義を示すものでした。

この年は、日本を揺るがせたペリーの黒船来航から37年、江戸が東京と改称されてから22年、欧化主義のシンボルである鹿鳴館ができてから7年でした。

ホテル産業は、「接客を通じて 'Hospitality' を提供することによって付加価値を生産する産業である」と定義されていますが、この接客とは広義においてはその宿泊客に対してあらゆる便宜を提供することであり、その中には料理、飲食需要はもとより洗濯物の処理や買い物案内や観光地の紹介等が含まれており、外国人客に対しては商用の通訳や国情全般についての説明、名所、旧跡への旅行案内即ちガイド業務をも含むものであって、極めて重要なものです。

それゆえ、明治期における帝国ホテルの英文広告では、ホテルには"skilled staff and guide"がいる旨の表示がなされていました。

*横浜に集中した初期のホテル

明治初年(1868)から長く隆盛を続けた横浜の代表的なホテルとしては、横浜のグランドホテルが有名です。
しかし、明治10年代の終わり頃までに訪日した外国の要人たちは横浜のホテルに宿泊せず、旧幕府の施設だった延遼館、寺院、旧本陣などを宿所としていました。

*リゾート地のホテル

明治初年(1868)から訪日外国人に利用されたリゾート宿泊施設があり、そこでは当然、ガイドの需要があり,その業務になんとか対応可能な人材がそれなりに存在していたであろうことが推測されます。

日光金谷ホテルは、この地を訪れ宿泊したヘボン博士の指導で明治6年に夏だけカッテージインとして営業するようになったのが始まりで、明治26年に日光金谷ホテル(客室数 30)として開業し、その後増築を重ね、我が国の代表的なリゾートホテルとしての地位を確立し、訪日外国人客が多数宿泊しました。

同ホテルには東照宮をはじめとする名所旧跡を専門に案内するホテル専属のガイドがいました。
これは需要が中断した一時期を除き戦後に国際観光が復興してから昭和30年代迄は存在していましたが、個人客でも東京からの日帰りツアーや団体旅行が盛んになるにつれて需要が減り自然に消滅してしまいました。

また箱根宮ノ下の奈良屋は、幕末のころから、箱根を訪れる外国人が投宿した和風旅館であり、やがて外国人向けの設備も整えた洋館を新築して、奈良屋ホテルと称して外国人客誘致に力を注ぎました。
同じく箱根宮ノ下に明治11年に開業した富士屋ホテルは、当初から外国人客専用ホテルでした。

第3節 近代ツーリズムの幕開け、喜賓会および外航定期航路の創設

*喜賓会(The Welcome Society of Japan)の創設、活動とその意義

フランスの作家ジュール・ヴェルヌが「80日間世界一週」を書いたのが1783年でした。
広く世界的に愛読者を得たこの作品は、疑いもなく当時の時代精神を先取り、反映していました。

ヨーロッパでは産業革命、交通革命(汽車、汽船の発明)、通信の発達によって所得の増加、富の蓄積が進み、また時間的、空間的距離が短縮されつつあったのでした。

それを背景に、資本が海外市場に進出するに伴い、外交あるいは商用の海外旅行が増え、また探査、観光を目的とする海外への旅行も促進され、世界を一周する「漫遊者、globe-trotter」たちが出現しました。

英国国内で1841年(天保12年)に初めて団体旅行斡旋を成功させたトーマス・クック社は、その後ヨーロッパ周遊、米国旅行と行き先を拡大し、1872年に初めて世界一周旅行を斡旋しました。
アメリカでもアメリカン・エキスプレス社が1875年に旅行業務を開始し、19世紀の終わり頃には、欧米では国際観光は顕著な現象となっていました。

その近代ツーリズムの波は、日本にも打ち寄せようとしていました。
明治期の財界人の中で、近代国際ツーリズムの波音を最も確かに聞き取っていた一人に益田孝がいました。

彼は三井物産社長として約8ヶ月にわたり欧米を回り、帰国直後の明治20年(1887)11月25日、東京商工会でおこなった演説の中でフランスの観光業に注目すべき旨の発言をしています。

そして翌21年1月には、東京商工会の議事として「外国人接待協会設立の件」を提案しました。
このように益田孝が提案した「外国人接待協会」は、我が国初の外国人客誘致機関である「喜賓会」の設立として実を結ぶことになりました。

この「喜賓」とは、詩経小雅篇のなかの「我有嘉賓 中心喜之」からとられ賓客を心から喜ぶ、との意が込められていました。
それは当時の外国人客は、商用の客を別とすれば貴族など上流階級が多かったからです。

その設立の目的は「我が国、山河風光の秀、美術工芸の妙、夙に海外の賞賛する所なり、万里来遊の紳士淑女は日に月に多きを加ふるも之を待遇する施設備わらず、旅客をして失望せしむること尠からざるを遺憾とし、同志深く之を慨し遠来の士女を歓待し行旅の快楽、観光の便利を享受せしめ、間接には彼我の交際を親密にし貿易の発達を助成するを以て目的とす」とされていました。
  
その綱領は、
1.旅館の営業者に向って、設備改善の方法を勧告する事
1.善良なる案内者を監督奨励する事(ここにガイドが正式に登場することは意義あることです)
1.勝地、旧跡、公私建築物、学校、庭園、製造工場の観覧視察上の便宜を図る事
1.来遊者を歓待し又我邦貴顕紳士に紹介の労を執る事
1.完全なる案内書及び案内地図類を刊行する事

喜賓会は出版物(英文日本案内書、案内地図及び旅行方案書など毎年数万部)の発行も行い、また実地に外国人客を案内する専業者であるガイドを「監督、奨励」しました。

外国人客に対する旅行ガイドは、すでに明治10年代初期から需要がけっこうあり、我が国最初のガイド組合である「開誘社」が明治12年(1979)に結成されていました。

喜賓会ができてからは、例えばマレー「日本旅行案内」第6版(1901年)に掲載された開誘社の広告には、開誘社は「The Japan Welcome Society の監督下にある有資格ガイド協会」であり、22年の歴史をもち、横浜と神戸に事務所がある、としています。

当時のガイド料は1日2円50銭(1~2人、3人以上は一人増える毎に50銭増)で、横浜に27人(他にアシスタント9人)、神戸13人(同2人)、京都3人のガイドの名前を掲載していました。

本会の設立は、明治26年(1893)3月であり、その事務所を帝国ホテルに設け、幹事長には明治時代の実業界に重きをなした、渋沢栄一が就任しています。

その他の幹事には蜂須賀侯爵、フランス公使等を務めた国際経験豊富な人材をはじめ、大倉喜八郎や益田孝等の財界の大物を連ねていました。

評議員の中には、外務省顧問の H.W.ソン、ジャパン・メール主筆の J.R.ブリンクリーなど、条約改正に向けて日本の力になっている外国人も含まれていました。

なお、ここで特筆すべきことは、この条約改正問題の解決は、当時の国民的な悲願であり、世論は沸き立っており、西欧先進諸国から同権、対等と認められることが、当時の全日本人の切望であり要求だったのです。

なお、「日本ホテル略史」によれば前述の開誘社とは別に明治30年に東洋通弁協会というガイドの団体ができています。
ガイドに対する需要が明治30年代に入っていよいよ増えてきたことが窺えます。

それに伴ってガイドの質の問題が次第に表面化し、これはホテル業界とも密接な関係をもっているだけに明治40年前後には両業界にとって大きな問題となりました。
その一つの解決策として明治40年(1907)に内務省による「案内業者取締規則」が制定されました。

これについては別に記述します。
喜賓会が設立された当時、日本にやって来た「漫遊者」たちはどのような観光をしたのか、その平均的な姿を調べてみると以下のようです。
その頃我が国に来遊する外客は、毎年七,八千人位で観光地域は大概、北は仙台、松島より南は瀬戸内海、厳島まで、その滞在期間は長くて一ヶ月、短きは一週間程であり、ただ寄港地付近を観光するだけの者もおり、当時の金額で一人、1、300円位を費消するから少なくとも10、000万円は我が国の現金勘定が殖えるので、これを座貿易と称していたとのことです。

喜賓会は営利を目的とせず、その運営は会費および有力企業等からの寄付金で賄われ、或いは宮内省からの御下賜金を受けたりしていました。
明治45年3月、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(幾つかの名称変遷を経た後の(財)日本交通公社)の誕生に伴い、喜賓会はこれにその使命を譲ることになり、設立から約20年を経た大正3年3月に解散しました。

*我が国の外航定期航路の創設とその発展

ガイドを必要とする来訪外客は、我が国へはすべて海路をはるばるとやってきたわけですが、特に我が国が、日清、日露の両戦争に勝利して、一躍世界の大国の仲間入りを果たし、欧米諸国の注目を浴びることになり、更にマルコポーロによって紹介されて以来、その神秘性が魅力となり,世界漫遊者たちの重要な目的地になりました。

19世紀の中頃は、我が国のみならずアジア諸国が欧米列強によって開国を迫られ、日本以外にはタイ国のみがその巧妙な外交政策の結果として独立国として残りましたがそれ以外のアジア諸国は、イギリス、フランス、オランダ等の欧米列強の世界支配体制の中に組み込まれていきました。

このような世界情勢から、欧米列強は海運業に力を注ぎ、我が国も同様にそれに対抗すべく政府の全面的な支援を受けて激烈な国際競争に参入しました。

明治初期には、遠洋航路はもちろん我が国周辺の近海航路も殆どアメリカの海運会社が制圧していました。

諸外国から我が国への遠洋定期航路では、明治3年(1870)にアメリカの太平洋郵船(Pacific Mail)がサンフランシスコから横浜―神戸―上海間の定期航路を開設し、横浜、神戸はその中間寄港地となり、世界一周ルートの一点となりました。

同様にカナダからは、1886年にカナダ太平洋鉄道会社(Canadian Pacific Railway Company)がバンクーバーから横浜、香港へ向けての定期航路を開設しました。

イギリス本国からは東洋はもとより、世界各地の植民地に向けて、巨大な海運会社である P & O(Peninsula & Oriental Steamship Company)が手広く定期航路を開設していました。

それらに対抗するために、我が国の新政府は強力な外航定期航路創設の育成策を採りました。
これは必然的に、我が国の国際貿易はもとより、訪日外国人客誘致というホテル業界それに付随してガイド業界にとっても極めて有意義な政策でした。

明治8年(1875)我が国最初の外航定期航路が政府の命で三菱商会(直後に三菱汽船会社、ついで郵便汽船三菱会社、これが明治18年に協同運輸会社と合併して日本郵船会社となり、当時既にその所有船舶数は58隻でした)が横浜―上海間で運航を開始しました。

その後、日本郵船は、明治19年に長崎―天津航路、明治22年に神戸―マニラ航路の開設等を果たし、更に日清戦争(明治27、28年)の軍需輸送で経営基盤を強化し、明治29年に欧州航路、アメリカのシャトル航路、オーストラリア航路などを相次いで開設しました。

そして日露戦争(明治37,38年)による更なる経営基盤の強化,我が国領土の拡大で,日本の海運業は目覚しい海外進出を果たしましたが、それとともに来訪外客も飛躍的に増加し、ガイド業界にも恩恵をもたらしたのでした。

*案内業者取締規則の制定(明治40年7月,1907年 内務省令第21号)

制定当時の時代背景とその制定理由

幕末の開港以来、ガイド業務は必然的に発生しましたが、これに対応可能な人材は当時としてはごく少数であり、その対応能力や人材の資質にはかなりのばらつきがありました。

明治初期の激動期を経過して、社会が安定し、我が国への来訪外客が漸次増加し、ガイド業務の需要も増加し、それに伴ってガイドの人数もこれまた増加しました。しかし、明治末期になっても公的には何の規制もなかったために、いろいろな問題が発生し、関連業界を悩ます事態の発生が見受けられるようになりました。

例えば、ガイド能力の不足のために顧客からの苦情とか、ホテルとか土産物店に不当な影響力を行使して、不当な要求をするなど、ガイドの能力,資質、品格等が問われる問題です。

喜賓会のような外客接遇、斡旋機関がその業務の一環としてガイドへの一応の指導、監督の指針を示していたことは前述しましたが、これとて強制力がある公的なものではありませんでした。

その具体的な解決策として、我が国の国家権力による行政上の対応策として採られたものがこの省令の制定、実施でした。
その内容は、ガイドを業としようとする者は、地方長官に願い出て、免許を受けなければならなくなったことです(同規則第1条)。

なお、ここで’業とする’とは、ある行為を継続的、反復的に行うことを意味し、’免許’とは一般的に禁止されている行為を、特別に解除してそれを許可することです。


具体的に分かり易い事例としては、自動車の運転免許があります。自動車を公道で運転することは、危険なため一般的に禁止されていますが、一定の試験に合格して、技能や交通法規の知識があると証明された者には、その運転を許可することです。

お粗末な人物が、ガイド業務を十分な知識、技能もなく勝手にやることは、来訪外客に対して、たんに失礼であるのみならず、いろいろな見地から日本の国益を害することは容易に理解可能です。

そして地方長官(現在の都道府県知事に相当)は試験を実施しその合格者に免許を交付しました(同規則第2条)。
この地方長官は全てではなく、主として当時のガイド需要が発生して、それに対応可能な主要地であった道府県だけであり、東京では府知事ではなく特別に警視総監でした、それゆえガイド試験は警視庁が実施し、その免許証の表紙にはいかめしい警察の徽章が印刷されており、戦後も失効することなく有効だったため、昭和20年代後半から30年前期頃迄はこの免許証を所有していた元気なガイドがまだ活躍していました。その他は、京都府知事、神奈川県知事、兵庫県知事、長崎県知事、北海道長官に権限が委譲され、それら各地の警察が免許証の交付を行いました。

この免許証は、交付された道府県だけではなく全国版として有効でした。
なお、試験科目は、人物考査と外国語,日本地理、日本歴史でした(同規則第3条)。
同規則は、太平洋戦争後、昭和22年12月31日(1947年)内務省解体により廃止されました。

それゆえ、それ以後、昭和24年6月15日に新たに省令から法律へと格上げされた通訳案内業法が制定、実施されるまでは、取締法規が存在せず、自由な営業が認められていたわけですが、実際には未だ国際観光は再開されておらず、当時の占領軍の将兵及びその家族の国内旅行があっただけでした。

通訳案内業法については、第2章にて記述します。

*日本ホテル協会の発足 
明治42年(1909)6月16日 帝国ホテルにおいて開催

当時、ガイド業務が発生し、基本的にはその需要の殆ど全てを依存していた所は、来訪外客が宿泊するホテルでした。
他には、喜賓会を別にすると在日の大,公使館等の外交公館や外国人のいる貿易商社等があっただけであり、現在のようなインバウンドを取り扱う旅行業者は存在していませんでした。

明治32年(1899)7月、我が国民の悲願であった条約改正が実現し、長年にわたり屈辱的であった治外法権が撤廃され、我が国は条約締結各国と同等の立場となり、外国人は内地旅行および居住の自由を得て、従来のようにその都度の許可を必要としなくなりました。
これは、ホテル業界はもとより来訪外客接遇に密接に関係していたガイド業界にとっても大いに歓迎すべきことでした。

日露戦争の勝利は、極東の島国日本への興味を高め、訪日外客が顕著に増加してきました。
これは戦争中の明治38年からすでに増え始めていたとのことですので、現在の常識では一寸考えられないことです。

日本ホテル略史によれば、戦争が終結した翌39年には訪日外客数は25、353人で、前年より8、823人増(53%)だったとのことです。
そのため当時の「萬朝報」によれば「多少洋風の設備のある宿屋は大抵満員の盛況を呈す」状況となり、帝国ホテルにおいても満室のためやむなく宿泊を謝絶するケースが相次いだとのことです。

横浜に寄港したものの、横浜、東京に泊まれるホテルがなく、やむなくそのまま帰国してしまうケースも増えていたとのことでした。

その他、ホテル不足のために滞在日数の短縮を余儀なくされたり、不快の念を抱いて帰国したりした者が相当数いたり、風評により訪日観光を見送ることにした者もこれまた多数いたために、40年には反動的に訪日外客数が減少したとのことでした。

しかし、それにもかかわらず、日露戦争を契機とした訪日外客増加の趨勢に変化はなく、そのためにホテル業界としては、訪日外客収容力をはじめ全般的な受け入れ態勢の整備を検討する必要に迫られました。

その結果、ホテル業界を巡って様々な動きが活発になり、いくつもの紆余曲折を経て、明治42年6月16日に帝国ホテルにおいて、横浜グランドホテル社長C.H.ホールの提唱で「ホテル業者会議」が開催され、我が国の主要ホテルの代表者が出席し、当初は「日本ホテル組合」として発足しましたが、後に内容を整備し、改称して「日本ホテル協会」となり、今日まで継続して一流ホテルの団体として存在しています。

*ジャパン・ツーリスト・ビューロー(J.T.B.)の設立
明治45年(1912年)

来訪外客の誘致、接遇を目的としたジャパン・ツーリスト・ビューロー(J.T.B.)設立の経緯については、以下の昭和55年発行の(総理府審議室編「観光行政100年と観光政策審議会30年の歩み」)における説明が最も客観的、具体的に記述されています。

それによれば、「明治の末頃には、南満州鉄道の経営、南樺太の領有、日韓併合等極東における我が国の版図は急速に拡大し、これに伴ってアジアのみならず欧米においても我が国を批判する声が高まってきた。こうした情勢の中にあって、一つには国際親善と外貨の獲得のため、更には新領土の経営のために当時の鉄道院を中心に財界、交通、ホテル等関係業界が協力して、対外宣伝、外客接遇、旅行斡旋等のための機関の設立を促進したのである」。

この J.T.B. 設立の2年前、明治43年に訪日したアメリカのジャパン・ソサエテイのリンゼイ・ラッセル会頭は、「資源に乏しい日本経済を繁栄させるには、恵まれた自然の景観を海外に大いに宣伝し、外客を誘致して外貨獲得を図るべきである。それにはまず外客誘致機関を設けることだろう」と、述べていました。

我が国の観光関連業界にも、むろん同様な考えの持ち主はかなり存在しており、そして J.T.B. の設立に至ったわけでした。

このジャパン・ツーリスト・ビューローの邦語名は当初、「日本旅行協会」とされていたようですが、これが幾多の変遷を遂げた後に1945年、終戦の年に「財団法人日本交通公社」と改称し、更に、1963年にその営業部門を分離して、それを株式会社日本交通公社とし、その名称を変更して現在の株式会社ジェイテイービーとなっています、以後本概説では(株)JTBと記します。

ガイドにとってこの(株)JTBは密接な関係があり、極めて重要な存在ですがこれについては、第2章にて記述します。

 

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