名古屋の白ウサギ

1964年生まれ。
名古屋市在住。
職業、
自営業個人事業主
(電気関係)


魔物の正体

2017-04-21 | 宗教

ひとは、体験を通してのみ、
楽しさ、辛さ、喜び、苦しみ、
を知ることができる。

これ即ち・・・

「 ひとの苦しみ、悲しみが、判るはずがない。」
という事です。

その人にしか判らない苦しみ、悲しみが
あるのです。

ひとの苦しみ、悲しみを、判ったかのように、
「 ご最もな事 」を得意満面になって
高いところから見下ろすように、
演説して、優越感に浸るひともいます。

こう云うのを、「 傲慢 」というのでしょう。

いま思い返せば、私も若いころはそうでした。


 傲慢になるな!!! 

と、常に自分に言い聞かせてはいるけど、

重大な問題や、苦しみ悲しみを持つ人と接するとき、
思い(念)が通じない事もある。

ごく稀にではあるが、
攻撃的な態度で見下されたこともある。

プライドなどもっていない。
とっくの昔に捨てしまった。

ただ・・自分の非力さを実感すると、
申し訳ない・・・と思えてしまう。

思わず・・泣きたくなる・・・

そういう時は、
水戸黄門の歌を思い出す・・・

♪♪ 泣くのが嫌ならさあ歩け♪♪

・・・・・・・・・

こういう場合、相手の周りにバリアが
張られている事が多い。

「 バリア 」とは、念の塊り
のようなものですが、

悪霊や、妖怪、動物のような
魔物の姿となって見えることもあります。

ガマガエルのような姿をした魔物もいる。

(‘見える‘とは、映像が見えると云う意味ではなく、
‘感じる‘という意味です。 )

だだし・・・
それは、姿形のないエネルギーが
私の「 意識 」と云う翻訳機を通して変換され、
作り出された映像であり、
実在しないモノなのです。

これ即ち、科学の世界の話ではなく、
文学の世界の話なのです。

これを「 科学 」と言ってしまったら、
それは詐欺です。


「 感謝します 」
「 赦します 」
「 平和を祈ります 」
「 すべての人の幸福を祈ります 」

これは、間違った言葉ではありません。

崇高な境地であることは確かです。

ただ・・・
厄介なことに・・・
ここにも落とし穴が存在する。

強固なバリアを張った人間は、
その言葉を、「 呪文 」にしてしまっている。

魂の底から湧き上がる言葉ではなく、
後ろめたさを隠蔽する
バリアにしている。

この手のひとは、
常日頃、恥じらいなく、臭い言葉を連発する。

そういう人に限って、自分本位で、
利己主義な人であることが多い。

この呪文は、自己矛盾を自他に対して正当する、
「 免罪符 」となる。

これは、孤独感を埋める、代償としてであったり。

自分にだけ都合が良い
ドラマのシナリオであったり、演出であったりする。

これが厄介で、一番手ごわい魔物を創り出す。

・・・・

御利益や見返りのみを強く意識して、宗教をかじる者。

取引的な感覚で、善行を行う者。

宗教をかじる、権威主義の貪欲な野心家。

貪欲な利己主義者。

自分は神から選ばれた特別な人間であると思い込んでいる人。

あの人はマインドが低いとか、高いとか・・・
意味不明な分類をする人。

地球レベル、人類レベルの大きな話をするが、自分自身のことは
棚に上げるひと。

・・・・・・

こういう人が不幸にも、「 偉い先生 」になってしまうと厄介でる。
残念ながら、

宗教団体は多くの「可哀そうな偉い先生」を輩出する。

その弊害は甚大である。

この部分が、「 宗教団体の最大の危険性 」であると思う。

・・・・・・・

魔物
( 霊的な側面での、エネルギーのようなモノ )
を私の手で、剥ぎ取ってやろうと思うなら、、
ある程度出来るかもしれない。

しかしながら、
それを強引に剥ぎ取る事は、「 反則技 」である。

例えて云えば・・・
毛穴パックで、毛穴の中の不純物を強引に
引き抜いてしまうようなものです。

空いた空間に、更なる厄介な不純物が入り込む。

これをしたら、相手ばかりではなく、
自分の生命力( 霊的な )まで、
弱らせてしまう事になるのです。

だから、力任せに剥ぎ取る様な事はしません。

今まで危険な状態のひとをたくさん見て来た。
スピリチュアル世界に心酔しているひとは、特に危ない。

・・・・・・・・・・
こういう世界に足を突っ込むと、自分もダメになるし、
相手も「 依存症 」という厄介な状態に追い込んでしまう。
・・・・・・

「可哀そうな偉い先生」ではなく、
ごく普通の生活をする、善良な人のなかにも、

強力なバリア張る人には多く存在する。

こういう人と出会うと、

悲痛な想いになる・・・
何とかして差し上げたい・・・

こういう時は、
夜中にうなされて、奇声をあげたりする・・・
瞼がピクピク痙攣することもある・・・

これは、まだ自分が未熟な証拠だが、
その言葉の裏にも、落とし穴があるので
それ以上は考えない。

こういうときには、バカになる以外方法は無い、
バカボンのパパをイメージして、

「 これでイイのだ・・・」

と、心の中で呟く。

苦しみ、悲しみを分かち合う事は不可能だが・・・

「 喜び 」を分かち合う事は可能である。

不幸や苦悩の連続で、苦しみ悶える人に対し、
決して同情はしない。

分かるはずの無い、
その人の苦しみを分かったかのよな芝居や、
自己暗示をするようなこともしない。

唯一、私に出来る事は、
喜びを分かち合うこと。

これこそが、相手にに対する、
極限の誠意であると信じる。

・・・・・
喜びとは、この世に生まれて来たこと。
いま現に、
「 生きていること。」
「 生きてるだけで丸儲け 」なのです。

・・・・・
今現在、その人が苦しみ、悶えていても、
その奥に、
 完全で円満な本性が存在する。
それこそが「 人間のホントウの姿 」

不運、不完全、不調和とは、
本性を覆い隠す‘ 幻 ‘(まぼろし)なのです。

‘ まぼろし‘ を消す、唯一の方法は、
相手に対し「 ホントウの姿 」を見ること。

相手の内に宿る、ホントウの姿を喜ぶこと。

これを、霊的な視点で、
「 喜びを分かち合う 」と云う。

私が今まで起こした、奇跡の種明かしをすると・・・

同情するのではなく、
その人の「 ホントウの姿を喜ぶ 」

その私の熱い想い(念)が、相手の魂に共鳴したとき、
奇跡が起きる。

これは、理屈や、言葉ではない。
これをウサギ講では、 「 風 」と呼ぶ。

‘ ホントウの姿 ‘ とは、
全ての人間は、神の分霊であり、仏の化身
であると言う意味である。

それ即ち、魂の底から、
彼に宿る‘ 神 ‘を信じることです。

「 信じる 」 とは、 「 感じる 」こと。

いのちは一つ
「 私の‘いのち‘ 」は、
「 彼の‘いのち‘ 」と繋がっている。

だから、私の信念は、相手にも伝わるのです。

これをウサギ講では、
「 意識の共鳴 」
若しくは、
「 生命の共鳴 」と呼ぶ。

一寸先は、光です!!!
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