ささやきは遠音となって

〜または、鳴りやまぬ遠吠え〜

          白岩知明がつづります

想像力が眠りにつくとき

2009年12月20日 | コラム
 世田谷パブリックシアターでカステルッチ演出「神曲−煉獄篇」を見てきた。1週間前に、同じ演出家の同系列の作品「神曲−地獄篇」も鑑賞していた。「地獄」のほうにも不満はあったが、「煉獄」のほうは見ていられなくて途中で劇場から去ってしまった。途中退出する芝居に未練は残る。しかし、1時間見て退屈したものが、残り30分でスリリングになるとは考えられない。

 「煉獄」とは地獄と天国の間のこと。死者の魂が清められる場。カステルッチはそれをブルジョア家庭の日常の場ととらえ直したらしい。退席する前まで見たブルジョア家庭は、人工的なものだった。人間がまるで人形のように覇気もなく動き、言葉を発するので、マネキン人形で演じられたエセ芝居のように感じられた。

 ダンテの「神曲」を読んだときには、迫力や生々しいものを感じたものだが、奇才カステルッチの演劇「神曲」を見ると、小手先の観念や奇想だけしか感じられないのは、ぼくひとりの誤った見方だろうか。

 この作品の宣伝や推薦文には「想像力を刺激する」といったたぐいのことが書かれているが、ぼくが感じたことは別。この劇を見ている時間に「想像力が枯渇する」もしくは「想像力が眠らされる」ように思えた。作品に対してのいらだちは無いのだが、舞台を見ることで生まれてくるものがなにもない。「あ〜、なんかやってるよ」といった冷めた見方。期待していただけに、敬遠の球を空振りしているようだ。

 友人の芝居に対してはこんな毒を吐きたくないのだが、著名な演出家の作品で「奇才」とまであがめられている人の作品に対しては遠慮無く言わせてもらえるのはありがたい。いろんな芝居を上演したり、海外から呼ぶのは結構だ。しかし、評価もそれだけ厳しくしなければいけないだろう。

 眠くないのに想像力は眠らされる。脳みそが腐ったような芝居をありがたがることはしたくない。
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変化するもの

2009年10月12日 | コラム
 「保養」ということばがある。仕事や勤務から離れて心身の回復をはかることらしい。美しいものに接して、俗事を忘れうっとりするという意味もあるようだ。

 ブログの更新が滞ったときのいつもの言い訳は「サボった」という言い方だが、これほど長期の休暇をとったわけだからそんないいぐさは通用しない。ただ、強制的に更新しなければいけないわけでもないし、こころに決めて書き続けようという意志があるわけでもないので、じっくり休んで静養するのも悪くはない。休養していたといって温泉地で疲れをいやしていたわけでもない。

 短い過去をふりかえっただけでも、生活の一部は思いもよらない変化をしているものだ。何も変わらずにのんびりと過ごしている一面もある。全体としては何も変わっていないのが常だ…残念ながら。

 エスプレッソマシーンを購入したので、インスタントからエスプレッソに劇的に変化したことは、自分のなかでは重大な出来事になる。手間はかかるが気分転換にもなる。粉も買わなくてはいけない。毎週コーヒー屋で豆をひいてもらうのが習慣になった。

 いろいろなことのスリム化も大きな変化だと思っている。財布からでるお金を減らそうとしたわけではないが、無駄な買い物を控えるようになった。飲料や食料をついつい買ってしまう癖もなくなった。なによりも自分のからだのムダを省く習慣ができたことは収穫だった。夏から取り組んできたスリム化が効を奏しかなりの減量に成功した。リバウンドもないことだし、継続していこうと思っている。

 対外活動という面では何も変化がない。はたから見ると何も変わっていない、かえって性悪になっているんじゃないかと思えるようだ。外面や行動がなにひとつ変化していないのは、そのひとが停滞しているように見えておかしくない。というわけで今は停滞期、かっこよく言えば潜伏期。格好よくないかもしれないが…
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空からオタマジャクシ

2009年06月22日 | コラム
 自分の人生をふりかえると、誰にでも懐かしい音楽があるはずだ。CDの棚をのぞいていたら、大学時代に聞いたヴァン・モリソンのCDがあったので、さっきからくりかえし流している。当時の心象や風景が脳を刺激している。あのときあんな思いでこの曲を聴いていたな。

 ヴァン・モリソンの「ASTRAL WEEKS」はいいアルバムだよ。心の奥を揺さぶるような歌もさることながら、伴奏するアコースティック楽器が低くうねりながらジャズの雰囲気をかもし出す。大学時代はこのCDを宝物のようにしていたっけ。何度も何度もくりかえし聴いていた、眠るときの子守歌にもした。

 失恋のときは決まってテーマソングを選び慰めてもらっていた。いくつもの失恋ソングがあることやら。思いおこせばこっけいな習慣だったかもしれない。しみじみとするためにわざわざ電源をつけて、CDをセットして、再生して・リピートして。そんな状態だからこそ音楽のひとつひとつの音や歌に震えるほど感動したものだ。

 体が動いていれば水を欲するように、音楽をほしくなるときもあるものだ。日曜の夜はとりわけ音楽が心にしみる。周囲の静けさがそうさせるのだろうか。古い友人に会ったかのように、懐かしい曲を聴いている。あいかわらず、みずみずしい姿で旧友は心を洗い流してくれる。

 音楽の趣味がぴったりあう人はいない。しかし、人が自分の好きな音楽を楽しそうに語ることほど、こちらを幸福にさせることはない。ことばが音楽のように響いてくるから不思議なものだ。音楽をめぐる単語の多くにはイメージが息づいていると思う。音符のオタマジャクシ♪でさえも生きているかのようだ。

 今夜は幸せだったかもしれない。旧友が変わらぬ歌声をきかせてくれたし、懐かしい心象が遠い過去から訪れてくれたので。怪奇現象にはしたくないが、今夜は空からオタマジャクシが降ってきてくれた。
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ささやかな誓い

2009年06月21日 | コラム
 宮城野の稽古が大詰めをむかえている。謎解きのように登場人物の行動をほぐしてきたが、すべてが明らかになっているわけではない。同じように、実生活においても身近に接している人への理解すら十分とはいえない。心を通わせることも難しい。

 見知らぬ人と接する機会に、お互いが感じよくなれることもあれば、敵意むき出しのこともある。あかの他人を装おうとして距離をおく場合が一番多いかもしれない。こちらが好意的に接しても無反応な場合ほど悲しいものはない。すれ違いを重ねるうちに、自分もすれっからしになるものだから悪循環である。

 いつも感じの良い反応をしてくれる人がいるが、そんな人には全面の尊敬をささげたい。人間的なふくよかさ・豊かさが、心を慰め温かい気持ちにさせる。自分をかえりみるとよく分かる。どれほど環境や気分に左右されていることか。恥ずかしいくらいだ。

 フランス語の「sympathique(サンパティック)」ということばに初めて接したときは衝撃だった。人間の柔和な態度をほめることばとして使われていた。「感じのよい」「心地よい」といった意味だ。人の魅力をうまく言い表していると感心した。

 しかめっつらや無関心、かしこまった態度や横柄な態度は簡単にできる。しかし感じの良い態度はやろうとしてできるものでもない。妙になれなれしい態度や心のこもってない笑顔は、かえって警戒を与えてしまう。

 感じよく接することが難しいなら、感じよく接してきてくれる人に素直に従えばよいのでは。“sympathique”には「共感しあう」という意味もある。柔らかさを与えてくれる人に接するときはこちらも柔らかくならなければならないというわけだ。赤ちゃん相手に力むほど惨めなことはない。自分のなかで力が入る部分、きっとエゴイズムの部分なのだろうが、そういうところを武装解除しようと緩やかな誓いをたてている。
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情熱をもつ

2009年06月05日 | コラム
 別府史之さんという自転車選手が自戒をこめた語り口調でブログに書いていた。クールになりすぎた、情熱をもつことを日々の生活で忘れかけていたという趣旨だった。一生懸命がんばる毎日で、好奇心などを失っていたという。自分に欠けていたものは「情熱」だと。

 折しもジロでディルーカが鬼のような執念を見せ、それに呼応してファンが熱狂的に沿道で応援する姿をかいまみて、何か美しいものに触れたような気がした。ジロの一陣の風が吹き去り、取り残されたこの日常にぽかんと大きな穴を感じた。それはこの日常が空虚だからではなく、熱いもの・情熱的なものが手元を離れたからだろう。

 がむしゃらに突進し、毎日を精いっぱい生きることも重要だ。しかしそのような日々に慣れて、余暇を楽しむ感覚や感受性を働かせる機会を逃してしまうのはもったいない。美しい景色を前に無感動になっている自分に気づくほど腹立たしいことはない。

 これからの毎日を初々しく生きてみようなどというのは無理なスローガンだが、風化していた生活の一断面を活性化させることはできそうだ。「事務的」におこなっていたことを「人間的」に直せないか。あいさつや歩き方から始まって、趣味や仕事にまで拡大できるのではないか。

 「事務的」ということほど、それを受けたときにざらついた気になるものはない。当人は無意識に悪意もなくおこなっているぶん、余計むなしい。手紙でのやりとりや実際に対面しているときも表れる。顔見知りなのに知らないふりをされて戸惑ったこともあったっけ。

 別府選手のブログをたまたま見つけ、情熱をもつことへの美しい自覚の瞬間を目の当たりにし、ディルーカの神がかった気迫を見るにつけ、今の生活のなかで、重要な部分を錆びつかせてはいけないなと痛切に思うようになった。偶然か、きょうみた夢で、兄がしおれた植物に水をやって必死に再生しようと試みていた。
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