持続可能な国づくりを考える会

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市民運動を含んで超える必要?

2011年05月09日 | 理念とビジョン
 〔持続可能な国づくりの会・理念とビジョン」
 ダイジェスト版
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 運営委員長の岡野です。


 昨日の記事で、うろ覚えで「かつて日本で行われた60年安保反対のデモ、70年安保の反対のデモでは、25万人どころではないもっと大規模のデモが行われました」と書いたのが気になったので、少し手近な資料を調べてみました。

 歴史学研究会編『日本史年表 増補版』(岩波書店、1993年)によれば、1960年6月4日「安保改定阻止第1次スト560万人参加」となっていました。

改めて調べてみて、本当に驚くべき数の国民・市民が動いたのですね。

 ウィキペディア「安保闘争」によれば、1960年6月15日の安保改定阻止第2次ストでは、「主催者発表で33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった」とありました。

 記事の一部を引用しておきますが、私の言いたいのは、たとえ最大規模560万人がストに参加して、首相(岸信介)を退陣に追いやったとしても、肝心の安保改定は阻止できず、自民党政権は崩壊しなかった、それどころか国民総体は池田勇人首相の「所得倍増計画」という言葉に乗って、市民運動は鎮静化―退潮してしまった、という歴史的事実を思い出しておく必要があるのではないか、ということです。

 私もその中で体験した70年安保闘争―大学闘争で、どのくらいの学生や市民が運動に参加したかは、まだ調べていませんが、60年安保闘争ほどの市民的な広がりはなかったのではないでしょうか。そして、もちろん鎮静化の後、日本は高度経済成長路線をひた走ってきて、今、その路線が完璧に行き詰まっている、と私には見えます。

 安保闘争(あんぽとうそう)とは、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり、日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)に反対する労働者や学生、市民が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争であると同時に、火炎瓶や鉄パイプで暴力を振るう暴動・紛争という側面も持っていた。
〔1960年〕6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、警官隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという事件が発生する。国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。……
条約は参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職した。岸は辞任直前に暴漢に襲撃され重傷を負った。……
「60年安保闘争」は空前の盛り上がりを見せたが、戦前の東條内閣の閣僚でありA級戦犯容疑者にもなった岸とその政治手法に対する反感により支えられた倒閣運動という性格が強くなり、安保改定そのものへの反対運動という性格は薄くなっていたため、岸内閣が退陣し池田勇人内閣が成立(7月19日)すると、運動は急激に退潮した。
池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、社会党も経済政策で対抗したため、安保闘争の影は薄くなっていった。……

 もう1つ、市民運動は政権交代にまで結晶しないかぎり、鎮圧・鎮静化で終わるという歴史的事実は、職責上鎮静化する側である警視庁の「警備警察50年」を読むと、少し実感できるのではないでしょうか。

 だから市民運動はムダだといいたいのではありません。市民運動を含んで超える政治運動が必要ではないか、と思うのです。

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