まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

最初の一声・・・その覚悟 08/1再

2016-09-18 14:34:10 | Weblog

゛義理と人情とやせ我慢゛それもホドが肝心だょ (一区五番も組銀座 竹本談)


西洋は合理主義といわれているが、その事そのものが主義と括るのは如何なものだろうか。
たしかに整理したり、分別したりするには理に合うものが必要だろうが、そこには理無し(無理)を生ずることも忘れてはなるまい。

今どきは自らの意見や思惑の説明に、いとも合理的ともおもえるロジックを構成し、しかも大義の美名まで添えて人々を言下に置くものもいるが、大よそ時の変化と言下に置かれた人々の情緒などの予測を誤るのが常のようだ。

その意味では筆者も、自らの言動にすら慙愧に耐えられないような事態に遭遇するときがある。つまり今ばやりの「KY」(空気が読めない)状態ではあるが、部分の合理と全体の合理、あるいは特定対象の合理と不特定への合理とでも言おうか、はたまたた他と異質のせいか、世俗とは似合わない自己を覚えることがある。

さて、゛生きているうちが華゛とはいうが、ならば自らの生命を絶つような自発的行動について、個別特定の長命願望や高邁な生命倫理に逆らう如く、不特定に献ずる生命の合理を、精神、あるいは魂ともいえる行動で無理と思われたことを有理に転換した当時35歳のルーマニア人を想起したい。

それは「人殺し」という声から始まった。
当時、ルーマニアは共和制のもとチャウシェスク大統領の圧政が続いていた。外に目を転じるとソビエトの弱体とともに巻き起こった民主化の波は、その影響下にあった東欧諸国に伝播し、その波動は東方中国の天安門の民主化運動に広がりをみせていた。

「人殺し」と一声を上げたのはブカレスト生まれのニカ・レオン(当時35)、職業はエンジニアである。
その日は独裁国家お決まりの官製支持集会が共和国広場で行なわれていた。見逃せばいつもの事であり、一時の出来事として過ぎ去るものだった。

ところが彼はその集会で大統領演説のさなか、「人殺しチャウシェスク打倒・・」と叫んだのである。我国でも卒業式に起立しなかったり、国会で下劣な野次を飛ばしても殺されることはない安心はある、それより食い扶持の心配のない連中の所業でもあることは言うまでもない。

しかし彼は思いつきでもなかった。
その日、職場から妻に「サヨナラ」と覚悟の電話をした。それは殺されることを確信していたためだ。だが何としてもこの国を変えなくてはならないとの一念だった。呼び集められた多くの群集は共和国広場を埋め、大統領宮殿のバルコニーには側近に護られた大統領夫妻が演説を始めた。それはよくあることだった。独裁者の長口舌は似た国の通例だが、12月の21日といえばルーマニアはまさに極寒である。年老いた大統領はいつにも増して演説に口ごもることが多かった。

そのとき彼は見逃さなかった。いや彼にとっては世に別れを告げた一瞬だった。
そして、その一声は広場に響き渡った。その瞬間、圧政に有りがちなことだか、゛おれじゃない゛゛逃げろ゛困惑した群集はざわめき、広場はそこから離れようとした群衆によって大混乱した。この時のニュース映像は世界中に流れた。しかし大統領がバルコニー上で戸惑っている姿と群衆がバラバラに動き出した映像では、何が起こったのか理解することが出来なかった。

彼は友人には内緒で伝えていた。しかしその光景は彼の勇気を賞賛するより、彼と家庭がどうなるか、そのほうが心配だった。それは突破した人間の達成感とは別の彼を取り巻く人々の憂慮だった。
問題意識は様々な姿がある。それは求める目標にもよるが、大まかには「自」と「他」の何れかに座標の有無を置くかの問題だろう。

とくに期と機を選択し、自らの能力と我欲を超越したとき、想像できない行動と結果を見ることがある。
天安門の若者然り、あるいは我国の歴史にも多くの義挙を見るように、不特定に献ずる行為は容易にその問題の障害を越えることが可能なようだ。

よく、゛自身の頭のハエもおえないくせに゛と聞くが、ハエを追っかけることに終始する人生も滑稽なことだ。自らの外部に映る問題に合理的な監察と客観性は必要だが、要はその先が肝心なことだろう。
学問の姿にも「知って教えず、学んで行なわず」とある。それも我欲にある肉体的衝撃を恐れる、あるいは回避する為の高邁な理屈も生命護持にともなう通り言葉だが、どこかせちがらい儚さを覚えるのは何だろうか。


政治家も「国民の生命財産を守る」という。
はたして、その生命と財産は何に活かされることなのか。
どうも文明人に安住する我々は、バーバリズム(野蛮性)にある対象とするものに対する素朴で純情な部分まで亡失してしまったようだ

官制学の合理からすれば野暮な理屈かもしれないが、ここは大らかに、清々しく虚構の恐怖心から突破する為に「ばかやろう」と吾が身に叫びたい心境だ。

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-01-30 23:40:14
自分が

恥ずかしいです。

地位・名誉・お金

人脈・

ないないずくしで



1年前から

ずっと何ができるのか考えてました。

ある人に教えてもらいました。

祈りは通じると



祈ることしか

今の自分には出来ないと、この日本が良くなるように

尊敬されるように



毎日

祈っています。



馬鹿だと思いました



なんになるのだと

思いましたが

祈ることならできる

と、



・・・ 馬鹿は承知で祈っています。



Unknown (タックビル)
2008-01-31 19:19:24
自分自身の恐怖心からどのようにしたら突破口が開けるか・・・
今日もあなた様のお言葉に救われました。
まだまだです。
いつも本当に感謝しております。
有難うございました。
ご迷惑は承知の上で今後ともよろしく御願い致します。
あの後、先生から電話がありました。

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