まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

産経は権に偏し頑迷となり、東京新聞は下座観から陛下を仰ぎ見る

2016-11-28 14:28:27 | Weblog

 

 

唐突だが、いま東京新聞の部数が伸びている。比する四大新聞が低迷している。

あの元産経記者の高山正之が忌み嫌い、同列に扱う朝日と中日、西日本の各紙がある。朝日はともかく、中日は名古屋では大新聞が束になっても適わない読者数を得ている。

 

売文の輩や老生学徒が嘲る掴みどころがないからいい加減で、流言飛語に誘引される下座の庶民観ではあるが、部数の多寡を競う商業マスコミの部数をひっくるめて国民の意識と勝手に思う感覚は、権力のお先棒担ぎとして銅臭紛々する忌まわしさがある。

銅臭とは新聞発行そのものの目的を、威と収益にしているような姿の意である。

 

以前、広告読者のことを書いた。大多数をひっくるめるわけではないが、部数獲得の大きい要因は折り込み広告量にあると記した。部数があるから宣伝効率がいいと、下駄を履かした部数で架空の折り込み料を得ていたが、近ごろでは広告主もそれに気が付いて地域別に料を選別しているが、それでも部数を誇る朝日と読売の広告料は多い。

 

その読者は朝の急ぎ飯をかき込む旦那ではなく、女房の教養ならぬ愛読として折り込みチラシは視られている。一過性の情報だが、これが意外と女性のコミュニケーションに役立っている。購読の選択もテレビ番組が見慣れている、景品が多い、折り込み量が多いなど、その選択権は女房が握っているようだ。販売店もそのことは熟知している。

 

弱い者いじめではないが、産経も東京も部数が乏しいためか折り込みの量は少ない。筆者のように、両紙に「折り込みは要らない」と伝えるものもいるが、それも紙面を読む側にとってはまことにシンプルな状況がある。ついでにテレビやラジオといった音の出るものなど、寂しまぎれに見るものも無いせいか、静かで落ち着いた朝になっている。

 

購読は数十年の産経と二年前からの東京、それと情報面は毎日に似た聖教新聞が好意で投函される。いっとき赤旗日曜版があったがいまは見て(読んで)いない。

固陋な気分もある町なのか、聖教と赤旗をみているというだけで声を発すると色付けされたが、意地を張ることもなく世俗の民情として楽しんでいる。

 

その世界のことだが、産経でさえ中日をローカル紙と蔑んでいる。媚びず自信を持った筆風は、不動産屋で食いつなぎ、カジノの旗振りをするようになった産業経済新聞(サンケイグループ)と比べて、時節の捉え方や切り口が、よかった頃の産経を彷彿とさせている。

 

産経の忌み嫌う反体制風、いな反権力風と左翼風は立場の体裁ではないにしても、こと朝日に対してはことのほか辛辣である。筆者も産経の変質は自社の経済事情や組織の硬直さ、あるいは元老院と揶揄される論説畑の特殊な姿に、惜しい気持ちで煩悶していた。

それゆえ、一年前から東京新聞も併読している。

 

今年の12月23日は天皇誕生日であり、極東軍事裁判での七人の処刑の日である。

毎年のこと、棘が刺さったような気分だが、国民にとって祝日ともに鎮まりを以て考えには佳き日と云ってもよい一日だ。

 

そこで両紙を開いた感想だが、天皇誕生日に関する記事については東京新聞の方が解りやすく勝っている。要はお言葉につける大文字の標題が天皇のお言葉の要旨に沿っている。

とくに今年は天皇の歴史に対する懐古と願い、そして我が身を実直に映す自然なご撰文だった。

 

拙い大意の解だが、「私も間違うことはある、それには各々の事情がある、しかし行うべき任務と、使命がある。私も振り絞って頑張る。国民とともに深く考え、歴史に積層された事柄を想い起そうではないか。それが将来の希望につながることです」と語られた。

今では古臭いとか野暮と切り捨てられることだが、想い起すはあの教育勅語の要旨であり、国民とともに協働する誓文の趣がある。

 

産経は自社の記者の裁判事を連日にわたって一面を飾っている。古い話だが、調査して事実を報道することが記事の要だが、現地のコピペで男女関係を推測させるおまけ付きの記事で関心をひこうとした下司な問題だ。それを同業他社同様に謳いあげる珍奇な「知る権利」「民主主義」を大上段に隣国を批判している。日本でも一隅の日本人が真実を露呈しても関心は薄いが、外信でくると大新聞までががぶ飲みして、どこどこは言っていると他人事のように書きなぐる。総理の海外企業との汚職事件も然り、大量破壊兵器所有のガセネタでも飛びついて外国政府の宣伝媒体として禄を食んでいる。

 

しかも、民主主義、報道の自由、人権、が他国の援軍を紹介して盾にすれば、やむなき事情以て難儀な経国をしている韓国にとって、彼の国流の民主・人権・報道の自由を、その途上すら考慮せず、表層の言葉の印象では誰も反対できない世界的大義を唱えて圧力をかけている。

読者としては、食い扶持に関わる職業的係争にもみえるが、産経が外の賊と思っている煩悶より、時に賊となる内なる権力に向かって、しかも下世話な男女関係を週刊誌からコピペ推測して書いてくれた方が、附属性価値に飾られた権力の構成員たる人間の人品骨柄がわかり、権力なるものがどのようなものか明らかになるはずだ。

いわんや、権力を構成するであろうモノは、政治家、官吏、宗教家、教育者、金融資本家、そして第四権力と称せられるマスコミである。

 

しかも他社の瑕疵を貶めるだけでなく、我が身に切り込む胆力と見識がなくては自主更生もまままならないだろう。想い出すのは明治の言論人陸羯南が苦言を漏らした当時の新聞記者の意識についてこんなことがあった。

教員が酔って女給の尻を触ったことを取り上げて、新聞は教育の荒廃と騒ぎ立てた。

羯南は、「教員とて薄給の身ゆえ、酒に酔って女給の尻を触ったことで、どうして教育の荒廃と大上段に書かなければならないのか・・」

今どきの高級優遇でも陰に陽に、年数百人も女子生徒に尻サワリならぬ犯罪行為をして解雇される状況とは違い、当時は薄給ゆえか聖職者として尊敬されていた教員ですらこの状況であった。

 

翻って教育は国家百年の計と謳われ、制度や人事待遇など弄っても面前の教員の資質には、お定まりの定期研修や待遇改善、人事運営構成の変更などで変わると思っているのか、前提としての人物鑑定すら人権や平等の壁に遮られている。じつは教員のいう子供の人権と平等は我が身の待遇に直結する問題であり、子供が盾になっている状況だ。

 

庶民とて、国や自治体の大小の審議会、協議会に町の主だった人たちが御上御用の充て職なり、床の間の石のごとく席を占めるが、総じて問題意識も自己の意見でなく、マスコミや行政のあてがい情報の堂々巡りな、議論ならぬ談話会に終始し、ときに定例サロン化している組織もある。ご褒美は褒章なり高位役人の感状であり、さもしくも日当と弁当付きだ。

それで何が改善されたか・・・。

 

まさに、「上下こもごも利をとれば、邦危うし

末、恐ろしい・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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