まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

処世、郷の賢人は時の流れを俯瞰する 12 5/13 再

2016-11-20 10:17:08 | Weblog


゛としよりの話゛とはいうが、彼らは遠い過去から現在まで多くのことを見たり体感している。ただ、それを語るかどうか、あるいはそうすることの逡巡(思いめぐらし戸惑う)は、その年代特有の格別な味として人成りをかたち作っている。

誰でもある人生の経年だが、想い返えし独り悦にひたったり、思い残すことばかりで再び繰り返すすべもなく歳の経過に任せている人もいる。ただ、去った年を眺めることが年々増えてくることは確かなようだ。ときに自然界の循環になぞらえたり、人の心の常なるを無常として納得するが、悔しがったり、惜しかったと心の奥の灰汁を牛のように反芻することもある。いくら反芻しても苦いものは甘くはならないが、気持ちは童心に回帰したようで退悦にはホドよい時の再訪でもある。

分かったような物言いだが、そんなことでも時の経過を眺められるものだ。

近ごろの居酒屋は以前と比べてもの寂しい。変わったことは女将が未亡人になり少しシワが目立ってきた。隠そうとするのか化粧が厚くなり妙にカラ元気になっている。
常連も歳を増して酒も弱くなった。上司の苦情や政治ならぬ井戸端の噂話、だが内容が難しいのか諦めているのか、年金や消費税の話題はなく、まして嬶の話などもない。

話題のすじも昔ながらだろうが、歳のせいか呑めばすぐ酔うが腰が重く、だらだら呑んでいる。だだ。難しいことは苦手のようで、「そんなもんだ」と終いに投げやりになるが、若者は近寄らない。







いつも待っていてくれる金沢野島のトンビ






その「そんなもんだ」だが、長野県の南相木村という国道も通ってない村に色平という医師がいる。学校歴は輝くものだが、どうゆうわけかそこに診療所を営んでいる。コンビニもない交通も不便な村に着任したおもしろさと、その気概に多くの医師の卵である若者が訪れて人成りを習っている。なによりもアカデミック(学術的)でないのが好い。医療技術以外はすべてが土着的なのだ。教育も官制のアカデミックなカリキュラムでは限界が来ているのは誰でも分かっているが、その成績数値の効用は食い扶持に堕した一部の医師にはホドよい環境のためか、なかなか抜け出せない。いや問題意識もないのだろう。

色平氏はその村の有りようを「もんだ主義」として多くの機会を通じて知らせている。
いいところは、その「そんなもんだ」を学術的に研究したり、分類したり、考証し証明したりしない事だ。そのフレーズが狭い範囲であるが村の共通した合言葉のように年寄りが共有して、そのせいか元気だということだ。
朝には雲が低くただよい、鳥が鳴き空気が透き通っている。樹木は鮮やかな緑と凛々しい姿を魅せている。夜は漆黒で静寂、それが変わることなく繰り返されている。村に生まれ村で終生をとげる人もいる。都会のように便利さもなければ、競争も嫉妬もない。
日中の診療所の待合は笑い声で満ちている。多くは寿命の伸びた女性の歓声だ。

変わらぬ自然にしたがう人の営み、その気の元である元気と変わりない循環が調和して、それはまるでヒマラヤ山麓の小国、幸せ度世界一のブータンのように輝き、余すところなく大自然の恩恵を享受している。だだその順なる矩にに逆らうと自身の身体と心に潜在する恩恵の貯まりの堰が崩れ、病苦が来ることもよく知っている。かといって官制の学び舎では教えてくれなかったが、大自然の教場は彼らを厳しく、時に優しく自得させてくれた。

それに添っていれば大丈夫。それに比べて人の起こす諸問題は小さく、自然から逸れてしまったことだということを良く分かっている。だから「そうゆうものだ」と考えている。







仲間外れだがいい顔した猫だ






文明化、工業化のスピードに敢えて乗らない。来るものは自然と照らして分別する。それが瞬時に判別する能力と考えの座標がしっかりしている。また最低限の応用と活用も、都会人からすれば古臭い、未開だといわれる狭い範囲の掟と習慣が「分」の理解として置き所を理解している。

この営みを美辞麗句で、゛無理解の理解゛をしても、アウトドアだとか、田舎生活、箱庭の借景、あるいは定年になったら棲んでみたいと憧景への期待を図っても、「そんだもんだ」が理解できなければ、コンビニの隣人に逆戻りだ。

上手に生きることも人生には有効だが、たかだか努力すれば数値があがる範囲だ。ところが立派に,爽やかに生きることは年金の量や肩書や趣味ではとうてい購えない。
少量の投資でパチンコの大当たり、馬券の的中、はたまた補助金の乗数効果などは、たとえ旨くいっても後はろくでもない結果がまっているとは古老の至言だ。

かしこまつた文字に充てはめるものではないが、「そんなもんだ」という鷹揚な観察と、当然帰結する生死の計、それは自然の恩恵に逆行した現代人が無意味としてしまい込んだ、大自然に順当な ゛生きざま゛への覚えではないだろうか。

それは、たとえ有効だとしても便利さとともに誘引される社会の問題の解消に、超数的効果をあげる「人の効果ある活かし方」として倣うべきだろう。

たしかに古老は「お天道様(太陽)は観ている」というが、過去も未来も人間の所業と大自然の営みはお見通しだ。

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