まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「人間考学」前例執着から善例創造への臨機 11 4/17 あの頃

2016-09-15 23:16:35 | Weblog

「非道」 一石百鳥ならぬ百石半鳥      岡本義雄


少し落ち着き始めると「前例」による紛い物の規制が頭をもたげるようだ。

大勢の人を統率し、普遍的という冠をつけることに慣れた職位にある人たちによって前例が巾を利かすようになる。混乱状態になった現況には前例の投網を掛けることが、選択肢の少ない突発的事件には仕方が無いことでもあるが,従前の垂直指示が途切れ、判断不能になったとき現場当事者は少ない過去の例から探さなくてはならないのも現状である。

同じようにマニュアルがある。アンチョコや教科書も同類だ。
とくに人の管理が過度の規則などで括られると、家畜同様に時間と存在を管理され、考える工夫もないままに行動を習慣化され、創造的な意思さえ発揮できなくなる。

そこに仕組みの標準化として「基準」と称する、現世一過性の時流が押し寄せると、それが例として新たな規則がスタンダードとなり、独創性豊かな考察や観照が特異な様態、つまり例に当てはまらないものとして忌避される。

昔、バブル華やかな頃、住友銀行頭取が「向こう傷は恐れるな」と行員に発破をかけた。業績は上がるが不祥事も多発した。いま金融機関は厳しい法制と自縛的コンプライアンスによって、どこか応答が官吏のようになって、放牧ならぬ養鶏(ブロイラー)のようになり、融資査定も前例踏襲を旨として、より行員の考察力、応答感性が衰え人間としての可能性さえも狭めている。

より高い公共性と無謬(誤りのない)性を求められる職業は、とくに確実性もあり、当事者責任の発生しない前例に執着するようになった。それに倣って周辺職域である議員、教員、公務現業にも患いのように伝播して硬直した人間を増産している。それらが執り行う口先やペーパーで行なわれる下げ降ろし規制は、下々の民にも生業にも影響を及ぼし、今までの通り文句であった人権、民主が「前例コンプライアンス」という言葉に取って代わり、商店主や居酒屋などの自由自立業者の言の葉にまで蔓延している。

ある大企業の監査役に尋ねたことがある。
「国民総生産といわれるGDP数値の降下の原因に、切り口の違う視点ではあるが、人を過度に管理する流行(はやり)規制の負は考えたことがないか・・」
応えはこうだった。
「監査も鑑査される時代です。ことにコンプライアンスの整備度合いは会社の存亡にも関わる問題となり、そのために専門コンサルタントや弁護士を雇い、彼等は社長直属のお庭番のようになって人事や方針まで口を出すようになっています。しかも年間数億円の支払いがあります」

前例やコンプライアンスは食い扶持にもなり、囲いから出たら生活することのできない人たちは、嫌々従っている、とは監査役という役職を持った彼の心情だった。

この「嫌々」が、仕方が無い、そういうもの、と怨嗟が諦観になった民族は連帯と調和を失くし、合議の前提にある収斂されて目標のある議論がままならなくなり、騒々しくも落ち着きのない世情を構成する。それは、外圧、土壇場、突発事変に百家争鳴となってうろたえるようになる。

柵(埒)に囲われた家畜は囲われていることに意味があるが、放埓(らつ)して埒外になったら関係は途絶えるが馬は馬であるが、飼い主にとっては意味の無いものになってしまう。
あるいは、狭い金網に区切られた養鶏は照明さえ操作して日夜卵を量産するが、放たれれば身体は強健となり、摂理に応じて産む卵は滋養も多い。

社会や組織、国家、は夫々特異な枠組みがある。放埓を避けるために様々な相互関係をつくり、富や存在に表れる、量や質を調整しながら帰属意識と歴史という継続性を保っている。





                    

      本来の寺は学問の場  先ずは師である僧侶を崇める





前例とは本来、継続性から導く「歴史の倣い」であり、善例を探し出し倣いとすべき「鑑」、つまり手本のようなものである。それを直感自得し、善なる習慣性を他に及ぼすこと、それを理念として肉体化すること、それが教育や学問であろう。その前提があって知識の集積や技術の発揮がある。ただ、知識の「識」である道理、技術の「術」である工夫と役立ての術(すべ)がなければ、単なる知技は痴偽になってしまう。

智は大偽を生ず」「小人の学は利にすすむ
まさに己の邪心によって良心を欺き、身を守るために大きな偽りを偏った智によって補うことになり、人格を何ら代表しない現世価値のみの地位、名誉、財、学校歴に競い本心を失う。それは心の柵である道理とか規範からの放埓であり、孟子も説く「放心」という心が放たれてしまう状態である。これを茫然自失という。

説明責任に追求されても、話すも聴くも放心状態では、「言った」「言わせた」で終始して理解の淵にも届かないことになってしまう。本当は「お前の本心はどうなんだ」と、本質無理解の追及に終始し、別の切り口を売文の徒やマスコミ言論に求めるが、大偽を智で包んでいる知の放舌では半知半解の理解で終わってしまい、行動にもならない。

まず理解の端緒は己の内心に聴くことだ。その前例は体験だ。そのなかで善なる体験を想起することが、相手の理解を深めることになる。

翻って今回の政府対応について多くの非難がある。
ことさら管総理の対応や人物を問うもことではないが、「総理」という役割の本質を知らぬままに管直人という人間の茫洋とした曖昧さを批判しているようだ。それは多数によって推戴した役割に対するやり切れにないこと、あるいは新しい意識による対策が多言によって曖昧になっていることだろう。
あの小泉氏は得意のワンフレーズだった。理屈は付いてきた。後藤新平は大風呂敷といわれた。それは善を想起する驚きだった。










     文部省官制学校歴にはない教養   佐藤慎一郎先生講義




政治はできなかったことを貶(けな)すより、些細なことでも成果を歓迎しなければ関係は成り立たない。それが善例となる。
ただ、善例体験が無い人物は、おおよそ目は虚ろで、落ち着きもなく、騒がしく、直感も磨かれていないのは古今東西の為政者に見られる、これも悪しき倣いだ。

ちなみに党を変遷し党務にうつつをぬかす議員もいるが、「党」は「黨」であり、クロを尊ぶ集団、つまり犯罪でもホシをクロというような人間の集まりのようだ、と隣国の古老は語る。

震災復興は拙速と慎重さの両面が求められる。不可能とは違い「無理」は無限大の「理(ことわり)」を導く。だから無理を押すことも必要となる。だか、たかだか人間のつくった成文前例はこの妨げになる。それは未来を描いていないからだ。落ち着いて考える余裕、それが善なる例を創造するすべとなる。
いっその事、この機会に煩雑無用な法律、成文化された惰性な前例を整理したらどうだろうか。

掃除も整理片付けもできない女房に無駄使いが多いのは世間のつねだ。そんなのに限ってモノでこどもの歓心を煽り、無駄な虚勢を張り、終いに借金漬けになる。

国家に当てはめれば明らかだ。

多岐煩雑な政策、膨大な冗費、こども手当てなどの扶養費、強国に順応、債務増大

政外   政治のピントが外れる  (惰性)
内外   内政がままならないために外交に虚勢を張る (虚飾)
謀弛   政策に一貫性がない    (弛む)
敬重   敬われる人物を得ない   (信)
女   女性(官吏)か烈しくなる  (要求)

これを「五寒」といって国家衰亡から亡国の徴だという。

茫然自失では何も生まれない。
先ずは整理整頓、それは歴史の先人たちは「小学」で習慣として学ぶことだった。

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