まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「人間考学」知を重ねる前に「毒」を抜く

2012-01-09 11:57:27 | Weblog
陸上自衛隊広報センター資料



近ごろ官制教育の突きあたりに気がついたのか、教育機関において種々の科目が新設されている。京都大学などでは年間300万も生徒に渡して生徒を囲う全寮制を試みている。理由はそれぞれが身近に学び、随時話し合う環境だという。

まるで自衛隊か警察学校の様なものだが、これで人物が成ると思うのが官制学派の限界なのだろう。それらは往々にして特殊な切り口をもった有名人や外国の政治家を招聘して講話をおこなっているが、その辺のセミナーと変わりはない。べつに京大がすることだからではない。かれらもそれが妙案と思っているが、本当は半信半疑なのだ。

よく吠える羊飼いの番犬を増やすことにつながらないだろうか
それは飼い主の餌に馴染み羊の群れを追いまわすイヌのことだ

警察学校や自衛隊の本分は「人に役立つ」「国を守る」国民を扶助する」ことにある。なにも違反切符をとったり、戦車や飛行機に乗る為に行くのではないことは彼らは承知している。またそう考えることを自身の誇りとして許されないことも、本当は知っている。これが安定職となり国民の羨望を受け、ついには嫉妬の対象になることはないように精励していることを国民は知っている。

つまり目的の明確さと使命感、それが各々の生き方として学んでいる。また、それが「公」の姿として国民に具現している。ならば官費や補助金で学ぶ学生たちは何を目的として、かつ使命としているのか。

それは各々の心の領分であり、「人間をつくる」あるいは機関が「養成」する部分としての有り様だが、教育機関の、まして大学は率先して己の徳(善なる特徴)を明らかにするところだ。子供を対象にするところではない。世代的には分別有る青年を対象にするところであり、成人(人と成った)が学ぶところである。
それを未熟な子供のように集団化して論議の戯れ場にしている風潮が人物を作れるか疑問である。


学域に戻るが、これでもかと考えられる有りとあらゆる珍奇で流行りに乗じた科目を設け、生徒の関心を引き付け、学内にはコンビニ、ATM、を設置して快適環境やらを作りだしている。まさに、生徒は授業料を払う、゛お客様 ゛そのものである。

多面的考察、世界的視野などを謳い、ゼネラリストと称される人材育成のために総合学習を行おうとしているが、教える方は部分研修に勤しんだ研究家や、部分に一家言をもった言論貴族や売文の輩が任用されている。

手っ取り早い、安全牌(はい)なのだろうが、誰からも非難を受けないと、近頃の教育プロパーや、四角四面の役人然となった学者教育者、かつ経営者の姿である。それが目新しい科目という餌をぶら下げ偏差値、売り上げと、はたまた数値評価に埋没しているのが実態だ。


あの、南方熊楠、秋山真之、陸猲南、安岡正篤ですら数値で人間を量り、選別する官学の姿に失望している。あの後藤新平の娘を母に持つ鶴見俊介は「親父は俳句はできない」と言っている。つまり学業競争に明け暮れた人間は情緒性が乏しくなるということだ。

民族や文化の表現であるの書や絵画に親しみ、古今東西の英知を自己調和させ、胆識ある応答辞令によって国の誇りを守り、以って社会の安寧に尽くす使命感、つい最近の彼らのごく普通の姿だった
彼らがなぜ官制学を避けたのか。その慣性の質に疑問をもったのだ。
それは、立身出世のネタという、彼らの人間としての生き方に、学問の目的を錯誤した卑しい群れと映ったのだろう。公私の分別を忘れ軍閥、閨閥、学閥に偏向し囲われた彼らの行為は、国家を存亡の淵に追いやった。

結果は明確に実証されているが、いまだに変わらない状態が続いている














教育は「己の特徴をとらえて探究する」ことだ。あくまで「内在する潜在力」や「秘奥の心」を知ることだ。(素行自得)
その後、外部の他に己を明示することだ。それゆえ「善なる習慣」と「自己探求」を行動によって身に修め、その姿によって良き「縁」を招来し、その作用である「運」を活用する。それが学問を修めた人物と評されるものだ (明徳)

世上ではそこに財や地位がつけば成功者といわれるようだが、「本」がなく、あるいは利他に貢献する有為がなくては「虚」であろう。なかには愚かな毒まんじゅうを食して、最高学歴において小人を養い、
「小人の学、利にすすむ」「利は智を昏からしむ」といった、不埒な人間を作り出してしまう学舎もある。

気がついて種々な教育施策を執ることは是とするが、間違っても「喰い扶持」を計ってはならないだろう。

それらを案ずると、食住学の接近も一計だが、そこに「勤労」を添えたらどうだろうか。
その勤労の成果を己の学業の糧にできないのだろうか。いま求められるリーダーはみな官制学の一定期間でその資質や技量を高めたわけではない。一位に挙げられる松下幸之助氏は、経験と工夫、そして人との時節の縁で人成りを得た。

どのようなリーダー像を求めているのかわからんが、いまは、土壇場のリ―ダ―を求めている訳でもなさそうだ。

見えるのは、扇動によって自分たちがひっかきまわして、もともと保持していたものを享楽、騒擾のるつぼに落とし、探し出せないからとタダをこねているようにも見える。
苦労して探し出し、これだと明示しても見るだけで満足して、また新しい興味に逃避するような己を含めた我が侭な個という存在に、それぞれが厭になっている状況だ。


かといって集団化、集中化は、自由が無い、人権がと騒ぎ立てる

つまり前に書いた「己が分からなくなっている」のだ。
安易な相談、コンサルタントに占い師、裁判所は大賑わい、弁護士も忙しい。
これこそ、松下幸之助が米国の感想として述べた「弁護士と精神科医か多い国は二流だ」と、人の相互信頼が社会や国の基だという意味だ、その上で必要なものの適切な消費、それが正しい経済の在り方だと説く。

そして安岡正篤氏の邂逅で、人間をもとにした社会、人物を本にしたリーダーの推戴、を描いて塾を創立した。ただ残念なるかな、人物を知ることができても、教養として倣い、行動するという「本」が理解されなかった。教える人間もいなければ、学ぶ素養もなく野心が先行した人間が流入した。ゆえに人を観る、活用する(観人則)の座標さえ定まらず、ただ、マニュアル評価で仲間づくりをするのみになってしまった。

それは現代人の体質に歓迎された「毒」の浸透だった。つまり気がついて解毒剤を探しても既成の官制学や流行りのネット検索情報にもないものだった。
こうなると投薬も利かない。だからといって京大を始めとして諸学校で行いつつある試行も、単なる「治験」であって、良薬として普遍になるとは限らない。いや既存に対する一過性の積み増しにならないとも限らない。


「毒」については人の成長の順化をもとにすれば分かりやすい。
まず、教育の世界に拘泥してはならない。それは画を描く世界が画壇となり、作文の世界が虚偽であろうが文壇の雄となり、研究者は学界、政治家は政界と、好き勝手に「壇」や「界」を構成しているが、これも社会の付随と考えると、それを以って社会の善性や人間の陶冶といわれる「人格」を何ら代表するものではない事を考えるべきだろう。

時には浮俗の名誉を得たい欲心を誘って「毒まんじゅう」を食わせることがある。この毒は罹ったら一生治らない病だ。財利もそうだろう。閣僚任命を餌に仲間の裏切りをそそのかす、この時も「毒まんじゅうを喰った」と揶揄される。







弘前市のこども議会  葛西憲之市長






逆に「毒を以て毒を制す」とか「殺を以て殺を制す」とはある。
それは無意味にすることである。法でいえば無法であり、国家でいえば革命や維新である。
いや、それくらいしなければ人間は変わらない、それくらいしなければ、この怠惰な慣性は止まらない、と考える真剣さが必要だ。あくまで依頼ではない、自身の改新であり革命だ。

自由な社会を阻害するように既得権に守られて「このままでいい」という部類が増えてきた。受験とて戦争といわれながら、しかもおかしいと思いながら、無為に随う、まさに毒が浸透している姿だ。

余談だが、週に三回酒を呑むとアルコール中毒の何級かと認定される。もちろん喫煙も中毒だという。毒に中(あたる)という訳だ。これは迷惑というが近ごろは隠れた嗜好の範囲になった。

さて、標題の「知を重ねる前に「毒」を抜く」結論からすれば、他の評価はともかく自身の毒を感知することだ。これは官制の学び舎にはない。ならば毒消しは・・・

どうしても学び舎での学習が望みなら、まずは社会に出て働き、人の縁を体験することだ。
全体のなかでの自分を知り、特徴を自覚したら、それに沿って目標を立て、能力を補うために、人と異なることを恐れず特異な学びをして、その世界では知の習得を愉しむことだ。
学生アルバイトなどは、学んで教える家庭教師で充分と思わなくてはならない。

いわんや女子がキャバクラ、モデル、芸能人、その特技は学校を辞めるべきだ。
教師は、自らのゆとりを意図した週休二日を返上して、真剣に生徒と向き合うことだ。

知で己を飾り、我欲の毒で心身を破壊する、それを官制教育の慣性なら潔く忌避すればいいのだ。「毒」は問題意識を枯渇させ感性もなくなる。つまり思索もなく観照もなく、真にアタマのよいといわれる直観力さえ衰えさせる。是非、善悪を量る免疫は衰え、浮浪した精神はひ弱な奴隷のようになる恐れさえある。

いまの学校制度なら学校は行かなくても、さして問題はない。人生を落第しない事だ。
「学校歴」などなくても、真の「学歴」があれば充分だ
まず、汗を流すことだ。身体からの本当の汗だ。
涙の味も色々あることが分かるだろう。
立派な人間とはそのように成った独立した人物をいうのだ。
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毒まんじゅう 松下幸之助 キャバクラ 陸上自衛隊広報センター ゼネラリスト
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