まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安倍君に比す、面妖と音声と眸

2017-07-01 09:29:49 | Weblog

             
              山田良政




いかがわしい人相学とかいう「詐学」の類ではない。

実利として人物を「瞬観」することは、通常行なわれる様々な人を察する作業を省くことにもなり、はたまた煩雑な要らぬ情報や、人格とは相容れない附属性価値に翻弄されて、矢鱈に他を整理箱のごとく割り振りする愚から放たれると考えるからである。

「実利」それは浮俗観念にある財利や名位ではなく、利他の増進に役立つ人物として、あるいは「利は裁制」にいう、己を高度に自制する「賢」昇じて「聖」をそこに観る「観人」の「則」でもある。

お節介な心配事のようにみえるかも知れないが、どうも天邪鬼なのか、ワンフレーズを大声で唱える人をみると気になることがある。

昔、アジテーターといわれた学生運動のスピーカーや政治家の街頭演説だが、笛吹きの如く、人を惑わすように聴こえたのは己の思索の浅薄さでもあったのだが、アジテーターの声と人相と昂揚した姿にどこか違和感が感じられた。

つまり「聴く」だけではなく、「観る」ことでの違和感だった。

一昔前は明治のオッペケぺーで一斉を風靡した川上音二郎をはじめとして流れるような演説は演説家そのものが人々の娯楽であり、怨嗟の代弁者であった。

オッペケぺーは囃し言葉であるが、自由民権を謳い当時の官や政治家をストリート演奏のように歌っている。小泉さんやオバマさんのようなワンフレーズではないが、それは明治人は思索と観照力があったからだろう。ただ残念ながらお上への信頼が阿諛迎合となる姿は、いまの国際金融資本を操る背後にトラウマとなった歴史に明言できない人々に似ている。「強欲な金融資本家・・・」そこまでである。

JPモルガンのときから政治は資本家の僕(しもべ)になった彼の国の歴史は、政治の理想は言葉に踊るしか表せない状態になっている。






翻って米国大統領の就任式はワールドカップに比すくらい世界中の視聴を集めた。
印象に残ったのは「アメリカ国民」でなく「市民」と唱えたことだ。
確かに民族の長(おさ)である国王、皇帝などが、゛民主゛゛解放゛に先導された市民が封建、専制は悪だとのシュプレヒコールによって打倒され国民から市民になった。二十世紀は多くの長が吊るし首や断首、放逐された。

ちなみにフランスの革命政府はカトリック色が強い暦を変えている。時間と記された歴史の書き換えを試みている。いつの間にかわが国も西洋暦に馴染んだが、先ずは暦を変えることから情緒と歴史の転化を試みるのは今も同様である

そして市民から選ばれた政治家が奇怪な選挙手法で議席を占め、多くは献金など選挙資金の多少で当落が決まるような市民主権システムが数多の国に出現し、それこそ民主主義だと選挙イベントが繰り広げられるようになった。

国の伝統に括られてはいるが、国家の大綱、綱維などは有るも知らず、夫々特異ながら民族の情緒性などは野暮とばかり、豊かさ、幸せ感の平準化により、まるで「一生一世」という切り刻まれ断絶した家族、国家が進捗した。





   ケネディー                ウィキぺディアより

ケネディが「国家に何が出来るか・・」などの名言はその前段にある「国家がなにをしてくれるか・・」戻ってしまうような心地よい「市民」ではある。
長を倒し、国家を融解し平準化し、複雑怪奇な社会の群れとなった長のいない市民には調和と連帯を必須なものと考える言葉はあるが譲り合う行動は多くを望めない。


ケネディー録参照 ウディベキアより
『・・アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにした。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」である』と断じた



わが国も「個性の発揮」という美名の中、自由と民主と平等という添加物をうけて人々の連帯と調和が乏しくなった。家族も地域も架空な幸せ感を追い求め、その材となる官制学歴、名利、狭い範囲の成功価値を獲得する為に、止め処ころの無い欲望によって茫洋な姿を映している。

数多の国家を融解させ、思索観照の元となる情緒を無味乾燥にして「個の市民」が出現した。心に精霊も無く上滑りした宗教運営者の言は、現世利益を唱え群盲のような市民の依頼心を利用し、集約管理に似た一種奴隷化の進捗を促している。

何のことは無い、国家を融解させ異なる手法で市民を管理しているだけだ。
その手段は、金融ローン、エネルギー、軍事力、巨大化した宗教などだが、長のいない市民には抗する力も亡くなっている。また唯一心に秘匿できる精霊のありようも、科学、合理に世界によって駆逐された。

新たな「長(おさ)」とはこの様な者だ。
新しい面妖と音声、そして眸、市民は今までの刷り込み印象を新たな姿として勝手に描き出す。
あくまで空想、夢想の中で・・・







洋の東には「壷中、天あり」「暗闇に一途の光」そして諦観というべき独りの鎮まりがある。また「無財の力」を信ずる心もあり、だからこそ智恵と工夫がある。

指導者の面妖、音声、眸、そのバランスの如何で表層の世の中は変動するが、とくに救世主のように登場したなら尚更のこと、錯覚しかねない表層だ。此の期では今こそ深層の国力を観る機会だろう。

ただ、「人が人でなく、なんで国家が国家として成りえようか」と喝破した清末の読書人(知識人、賢人)梁巨川の意味を前提としてだが・・・

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