まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

敢えて陋規(ろうき)を「清規」に当てはめる愚は、智慧の無い証 11.10再

2012-02-19 12:09:49 | Weblog



桂林





【いたずらに陋規を破壊し、法匪(ほうひ)の司る法の範疇(はんちゅう)に委ねる愚は、

                  己の存在すら明らかに説明できなくなった人間の劣化である】




以前このコラムで大相撲と小沢氏の問題で、陋規と成文法の清規の分別を記した。またある章では「ひとくくりに暴力団とは・・」と題して記した。
繰り返し記すが、「陋規」は狭い範囲の掟や習慣であり、「清規」は成文法である。

特徴は「陋規」は棲み分けられた環境のなかで生を営むために習慣化され、掟、習慣となったもので、子供のしつけや行儀作法、あるいは他とは異なる個性を連帯と調和によって有効的にするための了解事(ごと)である。
一方,清規は成文化(文字としてカ条された書きもの)されたものであり、時や事情に合わせて書き加えられたり廃棄されるものである。

その陋規の表すように、あくまで狭い範囲の規である。地球規模であればアジアの、日本固有の、といえるもので、宗教や住環境ににも沿った古人の倣いともいえるものである。

そのことは他地域との交流が多くなると,交易や人間関係の妨げにもなるが、逆に侵入を防ぐセキュリティーにもなっていた。意味は違うが方言なども言葉の砦として作用していた。








つまり「生命財産を守る」と政治家は唱えるが、一般に云われる国家の三要素、民族、文化、領土とともに、複雑な要因で構成されている民族や国家の倣いとしていた生き方や仕組み、そして固有の種、その生命や財産も大事だが、なによりも人間の尊厳を護るために必須な要件であった。

その「人間」は、吉田松陰の士規七則の冒頭に記してある、まず「禽獣とは違う・・・」ということである。

面白い逸話だが、宣教師が敷島(日本)に辿りついた時代、民衆に向かって「造物主(神)が創った最高のものは人間である・・」と説いたところ、民衆は「うちの可愛がっている馬や牛も同じではないか・・」と聞き返している

しかし、世は代わって戦争に負けたこともあり、否応なしに彼らの仕組みを標準として取り入れざるを得なくなった。つまり陋規の説明責任と破壊である。
それを文化的進歩と云うらしい。

あの金貸しの金利の概念もそうだ。ベニスの商人という映画では、いつも金貸しを蔑んでいるキリスト教徒が貿易投資のために融資を頼んだとき、さんざん嫌味を言った後、金利はいらないが返せなかったら肉体の好きなところの一部を1ポンド貰うと契約している。この「金利」も虚から有を生む知恵であり、彼らの固陋な教えであり、後の世界を標準化して戦争や惨禍を巻き起こす類のものである。

江戸の頃も利息はあったが、草(貸しネタ)は物品か働き手の女子である。
ある証文には、「もし期日まで返せない場合は満座の中でお笑いください」と、恥を条件にしている。最近も韓国の資金の証文は女子、しかも美齢で高学歴な娘を差し出す条文もあったという。もちろん金利は数十%である。金利で民族が食い合う愚、それこそ宗教は掟としたのである

金の貸し借りとっても民族はさまざまである。


面前の陋規に戻るが、よく、食三代といわれる。馴染んだ味や食べ方などは、なかなか変わらないし,変えることができない。作法一つでも、椅子にあぐらを組んだり、食べ物を突っついたり、テレビを見ながら食べることも、是正は容易ではない。陋規の是正は百年懸かるという

もちろん、俎上に挙げられている大相撲も政治と金の問題も、カネ万能のようにも見える稼業世界も、それなりの掟や習慣が衰えて「人格」や「人物」による営みは無価値となり、今どきは野暮で古臭いと嘲られるようになっては、是正も容易ではない。それこそ無味乾燥した法規にくくられるのも当然なことになってしまう。

社会がそうなら、家庭でも人権や平等が謳われ、子供の手伝いが労務対価になってしまい、年寄りは非生産者として無用とされ、長(おさ)や所帯の主(ぬし)など無意味な存在となっている。

墓参とて「亡なった人間に意味はない」と考えるようになった。
たしかに理屈では、仏教は自己修行と学問である。葬式や博物館のような伽藍を作るためのものではない。本来の仏教とかけ離れて人別戸籍を管理する檀家制度や法事ごとは、権力と野合した当時の仏教宗派をみれば問題もあろうが、それも、是正できず衰退がはじまっている。おしい文化だが・・・

だだ、いくら科学の探究が進み便利な世の中になっても、たかだか人の問題といっても食三代ではないが、なかなか改まらない。だからと言ってすべてが法の下の平等を訴えて表土俵に載せることに躊躇することがある。












この法だが、執行関係者は警察、検察、裁判所、そして外郭には弁護士がいる。
近ごろは、裁判官制度という欧米流の試みも始まった。

一旦、その法の俎上に乗ったら最後、世間は騒ぎ、ときに執行者も元気づき、法舞台は大相撲に似た彼らのしきたりによって思いもよらぬ方向に向かってしまう。そして、前後左右から煽り立てる物書きや言論貴族の登場をうながす。

裁判官の固陋な倣いは、判例である。教科書が変わらなければ教授案の変わらない授業のようなもので、時と人間が考慮されない。

ところで、新憲法のできたころの裁判官は判例がなかった。新法のなかで初めて判決を出す裁判官はさぞかし難儀だっただろうと思いきや、条文解釈を「情理に基づいて・・」と自信を以て告げている。いくらか御上がしっかりしていたのか、あるいは当時の裁判官の人格に依ってなのか、「説明責任を!」などと、瓦版から新聞屋になりたての記者も騒がなかった。もちろん、陸猲南のような人物が新聞主幹では、野暮な質問もできなかっただろう。

つまり、清規は議員によって作られ、法の執行者によって護られているが、陋規は人格や人物といった長(おさ)の覚悟によって維持されていたのである。


しかし、共に用を成さなくなる時がきた。自由平等と人権をちりばめた社会観や、容易に鷹揚に、そして覚悟を養った長(おさ)も相続税によって没落する者もでてきた。緩やかな連帯と調和の崩壊であり、法頼みのおんぶに抱っこの出現である。

曲がりなりにも社会を維持してきた陋規が衰え、それを最善として営んできた生活感、情緒が無意味となると、社会が弛緩(ゆるむ)するようになり、清規を執行する機関や役人までが弛緩し、ときに放埒して腐敗堕落するようになり、しかも陋規が崩壊した社会では取り返しのつかない状態に陥ってしまう。
そうなると、いくら法を乱造多発しても世の中は冷静さを取り戻せない。

それより、多岐にわたった法は、それに関係する資格者や法機関を雑駁(ざっぱく)にさせ、なによりも人間関係さえも無味乾燥な状態に助長させるだろう

あの松下幸之助は渡米の感想として、弁護士と精神科医が多い社会は人を信用できない三流の社会だ、との意味を述べている








陸羯南






元通信社記者の伴武澄が主宰する「萬晩報」の執筆者に長野県南相木村の色平医師がいる。国道も通ってない無医村に拠点を構えた色平氏は「もんだ主義」と題してコラムに記している。その主義は「そうゆうもんだ」で穏やかな連帯を築いている村のお年寄りを医療だけでなく、生活習慣や生活の倣いとして伝えている。

理由は、前提は、などと疑問を呈すのは都会の人間である。
彼を慕って多くの医療関係者や医師の卵が訪れる。
お年寄りは「そうゆうもんだ」と、みな元気である。

人、さまざま、自ずから然り。天然自然というが、天もあり地もあり、人間もいるということだ。

争いもなければ抗論もない。人と人の間(マ)が絶妙なのだ。

人が棲む世の中とは、そうゆうもんだろう。
コメント (0) |  トラックバック (0) |