よっちゃんの ギリシャ語 新約聖書 ミーハー講読

ちょっとずつ 原典に触れてみましょうね。

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ギリシャ語原典 ちょい見講座 025「エンブリマオマイ 」激昂

2016-11-07 08:59:47 | 日記

ギリシャ語原典 ちょい見講座 025「エンブリマオマイ 」激昂


ヨハネ11章34節 
イエスは、・・・霊の憤りを覚え


 Ιησουζ  ενεβριμησατοτω

  イエスウス  エネブリメサトトウ

過去で変化していますが

 原型 ενβριμαομαι エンブリマオマイ

は、ヨハネでは 「めっちゃ怒った」 って 感じの動詞で、マタイ9:30
や、マルコ1:43では、厳しく戒めと訳されている おもしろい動詞です。


 ラザロ復活のシーン。ヨハネ11章。マリヤもマルタもラザロの死にめそめそ
し、人々は、盲人の目を開けたイエスがなんで、ラザロの病いを癒やせなかった
と嘆きます。 悲しみと嘆きと、目前の死を前に、イエス様は、こんなにも
エンブリマオマイ されます。

 「マイマイはかたつむり、イエス様は エンブリマオマイ」 と覚えましょう。


                ★

 矢内原忠雄さんは「ヨハネ傅講義」で このエンブリマオマイ に 4ページ
程さいて、エンブリマオマイに熱くなられています。 抜粋引用しています。


 (矢内原忠雄 ヨハネ傅講義 角川書店版 昭和25年 P-221から)
 
                 ↓

「イエスはマリヤが泣き居り、共に来たユダヤ人も泣き居るを見て、霊において
エムブリマオマイし給うたといふ。更にユダヤ人或者どもが<盲人の目をあけし
此の人にして、彼(ラザロ)を死ならざらしむこと能はざりしか>と言ふを聞き
霊においてエムブリマオマイしつつ墓に至りたと言ふ。

 何に反対してイエスの感情はそんなににわかに激昂(げきこう)し給うたので
あろうか。註解者は諸種の想像説を掲げる。ただしかかる場合の感情は単一では
なく複雑なる心理が働いてはけ口を見出すと常とする。

 思ふに愛する者を失い給う自己の悲しみや、マルタ、マリヤの切なる悲しみや
会葬者の涙等によりて醸し出された内外の雰囲気に刺激せられて、イエスの心の
奥底から「死」に抗議する激情が火山のごとく噴き上がって来たのであろう。
我々でも愛する者の病または死に遭う時、なぜ病むか、なぜ死んだかと、何かは
知らず無性に腹の立つ事がある。ただし、愛する者を奪い去った「死」と言うも
のが単に一つの自然的事実に過ぎるならば、それは道義的憤激に値せざる事であ
り、むしろ自然の定命として静視し、諦観せらるべき事柄であろう。

 しかるに人に死を来たらしめるものは罪であり、罪は不信仰であるとすれば、
死に抗議する激情の本体は不信仰に抗議する激情に外ならない。 しかも人々は
己自身の不信仰を悔いずして、否、それを意識さへせずして、単なる表面的同情、
もしくは世間的礼儀に従って、死者の遺族を弔問し、葬儀に参列する。
 
 イエスは弔問のユダヤ人の泣き居るを見て、彼らの平生の不信仰と偽善とに
対する憤激が、制止しがたき勢いをもって盛り上がってくる事を、己がたましい
の中に感じ給うたのであらう。

 さらに彼らの或者どもが<盲人の目をあけし此の人にして、彼(ラザロ)を死
ならざらしむこと能はざりしか>と言った時、イエスの激昂は再び新となったの
である。

 その激昂(エムブリマオマイ)は、ラザロ及び姉妹に対するイエスの愛と、罪
と死に対するイエスの怒の相乗積であらう。」


 矢内原忠雄さん、エンブリマオマイで 語りますね。

 そして、この後、イエス様は大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれ
ます。すごいですね。
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