そちらに興味がわく。
そちらに興味がわく。
天才漫才師・横山やすしが阪神大震災の翌年96年1月21日、肝硬変で亡くなった。
まだ51歳だった。
先日亡くなったやしきたかじん(享年64)以上の破天荒な言動、破滅的な暴飲が命を縮めた。
新聞の訃報記事を亡者原稿という。
モウジャ・ゲンコウと読む。
やっさん自身が言った「人間、死んだ時に価値がわかるんや」の通り、新聞の訃報記事は大事だ。
どれだけ、人となりや悼む記事をきっちり書き込めているか。
訃報記事の扱いが新聞社の力量を測れる、といっても過言ではない。
前回に続いて「亡者」の話。
横山やすしが亡くなって、はや18年目。
月日が刻むのは早い。
子供は先妻の子供を含めて3人の子供がいる。
長男、長女(雅美)、次女。
長男は俳優の木村一八。
末娘の光は漫才や舞台女優をめざしたが、今は滋賀の住職の夫人として2児のママになっている。
啓子夫人(故人)を苦しめた破天荒なやっさんも、この末娘に従順だった。
「そんなに、飲んだらアカン!」
夫人に言われると怒髪天の怒り具合だったが、光にいわれるとシュンとしていたのが懐かしい。
その末娘が父の18回目の命日に綴った。
大阪・河内長野市の南大阪霊園に墓参した時の様子は、亡き父への慈愛にあふれている。
【抜粋】「今日は亡き父の命日です。昨日、今日と大阪に帰ってお墓参りして、きょうだい揃ってお参りしてきました。もう丸18年!早いなぁ~f(^ー^;中学三年生やったもんなぁ~救急車に震えながら乗ったことや、母に病院から先に一人で帰らされて、お布団ひいたり親戚に電話してる間に、ニュース速報…。出るのが早すぎてビックリしたわ!(゜ロ゜;寝れなくて、朝イチのニュース見て泣いたなぁ…。新聞もテレビもどこを見ても父のこと…辛かったなぁ…見たくなかった…色んな事を、まだ鮮明に覚えてるなぁ…北野たけしさんが弔問してくれはったのに二階でウノしてて、知らなくて会えなかったとか…。そんなときにウノしてる場合じゃないのにね(笑)ダメな所がたくさんあって、ひとに迷惑いっぱいかけてた父だけど、大好き!もう辛くは無いけど、命日は毎年なんだかちょっと寂しいな…」
そうそう、ニュース速報は速かった。
知人から速報の流れる数時間前に「やっさんが亡くなった」と聞き、すぐに搬送先の病院にかけつけた。
夜間の搬送写真も撮り、その時点では、完全なスクープだった。
だが、吉本の木村政雄常務(当時=元やすきよのマネジャー)が、1社だけにすまい、と共同通信に訃報を流した。
たけしが深夜に電撃的に弔問したのも大きく報じられた。
暴力事件などでたびたび迷惑をかけた長男・一八が、通夜の時、棺に添い寝をしていた姿は涙を誘った。
【96年1月24日付・報知新聞】
ボクシングの辰吉が、オヤジの葬儀で骨をかじって飲み込んだ姿とダブる。
不肖の父と子。
苦労をかければ、かけるほど「愛おしく」なるものかもしれない。
「ダメな所がたくさんあって、ひとに迷惑いっぱいかけてた父だけど、大好き!」
亡き父への愛娘の「ラブレター」は身につまされる。
◆横山やすし(よこやま・やすし=本名・木村雄二)1944年3月18日~96年1月21日。肝硬変、享年51。高知・宿毛生まれ。堺市立旭中→秋田實門下生として松竹芸能→横山ノックに誘われ吉本入り。66年(22歳)デビューした西川きよしとのコンビ漫才は一世を風靡。2番目の啓子夫人もやすし死去12年後の08年12月、心筋梗塞で他界。
82歳(97年)で亡くなった横井庄一元陸軍軍曹。
小野田寛郎元陸軍少尉が1月16日、91歳で逝った。
いずれも南の島のジャングルで「戦争」を続行し、横井は28年、小野田は戦後30年を経た70年代、平和ニッポンに衝撃の生還を果たした。
だが、平和なはずの故郷日本での、二人の評価はまったく違う。
「小野田元少尉はカッコよく、横井元軍曹はカッコ悪い」
横井が軍曹で、小野田が少尉。
横井が逃げるところを捕えられ、小野田が自発的に下山、投降。
横井が召集令状で軍隊入り。
小野田はスパイ養成陸軍中野学校出身の諜報将校。
横井が所持していた銃を朽ちさせ、小野田は使用可能な手入れをしていた。
横井が今にも倒れそうな栄養失調気味で現れ、小野田は背筋をピンと張り元気な姿を見せた。
横井は両親が離婚し苦労し、小野田は兄弟らは全員将校のエリートだった。
同じように戦争終結を知らぬままジャングルで青春をフイにした二人が、戦争を知らない平和ニッポンで評価を二分させられた。
比較したくなるのも、人情として無理はなかろう。
だが、ちょっと待て。
戦争という局面から見れば、二人とも明らかに軍国日本の犠牲者という共通項でくくられる。
軍国主義、皇民思想などのファシズムの嵐が二人を「軍事的化石」の標本にしてしまったのではないか。
当時の報道では、未帰還者名簿、つまり、戦地に赴いて帰国していない兵隊は「総計3498人。内訳は中国2867人、ソ連(現ロシア)350人、北朝鮮118人、南方地域163人」(厚生省保存名簿)もいた。
中には現地人と結婚してそのまま定住した人、逃げ回っている人など多種多様。
戦後70年になろうか、という時代。
だから、兵役に二十歳前後で赴いたとしても、小野田元少尉91歳以上の高齢だろう。
戦争の無残、非道、残酷さの中で「生」の意味を問うた映画「永遠の0」。
百田尚樹の原作本とともに大ヒットしている。
そんな時代背景のもとで、戦後の平和ニッポンを揺るがせた帝国軍人の二人が世を去った。
◆横井庄一(よこい・ しょういち)1915年3月31日 ー97年9月22日、享年82。愛知県海部郡佐織村(現愛西市)生まれ。洋品店勤務後、2度の兵役。戦後28年目、グアム島で地元の猟師に発見され帰国。名古屋市中川区富田町に居住して、幡新美保子と結婚。耐乏生活評論家として講演活動。74年、参院選出馬も落選。
◆小野田寛郎(おのだ・ひろお)1922年3月19日ー2014年1月16日、享年92。男5人、女2人の7人きょうだいの四男。和歌山県亀川村(現海南市)生まれ。海南中(剣道部)→会社員(田島洋行)→久留米第一陸軍予備士官学校→陸軍中野学校二俣分校。1974年3月、51歳で日本帰国。75年、ブラジル移住、牧場を経営。自然塾開講や講演活動。妻・町枝。