こちら噂の情報局

酒のツマミになる話題をセッセセッセ。独断偏見は”味付け”です※文中の敬称は略。

“美しすぎる”リケジョ小保方晴子 全国310人の珍名さん 

2014-01-30 | 日記
名前が珍しい。
おぼかた はるこ。
聴くだけでは 頭にすんなりと漢字が浮かばない。
小保方晴子と書く。
姓は全国で310人しかなく関東(群馬225人、茨城22人、埼玉21人)に多い。
3人いる大阪以西はゼロという苗字。
各紙いっせいに朝刊のトップで報じた「万能細胞」作製に成功の大見出し。
その研究員のリーダーが、なんと30歳独身の、いわゆるリケジョ(理科系女子)だ。
世界の常識を打ち破り、驚かせるビッグニュースの主人公が、若くておしゃれな美人なのだから、これからワイドショーは追っかけ回すだろう。
2012年にips細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥京大教授の時も、気取らない爽やかな人物として人気者になったが、それ以上の話題性がある。

まだ、どんな女性か詳細はわからない。
研究成果は凡人には理解不能だから、美人研究員がどんな人か。
そちらに興味がわく。
早大理工学部出身、とのことで当時指導した常田聡研究室教授が振り返った。
「女子力が高く、後輩から憧れの的だった。研究室の学生、あるいは卒業生にとって、非常に励みになる出来事だった。本当に女の子らしいというか、女子力が高いっていうふうに言えるのかわかりませんけれども、非常におしゃれに気を使っていた。彼女の努力と人間力のたまもの。一流の研究者にも、自らアプローチする、たくましい学生だった」

白衣ではなく、祖母からもらった割烹着姿、人と同じ格好はしない。
「おばあちゃんに応援されてるような気がするから」
実験室の壁は殺風景なものではなく、カラフルな黄色やピンク、ムーミンの漫画シールを貼っている。
研究室のペットはスッポン。
「この子が来てから実験が軌道に乗ってきた。幸運の亀です」

英国科学雑誌ネイチャーへの最初の投稿で「過去何百年の生物細胞学を愚弄している。きっと間違っている」とボロクソ却下の経験。
「信じてくれなかったことが何より大変だった。泣き明かした夜は数知れないが、今日だけは頑張ろうとやり続けてきた。プレッシャーを感じるが、10年後、100年後の人類社会への貢献を意識して、一歩一歩進みたい」

◆小保方晴子(おぼかた はるこ)1983年、千葉・松戸市出身。松戸市立第六中→東邦大付東邦高→早稲田大学理工学部応用化学科2006年卒業、 08年早大大学院を経て、日本学術. 振興会特別研究員、 博士課程ーハーバー ド大医学部に留学。大学時代のクラブ活動はラクロス部。家族は商社マンの父 臨床心理士の母、双子の姉の3姉妹。

【STAP(スタップ)細胞とは?】「刺激惹起(じゃっき)性多能性獲得(Stimulus―Triggered Acquisition of Pluripotency)」の略称。哺乳類の体は1個の受精卵から始まる。1度分裂して細胞に変化すると元に戻らない。この「分化状態」の細胞の記憶がリセットされ、受精卵に近い状態に戻るのが「初期化」。核移植(クローン技術)や遺伝子導入(iPS細胞技術)といった細胞核の人為的な操作により可能となっていた。マウスの体細胞を酸性溶液に浸す単純な外部刺激だけで「初期化」が起こり、さまざまな組織や臓器に成長する能力を引き出した。iPS細胞より短期間で作製、がん化や染色体への影響も確認されていない。ES細胞やiPS細胞では困難だった胎盤に成長することも確認された。

反戦フォーク教祖の死!団塊世代はどこへいった

2014-01-29 | 日記
ピート・シーガーといっても、知っている若い人は少ないだろう。
だが、♫ウエハボー ザ フラワーズ ゴーン(Where Have All the Flowers Gone?) ロング タイム パ~ッシング♫
そう口ずさむ「花はどこへ行った」を作った歌手といえば「ああ」とうなづくだろう。

ベトナム反戦で揺れ動いていたアメリカから、日本の文化に流れた歌声の代表的なものだ。
これはキングストントリオやピーター、ポール&マリーの歌声で「天使のハンマー」とともにヒットした。
♫ウイ シャル オーバー カーーム♫と透き通った声で女性シンガーのジョーン・バエズが歌った「勝利を我らに」は学生運動のテーマソングでもあった。

その日本の反戦フォークシーンの教祖的存在がピート・シーガーだった。
94歳、老衰で28日、ニューヨークの病院で亡くなった。

1960年後半から70年代。
我が学生時代、皆がよれば、酒を飲み、下手なギターをかき鳴らしたものだ。
大体の学生は下宿にギターをインテリアの一つのように持っていた。
簡単なコード進行は出来たはず。

先日、テレビで「かぐや姫」の南こうせつと伊勢正三が「神田川」「22歳の別れ」「なごり雪」などを歌っていた。
ヒットしたのは73年だ、という。
わが身にとっても人生の大きな転機の時代。
欧州を放浪し、東京の大学を卒業し、社会に出、世帯を持ち、娘を授かった。

慌ただしい「神田川」の世界だった。

高石ともや、岡林信康ら当時のフォークソングはシンプルなメロデイーで、とにかく、詞がわかりやすい。
走馬灯のように、当時の情景が次から次へ浮かぶ。

申し訳ないが、ラップやエクザイル、ミスチルら当代の若者に人気の歌詞にはついていけない。
当時生まれた長女は大のミスチルファンだが、先日「歌詞は難解で、わけ分からん」とつぶやいたら、ひどく怒られた。

話はそれた。
ピート・シーガーは、40年前に若者があふれた団塊世代の「源流」でもあった。

♪花はどこへ行った
(Where have all the flowers gone?)

Where have all the flowers gone?
Long time passing.
Where have all the flowers gone?
Long time ago.
Where have all the flowers gone?
The girls have picked them ev'ry one.
Oh, when will you ever learn?
Oh, when will you ever learn?
どこへ行った 野に咲く花は
どこへ行った あの花は
どこへ行った 娘たちが摘んだ
いつになったら わかるのだろう

Where have all the young girls gone?
Long time passing.
Where have all the young girls gone?
Long time ago.
Where have all the young girls gone?
They've taken husbands, every one.
Oh, when will you ever learn?
Oh, when will you ever learn?
どこへ行った あの娘たち
どこへ行った 娘たち
どこへ行った 若者たちのもとへ
いつになったら わかるのだろう
Where have all the young men gone?
Long time passing.
Where have all the young men gone?
Long time ago.
Where have all the young men gone?
They're all in uniform.
Oh, when will you ever learn?
Oh, when will you ever learn?
どこへ行った 若者たちは
どこへ行った あの若者
どこへ行った 戦争に行った
いつになったら わかるのだろう

Where have all the soldiers gone?
Long time passing.
Where have all the soldiers gone?
Long time ago.
Where have all the soldiers gone?
They've gone to graveyards, every one.
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?
どこへ行った あの兵士たち
どこへ行った 兵士たち
どこへ行った あの墓の下に
いつになったら わかるのだろう

Where have all the graveyards gone?
Long time passing.
Where have all the graveyards gone?
Long time ago.
Where have all the graveyards gone?
They're covered with flowers, every one.
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?
どこへ行った 兵士たちの墓は
どこへ行った あの墓は
どこへ行った 野辺の花になった
いつになったら わかるのだろう

Where have all the flowers gone?
Long time passing.
Where have all the flowers gone?
Long time ago.
Where have all the flowers gone?
Young girls picked them, every one.
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?
どこへ行った 野に咲く花は
どこへ行った あの花は
どこへ行った 娘たちが摘んだ
いつになったら わかるのだろう


♪神田川

貴方は もう忘れたかしら
赤いてぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに

いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私の からだを抱いて
冷たいねって 言ったのよ

若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった

貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレパス買って
貴方が描いた 私の似顔絵
うまく描いてねって 言ったのに

いつもちっとも 似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ
悲しいかいって きいたのよ

若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった

作詞:喜多條忠
作曲:南こうせつ



松坂大輔と田中将大 伝説の始まり

2014-01-28 | 日記
人生にはどこかでピークがある。
そのピークの振り幅は、人さまざま。
その人にとってのピークは、棺桶に入る寸前、いや棺桶に入った後まで、本人は分からない。

ゴッホやピカソら画家は死んでからも、ピークがある。
自分の絵画が、?億円で売れるなど、生きているうちに、理解出来るもんではない。

総額181億円で大リーグ入りした“マー君”田中将大は「ピークは?今でしょ!」では困る。
10年も経たないほんの少し前の2007年、松坂大輔も怪物として、今回と同じくらい騒がれて大リーグに迎えられた。
WBC2度のMVPという輝かしい実績を引っ提げて。
ところが今、脚光浴びるマー君の陰で、松坂はひっそりメッツとのマイナー契約が、伝えられた。

松坂とマー君は日本プロ野球では完全なすれ違い。
松坂のレッドソックス1年目の2007年が、マー君の楽天ルーキーイヤーだった。

松坂は15勝(12敗)、18勝(3敗)と2年目までは、熱狂的な野球ファンのいるボストンを納得させた。
名門レッドソックス入団前は、見たこともないジャイロボールを投げる怪物投手と報じられた。

ところが3年目からガクッと成績がダウン(4勝8敗)した。
右肘の故障もあったが、何よりメジャーの研究で、丸裸にされたのも大きな理由だった。

伊良部秀輝(ヤンキース2年目13勝、3年目11勝)も、石井一久(ドジャース1年目14勝、3年目13勝)もみんな、2、3年はそこそこの成績を残す。
だが、野茂英雄(メジャー在籍12年で2ケタ勝利7度)以外は、10年持たずしてメジャーからいなくなる。



大リーグは大雑把なようで、攻略するための分析、解剖は緻密だ。
野茂でさえ、ボール球になるフォークを見極められて下降線をたどった。
松坂も制球難から、ボールを見極められ、苦し紛れに投げ込んだストライクを痛打された。

広大な米国の移動、マウンドの硬さ、試合数の多さ、登板間隔の短さ、加えて言葉を初めとした文化の違い。
だが、そんなことは百も承知で海を渡っている。

阪神から行った井川慶を別にして、一度は本場で脚光を浴びた松坂。
ボールが通用することは分かっている。

手術から2年以上になる怪物の先輩マツザカが、どこまで復活してくれるか。
この先、ダルビッシュとマー君が、どれだけ一線で活躍出来るか。

3人の日本の怪物投手が、毎朝の大リーグ中継に登場する日が待ち遠しい。

          ◆両右腕の比較◆
    松坂 大輔           田中 将大
契約内容   6年5200万ドル  7年1億5500万ドル
挑戦年齢   26歳        25歳
甲子園    横浜高3年      駒大苫小牧
        春夏連覇       2年夏V3年春準V
プロ野球   西武108勝60敗  楽天99勝35敗
通算防御率  2・95        2・30
沢村賞    1回          2回
最多勝    3回          2回
最優秀防御率 2回         2回
最多奪三振  4回         1回

※円換算は時代による。松坂とダルビッシュは旧制度のポスティング。
松坂は移籍金5111万ドル(計1億300万ドル)
マー君は移籍金2000万ドル(計1億7500万ドル)
ちなみにダルビッシュは移籍金5170万ドル+契約金6年6000万ドル=1億1170万ドル。




記憶のあいまいさ

2014-01-27 | 日記

メモをある日、なにげなく眺めていた。
本当に何気なくだ。

今、生まれて初めて病院にリハビリ通院している。
左腕のシビレだ。

日常にまったく支障はないので、どうということはないのだけれど、どうにも気分が悪い。
で、2007年の2月にふと目が留まった。
「左手にしびれ」とある。

昨年の地中海旅の途中からしびれを感じた、とばかり思っていたが、そうではなかった。
医者にもそういった。
「ここ半年ぐらいですよ。しびれを感じたのは」

メモの通りなら、もう、7年。
仕事をして忙しかったから、忘れていたのか?
しびれには年季が入っていた。

暇になったので、痛いの、かゆいの、シビレタの、に神経がいってしまうんだろうな。

忙しい時は「のんびりしたい」
暇なときは「忙しい時が懐かしい」

ほんに、人間は勝手なものだ。









金言名言パート15

2014-01-27 | 日記

◎「一生懸命だと、知恵が出る。中途半端だと、愚痴が出る。いい加減だと、言い訳が出る」(武田信玄)

◎「いくつもの人生を観ること、それが映画を観ることなんだ」(作家・池波正太郎随筆)

◎「なみだは にんげんがもっている いちばん透明な宝石です」(作家・寺山修司)

◎失敗すれば、やり直せばいい。やり直してダメなら、もう一度工夫し、もう一度やり直せばいい(松下幸之助)

◎「わたしは、今までに、一度も失敗をしたことがない。電球が光らないという発見を、今まで二万回したのだ」(トーマス・エジソン)

都知事選 原発ゼロ争点に慌てる人々

2014-01-26 | 日記
週刊誌のつり広告、新聞広告を見ているだけで楽しくなる。
都知事選の足の引っ張り合い、すくい合い。
週刊文春「都知事選のタブーを衝く!」
週刊新潮「都知事選重大ニュース」


まず小泉元首相に関するもの。
◎細川担いで安倍潰し“原発ゼロ愉快犯”小泉の野望と勝算
◎「小泉さんの応援で自民党ぶっ潰す」殿ご乱心の現場
◎純一郎・進次郎に親子ですり寄る仕掛け人中川元官房長官
◎「チン無くは立たず」安倍の前でも原発より猥談の小泉劇場
◎小泉進次郎は純一郎の操り人形か 禁断の親子関係
◎いずれ潰れる 晩節汚す 聖域親子に安倍側近から怒声噴出
◎純一郎の財布18億円シンクタンクから出資企業が退会⁉
◎「小泉親子はぶっ潰す!」と凄んだ「官邸のギョロ目」
◎「脱原発」主張はオリンピック辞退に繋がるのか?



次いで両週刊誌の細川護熙元首相に関するもの。
◎細川護熙 美術品6千点所有「大名ライフ」公開
◎石原慎太郎元都知事の演説を丸パクリ 殿様の品
◎佳代子夫人が別居証言で細川パンツ誰が洗っているか
◎相変わらず優柔不断につき「原発即ゼロ」で早くも内ゲバ

さらに舛添要一元厚労相に関するもの
◎都知事の資格なし 親族は母介護のウソを今も許さない
◎「舛添さんは慰謝料も養育費も不足だ」と激した片山さつき
◎持ち馬アトミックサンダーが1億円稼いだ舛添要一の親原発

よくぞ掘り起こしたもので、元妻、前知事、元知事、永田町、競馬馬、親子関係・・・。

週刊誌はタレこみが多いし、大物政治家や時には新聞社のトップからでさえ、世論の動向を本紙ではなく、週刊誌に書かせる手法を取る。
もちろん、取材力もあろうが、時には持ち込まれた情報に面白さが満載されている。
玉石混交の見分け方は、週刊誌側の力量が試される。

都知事選でなぜ、原発が争点になるか?はさておいて。
まさかの争点に慌てふためいているのは、東電、安倍政権周辺。



独断で言わせてもらえば、舛添の圧勝だろう。

細川でなくて小泉が出れば、と思うほど小泉の存在が大きすぎるし、75歳の高齢、旧聞(細川政権時代)で解決済みとはいうものの佐川急便1億円借り入れは猪瀬前都知事が5000万円で吹っ飛んだことを考えるとNGだ。
まして撤回したとはいえ2020年東京五輪に、いかにも消極的な姿勢は挽回しようがない。

沈みかけた自民党を離党した舛添は「人間的冷たさ」とバツ2の女性関係がマイナスだが、厚労相時代の行政手腕は買われていい。
舛添に関しては、その冷たさ、割り切り方を実感したことがある。
連載していたコラムを打ち切ると、すぐ同じテーマで、こちらに何の連絡もなしに夕刊紙に連載を始めた。
情を挟まない変わり身の早さには、驚かされたことがある。
頭は切れるが、人心を集める「温もり」「懐の深さ」などリーダーとしての資質は疑問符がつく。
舛添は当選してからの手腕が問われることになる、と断言しておく。

2月9日の投開票まで、両週刊誌を中心とした都知事選の原発ゼロ派と推進派の「情報戦」から目を離せない。



人生の楽園の裏側

2014-01-25 | 日記

「年を取るってことは、人と別れることが多くなるってことです」
名脇役俳優の笹野高史が、新聞のインタビューでそんな話をしていた。

私より一つ上65歳の笹野の言葉を実感する。

寒中見舞い状で時を同じように、人生の先輩の訃報を2つ。

一人は1月20日付この欄でも記した元日本ボクシングコミッション関西事務局長の角田吉夫。
もう一人は会社の元先輩の奥さん。
関学のグリークラブ(合唱団)の仲間だった、この夫婦は定年後も仲睦まじくコーラスの練習に明け暮れていた(はず)。
時折「今度演奏会があるから、来ない?」と誘われて、行ったこともある。

朗々と「マイウエー」や映画のテーマ曲を歌う姿は「青春時代を老後まで、夫婦そろってキープ出来る歌の力ってスゴイ」と思わせた。

ところが誘われた昨年1月のコンサートで遭った、その6日後に亡くなった、という。
元気だった。
1年前、私にはそう見えた。


家人は「ちょっと、元気がなく変だった」と振り返るが、鈍感な当方は気づかなかった。

訃報を受けてすぐに電話をしてみたが出なかった。
しばらくしメールが届いた。
「電話してくれてありがとう。貴兄とホールで会った日から6日後に旅立ちました。神から与えられた命、神の命によりお返ししたということかな。奥さんを大事にしてください」
敬けんなクリスチャンらしい内容だった。
夫人は自死したのだろうか?

70歳を前にした先輩は、聞かれたくない、逢いたくない、多くを語ろうとしないように感じた。
「深い事情があるんだろう」と思う。
「どうやら、心の病 みたいでしたよ」
夫妻に近い知人がそう伝えてくれた。

再び連絡してみたが「出かけている」というので、車で出向き、そっと自宅玄関に弔辞を入れた花を添えた。



追悼番組内で、故やしきたかじんがテレビウォッチャーとして毒舌を吐いていた。
「あの人生の楽園っていう番組(MBS系=土曜夕方)あるやろう。老いてから田舎に行って、夫婦で畑や田んぼやって、仲良くやってるやつ。結構、視聴率取ってるんや。仲良うやって、ええなあ、思うやろうけど、実際は結構夫婦仲もめてるんもあるで。撮影してる時だけやで、仲ええのんわ」

「隣の芝生はよく見える」ではないが、実際の芝生は虫はいるは、ミミズはいるは、モグラだって穴ぼこ掘る。ほっとけば雑草も生える。アリが巣をつくり、うようよいる。ゲジゲジや場合によってはムカデも・・・。
「いいとこばっかりや、おまへん」てのが3度結婚した、たかじんの言い分。

かくも夫婦とは複雑怪奇魑魅魍魎奇奇怪怪なものである。




小山台高センバツ初切符で悪夢甦るシンドラー社のエレベーター事故

2014-01-24 | 日記
センバツという響きは、まだまだ寒いけれど春の足音が聞こえてくる。

そのセンバツ出場校の決まるのは、プロ野球のキャンプ開始と重なって忙しかった記憶がある。
だから、1月末とばかり思っていたが、出場校発表が、きょう24日あった。
畠山準、水野雄仁らを擁した阿波の池田高が27年ぶりに決まった。
21世紀枠からも奄美大島から大島高、都立で初切符となった小山台高など新鮮さ漂う大会になった。

都立小山台野球部で忘れられないのは2006年6月の悪夢だ。
当時、東京赴任中だったので、強烈な印象がある。

【当時の報道抜粋】3日午後7時半ごろ、東京都港区芝の23階建マンション「シティハイツ竹芝」の12階で、少年が、エレベーターの床の部分とエレベーター入り口の天井の間に挟まれたと119番通報があった。少年は約40分後に救急隊員に救助されたが、全身打撲と頭部骨折で間もなく死亡した。死亡したのは同マンション12階に住む都立高2年、市川大輔(ひろすけ)君(16)。市川君は自転車を引きながら後ろ向きでエレベーターから降りようとしたところ、突然、エレベーターが扉を開けたまま上昇した。救急隊員が駆けつけたときは、市川君はうつぶせで上半身だけエレベーターの箱の中に入れた状態で体を挟まれていたという。市川君は、13階に住む女性(57)と一緒に1階からエレベーターに乗った。女性がエレベーター内の非常ボタンを押して防災センターに通報。市川君は高校の野球部の部活動からの帰りだった。



そう、高校球児がエレベーター事故で死ぬという衝撃のニュースだった。
当時、2年生のレギュラー選手だった市川大輔は、夏の都大会のために先輩らと試合用の金属バットを買いに出かけた帰りに事故に遭った。
本当は3年だけで行く予定だった。
肩の強さと守備の堅実さを買われた市川選手は、2年生で唯一のレギュラーセカンドを任されていた。
主力ということもあって、3年生と一緒に行かせたという。

運命とは残酷だ。

しかも、買ったバットが事故ったエレベーターに挟まったのでは?との報道もあった。
「大輔も行って来い」といった福嶋正信監督(57)には、もちろん、何ら責任はない。
だが胸の奥底には、悔やんでも悔やみきれない想いがあっただろう。

「いつかヒロスケとともに甲子園へ」と言い続けてきた福嶋監督をはじめ小山台高ナインは、市川選手の想いを背負って甲子園にやってくる。









月給2億円!マー君夢つかんだ

2014-01-23 | 日記
野球選手になりたいという子供らに、でかい夢をもたらした。
欧州、南米、アフリカなど世界市場に広がるサッカーに押され気味だった野球の復権にもつながる。

わずか25歳の青年が、ベースボールドリームをつかんだのだ。
松坂大輔、ダルビッシュ有に続いて田中将大がメジャーのマウンドに立つ。

マー君は昨シーズン開幕24連勝無敗と無敵の楽天エースとして躍動した。
もはや生きた伝説の投手になった感がある。
7年161億円。
べら棒な契約で大リーグの名門中の名門ヤンキース入りが決まった。

ヤンキースは楽天球団にポスティングとして20億円支払うので、トータル181億円もの大金をはたいた。

庶民にはまるで見当のつかない大金。
7年(84か月)連続ジャンボ宝くじが当たったのと同じ。
ちなみに2013年度のNHKの黒字額が180億円。

計算するのもバカらしい。
でも、やってみよう。



年俸にして23億円だから月割りにすると。
月給約2億円。
週給5000万円、日給700万円・・・・。
シーズン30試合に投げたとすれば、1試合7000万円。
分業制の確立されたメジャーのマウンドだから、完投は少ない。
1試合100球をめどに交代するので1球70万円。
7イニングとすれば1イニング1000万円。
23勝すれば1勝が1億円。
もちろん、23勝すればサイ・ヤング賞は夢ではなくなる。
どちらにしても「エイヤー!」と投げているうちに田中家の家庭はガッポガッポ、ふところに入るわけだ。

実際には米国の高い税金で半分は持っていかれるのだけれど。
それはそれとして、夢いっぱい銭いっぱい。

ヤンキースは日本人投手では痛い目にあっている。

大枚30億円を阪神に渡し5年23億円、トータル53億円の大金を出して獲得した左腕エース井川慶のことだ。
メジャーわずか2勝。
1勝27億円では、ため息ではすまない。

井川の失敗に懲りず、ヤンキースはマー君をよくぞ獲得したものだ。

★ヤンキース入り決定マー君会見★
‐正式合意の連絡はいつ?
「昨日電話で」
‐星野監督には?
「昨夜電話しました。『コンディションだけ気をつけて頑張ってくれ』と言われました」
‐なぜヤンキース
「最大限に評価していただきましたし、また、世界でも有名な名門チーム。その中で、色んなものを感じながら、今まで違ったものを感じながらプレーできるのではないかなと思います」
‐評価については?
「すごく評価していただいた」
‐松井(秀喜)のビデオメッセージ、電話もしたという話だが?
「してないです」
‐ヤンキースは入団した2007年から注目していた
「大変光栄です。ルーキーの年でしたし、(大リーグは)考えていなかったので、そういう時から見ていてくれたんだなと感じます」
‐救世主、立て直し役を求められるが?
「向こうでは新人ですし、これからいろいろ経験しないといけないけど、野球をやるのは初めてではない。今まで培ってきたもの、パフォーマンスを発揮すればいいと思う」
‐日本一、今度は世界一を狙う?
「やるからには目指したい」
‐メジャーでの目標は?
「世界一です」
‐準備は?
「特にない。向こうの公式球で練習はしていた。やりながら対応していければ」
‐一番の思い出は?
「優勝した時だと思います」
‐成長できた部分は?
「たくさんあると思います。何も知らない、高校卒業した人間が、1年目から1軍のマウンド経験させてもらった」
‐仙台、東北のファンへ
「仙台という地は離れてしまいますが、テレビや新聞を通して『田中頑張ってるな』と思ってくれるよう、いいニュースを届けられるように頑張っていきたい」
‐楽しみなことは?
「ヤンキースタジアムのマウンドに立つことですかね。ただ行っただけでは意味がない。向こうで、世界一の戦力になるために行くので、チームに貢献できるようになれれば」
‐メジャーのイメージは?
「こっちでは失投して単打で終わってた部分が、長打や、ホームランになったりと、今までの感覚が違うものが出てくると思います」
‐中4日について?
「その分球数も管理されている。失敗もすると思うけど、それを繰り返しながら、やっていけたらと思う」
‐米国のファンに向けて
「受け入れていただけるように、プレーで信頼を勝ち取るしかないと思う。英語はしゃべれませんがプレーで見せていきたいです」
‐ヤンキースへのあこがれは?
「あこがれは正直なかったです。でもメジャーで一番と言っていいほど歴史がある名門のチーム。自分の野球人生の中で
、そういった環境でプレーをしたことがない。違ったところでやっていくのもありかなと」




‐先輩大リーガーと話はしたか?
「ダルさんには色んな球団の特色などを聞きました」
‐メジャー1球目は?
「プロ野球1年目にも。また同じ質問を受けるとは思ってなかったが、なんでしょうね、まあ、ストレートになるんじゃないかなと思います」
‐まい夫人は何と?
「僕の意見を尊重してくれてます」
‐何を持って行きたい?
「ももクロのDVDですね。ライブのDVDを持って行きます」
‐文化の違いは?
「向こうの文化に従うだけです。それに僕が合わせていけば問題ない」
‐英語は?
「してません。これから」
‐初めて耳にした金額などに驚いたか?
「皆さんと同じだと思いますよ」
‐イチロー、黒田ら日本人選手もいる
「日本語で話せるのはもちろん心強いし、メジャーで長年活躍されている大先輩がいて、そういう方々と一緒にプレーできるのはすごく大きい」
‐ダルビッシュからは?
「頑張れよ、と言っていただきました」



横山やすし18回目の命日に愛娘のラブレター

2014-01-22 | 日記

天才漫才師・横山やすし阪神大震災の翌年96年1月21日、肝硬変で亡くなった。
まだ51歳だった。
先日亡くなったやしきたかじん(享年64)以上の破天荒な言動、破滅的な暴飲が命を縮めた。


新聞の訃報記事を亡者原稿という。
モウジャ・ゲンコウと読む。
やっさん自身が言った「人間、死んだ時に価値がわかるんや」の通り、新聞の訃報記事は大事だ。
どれだけ、人となりや悼む記事をきっちり書き込めているか。
訃報記事の扱いが新聞社の力量を測れる、といっても過言ではない。
前回に続いて「亡者」の話。
横山やすしが亡くなって、はや18年目。
月日が刻むのは早い。
子供は先妻の子供を含めて3人の子供がいる。
長男、長女(雅美)、次女。
長男は俳優の木村一八。
末娘の光は漫才や舞台女優をめざしたが、今は滋賀の住職の夫人として2児のママになっている。
啓子夫人(故人)を苦しめた破天荒なやっさんも、この末娘に従順だった。
「そんなに、飲んだらアカン!」
夫人に言われると怒髪天の怒り具合だったが、光にいわれるとシュンとしていたのが懐かしい。
その末娘が父の18回目の命日に綴った。
大阪・河内長野市の南大阪霊園に墓参した時の様子は、亡き父への慈愛にあふれている。


【抜粋】「今日は亡き父の命日です。昨日、今日と大阪に帰ってお墓参りして、きょうだい揃ってお参りしてきました。もう丸18年!早いなぁ~f(^ー^;中学三年生やったもんなぁ~救急車に震えながら乗ったことや、母に病院から先に一人で帰らされて、お布団ひいたり親戚に電話してる間に、ニュース速報…。出るのが早すぎてビックリしたわ!(゜ロ゜;寝れなくて、朝イチのニュース見て泣いたなぁ…。新聞もテレビもどこを見ても父のこと…辛かったなぁ…見たくなかった…色んな事を、まだ鮮明に覚えてるなぁ…北野たけしさんが弔問してくれはったのに二階でウノしてて、知らなくて会えなかったとか…。そんなときにウノしてる場合じゃないのにね(笑)ダメな所がたくさんあって、ひとに迷惑いっぱいかけてた父だけど、大好き!もう辛くは無いけど、命日は毎年なんだかちょっと寂しいな…」


そうそう、ニュース速報は速かった。
知人から速報の流れる数時間前に「やっさんが亡くなった」と聞き、すぐに搬送先の病院にかけつけた。
夜間の搬送写真も撮り、その時点では、完全なスクープだった。

だが、吉本の木村政雄常務(当時=元やすきよのマネジャー)が、1社だけにすまい、と共同通信に訃報を流した。
たけしが深夜に電撃的に弔問したのも大きく報じられた。
暴力事件などでたびたび迷惑をかけた長男・一八が、通夜の時、棺に添い寝をしていた姿は涙を誘った。


【96年1月24日付・報知新聞】
ボクシングの辰吉が、オヤジの葬儀で骨をかじって飲み込んだ姿とダブる。
不肖の父と子。
苦労をかければ、かけるほど「愛おしく」なるものかもしれない。
「ダメな所がたくさんあって、ひとに迷惑いっぱいかけてた父だけど、大好き!」
亡き父への愛娘の「ラブレター」は身につまされる。


◆横山やすし(よこやま・やすし=本名・木村雄二)1944年3月18日~96年1月21日。肝硬変、享年51。高知・宿毛生まれ。堺市立旭中→秋田實門下生として松竹芸能→横山ノックに誘われ吉本入り。66年(22歳)デビューした西川きよしとのコンビ漫才は一世を風靡。2番目の啓子夫人もやすし死去12年後の08年12月、心筋梗塞で他界。


お年玉つき年賀状賞品セコイぞ!

2014-01-21 | 日記
随分、節約したものだ。
1等1万円(10万本に1本)、2等ふるさと小包(1万本に1本)、3等切手シート(50本に1本)。

虚礼廃止論者の吾が輩が言うのははばかれるが、お年玉の番号合わせをするのが、家族の恒例の楽しみだった。
テレビや洗濯機、旅行券など、いつも豪華な賞品だったような気がするが・・・。

今年から、こんなにセコクなったのか?
民営化になったからか?

どうにも納得いかない。

写真のようにズラッと並べて、番号を照らし合わせたものの、これだけあっても切手シートは7枚だけ。

ちなみに昨年は1等から4等。
えらい縮小したものだ。
1等は40型テレビや旅行券、ノートパソコン 一眼レフのデジカメなど。
2等でも加湿空気清浄器、小型デジカメなど。

昨年の1等は100万分の1の当選確率。
今年は、というと1等は10万分の1で当たるので、確かに確率は高くなるが面白くもおかしくもない。

全国31億枚もの年賀はがきを発行しているのだから、もう少し奮発してはいかがか?
社員にノルマ与えてはがきを販売するぐらいなら。

こんな賞品なら、やっぱり虚礼廃止で、来年はもう、年賀はがきはやめようかな。

▲当選番号▲
[1等] 97085(下5ケタ)
現金1万円
[2等] 2344(下4ケタ)
ふるさと小包
[3等] 72と74(下2ケタ)
お年玉切手シート



ボクシング愛に満ちた硬骨漢の訃報に接して

2014-01-20 | 日記

不覚にも、お世話になった人の死を知らずにいた。
1月も半ば過ぎた「大寒」の20日、ご家族から訃報が届いた。

「父・角田吉夫が昨年6月28日に86歳で永眠いたしましたので年頭のご挨拶は失礼させていただきました・・・・」
同居していたご長男からのものだった。
昨年の6月末といえば、わが身は地中海での旅の途中だった。
6月28日はバルセロナのカンプノウスタジアム(バルサ本拠)を訪ねていた。
1989年から17年間、日本ボクシングコミッション関西事務局長を務めた角田吉夫が2013年6月28日、循環器疾患のため京都市内の病院で亡くなっていた。86歳。

サンケイスポーツ運動部長を務め、定年後に要職についた角田は、新聞の訃報欄に掲載されていたはずで不覚だった。
南欧にいてまったく知らなかった。
日本に居れば、当然、亡者記事を目にしていた。

残念でならない。

今だから、言えるが角田事務局長在任中「あなた、後任になってくれないか」と勧められたことがある。
まだ、新聞社に在職中だった。
我が定年まで、まだまだ期間は残っていたので「定年になれば考えます」とその場は勘弁してもらった。
関西では“浪速のジョー”辰吉丈一郎人気で関西ボクシング界が盛り上がっていたころだ。

大きなジムの横暴に角田は断固とした姿勢を貫いた。
特に当時、権勢を誇った大阪帝拳・吉井清会長(故人)とも、しばしば衝突した。
我がペンも時に辛辣な記事を書いて、嫌われたこともあった
「曲がったことが嫌いな」角田事務局長とは、妙にウマが合い可愛がってもらった。
海軍第7期予備練生出身の硬骨漢ぶりを大いに発揮していた。

角田は和歌山市出身。同志社大時代はボクシング部、のちには監督を務めた。戦後は産経新聞社に入社。京都支局時代の同僚に宗教担当だった司馬遼太郎がいた。その後大阪新聞、サンケイスポーツで運動部長を歴任。1982年、定年退職と同時に日本ボクシングコミッション関西事務局参与。89年、死去した長谷川武雄事務局長の後任となった。

角田の退任後も、交流は続いた。
京都大学の近くに住んでいた角田とは年に数回、酒席を共にした。
6年前(08年)だから、角田80歳手前のころ、突然「京都に飲みにこないか」とお誘い。
何のことか、と思ったら「海軍時代の戦友らと会合がある。来て一緒に飲みましょう」
まったく、門外漢で「戦争を知らない世代」だから、その誘いにビックリした。
気を取り直して、こんな機会はない、と参加させてもらった。

会員の中で一番の年下だった角田だったが、幹事として取り仕切っていた。
集まった10人ばかりの大先輩たちは、海軍出身らしく老いても、かくしゃくとしていた。

角田は戦時のことを記した「あぁ海軍 : 七期予備練生の変遷」の著書も残している。
女子ボクシングには、最後まで反対していた。
それだけボクシングは過酷なスポーツで「女子がボクシングをするなど、もってのほか。見世物小屋ではない。とんでもないことや」と自説を曲げなかった。

美人モデルがネコパンチを繰り出し、お笑い芸人が人気をあおるために五輪代表をめざす。
今の女子プロボクシング世界戦を天国でどんな顔をして見ているのだろうか。

「日本ボクシングコミッションがしっかりせなアカン」
海軍魂で、さぞや吠えていることだろう。




1位の龍馬はわかる!4位に角栄て何や?

2014-01-20 | 日記
19日朝は冷え込みサンデー。
今年初めて雪がうっすら積もった。
散歩の途中で暖をとるため喫茶店に飛び込んだ。
手に取った雑誌で興味深い記事を見た。
朝日新聞社の「この1000年の『日本の政治リーダー』読者人気投票。
産経新聞社でもネットの「理想のリーダー」投票結果が出た。
1位はともに坂本龍馬。
「ニッポンを洗濯致す」と私利私欲を捨て、日本の夜明けを見ぬままに凶刃に倒れた龍馬は納得した。
2位は徳川家康(産経は信長)。
「鳴かぬなら 鳴くまでまで待とう ホトトギス」と機を熟すまで待ちの政策で267年の江戸時代を築いた。
3位は織田信長(産経は家康)。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」と常識をぶち壊し時代を大変革した先駆者。
4位になんと田中角栄が登場する(産経は小泉純一郎)。
龍馬、家康、信長の次で秀吉をしのいでしまった。
ちなみに5位は吉田茂(産経は橋下徹)。
さらに産経は6位が松下幸之助、7位に孫正義、8位にビートたけし。
「リーダーにしたくない人物」のランク1位は鳩山由紀夫、2位菅直人の民主党首相がワンツーフィニッシュ。
意外だったのは太閤・豊臣秀吉がベスト5にもランクインしていないことだ。
「鳴かぬなら 鳴かせてみようホトトギス」式の小賢しい知恵、策略はリーダーとして不人気のようだ。
なんだか、なんだかのアンケート結果。
人それぞれの感想を持っているだろうが、龍馬人気は不動だ。

平和ニッポンに衝撃を与えた小野田寛郎と横井庄一の死

2014-01-19 | 日記

82歳(97年)で亡くなった横井庄一元陸軍軍曹
小野田寛郎元陸軍少尉が1月16日、91歳で逝った。


いずれも南の島のジャングルで「戦争」を続行し、横井は28年、小野田は戦後30年を経た70年代、平和ニッポンに衝撃の生還を果たした。
だが、平和なはずの故郷日本での、二人の評価はまったく違う。
「小野田元少尉はカッコよく、横井元軍曹はカッコ悪い」

横井は「戦争は嫌だ」「死ぬのは怖い」と逃げ回った。
小野田は軍命令を遂行し積極的な戦闘を継続した。



横井が軍曹で、小野田が少尉。
横井が逃げるところを捕えられ、小野田が自発的に下山、投降。
横井が召集令状で軍隊入り。
小野田はスパイ養成陸軍中野学校出身の諜報将校。
横井が所持していた銃を朽ちさせ、小野田は使用可能な手入れをしていた。
横井が今にも倒れそうな栄養失調気味で現れ、小野田は背筋をピンと張り元気な姿を見せた。
横井は両親が離婚し苦労し、小野田は兄弟らは全員将校のエリートだった。
同じように戦争終結を知らぬままジャングルで青春をフイにした二人が、戦争を知らない平和ニッポンで評価を二分させられた。
比較したくなるのも、人情として無理はなかろう。


だが、ちょっと待て。
戦争という局面から見れば、二人とも明らかに軍国日本の犠牲者という共通項でくくられる。
軍国主義、皇民思想などのファシズムの嵐が二人を「軍事的化石」の標本にしてしまったのではないか。
当時の報道では、未帰還者名簿、つまり、戦地に赴いて帰国していない兵隊は「総計3498人。内訳は中国2867人、ソ連(現ロシア)350人、北朝鮮118人、南方地域163人」(厚生省保存名簿)もいた。
中には現地人と結婚してそのまま定住した人、逃げ回っている人など多種多様。
戦後70年になろうか、という時代。
だから、兵役に二十歳前後で赴いたとしても、小野田元少尉91歳以上の高齢だろう。


戦争の無残、非道、残酷さの中で「生」の意味を問うた映画「永遠の0」。
百田尚樹の原作本とともに大ヒットしている。

そんな時代背景のもとで、戦後の平和ニッポンを揺るがせた帝国軍人の二人が世を去った。

◆横井庄一(よこい・ しょういち)1915年3月31日 ー97年9月22日、享年82。愛知県海部郡佐織村(現愛西市)生まれ。洋品店勤務後、2度の兵役。戦後28年目、グアム島で地元の猟師に発見され帰国。名古屋市中川区富田町に居住して、幡新美保子と結婚。耐乏生活評論家として講演活動。74年、参院選出馬も落選。
◆小野田寛郎(おのだ・ひろお)1922年3月19日ー2014年1月16日、享年92。男5人、女2人の7人きょうだいの四男。和歌山県亀川村(現海南市)生まれ。海南中(剣道部)→会社員(田島洋行)→久留米第一陸軍予備士官学校→陸軍中野学校二俣分校。1974年3月、51歳で日本帰国。75年、ブラジル移住、牧場を経営。自然塾開講や講演活動。妻・町枝。 







密林から出てきたラストサムライ小野田寛郎

2014-01-18 | 日記
人を殺す訓練を受けた眼とは、こんなだろうな。


そう、思わせた人物こそ小野田寛郎元陸軍少尉その人だ。
16日、都内の病院で肺炎で亡くなった。91歳。

太平洋戦争の終戦を知らぬまま小野田元少尉は、フィリピン・ルバング島のジャングルで30年もの間「戦争」を続けていた。
終戦から27年後の1972年2月には、グアム島のジャングルで生き延びていた横井庄一元軍曹が生還して戦後ニッポンに衝撃を与えた。
佐藤栄作首相の手で沖縄返還されたのも同じ72年5月、同12月には田中角栄首相が日中国交正常化を成し遂げた。
この一連の動きで「もはや戦後は終わった」といわれた。

小野田元少尉が生還する74年の2年前だ。




それまでも、南方の島々には日本兵が多数潜伏しているとの情報はあった。
実際、横井元軍曹の帰国後、ルバング島などでは残存兵を捜索した。
小野田らにとってはまだ、「戦争中」とあって、フィリピン警察隊と銃撃戦。
結果、終戦から27年もジャングルで生き延びていた小野田元少尉の部下、小塚金七二等兵は復興日本を見ることなく死んだ。


来年2015年で戦後70年になる。
終戦8ケ月前の1944年12月、22歳の時にルバング島に着任した小野田元少尉。
戦後30年では、まだ頭の中は「皇軍思想」が解けていなかった。
特に小野田は陸軍中野学校で皇軍思想を徹底的に叩き込まれている情報将校だけに、すべてが諜報戦になってしまった。
投降のビラもすべてが米軍の策略と思い込み、ジャングル奥に潜伏してしまった。

教育の怖さだ。


いま、北朝鮮の恐怖政治を日本は非難しているが、ちょっと前までは「軍国教育」のもと、同じような時代を経てきている。

ヒトラーのドイツ、スターリンのソ連、ムッソリ-ニのイタリア、フランコのスペイン・・・。
悪夢の歴史は繰り返す。
懲りない人間社会の最大の犠牲者は横井庄一、小野田寛郎、いや生還できたはずの小塚金七二等兵かもしれない。

◆小野田寛郎(おのだ・ひろお):1922年3月19日→2014年1月16日、男5人、女2人の7人きょうだいの四男。和歌山県亀川村(現海南市)生まれ。海南中(剣道部)→会社員(田島洋行)→久留米第一陸軍予備士官学校→陸軍中野学校二俣分校。1974年3月、51歳で日本帰国。75年、ブラジル移住、牧場を経営。自然塾開講や講演活動。妻・町枝。