クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

正蓮寺・牡丹と白井宿花めぐり H-25-4-29

2013-04-30 17:21:23 | 中之条・小野上・みなかみ・沼田・渋川
渋川方面の花々を見に行った。先ずは牡丹で有名な渋川・寄居の正蓮寺へ。
取り敢えず渋川四つ角を目指す。長年の再開発で大変貌した周辺に驚きながら
交差点を左折してR-33(渋川松井田線)に乗る。寺の周辺は細道が入り込み
一方通行もあるので遠回りながらわかりやすい道を使う。
R-35(渋川東吾妻線)にぶつかって右折、直ぐの信号を右折して細道を東進すると
右手に正蓮寺、生憎の事に駐車場は4台が精一杯の狭さで付近に路傍駐車。




入り口にこんな城址碑。ここは渋川(寄居)城址らしい。この渋川城は、正蓮寺境内と
その西側の住宅地一帯に築かれていたとのこと。



山崎一氏の古城塁址の研究(下巻)にも載っていた。
元亀3年(1572)に 信濃から吾妻経由で西上野へと侵攻した真田幸隆らの武田勢が、
白井城の長尾憲景を攻めた時に、武田方に与した渋川地衆によって築かれた
とされる。



入園料金300園也を支払って園内へ。陽気が良いせいか訪問者多数。
牡丹の様子はこのデジブックで。

デジブック 『正蓮寺牡丹園』

正蓮寺を辞して時間も早いので白井宿の八重桜見物に向かう。序に周辺の史跡探訪。
「四つ角」に戻ってそのままR-33を東進して鯉沢パイパスに移って北進。
道の駅・こもちの大駐車場に駐車。



道の駅の混雑を横目に眺めながら一旦、バイパスに出て少し散策してから改めて
白井宿の中盤に出て最初は南に向かう。
ここは「宿」とはいうものの、実は宿場町ではなくて市場町として栄えた所。



市が立った広い道の真ん中にはきれいに整備された白井堰が流れている。



直ぐに「尭恵の歌碑」。京都の修行僧・尭恵法師が1486年に白井城に逗留していたとき
城内での歌の会で詠じたものと言われる。



その先には「白井(シロイ)の道しるべ」
北は沼田道街道、西はえちご・草津道、南は日光・江戸道とあり交通の要衝
であっことを示している。嘉永二年(1849)の安山岩角柱。





次いで「北向き地蔵尊」。
1746年建立で明治十一年再建。像型ではなく石堂だというのが珍しい。



この白井宿は900mの町並みの中央を流れる820mの白井堰、8カ所のつるべ井戸が残る。
その井戸を網羅したので纏めて下記。

上の町の井戸
水不足解消のため、明治二年に掘られた井戸。今も使用中。但し井戸の屋根などは
近年のもの。




延命水の井戸
1704年~1710年に掘られたもの。延命の水といわれて、盛んに飲んだとか。現在も使用中。




大井戸




羅漢水の井戸
掘る時に十六羅漢の供養をしたり、掘ったら吉兆の赤蛙が出てきたことから羅漢水と
命名。
三枚目の写真は法華経供養塔。






宮元町の井戸




八軒町の井戸




薬師の井戸
1624年頃掘られたもの。今も使用中。完成間際に虎に乗った薬師如来像が出て
きたので、命名されたとか。




新田町の井戸




忘れていたが肝心の八重桜は既に終盤だったが未だ鑑賞に堪えうるものもある。













さて、町並みの南端に到着してここでUターン。



再び北を目指すと途中に白井城址の道標。



こっちは城址と共に神明宮の案内もあるので左折(西)して山手に向かう。



傾斜のある石段を登る。正面に見えるのが神明宮らしい。



神明宮。説明板の文字は擦れていて読み取れないが中郷伊勢の森に鎮座の上中郷の
鎮守。昔から伊勢神領であつたらしい。



神明宮からは平坦な遊歩道が伸びている。



三日月堀と言われる堀の中に降りて進むと




前方に本丸が望見できた。



周囲は高い土塁で囲まれている。



これが本丸。
築城時期は定かではないが、関東管領家、山内上杉氏の重臣であった長尾景仲の
築城といわれ山内上杉の重要拠点として機能した。
山内上杉憲政が越後に亡命後、幾多の変遷を経て、白井城は武田の属城となったが
信玄の死後は上杉氏-北条氏-滝川氏-後北条氏と主を変える。今度は
1590年の小田原の役、松井田城を攻略した前田・上杉氏らに長尾政景(憲景の子)は、
開城した。家康の関東入封後は、徳川譜代の本多氏が入城する。
元和九(1623)年、廃城。



周囲は農地になっていて本丸の直ぐ脇では農家の人が作業中。
土塁の上で周辺の山を見ながら軽食をとりながら休憩。





城址を下って再び白井宿を北進。今度は「大宮姫神社」「渡屋の渡し跡」の道標。



こんな道しるべの所から今度は右折(東)。



数百mの左側に大きな庚申塔。



その脇に東遠構(ヒガシトオガマエ)の碑。さてはここは未だ城址の一部か?
つまり、ここは白井城の東の木戸口で利根川を渡ってくる敵軍に対する
関門だったのだ。かってはここが町の鬼門に当たるので閻魔堂が存在していた
らしいが今は無くなりその代わりに庚申塔(1860年)が建てられたとのこと。



道標にあつた大宮姫神社は影も形も見当たらない。だが、ここまで来て諦めるわけにも
行かないので目の前の鯉沢バイパスをこの信号で渡る。



農道の分されに巨大文字道祖神。これが「玉椿の道祖神」。玉椿とは地名。
中世から近世にかけてこの辺から利根川を越えて前橋への往来が盛んになったが
悪霊や災厄が町に入るのを防ぐために賽の神として建立されたらしい。
1785年のもので前橋道という道しるべの役を果たしていたとのこと。



左前方に八重桜の塊が見えた。これは神社となりの小公園。



神社の参道に立つと100Mの彼方に赤鳥居が見える。小さな神社にしては長い参道。
実はこの鳥居の先に渡し場の碑があったらしいのだが知らずに見過ごし。



塀に囲まれた神社の全景。



拝殿には「牛頭大王」の掲額。さて、ここの祭神は素盞雄尊ではないし
八坂神社・祇園神社の系統ではないので良く理解できない。



さて古い記録に「神社前から渡屋に通じる道で渡しや橋があった」と書いてあるので
それを探すのが目的。
神社前から河原に向かう二本の道から左を選択して進む。通行止めしてあるのが
どうも怪しい。



河原への降り口らしい箇所。



水路のカバーなのか、側溝の蓋が続く。



利根川上流



同じく下流、滔々たる流れだ。何時も見る碓氷川や烏川とは雲泥の差。



足元は大岩の塊。ここが渡しや橋の在った所かな?
案内道標があって現地に表示物とか礎石が何も無いのは場所間違いなんだろうか?
でも近辺を探したがそれらしきものは無かったから「見つけた」という
事にしてしまおう。



大宮姫神社に戻ると榛名が良く見える。東から見るわけだから真ん中の主役は
水沢山が占めている。



一休みしてからもう一度白井宿に戻って道の駅に向かって北進再開。
街中の牡丹を見ながらのんびり歩く。







右に大きな石碑。これは「地神」と読むらしい。篆書体(てんしょたい)。
広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが実は現代でも身近に
使われている。多くの人が使っているパスポートの表紙を見てください。
「日本国旅券」と書かれている筈の「旅券」の部分がこの篆書体。
皆が旅券と知っているから読めるがこれだけ出されたら果たして直ぐに
読めるだろうか?



ここでこれを見ると白井宿も終わり。



今日も無事に駐車場所に帰着。10.300歩。



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