空っぽの部屋(虚静恬淡に生きる)

荘周菩薩品(抄)、老子、中庸、大学の仏教的解釈を掲載しています。荘周菩薩品、続、補は電子書籍(シナノブック)に。

(6)プラトン、幸福について語る

2017年01月09日 | 幸せについて
 昔から玉の輿に乗せる、則ち娘をお金持ちの家に嫁がせること、それが娘をもつ家族、特に母親の大きな願いでした。今でも芸能人の女性と大富豪とが結婚すると玉の輿に乗ったなどとテレビでよく報道されています。しかし、お金持ちの家に嫁いて行くこと、お金持ちと結婚することが本当にその人にとって幸せなのでしょうか。自分の娘をお金持ちの家に嫁がせようとする母親は娘に本当の幸せを祈っているのでしょうか?ギリシャの偉大な哲学者プラトンは次のように語ったいます。
 アリストクレスことプラトン(BC427~BC347)は今でも世界の人々を魅了する魂の美徳について書かれているプラトン書の著者です。その書物は膨大な量ですが日本語にも翻訳されていますので今でも私たちは読むことができます。荘子が老子や孔子の口を借りて話を進めたように、プラトンはこの本の中でプラトンの師であったと伝えれているソクラテスを代弁者として自分の語りたいことを話させています。この書の中でプラトンが幸福について書いていますのでそれを引用して紹介したいと思います。
 この偉大な哲学者プラトンは、最大の幸福とは神に近づくことであり、神を模範とする生き方こそが幸福への道であると述べています(テアイテトス176A)。このプラトンのいう神とは不正のないものであり、常に正なるものなので、神に似るということは正しい行いをする、すなわち善行をなし、功徳を積むことがまさに神に近づくための道を歩むことす(176C)。別の言葉で言えば、世間の知を離れること、則ち名利を得ようとする欲得を離れること(離欲)が輪廻の渦から解脱するための道であり、それが神に近づくことなのだと語っています。
 そして最大の不幸とは、およそ神ならぬものを模範とすることです。すなわち不正な行い、己の利益を貪ること、それが神からどんどん遠ざかるかることだからです。この悪行をなす者は悪に染まらない清浄な世界では決して受け入れてもらえないのですが、世間の周りの人たちから大手腕家などと評され喜んでいます。悪しき者は悪しき者同士の集まりの中で評されているに過ぎません。ですから輪廻の大きな渦の中に取り込まれて厳しい生活を繰り返し送ることになるです177A)。
 プラトンの言う正義の正とは、この輪廻の世界で正しい行い、則ち善行により功徳(陰徳)を積むことであり、正義の義は神に対する敬虔さ、則ち、天の神々を敬い、如来の智慧を学び、それを信じ、その教えに随うことです。荘子は大自然の摂理に順い、それと一体化できるように精進、修行に勤めること、それが恭敬の本であると述べています。
 そしてプラトンは続けます。幸福と善とは必ずと言ってよいほど相伴います。不正な手段で正当な手段の2倍以上の利益を得る者は消費をする時は正当な手段で得た人の半分です。ですから正当な手段で収入を得た人は大変なお金持ちにはなれません。不正な手段で収入を得た人はさらに多くの利益得ようとしますから、当然吝嗇(けち)になりますのでさらに大金持ちになれるのです。ただ、あぶく銭などを手に入れた人は概して金使い荒いですからすぐにまた貧乏にもなります。
 確かに正当な手段で収入を得る人は大金持ちになることは容易ではありませんが、かといって非常な貧乏になることもないでしょう。従って大金持ちとか大手腕家などと呼ばれている人たちはどうしても不正を働きますので決して善人にはなれないのです。善人でなければ当然、神から遠く離れてしまいますから真の意味で幸福にはなれないのです(法律742E~743C)と述べています。
 そして、私たちは自分の魂を神々とそれに続く者たち(指導霊や守護霊のどの天使たち)の次に、第二のものとして尊敬すべきです。不正な手段で富を得ること、それが魂の持っているすばらしい価値と美しさをわずかな黄金で売り渡しているに過ぎないと言うことに気づいていないのです。
 さらに子供たちがお金持ちでいられるようにと身内に資産を残そうなどとすること、それは自分の魂を損なうばかりでなく、子供たちの魂をも損なっていることに気づいていません(727A~728A)。また最近の若者のたちは悪くなったなどと愚痴をこぼすお金持ちがいますが、老人が恥知らずの振る舞いをする所では、若者たちもすこぶる恥知らずになります。類は類を呼ぶのですから当然のことなのです(729B~C)、と述べています。まさに不幸を知らない不幸ついて語っています。
 そしてプラトンは、人はより悪い人間になればより悪い魂の所へ行くし、より善い人間になればより善い魂の所へ行き、この世に生きている時も死んでいる間のどの時期においても、似た者同志で似た者に対して為すことが相応しいことを相手から為されたり相手に為したりしているのです(法律904E)、と述べています。
 この争いの止むことの無い輪廻の世界の因縁所生、因果応報について語っています。阿含経典にも人間は類をもって集まり、類をもって結合すると説かれていますが、ヒッタイトからの教えを学び、強く霊性を観じていたプラトンは紀元前五世紀にすでのわかっていたのです。自然の摂理に順うこと、荘子は至人に己れ無く、神人に功無く、聖人に名無し、則ち至人と呼ばれる人は己の為に人を欺くことも無く、神人と呼ばれる人は万物を育み、滋養しても決し自分がやったなどと誇ること無く、聖人と呼ばれる人を世間に名を残そうなどと思って事を為すことが無い、と語っています。
 幸福と当に神に近づくこと、則ち失った魂の翼を再び得るために神の道、すなわち菩薩道を歩むこと、それが輪廻の世界から解脱する道であるとプラトンは説いています。
自我滅尽、断尽因縁、仏性開華、去去来来、合唱。

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5)常楽我浄とは

2016年12月08日 | 幸せについて
 涅槃(ねはん)経(哀嘆品)に常楽我浄(じょうらくがじょう)について説かれています。十句観音経では常楽我浄がこの経の徳目として説かれています。
 涅槃教では常楽我浄について、無常を常と考え、苦を楽と考え、無我(生死)を我(如来の真我)と考え、自分は不浄であるのに自分は浄らかである考えること、これら四つの誤った解釈を、則ちこれ四転倒であると説いています。この中で無我は生死のこと、我(が)は如来の真我として説かれているのですが、これが解釈を混乱させています。四つ目の浄についても仏教では般若心経に説かれているように不垢不浄(ふくふじょう)と説かれていますから、さらに意味を解りにくくさせているように思います。
 この四転倒こと常楽我浄について私的に、まず字釈を試みますと、
1)常:この世の中は無常、すなわち常なるものは無いのに寿命の有ることも忘れ、名誉や地位や財産も失うことが無いと考えることです。
2)楽:一切苦厄のこの輪廻の世界の中で世間の知、すなわち出世してたくさんの給料を得るために勉強し、たくさん有名な企業に入り、財貨と名誉や地位を得ることが自分にとって安楽を得ることだと考えることです。
3)我:自分の身体ですら天から借り物であるのに、自分の得た名利や土地や財貨、はては妻や子供まで自分のものだと考えることです。
4)浄:世間の知に惑わされ、貪欲な社会に生きているのに、名誉や地位や財貨を得た自分こそは一番正しいと考える傲慢なことです。この四番目の浄は諍(いさかい)が本来の教えだったように観じられます。不垢不浄という仏教的な教えにはそぐわないように思います。
 観音経の偈文に諍訟経官処(じょうしょうきょうかんしょ)とあるのですが、その”諍”、すなわち争いのことと考えれば、水の流れのように決して先を争わず(不争)という教えを、世間の中で人と争い、相手を蹴落としてでも名利や財を増やそうとしていることあると解釈できます。まさに、常なる楽しを求めて我は争う、この方が四転倒の意味が素直に理解できると思います。
 以上は字釈ですが、次にこの常楽我浄を徳目として説く十句観音経は観音菩薩の深い教えについて考えてみたいと思います。
 この十句観音経ですが五世紀には広く中語に伝えられていたようで、北魏と宋の戦いの時、このお経を称えることで北魏に敗れた将軍が死罪を免れたという言い伝えも残っています。それで後に延命十句観音経と名付けられたようです。短いお経ですので以下に全文を掲載したいと思います。
 観世音南無仏、与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁、常楽我浄、朝念観世音、暮念観世音、
 念念従心起、念念不離心。
 私的に観心釈をしてみますと、
 私は観世音菩薩に帰依して身も心も委ねます(信)。私は輪廻の究極の目的である魂の浄化を成就するために、過去世、前世からの因縁所生によりこの地球の大地に転生して来ました。慈(慈悲心)、倹(謙虚に小欲知足の生活を送ること)、不争先(流るる水、先を争わず)の三宝(老子道徳経六十七)を心に刻み、精進して生きます(仏教で言われている三宝(仏法僧)を荘子の説く三宝として解釈をします)。そして、
1)常:この無常の世界を仮の世と観じて、常に心を平らかに保ち、怒り嫉みを起こさないように勤めて行きます。
2)楽:一切苦厄の輪廻の渦から解脱するために、観世音菩薩を信じ、すべてを委ね、則ち自然の摂理に身を委ね、大自然と一体化して心の安楽、安寧(法悦)を得たいと思います(華厳経の賢首菩薩本の説く信楽(しんぎょう)のことです)。
3)我:貪欲の因である我欲、我執、則ち我を滅し、煩悩習の縁である種々の因縁を断尽して一なる無分別の境地に至れるように精進して行きます。華厳経では還元清浄心であり、荘子のいうところの天分の本性に、涅槃経や神智学の語る所の真我に還ることです。
4)浄:そして失った魂の翼(天使の翼)を再び得ることが出来るように陰徳を積んで魂の浄化に勤めて行きます。その目的のために、常に如来の教え(真如)を信じる悦び(法悦)を朝に夕に戴きながら、己をも捨てて身も心も如来の御心に委ね、再び魂が翼を持つことが出来るように(羽化)、無上の菩薩道を歩めるように勤めて行きます、と説いていると思います。
 これは古来ヒッタイトから伝えられた高次元の教えです。この高次元の教えを後世に伝えた人はプラトンや荘子、キリストなどです。キリストの教えは残念ながら改ざんされしまいましたが、その教えは仏教の中にしっかりと残されています。
 私たちは天の子どもたちです。まさに羽を失った天使が地球の大地まで落ちて来てしまいました。再び羽を持つには長い年月が必要です。そのための方法がまさにヒッタイトからの高次元の教えです。この十句観音経の中には真の意味での常楽我浄の教えが説かれていると観じました。自我滅尽、断尽因縁、仏性開華、去去来来。

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4)一隅を照らす

2016年10月01日 | 幸せについて
一隅(いちぐう)を照らす、この言葉は天台宗の寺院へ行くと必ず掲示板などによく書かれています。天台宗の祖といわれてる最澄(さいちょう)さんが国宝とは何なのかについて書いた書物、山家学生式(さんげがくしょうしき)に載っている言葉です。一部掲載してみますと、
 国宝とは何物ぞ。
 宝とは道心なり。
 道心のある人を国宝と為す。
 故に古人(こじん)曰く、
 径寸(けいすん)十枚
 是れ国宝に非ず。
 一隅を照らす、
 此れ則ち国宝なり。
一隅とは一般的には一方の角のことですが、ここでは一方向しか見えない考え方のことです。如何ににして儲けようかと常に欲得のことばかり考えている偏った考え方のことを指しています。
道心とは菩薩の道を歩もうとする心、すなわち発心(ほっしん)し、如来の教えこと大自然の摂理に身を委ねて精進修行の道を歩むことです。
径寸十枚は中国春秋戦国時代の故事に載っている話で、ある時、斉の威王と当時の強国である魏の恵王が会いました。そのとき魏王が斉王に尋ねます。「あなたは何か家宝をお持ちですか」と尋ねると、いいえ、持っておりません」と斉王が答えます。魏王は「私のような小国の王でさえ、大きな光り輝く珠を十個は持っています。あなたが持っていないはずは無いでしょう」と言いますと、斉王は「あなたの言うところの宝と私の宝は違いますが、我が国には有能な四人の家臣が居り、よくこの国を治めてくれています。私にとっては彼らがまさに我が国の宝です」と答えました。魏王はそれを聞いて恥ずかしくなって退散した、という話ですが、魏王は誰かに斉の国にはすごい家宝が有ると聞いていたのでしょう。それを自慢をしてくれれば魏王はそれを力で奪うつもりだったのでしょうが、当てが外れてしまったようです。
 山家学生式の一節を要約しますと、
 己の魂を浄化するために悟りの境地に向かって精進修行する人たちこそが、当に国の宝なのです。金銀財宝などをたくさん集めた所で、そのような物は国宝どころか、不幸せをもたらす根源なのです。菩薩道を歩み、自分の魂を浄化し、かつ慈悲心を持って欲得の道で迷っている人々に対して、ほのかな燈でも照らして正しい道を示してあげることが出来れば、それが当に国宝、すなわち功徳を積むことであり、自分の宝蔵(チャクラ)を開くことなのです、と語っています。
この後で忘己利他(ぼうきりた)について語る一節が続きます。
  古哲また曰く、
よく言って行うことの能わざる者は国の師なり。
よく行い、言うことの能わざる者は国の用(ゆう)なり。
よく行い、そして言うの者は国の宝なり。
三品のうち、言うこと能わず、行うことも能わざる者を国賊と為すなり。
則ち、道心ある仏子、西には菩薩と称し、東には君子と称す。
悪事は己に迎え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。
この一節はたいへん誤解を招きやすい所です。国とは己のことで、国を治めるとは自分を治めることですから、則ち自我を滅することです。この一節は荘子書同様に、誤解を招きやすい所です。私訳してますと、
 古の成人は次のように語っています。、経典を学び、世間から離れて精進修行をしている人は師、すなわち先生と呼ばれています。師から経典の教えを聞き、そして学び、それを世間のために役立たせようとして実践する人は国の用、すなわち利他行に勤める人です仏典を学び、真義を習得して己の宝蔵を開き、世間の人々に輪廻からの解脱の道のあることを示そうと、精進、修行の生活送る人は、当に国の宝、菩薩道を歩む人です。仏典や師より智慧を授かること無く、己の欲得のために世間の知を学んで出世栄達をはかる人は国賊、すなわち己のせっかく積んだ功徳をかすめ取る盗賊団のようなものです。
 経典を学び、自然の摂理に順い、精進修行を実践しする人は仏子と呼ばれる。西方では菩薩と呼ばれ、東では君子とも呼ばれています。自己の利益を考えること無く、難事には自分で率先して臨機応変に対処し、また柔和忍辱の心をもって教典を説き、人々に抜苦与楽の行を施すこと、すなわち己を忘れて他を利すること、これが菩薩の慈悲行なのです、と語っています。
 ここでいう国の師とは国の計画を考える人、戦いの時の軍師とか、国の用とは建てられた計画を実行する人で、国の維持に役立つ人のことなどと解釈をすると、仏教の話とはかけ離れてしまいます。
 世間の知を学び、名利を得んして欲得にまみれ、道を見失った人たちからは、木偶の坊と呼ばれようとも、その人たちに対して目には見えませんが輪廻からの解脱の道があることを大慈悲心と柔和忍辱の心を以て指し示すこと、それが一隅を照らすことであり、菩薩道の実践です。菩薩道を歩むこと、それが則ち、幸せの道を歩むことです。
 以上、”一隅を照らす”について私的に解釈を試みました。荘周菩薩品抄(45~47)の「無功用(むくゆう)の妙用(みょうゆう)」を参照していたければ幸いです。

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3)足るを知る者は富む

2016年09月15日 | 幸せについて
 老子は紀元前六世紀頃の人というだけで出生も不明です。荘子書の中では老聃の名前で出てきますが、この方は精進食を取ることが無かったようで、荘子が名前を仮に用いたようです。荘子書の中に孔子に道を説いたという説話が載っていますので,いつの間にか道教の太上老君などと呼ばれ、三清の一人の如くされたようです。荘子は架空の人の名を用いて経典の偈文のように荘子書の概略を述べたもの、則ち荘周菩薩品の偈文(げもん)が老子書だったようです。荘子書同様、多くの改ざんが為されたために真意を誤解されている所が多く認められます。
 この「足を知るものは富む」は老子道徳教の第三十三節の弁徳(べんとく)に説かれている一節ですので、その読み下し文を掲載しますと、
「人を知るは智なり。自らを知るは明なり。人に勝(すぐ)るは有力(うりき)なり。自らに勝れるは強し。足るを知る者は富み、強いて行う者は志有り。その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」
説かれています。
 弁徳は徳について語ることです。文字がかなり省略さていますので私的に文字を補いながら、荘子の教えに随い解釈をしてみますと、
 「人を知るは智なり」は人を知る、すなわち世間の知とは分別知であると説いています。
「自らを知るものは明なり」は、天から与えられた天分の本性たる高位の魂の智慧は明、すなわち無分別智であると述べています。
「人に勝るは有力なり」は、人に勝れるといえども、それはただ力が勝っているだけである、則ち、富や権力などで得た力こそがすべてだと思い違いをしていることです。不幸を知らない不幸の教えです。
「自らに勝つ者は強し」とは五欲を離れ、自我を滅尽する者は畏れるもの無しと語っています。
「足るを知る者は富む」とは遺教経の”足るを知る者は貧しといえども富めり”のことです。
「強いて行う者は志有り」は強いて学問などを詰め込んで立身出世を志しても,内なる清浄心を損なっているこのに気がつかないとです。
「その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」とは、道を歩む者は富楽安穏にして、魂の不滅を知るものは寿、すなわち幸いなりと締めています。
通釈をしてみますと、
 世間の知を学ぶとは、立身出世をして地位や名誉や財貨を得るための知識を学ぶことです。自分を知るということは、欲を離れて我欲を滅し、生死や是非などの世間の分別知から離れ、無分別の一なる境地に至る智慧を学ぶことです。しかし、世間で勝れた人と言われているのは権力や財力のある人です。これが世間の知です。自分に勝るというのは自我を滅して欲を離れていますから何も失う物も有りませんから何も恐れることが有りません。己を知り足を知る者は分相応に住し、自然の摂理に順って小欲知足に生きていますので何事にも束縛されることは有りません。ですから身も心も安穏富楽に保てるのです。それなのに、世間の知に惑わされ、学問に精を出し、立身出世を志すのは自分のことをわざわざ自分の手で縛っているようなものです。道を歩む者は魔界をも超越し、富楽安穏の境地に安住することが出来るのです。欲を離れ、生死を離れ、分別知を離れて、魂の不滅を知る者、それがまさに寿、則ち幸せ者なのです、と説かれています。
 子供や孫の立身出世を願うのはこの世間では当たり前のことのように考えられていますが、それが世間の知なのですと語っています。それは、両親や祖父や祖母までみんなで揃って、すなわち家族が揃って皆で縛りあいをしているようなものだと教えています
 このブログの老子道教、弁徳第三十三も参照していたければ幸いです。

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2)富むといえども貧し

2016年09月08日 | 幸せについて
 お釈迦様の最後の教えとされている遺教経(ゆいきょうぎょう)の一節に説かれている言葉です。
 仏教はお釈迦様の教えとされていますが、ヒッタイトからの教えを仏教として広めるために、インドの仏教を信奉する人々の想念が作り出したものですのですから、実際にはお釈迦さまはこの輪廻の世界には生まれて来ていません。しかし、二十一世紀に入り、天上界の会議でお釈迦ざまは神の一員として認められてようです。イエスキリストはインドまで訪れてこのヒッタイトからの高次元の教えを説いていたのは事実のようです。
 それでは遺教経の第二節の出世間法要に説かれている「知足の功徳」ですが、短い一節ですので全文の読み下し文を記載します。
「汝ら比丘よ、もし諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は,即ちこれ富楽安穏の教えなり。知足の人は大地の上に臥すといえどもなお安楽とするも、不知足の人は天堂に住すといえども、また意に叶わず。不知足の人は富むといえども貧し。知足の人は貧しといえども富めり。不知足の人は常に五欲のために牽(ひ)かれ、知足の人に憐愍(れんみん)せらるる。これを知足と名づくなり」
 と説かれています。不知足の人は五欲、すなわち五感(眼耳鼻舌意)を満足するための欲望が絶えることが無いので、自ら苦悩を招いて苦しんでいる。いくらお金を持っていて良い住まいに住んだとしても、もっと良い所に住みたくなって、欲望の止まる事が無いから、年中、悶々とした生活を送っている。それがすべての患いの元であることも知らないで、自分は成功者で幸せ者だと思っている。知足の人はそのことに気づかない不知足の人を憐れんでいる、と説かれています。
 ヘラクレスの冒険の中の修道院長の言葉が思い浮かびます。不幸であることを知らない人のことを一言で語っています。「その方はお金持ちなんですね」
 遺教経のこの前の一節、無求(むぐ)の功徳では小欲について説かれています。全文を掲載しますと、
「汝ら比丘、多欲の人は利を求めることが多きが故に苦悩もまた多し。小欲の人は利を求めること無く、欲も無ければこの患(うれ)い無し。ひたすら小欲を修習すべし。小欲なることの諸々の功徳を生ずるは語るまでもなし。小欲の人は諸根、すなわち五欲のために牽かれず、すなわち諂曲(てんごく)して以て人の意を求めず(人を欺してまで自分の利益を得ようとはしない)。小欲を行ずる者は心担然(たんねん)として憂畏(うい)するところ無く、事にあたりても余裕有りて、常に足らざること無し。これ則ち、涅槃行(ねはんぎょう)なり。これを小欲と名ずくなり」と説かれています。遺教経では小欲知足の話を二つに分けて説いています。
 不幸を知らない不幸、そして富むといえども貧し、これらすべての原因は貪欲さであることが説かれています。これらの苦悩を逃れる方法は、離欲、すなわち小欲知足に生きることが功徳を生ず、すなわち魂の浄化のための精進修行であることが説かれていると思います。

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1)不幸を知らない不幸

2016年09月06日 | 幸せについて
 世間では、思いが叶ったり、お金が儲かったり、恋が叶ったりすると自分のことを幸せ者だとよく言いいます。世間の言うところの幸せは本当の幸せなのでしょうか。
 ポワロの晩年を描いた「ヘラクレスの冒険」(アガサクリスティ著)の第十一話のなかに不幸について書かれているところが有りますので、それを一部引用して紹介したいと思います。
 ある時、ヘラクレスことエルキュール・ポワロは太い眉、酷薄そうな唇、貪欲そうなあごの線、相手の心の底を見透かすような鋭いまなざしをもつ、財界の権力者の所へ呼ばれ、ある依頼を受けます。それは、十年ほど前、三万ポンドで競い落としたエメラルドでできたリンゴのついた金の酒杯が自分の所へ届く前に盗難にあってしまったので、それをいくらかかってもいいから探して欲しいという依頼でした。ポワロはプロメテウス役の探偵社や刑事たちの情報を元に推理を進め、盗賊団の主犯格はすでに死亡したが娘がアイルランドの田舎の修道院に勤めていることを知ります。そこでポワロは人里離れた修道院をなんとか訪ねたのですが、その娘はすでに二年前に無くなっていました。いったん町へ引き返したポワロはアトラスという競馬の予想屋を雇い、再度そこを訪れます。その修道院の塀を乗り越える時、アトラスに案内代としれ5ポンド紙幣を二枚与えて天球の代わりに屈んでポワロを支える役をさせます。こっそり修道院に侵入したポワロは教会の聖火台の上に置かれてた酒杯を、本来はオークションで手に入れた依頼主のものなのですが、失敬して戻ります。アトラスにはお礼として、明日の競馬で手数料の十ポンドを大穴のヘラクレスにつぎ込むようにと教えます。
 ポワロは聖杯をもって財界の権力者の所を訪れます。机の上に小包を置き、きれいに紐解いてていねいに黄金の酒杯を取り出します。富豪は満面の大喜びで、「代金はあなたの言う値段を支払うよ」と言うのですが、ポワロは「代金はいらない」と言います。「それじゃ株の情報が欲しいのか」と言ったのですが、「それもいらない」と言います。「では何が欲しいのか」と言われ、ポワロは机の上の黄金の酒杯を指さして、おもむろに「それが欲しいのです」と言います。あまりのことに呆れかえる財界の権力者ですが、ポワロは「実は酒杯の底は二重に成っており、そこには小さな穴が隠されています。昔はそこに毒を入れて持ち主を殺害したようです」とその仕掛けを見せます。このような物はあなたが持つより教会に飾って祈りで浄めてもらうのが一番良いと思います。修道院の尼僧たちがあなたの魂のためにミサの祈りを捧げてくるでしょう」と言ってなんとか納得させようとします。富豪は貪婪(どんらん)な笑みを満面に浮かべて、「これは私の最善の投資だ」と言って酒杯を返すことに同意しました。
 ポワロは修道院の小さな応接間の中で院長に一部始終を語り、聖杯を返します。修道院長は、
「その方に感謝の祈りを捧げるとお伝え下さい」ポワロはうなずいてしみじみと言います。
「あの方にはあなた方の祈りが必要なのです」
「では、その方は不幸なのですか」
「あまりに不幸であったために幸福とは何であるかを忘れてしまったのです。自分が不幸であることを知らないほどの不幸なんです」修道院長は優しく言います。
「ああ、お金持ちなんですね」
ポワロは何も言わなかった。助加えるべきコトが何も無いことを知っていたからだ。
 以上がヘラクレスの冒険の第十一話の概略です。是非一読をお勧めします。

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(6)信楽について(華厳経賢首菩薩品より)

2016年08月26日 | 魂の浄化の旅
 「(2)信は道のはじめ」に書きましたが、華厳経賢首菩薩品の信楽(しんぎょう)について書かれている一節を掲載したいと思います。一部わかりやすくするために原典の読み下し分を私的に引用しています。

 信はこれ道の元(はじめ)にして、一切の諸々の功徳の不壊なる種子なり。
諸々の善根を増長し、諸々の疑惑を除滅し、無上道を示現して其の門を開く。
浄信は恭敬の本にして驕慢を滅除し、心を堅固となす。
信はこれ当に宝蔵を開く黄金の鍵にして、無上道の導き手となりて諸々の行道を授く。
信はまた、諸々の染着(ぜんじゃく)を遠離せしめ、甚深(じんじん)にして微妙(みみょう)なる仏典の真義を解(わか)らしむ。
また信は、諸々の善行をなさしめ、うたた優れたる功徳を積むことにより、究竟(くきょう)じて涅槃の境地に至らしむ。
諸々の善根は清浄にして明利となり、信力は堅固となりて魔も壊(やぶ)ることあたわず、当に一切の魔を除滅するところの最勝なる智慧の宝刀を得せしむ。
信はいかなる道に於いても一切障礙されること無く、七難も七聖財となして無難の道を歩ましむ。
諸々の魔界の道にも一切迷うことの無いばかりか、魔界を浄化し祓い清め、ひたすら菩薩道を歩ましむ。
信はまさに一切の功徳の不壊なる種子なり。
無上の菩提樹を出生し、最勝なる智慧の宝刀を以て宝蔵(チャクラ)を開き、一なる無分別の境地に至らしむなり。
これなるが故に、信楽(しんぎょう)は最勝にしてはなはだ得難し、たとえば霊瑞の優曇華(うどんげ)の如く、また随意の妙宝珠の如し、と説かれるなり。

ここで説かれている信とは一言で言えば、己を無くし、すべてを天に委ねることです。それがチャクラを開き、千の蓮の花を頭頂部に開花させることことです。言葉で言えばまさに簡単ですが、行うことは至難の行であると説かれています。自分を捨てることが出来る人にとっては易行ですが。
 般若心経では、これ大神呪(だいじんしゅ)、これ大明呪(だいみょうしゅ)と説かれているところの、羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか)のことです。捨てて,捨てて、もっと捨てて、そして自分をも捨ててしまいなさい、するとそこに菩薩道が示現しますよ、と説かれています。
 自我滅尽、断尽因縁、仏性開華、去去来来(じがめつじん、だんじんいんねん、ぶっしょうかいげ、ここらいらい)。

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(5)100匹の羊の喩え、その真理

2015年11月26日 | 魂の浄化の旅
 この100匹の羊の話は聖書に載っているお話しですので、様々な所で語られています。教会などでは牧師さんたちの説教に使われていますが、この喩え話に隠されている深い教え、すなわち叡智の道の喩えとして語られた話が、いつしか人々を迷い道に導くようなお話として語りつがれているように観じましたので、もう一度、この話の意味を私的に考えてみたいと思います。
 この聖書の話しを概略しますと、
 ある羊飼いが100匹の羊たちを山の草原で放牧していました。夕方になり、いよいよ山を下りる時になって羊が99匹しかいないことに気づきます。何度数えても1匹足りません。大変なことになりました。番犬に気づかれることなく1匹が群れを離れてどこかへ行ってしまったようです。羊飼いは恐ろしい雇い主の顔が目の前に浮かびました。きっと雇い主は怒って私を首にするだろう。そして、給料どころかいなくなった羊の弁償をさせられることになるだろうと思いました。羊飼いは帰るに帰れなくなり、99匹の羊を野原においたまま、近くの森の中へ一匹の羊を探しに行きました。鳥のさえずる森の中をしばらく探していますと、森の中の小さな草原で楽しそうに草を食んでいる羊を見つけることが出きました、という話しです。
 この聖書の一説はさまざまに解釈されてキリストの映画などにも取り入れられています。ある物語ではこの1匹を取税人という人々から悪人の如く思われ、卑しまれた職業の人に喩えています。この人を仲間に入れたイエスを理解できない人たちに対し、イエスが喩えをもって諭す一場面として作成されています。
 キリスト教では聖書のこの一節をイエスが荘子の言う万物斉同、すなわち平等性と慈悲の心を説いた一説として解釈していますが、それは一つの解釈としてそれで良いのですが、それがいつしか誤解されて、まるで罪人を大切にするような解釈とされたり、さらに浄土真宗などでは「善人なおもて往生す、ましてや悪人をや」と解釈されるようにになってしまいました。ここにキリスト教と浄土真宗の接点があるように言われたりしているようですが、このような解釈はイエスの方便、すなわち喩え話の一面である世間義を解釈したものに過ぎません。
 観音経など仏教の教えもそうですが、文字通りの解釈(字釈)をしますと現世御利益の喩え話、世間義(世俗諦)になってしまいます。仏教ではこれを方便といっています。嘘も方便の方便です。この方便の裏には必ずその真理(真義諦)である如来の智慧が内に隠されています。その真義を解釈するのが観心釈です。すなわち、教義の中には二つの教え、すなわち、世俗諦といわれる世間の知と、もう一つは真義諦といわる如来の智慧である無分別智が説かれています。世俗諦を解釈すると、まるで現世御利益のお話なってしまいますが、真義諦では菩薩道、すなわち魂の浄化の道、叡智の道が説かれています。そのような観点からこの一説を解釈してみますと話しの意味はまったく逆転してしまいます。
 ではイエスのこの100匹の羊の喩話を観心釈をしてみたいと思います。
 イエスはこの森へ迷い出た一匹を神々にも好かれている大切な天の子として語っています。すなわち、迷い出た1匹の皆に迷惑を掛けた羊を救い出すのでは無く、このいなくなった羊こそが天の道を歩んでいる羊の喩えになっています。一切の世間の知である分別知に捕らわつことも無く、また縛られること無く悠々自適な生活を楽しむこと、それが如来の教えである分別心を離れた境地に住することであり、菩薩道を歩むことです。まさに荘子のいうところの一、無分別智の境地に住することです。ですからイエスはこの迷い出た羊を神々が大切にしている羊であると語っているのです。
 残った99匹は羊は世間の知に染まっていますから、決して枠の外へは出て行きません。それが自分の安全な道であると羊飼いから教えられているからです。この羊飼いはある種の宗教や儒教などの分別知を教える師の役割を果たしています。イエスのことではありません。イエスは本当の心の安楽を得られるところは、枠の中、すなわち世間の知の中には無いことをこの一説で説いています。何も考えないで私の説くところの教えを信じて外へ一歩踏み出してご覧なさい。そして大自然の中で動物や鳥たちなどさまざまな生き物、そして草や木と一体になって生活をしてご覧なさい、これが冨楽安穏の境地に住することなのです、と説いています。
 荘子は無垢清浄な人を嬰児や枯れ木の如くとか、世間の知に捕らわれない純素な人に喩えています。宮沢賢治は私は木偶(でく)の坊と呼ばれたいと書いています。すなわち、世間から見れば外れ者ですが、世間の知を離れ,無分別の境地に住し、純粋、素朴な生活を送っている人、すなわち菩薩道を歩む人として喩えています。この人こそ、天の神々と約束を守り、魂の浄化に勤めている人なのですから、天から見れば、まさに大切な人なのです。これが100分の一の教えの真義だと観じました。ちなみに枯木とは、利益を求めることも無く、欲も無く、五感に惑わされず小欲知足に生きる人の姿を喩えたものです。別の言葉で言えば、何事が起ころうとも慌てることも、畏怖することも無く、常に平常心を保つ人のことです。決して生きる気力を失って呆然としている人という意味ではありません。
 観音経の偈文には、「たとえこの身が大火抗(だいかきょう)に落とされるような禍害を受けようとも、念彼観音力と称えればたちまち火抗は変じて池と成る」と説かれていますが、これを字義通りに解釈をすれば、噴火口のような燃えさかる所へ突き落とされようとも、観世音菩薩の御名(みな)を称えれば、たちまち火抗は変じて池となり、あなたの身を守ってくれます、となります。これは龍樹が言うところの世俗諦、世間義です。これを観心釈してみますと、あなたの心にどんなに激しい煩悩の炎が燃え盛ろうとも、如来の教えを学び、精進して名利への執着を離れるならば、そのような激しい煩悩の炎もたちどころに消失して身が焼かれるようなことはありません、と説かれています。
 字釈にこだわれば、現世御利益の話となり、内に込められている真理を見失って大きな誤解を世間に生むことになります。経典では直接に如来の教えを語ることは希です。何故ならば、一般の人たちに急に難解な教えである真理を説くことは、かえって道を歩もうとする菩提心を損なってしまうからだと経文では語られています。ですから、この方便という巧妙な手段を用いて真理を説いているのが仏教の経典であり、また本来のイエスの教えでもあったと思います。

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(4)慎みて善を為すこと勿れ

2015年08月07日 | 魂の浄化の旅
 淮南子、説山訓にある話です。ある人が嫁ぐ娘に語る一説です。
「娘よ、嫁いだ先では慎しみて善を為すこと無かれ」と。
「善を為さざれば、将(は)た不善を為すや」と娘が尋ねます。
「善すら且つなお為さず、況んや不善をや」と答えます。これこそ、天器を全うする教えでなり、と書かれています。
 短い文章ですが、とても深い教えが説かれています。慎みて善を為さず、すなわち、「みんなから良い嫁だと思われるようにと、人目に立つような善行は決して為してはいけません。それは必ず他の人たちから妬まれて自分に禍を招くことになるからです」と語りました。娘さんはお父さんは変なことを言うと思ったのでしょう、「それじゃお父さん、私は嫁いだ先で悪行を為すようにすればよいのですか?」と聞き返します。するとお父さんは、「娘よ、善行すら為してはいけないのに、ましてや悪行を為して良いはずが無いではないか」と答えました。そして、これが天器、すなわち天から借り受けた心身の浄化のための教えなのであると淮南子の作者は語っています。
 この文章では、「慎みて」が道の教えになっています。すなわち、善行を為して徳を積むにしても、謙虚に,目立つことが無いようにしなさい、すなわち魂の浄化のためには、大自然のように陰徳を積むことの大切さを何気ない言葉で教えています。老子道徳教(67)に慈悲、倹、不争の三宝について書かれています。この倹が慎みのことです。仏教の三宝は仏、法、僧とされていますが、本来は荘子の言うところの慈悲、倹、不争が三宝であったと思います(荘周菩薩品偈、老子三宝第六十七を参照)。
 この淮南子のこの一節はどこかで聞いたことがあるように感じました。そうです、「善人なおもて往生す、ましてや悪人をや」有名な歎異抄の一文です。いろいろと話題を提供した文章ですが、これは淮南子からの引用のように思われました。
 淮南子で説かれているのは、「善人だって悪行を為せば地獄に落ちるのですよ。ましてや悪人は言うまでもありません」だったのですが。
 キリスト教にも、よく似た教えが有ります。
「心の貧しき人は幸せです。神の御国はその人のものだからです」と聖書に有ります。これも仏教の教えを高位の神官と呼ばれていた人たちが自分たちに都合良く解釈してイエスの教えを歪めてしまったように思います。イエスは仏教の真理を説くためにオリエントの国々を遊行した人なのですから、決してこのようなことは言うはずがありません。
 仏典の一つである遺教経の出世間法要では貧しき者について次のように説かれています。私的に解釈をしてみますと、
「足るを知らない人(不知足の人)は世間では大金持ちと言われていても、その心は貧しい。足るを知る人(知足の人)は世間では貧乏人のごとく言われていても、その心は富んでいる。不知足の人はこの輪廻の世界でのそれぞれの役割と目的を知る知足の人から常に憐愍されている」と説かれています。
 聖書では貪欲で利権を貪っている足るを知らない高級聖職者と言われる人たちが、自分たちこそがが幸せなので有るといわんばかりの教えに改ざんしたようです。まあ、アメリカインディアンは人間かなどとまじめな顔で議論するような人たちでしたから致し方ありませんが。ガンジーはキリストの仮面をかぶった悪魔たちと呼んでいましたが。水野南北はこのような慎みを知らない人たちのことを人面獸身の餓鬼道に生きる者であると言っていました(水野南北著:食は運命を左右する)。
 荘子書、養生主篇では次のように説かれています。
「善を為して名に近づくこと無かれ、悪を為して刑に服すること無かれ。督(とく)に縁(よ)りて以て経と為すなれば、以て身を安んじ、生を全うし、以て親を養い、年を尽くすべし」
 一部改ざんされて意味が通じなくなっていますの、私的に観心釈をしてみますとすと、
「善行を積んでも名利を求めてはいけません。戒律を破り、悪行をなせば必ずやその償いが待っています。それが宇宙の真理なのです。まさに仏教を縁となし、その教えに随って日々精進すること、それが身を安んじ、天寿を全うすることでもあるのです。そして、己の無きに至る、すなわち自我を滅尽すること、それが如来を供養し、敬うことなのです」と荘子は語っています。
 カササギ仙人は仏教の極意を教えて下さいと尋ねてきた白楽天に、諸悪莫作(しょあくまくさ))衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)是諸仏教(ぜしょぶっきょう)と語りました。悪行を為してはいけません、もろもろの善行を積みなさい。それが己の魂の浄化であり、まさにそれが如来の教えで有り、宇宙の真理なのですと説いたのです。それを聞いてがっかりした白楽天は、「そのようなことは三歳の子供でもわかりますよと」仙人に言いました。仙人は、「三才の子供がわかることなのに八十才になってもすることが出来ない人が多いのですよ」と答えました。この一説は法句経のなかで七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)として説かれています(中庸の仏教的解釈、第二段第二節(1)を参照)。

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(3)易行道について

2015年03月30日 | 魂の浄化の旅
仏教の悟りの方法の一つに念仏三昧(ねんぶつざんまい)という三昧があります。阿弥陀仏や観音菩薩を観想して、その名をひたすら称えることよって阿惟越致、すなわち不退転の境地に致るという教えです。十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)では信方便易行(しんほうべんいぎょう)と説かれています。すなわち諸仏を臆念、恭敬し、その名を称えて帰依することと解釈されています。
 この念仏三昧(ざんまい)、諸仏の名を称えながら雑念を一掃することですから一つの観想法です。ヨーガや天台宗でいう止観の境地に入ることです。荘子は虚静恬淡,寂寞無為の境地と説きました。
 ある宗教ではこの経典から悟りには易行道がある、諸仏の名を称えれば誰でも救われると解釈してその宗教を広めました。しかし、経文には活字をそのまま解釈する字釈と、そこに隠された真理を解釈する観心釈(かんじんしゃく)があります。観音経も字釈をすれば現世御利益の経になってしまいますが、観心釈をすれば本来、魂の浄化を説いた深い教えが説かれたお経なのです。私的には、この易行道も、経文の字釈をそのまま現世御利益の宗教の根本に据えたため、大きな誤解を生んだように観じました。
 信方便の方便については「(1)「」三句の法門」のところで、信については「(2)」信は道のはじめ」のところで述べましたが、自分の身も心も如来大神の教えにすべてを委ね、菩薩道の門をくぐり、学んだ教えを広く世間に伝えて苦しんでいる人々を救済しますと如来と約束をすること、すなわち、それが帰依することです。
 念仏三昧、すなわち常に諸仏の名を称えるというのは、如来大神の教えに随い、貪欲や怒り、分別心から来る転倒した夢想を一切離れて、神々と共に菩薩道を歩み、そして神々に護持されて道を踏み外すこと無く、不退転の境地に住することが出来るように正念することです。
 易行道の易行の本来の意味は「信行」のことです。すなわち、
「自分を捨てて如来の教えに随いなさい、あなたは自分を捨てることが出来ますか?自分を捨てられたら、すぐに菩薩道の門が開かれ、道が目の前に現れます。難行苦行はいりません、どうです、これなら容易にできるでしょう」という教えを易行道と名付けたように観じました。
 荘子は、「この世界に自分の物など無いのですから、くよくよ考えないで大自然の摂理に随い、小欲知足の生活を送り、大自然と一体化しなさい」と説きました。言葉で語ればたった一言、信行なのですが、その道は決して容易ではないようです。ですから華厳経では、「如来大神を信じ、身も心も委ねて、神々と共に歩める喜び、すなわち「信楽」を味わう境地に到達するのは至難である」と説かれていると思います。なぜなら、この自分を捨てること、これが出来た人がこの世界に輪廻してくることはきわめて希で、衆生の救済のために転生して来た菩薩やそれに準ずるような人だけのようです。
 私たちはこの世界に魂の浄化をするために輪廻して来ました。この地球号という大宇宙船、すなわち観音号にに乗せてもらって魂の浄化の旅に出かけてきました。せめてその恩に報いるためにも私自身、心斉して身心をきれいにして菩薩道を歩めるように勤めて行きたいと思います。
 ガルーダは3月20日、北欧の空高く輝く斗七星のそばで、ピーヒョロロ、ピーヒョロロ、ピーヒョロロと虚空に大きく響き渡るかん高い声を発しました。ヘイムダルの角笛が吹かれました。ガルーダが南瞑の海に戻った時にはすでに6ヶ月が過ぎていたと逍遥遊篇で荘子は語っています。
 般若心経の最後の神呪で終わりたいと思います。羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶、捨てて、捨てて,もって捨てて、そして自分の身も捨てなさい。そうすれば目の前に菩薩道が現れ、その門が開かれるでしょう。これが般若の智慧であり、尊い般若心経(信楽)の教えです。

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