空っぽの部屋(虚静恬淡に生きる)

荘周菩薩品(抄)、老子、中庸、大学の仏教的解釈を掲載しています。荘周菩薩品、続、補は電子書籍(シナノブック)に。

空甫は、ベジタリアン。

2017年10月29日 | 来世に向けて
 空甫氏が亡くなり、8ヵ月を迎えようとしています。 

空甫氏は、ベジタリアンとして今生を全うしました。 
 
直接の死因は、肺炎です。
救急車に乗り込む時は、会話もできました。 
レントゲン写真では、肺が片方しか機能していなくて、その片方も真っ白だったそうです。
麻酔の処置後、心肺停止になったと言われました。

しかし、別の専門に移されること、そして3割助かる見込みがあると言われました。  
そこでは、心筋梗塞の手術が施されました。 

主治医の先生が、心臓の血管の1本の流れは良くなりましたが、肺に水がたまりすぎて、難しいと言われました。その間、2度心肺停止状態が、言われました。 
 
 一本の血管が、でも肺が・・・。何のために手術が行われたのか、訳がわかりませんでした。亡き後、空甫氏が夢枕で自分の死にはふしんかんがあると言いました。

 亡くなることが、わかっていたのなら、もっと大切に身体を扱ってほしかったです。

 空甫氏がベジタリアンになったのは、霊性を高める為に魂を浄化する為でした。
若い頃は、肉食でしたが、ベジタリアンになり、気がつけば、肉売場を通ると臭いが鼻につくようになりました。不思議な事に、ベジタリアンになり、何処何処にお参りに来なさいとお知らせの夢に見るようになっていました。地名の名前を夢の登場人物の名前で知らせるのです。
 夢を見ては地名から神社を探し、参拝する日々でした。
カラスがたくさん待っていることもありました。

 残念なことは、一番厳しい修行の頃は、油断ちしていたのですが、ベジタリアンの中で、
あまり身体によくないものを嗜好するようになっていったことです。
あぁ、揚せんべい止めておけばよかったと悔やまれます。残りの人生は、ベジタリアンの中で好きな物を食べたいと言われ、知らない内に、油ものが増えていました。

 滋賀にきてから、漬物も好むようになりました。 
 玄米菜食の方も、やはり味が濃い悩みを言われていましたが、少しづつ油ものや塩分が増えていました。

 主治医の先生からは、前日から歩けるような状態ではないのでと言われましたが、 
空甫氏は、岩船寺周辺の不動明王、森八幡宮を、そして浄瑠璃寺の奥の院の不動明王を参拝して、京都から滋賀まで運転していたのです。
 不思議な力に動かされていたのかもしれません。 

 あの時こうしていたら、後悔ばかりの日々ですが、空甫氏は前向きな明るさで家族を引っ張っていく、強い方でした。ありがとうございました、もっと感謝の気持ちを伝えたかったです。


 ノウマク サマンダ バザラ ダン カン 不動明王様。
 オン センダラ ハラバヤ ソワカ 月光菩薩様。   合掌
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空甫氏とオナガ

2017年06月21日 | 来世に向けて
   
 あれは、栃木県佐野市にある朝日森天満宮ヘ参拝した時のことでした。 
遠距離を運転して、聖地霊地を巡らせて戴いた時期の話です。

    疲れた空甫が駐車場から本殿に行こうとすると、見たことのない水色と灰色の見事な羽を持つ鳥が、迎えてくれたのです。尾羽の長い鳥達が、つぎからつぎへと案内するかの如く本殿に向かって飛んでいきます。

    🎵ギュ〜イキュッキュッキュ🎵独特な鳴き声のその鳥はオナガだと後からわかりました。関東では、珍しくないそうですが、初めてオナガに会い空甫氏は、眼をキラキラさせて感謝し、感激していました。
   
    
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鳥と共に生きよ、風の念と共に導かれよ。

2017年06月17日 | 来世に向けて
  空甫氏が、神事で日本中の聖地霊地を巡らせて戴いた時に、神様が何度か降ろしてくださったメッセージです。

  鳥と共に生きよ、風の念と共に導かれよ。

空甫氏は、お参りにいったところで鳥に導かれるのが、無上の喜びでした。それでも、肉体から魂が抜けた直後に、言っていました。   

  こんなにカラスの波動が高いとは知らなかった、もっとカラスに従いたかったと。
とても波動の高い鳥がお烏さんなのだそうです。 

  
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空甫氏、50代の終わりの頃に教えて戴いたこと

2017年06月16日 | 来世に向けて
空甫氏が在りし日に、神様が降ろしてくださったメッセージになります。

天皇家の方々は、過去世で天皇家に縁のある方が多いそうです。また、陵墓などとして、聖地が守られることは、大切なことだと教えられました。

(余談になりますが、神様をお祀りする為に、巨木が伐採されることを望んでいません。聖地霊地が、巨木が、敬われ守られることを望んでいらっしゃいます。)

浩宮徳仁皇太子殿下は、ごこうのとりじゃよと、後鳥羽天皇の生れ変わりであることを教えてくださいました。

黒田清子様は、後冷泉天皇の生れ変わりであること、そして

敬宮愛子内親王は、後桜町天皇の生れ変わりであることを教えてくださいました。




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空甫氏、旅立ち。

2017年06月08日 | 来世に向けて
  3月2日 この世から旅立ちました。
前日まで、京都の浄瑠璃寺、岩船寺の奥の院の不動尊に参拝し、神佛との繋がりを求める空甫氏でした。

  4月2日 来世の準備に入りました。日本人の女性に生まれ変わる予定です。  

お葬式も、お墓もございません。  

  残った家族は、深い悲しみ、様々な思いを抱えながら、不動尊、聖地を参拝させていただく日々です。

  こんな風に突然いなくなるとは、夢にも思いませんでした。  

初めて空甫氏が、神秘体験をしたのは、39歳の時でした。唐招提寺で参拝している時、突然、
顔面がビリビリとしたのです。

後からわかったのですが、裏の天神社から天神さまからのお知らせでした。
菅原道真ではないとのこと。

55歳で大病を患ってからは、タバコを辞め、神社仏閣聖地を巡礼をするようになりました。肉食を辞め、魚を食べなくなり、お酒を辞めました。
 
いつも颯爽としてユーモアがあって、3月1日には数十キロ車を走らせ、5キロ近く歩いて参拝していました。

亡くなった直後は、残った家族を心配し、また、自分が成仏できるように持ち物をすべて処分するように言われました。

自分の持ち物にしがみつかないように全て処分してほしいと。唯一残してくれといったのが阿弥陀如来像の念持仏でした。

死後3日間は、とても寂しがっていました。3日後に神様がお迎えに来てからは、来世に向かって4月2日まで娑婆世界で一緒にお仕事をして、旅立ちました。
 
突然のお別れに 残念に思うことも多く、神仏に救いを求める日々です。感謝合掌。
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(6)プラトン、幸福について語る

2017年01月09日 | 幸せについて
 昔から玉の輿に乗せる、則ち娘をお金持ちの家に嫁がせること、それが娘をもつ家族、特に母親の大きな願いでした。今でも芸能人の女性と大富豪とが結婚すると玉の輿に乗ったなどとテレビでよく報道されています。しかし、お金持ちの家に嫁いて行くこと、お金持ちと結婚することが本当にその人にとって幸せなのでしょうか。自分の娘をお金持ちの家に嫁がせようとする母親は娘に本当の幸せを祈っているのでしょうか?ギリシャの偉大な哲学者プラトンは次のように語ったいます。
 アリストクレスことプラトン(BC427~BC347)は今でも世界の人々を魅了する魂の美徳について書かれているプラトン書の著者です。その書物は膨大な量ですが日本語にも翻訳されていますので今でも私たちは読むことができます。荘子が老子や孔子の口を借りて話を進めたように、プラトンはこの本の中でプラトンの師であったと伝えれているソクラテスを代弁者として自分の語りたいことを話させています。この書の中でプラトンが幸福について書いていますのでそれを引用して紹介したいと思います。
 この偉大な哲学者プラトンは、最大の幸福とは神に近づくことであり、神を模範とする生き方こそが幸福への道であると述べています(テアイテトス176A)。このプラトンのいう神とは不正のないものであり、常に正なるものなので、神に似るということは正しい行いをする、すなわち善行をなし、功徳を積むことがまさに神に近づくための道を歩むことす(176C)。別の言葉で言えば、世間の知を離れること、則ち名利を得ようとする欲得を離れること(離欲)が輪廻の渦から解脱するための道であり、それが神に近づくことなのだと語っています。
 そして最大の不幸とは、およそ神ならぬものを模範とすることです。すなわち不正な行い、己の利益を貪ること、それが神からどんどん遠ざかるかることだからです。この悪行をなす者は悪に染まらない清浄な世界では決して受け入れてもらえないのですが、世間の周りの人たちから大手腕家などと評され喜んでいます。悪しき者は悪しき者同士の集まりの中で評されているに過ぎません。ですから輪廻の大きな渦の中に取り込まれて厳しい生活を繰り返し送ることになるです177A)。
 プラトンの言う正義の正とは、この輪廻の世界で正しい行い、則ち善行により功徳(陰徳)を積むことであり、正義の義は神に対する敬虔さ、則ち、天の神々を敬い、如来の智慧を学び、それを信じ、その教えに随うことです。荘子は大自然の摂理に順い、それと一体化できるように精進、修行に勤めること、それが恭敬の本であると述べています。
 そしてプラトンは続けます。幸福と善とは必ずと言ってよいほど相伴います。不正な手段で正当な手段の2倍以上の利益を得る者は消費をする時は正当な手段で得た人の半分です。ですから正当な手段で収入を得た人は大変なお金持ちにはなれません。不正な手段で収入を得た人はさらに多くの利益得ようとしますから、当然吝嗇(けち)になりますのでさらに大金持ちになれるのです。ただ、あぶく銭などを手に入れた人は概して金使い荒いですからすぐにまた貧乏にもなります。
 確かに正当な手段で収入を得る人は大金持ちになることは容易ではありませんが、かといって非常な貧乏になることもないでしょう。従って大金持ちとか大手腕家などと呼ばれている人たちはどうしても不正を働きますので決して善人にはなれないのです。善人でなければ当然、神から遠く離れてしまいますから真の意味で幸福にはなれないのです(法律742E~743C)と述べています。
 そして、私たちは自分の魂を神々とそれに続く者たち(指導霊や守護霊のどの天使たち)の次に、第二のものとして尊敬すべきです。不正な手段で富を得ること、それが魂の持っているすばらしい価値と美しさをわずかな黄金で売り渡しているに過ぎないと言うことに気づいていないのです。
 さらに子供たちがお金持ちでいられるようにと身内に資産を残そうなどとすること、それは自分の魂を損なうばかりでなく、子供たちの魂をも損なっていることに気づいていません(727A~728A)。また最近の若者のたちは悪くなったなどと愚痴をこぼすお金持ちがいますが、老人が恥知らずの振る舞いをする所では、若者たちもすこぶる恥知らずになります。類は類を呼ぶのですから当然のことなのです(729B~C)、と述べています。まさに不幸を知らない不幸ついて語っています。
 そしてプラトンは、人はより悪い人間になればより悪い魂の所へ行くし、より善い人間になればより善い魂の所へ行き、この世に生きている時も死んでいる間のどの時期においても、似た者同志で似た者に対して為すことが相応しいことを相手から為されたり相手に為したりしているのです(法律904E)、と述べています。
 この争いの止むことの無い輪廻の世界の因縁所生、因果応報について語っています。阿含経典にも人間は類をもって集まり、類をもって結合すると説かれていますが、ヒッタイトからの教えを学び、強く霊性を観じていたプラトンは紀元前五世紀にすでのわかっていたのです。自然の摂理に順うこと、荘子は至人に己れ無く、神人に功無く、聖人に名無し、則ち至人と呼ばれる人は己の為に人を欺くことも無く、神人と呼ばれる人は万物を育み、滋養しても決し自分がやったなどと誇ること無く、聖人と呼ばれる人を世間に名を残そうなどと思って事を為すことが無い、と語っています。
 幸福と当に神に近づくこと、則ち失った魂の翼を再び得るために神の道、すなわち菩薩道を歩むこと、それが輪廻の世界から解脱する道であるとプラトンは説いています。
自我滅尽、断尽因縁、仏性開華、去去来来、合唱。
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5)常楽我浄とは

2016年12月08日 | 幸せについて
 涅槃(ねはん)経(哀嘆品)に常楽我浄(じょうらくがじょう)について説かれています。十句観音経では常楽我浄がこの経の徳目として説かれています。
 涅槃教では常楽我浄について、無常を常と考え、苦を楽と考え、無我(生死)を我(如来の真我)と考え、自分は不浄であるのに自分は浄らかである考えること、これら四つの誤った解釈を、則ちこれ四転倒であると説いています。この中で無我は生死のこと、我(が)は如来の真我として説かれているのですが、これが解釈を混乱させています。四つ目の浄についても仏教では般若心経に説かれているように不垢不浄(ふくふじょう)と説かれていますから、さらに意味を解りにくくさせているように思います。
 この四転倒こと常楽我浄について私的に、まず字釈を試みますと、
1)常:この世の中は無常、すなわち常なるものは無いのに寿命の有ることも忘れ、名誉や地位や財産も失うことが無いと考えることです。
2)楽:一切苦厄のこの輪廻の世界の中で世間の知、すなわち出世してたくさんの給料を得るために勉強し、たくさん有名な企業に入り、財貨と名誉や地位を得ることが自分にとって安楽を得ることだと考えることです。
3)我:自分の身体ですら天から借り物であるのに、自分の得た名利や土地や財貨、はては妻や子供まで自分のものだと考えることです。
4)浄:世間の知に惑わされ、貪欲な社会に生きているのに、名誉や地位や財貨を得た自分こそは一番正しいと考える傲慢なことです。この四番目の浄は諍(いさかい)が本来の教えだったように観じられます。不垢不浄という仏教的な教えにはそぐわないように思います。
 観音経の偈文に諍訟経官処(じょうしょうきょうかんしょ)とあるのですが、その”諍”、すなわち争いのことと考えれば、水の流れのように決して先を争わず(不争)という教えを、世間の中で人と争い、相手を蹴落としてでも名利や財を増やそうとしていることあると解釈できます。まさに、常なる楽しを求めて我は争う、この方が四転倒の意味が素直に理解できると思います。
 以上は字釈ですが、次にこの常楽我浄を徳目として説く十句観音経は観音菩薩の深い教えについて考えてみたいと思います。
 この十句観音経ですが五世紀には広く中語に伝えられていたようで、北魏と宋の戦いの時、このお経を称えることで北魏に敗れた将軍が死罪を免れたという言い伝えも残っています。それで後に延命十句観音経と名付けられたようです。短いお経ですので以下に全文を掲載したいと思います。
 観世音南無仏、与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁、常楽我浄、朝念観世音、暮念観世音、
 念念従心起、念念不離心。
 私的に観心釈をしてみますと、
 私は観世音菩薩に帰依して身も心も委ねます(信)。私は輪廻の究極の目的である魂の浄化を成就するために、過去世、前世からの因縁所生によりこの地球の大地に転生して来ました。慈(慈悲心)、倹(謙虚に小欲知足の生活を送ること)、不争先(流るる水、先を争わず)の三宝(老子道徳経六十七)を心に刻み、精進して生きます(仏教で言われている三宝(仏法僧)を荘子の説く三宝として解釈をします)。そして、
1)常:この無常の世界を仮の世と観じて、常に心を平らかに保ち、怒り嫉みを起こさないように勤めて行きます。
2)楽:一切苦厄の輪廻の渦から解脱するために、観世音菩薩を信じ、すべてを委ね、則ち自然の摂理に身を委ね、大自然と一体化して心の安楽、安寧(法悦)を得たいと思います(華厳経の賢首菩薩本の説く信楽(しんぎょう)のことです)。
3)我:貪欲の因である我欲、我執、則ち我を滅し、煩悩習の縁である種々の因縁を断尽して一なる無分別の境地に至れるように精進して行きます。華厳経では還元清浄心であり、荘子のいうところの天分の本性に、涅槃経や神智学の語る所の真我に還ることです。
4)浄:そして失った魂の翼(天使の翼)を再び得ることが出来るように陰徳を積んで魂の浄化に勤めて行きます。その目的のために、常に如来の教え(真如)を信じる悦び(法悦)を朝に夕に戴きながら、己をも捨てて身も心も如来の御心に委ね、再び魂が翼を持つことが出来るように(羽化)、無上の菩薩道を歩めるように勤めて行きます、と説いていると思います。
 これは古来ヒッタイトから伝えられた高次元の教えです。この高次元の教えを後世に伝えた人はプラトンや荘子、キリストなどです。キリストの教えは残念ながら改ざんされしまいましたが、その教えは仏教の中にしっかりと残されています。
 私たちは天の子どもたちです。まさに羽を失った天使が地球の大地まで落ちて来てしまいました。再び羽を持つには長い年月が必要です。そのための方法がまさにヒッタイトからの高次元の教えです。この十句観音経の中には真の意味での常楽我浄の教えが説かれていると観じました。自我滅尽、断尽因縁、仏性開華、去去来来。
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4)一隅を照らす

2016年10月01日 | 幸せについて
一隅(いちぐう)を照らす、この言葉は天台宗の寺院へ行くと必ず掲示板などによく書かれています。天台宗の祖といわれてる最澄(さいちょう)さんが国宝とは何なのかについて書いた書物、山家学生式(さんげがくしょうしき)に載っている言葉です。一部掲載してみますと、
 国宝とは何物ぞ。
 宝とは道心なり。
 道心のある人を国宝と為す。
 故に古人(こじん)曰く、
 径寸(けいすん)十枚
 是れ国宝に非ず。
 一隅を照らす、
 此れ則ち国宝なり。
一隅とは一般的には一方の角のことですが、ここでは一方向しか見えない考え方のことです。如何ににして儲けようかと常に欲得のことばかり考えている偏った考え方のことを指しています。
道心とは菩薩の道を歩もうとする心、すなわち発心(ほっしん)し、如来の教えこと大自然の摂理に身を委ねて精進修行の道を歩むことです。
径寸十枚は中国春秋戦国時代の故事に載っている話で、ある時、斉の威王と当時の強国である魏の恵王が会いました。そのとき魏王が斉王に尋ねます。「あなたは何か家宝をお持ちですか」と尋ねると、いいえ、持っておりません」と斉王が答えます。魏王は「私のような小国の王でさえ、大きな光り輝く珠を十個は持っています。あなたが持っていないはずは無いでしょう」と言いますと、斉王は「あなたの言うところの宝と私の宝は違いますが、我が国には有能な四人の家臣が居り、よくこの国を治めてくれています。私にとっては彼らがまさに我が国の宝です」と答えました。魏王はそれを聞いて恥ずかしくなって退散した、という話ですが、魏王は誰かに斉の国にはすごい家宝が有ると聞いていたのでしょう。それを自慢をしてくれれば魏王はそれを力で奪うつもりだったのでしょうが、当てが外れてしまったようです。
 山家学生式の一節を要約しますと、
 己の魂を浄化するために悟りの境地に向かって精進修行する人たちこそが、当に国の宝なのです。金銀財宝などをたくさん集めた所で、そのような物は国宝どころか、不幸せをもたらす根源なのです。菩薩道を歩み、自分の魂を浄化し、かつ慈悲心を持って欲得の道で迷っている人々に対して、ほのかな燈でも照らして正しい道を示してあげることが出来れば、それが当に国宝、すなわち功徳を積むことであり、自分の宝蔵(チャクラ)を開くことなのです、と語っています。
この後で忘己利他(ぼうきりた)について語る一節が続きます。
  古哲また曰く、
よく言って行うことの能わざる者は国の師なり。
よく行い、言うことの能わざる者は国の用(ゆう)なり。
よく行い、そして言うの者は国の宝なり。
三品のうち、言うこと能わず、行うことも能わざる者を国賊と為すなり。
則ち、道心ある仏子、西には菩薩と称し、東には君子と称す。
悪事は己に迎え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。
この一節はたいへん誤解を招きやすい所です。国とは己のことで、国を治めるとは自分を治めることですから、則ち自我を滅することです。この一節は荘子書同様に、誤解を招きやすい所です。私訳してますと、
 古の成人は次のように語っています。、経典を学び、世間から離れて精進修行をしている人は師、すなわち先生と呼ばれています。師から経典の教えを聞き、そして学び、それを世間のために役立たせようとして実践する人は国の用、すなわち利他行に勤める人です仏典を学び、真義を習得して己の宝蔵を開き、世間の人々に輪廻からの解脱の道のあることを示そうと、精進、修行の生活送る人は、当に国の宝、菩薩道を歩む人です。仏典や師より智慧を授かること無く、己の欲得のために世間の知を学んで出世栄達をはかる人は国賊、すなわち己のせっかく積んだ功徳をかすめ取る盗賊団のようなものです。
 経典を学び、自然の摂理に順い、精進修行を実践しする人は仏子と呼ばれる。西方では菩薩と呼ばれ、東では君子とも呼ばれています。自己の利益を考えること無く、難事には自分で率先して臨機応変に対処し、また柔和忍辱の心をもって教典を説き、人々に抜苦与楽の行を施すこと、すなわち己を忘れて他を利すること、これが菩薩の慈悲行なのです、と語っています。
 ここでいう国の師とは国の計画を考える人、戦いの時の軍師とか、国の用とは建てられた計画を実行する人で、国の維持に役立つ人のことなどと解釈をすると、仏教の話とはかけ離れてしまいます。
 世間の知を学び、名利を得んして欲得にまみれ、道を見失った人たちからは、木偶の坊と呼ばれようとも、その人たちに対して目には見えませんが輪廻からの解脱の道があることを大慈悲心と柔和忍辱の心を以て指し示すこと、それが一隅を照らすことであり、菩薩道の実践です。菩薩道を歩むこと、それが則ち、幸せの道を歩むことです。
 以上、”一隅を照らす”について私的に解釈を試みました。荘周菩薩品抄(45~47)の「無功用(むくゆう)の妙用(みょうゆう)」を参照していたければ幸いです。
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3)足るを知る者は富む

2016年09月15日 | 幸せについて
 老子は紀元前六世紀頃の人というだけで出生も不明です。荘子書の中では老聃の名前で出てきますが、この方は精進食を取ることが無かったようで、荘子が名前を仮に用いたようです。荘子書の中に孔子に道を説いたという説話が載っていますので,いつの間にか道教の太上老君などと呼ばれ、三清の一人の如くされたようです。荘子は架空の人の名を用いて経典の偈文のように荘子書の概略を述べたもの、則ち荘周菩薩品の偈文(げもん)が老子書だったようです。荘子書同様、多くの改ざんが為されたために真意を誤解されている所が多く認められます。
 この「足を知るものは富む」は老子道徳教の第三十三節の弁徳(べんとく)に説かれている一節ですので、その読み下し文を掲載しますと、
「人を知るは智なり。自らを知るは明なり。人に勝(すぐ)るは有力(うりき)なり。自らに勝れるは強し。足るを知る者は富み、強いて行う者は志有り。その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」
説かれています。
 弁徳は徳について語ることです。文字がかなり省略さていますので私的に文字を補いながら、荘子の教えに随い解釈をしてみますと、
 「人を知るは智なり」は人を知る、すなわち世間の知とは分別知であると説いています。
「自らを知るものは明なり」は、天から与えられた天分の本性たる高位の魂の智慧は明、すなわち無分別智であると述べています。
「人に勝るは有力なり」は、人に勝れるといえども、それはただ力が勝っているだけである、則ち、富や権力などで得た力こそがすべてだと思い違いをしていることです。不幸を知らない不幸の教えです。
「自らに勝つ者は強し」とは五欲を離れ、自我を滅尽する者は畏れるもの無しと語っています。
「足るを知る者は富む」とは遺教経の”足るを知る者は貧しといえども富めり”のことです。
「強いて行う者は志有り」は強いて学問などを詰め込んで立身出世を志しても,内なる清浄心を損なっているこのに気がつかないとです。
「その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」とは、道を歩む者は富楽安穏にして、魂の不滅を知るものは寿、すなわち幸いなりと締めています。
通釈をしてみますと、
 世間の知を学ぶとは、立身出世をして地位や名誉や財貨を得るための知識を学ぶことです。自分を知るということは、欲を離れて我欲を滅し、生死や是非などの世間の分別知から離れ、無分別の一なる境地に至る智慧を学ぶことです。しかし、世間で勝れた人と言われているのは権力や財力のある人です。これが世間の知です。自分に勝るというのは自我を滅して欲を離れていますから何も失う物も有りませんから何も恐れることが有りません。己を知り足を知る者は分相応に住し、自然の摂理に順って小欲知足に生きていますので何事にも束縛されることは有りません。ですから身も心も安穏富楽に保てるのです。それなのに、世間の知に惑わされ、学問に精を出し、立身出世を志すのは自分のことをわざわざ自分の手で縛っているようなものです。道を歩む者は魔界をも超越し、富楽安穏の境地に安住することが出来るのです。欲を離れ、生死を離れ、分別知を離れて、魂の不滅を知る者、それがまさに寿、則ち幸せ者なのです、と説かれています。
 子供や孫の立身出世を願うのはこの世間では当たり前のことのように考えられていますが、それが世間の知なのですと語っています。それは、両親や祖父や祖母までみんなで揃って、すなわち家族が揃って皆で縛りあいをしているようなものだと教えています
 このブログの老子道教、弁徳第三十三も参照していたければ幸いです。
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2)富むといえども貧し

2016年09月08日 | 幸せについて
 お釈迦様の最後の教えとされている遺教経(ゆいきょうぎょう)の一節に説かれている言葉です。
 仏教はお釈迦様の教えとされていますが、ヒッタイトからの教えを仏教として広めるために、インドの仏教を信奉する人々の想念が作り出したものですのですから、実際にはお釈迦さまはこの輪廻の世界には生まれて来ていません。しかし、二十一世紀に入り、天上界の会議でお釈迦ざまは神の一員として認められてようです。イエスキリストはインドまで訪れてこのヒッタイトからの高次元の教えを説いていたのは事実のようです。
 それでは遺教経の第二節の出世間法要に説かれている「知足の功徳」ですが、短い一節ですので全文の読み下し文を記載します。
「汝ら比丘よ、もし諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は,即ちこれ富楽安穏の教えなり。知足の人は大地の上に臥すといえどもなお安楽とするも、不知足の人は天堂に住すといえども、また意に叶わず。不知足の人は富むといえども貧し。知足の人は貧しといえども富めり。不知足の人は常に五欲のために牽(ひ)かれ、知足の人に憐愍(れんみん)せらるる。これを知足と名づくなり」
 と説かれています。不知足の人は五欲、すなわち五感(眼耳鼻舌意)を満足するための欲望が絶えることが無いので、自ら苦悩を招いて苦しんでいる。いくらお金を持っていて良い住まいに住んだとしても、もっと良い所に住みたくなって、欲望の止まる事が無いから、年中、悶々とした生活を送っている。それがすべての患いの元であることも知らないで、自分は成功者で幸せ者だと思っている。知足の人はそのことに気づかない不知足の人を憐れんでいる、と説かれています。
 ヘラクレスの冒険の中の修道院長の言葉が思い浮かびます。不幸であることを知らない人のことを一言で語っています。「その方はお金持ちなんですね」
 遺教経のこの前の一節、無求(むぐ)の功徳では小欲について説かれています。全文を掲載しますと、
「汝ら比丘、多欲の人は利を求めることが多きが故に苦悩もまた多し。小欲の人は利を求めること無く、欲も無ければこの患(うれ)い無し。ひたすら小欲を修習すべし。小欲なることの諸々の功徳を生ずるは語るまでもなし。小欲の人は諸根、すなわち五欲のために牽かれず、すなわち諂曲(てんごく)して以て人の意を求めず(人を欺してまで自分の利益を得ようとはしない)。小欲を行ずる者は心担然(たんねん)として憂畏(うい)するところ無く、事にあたりても余裕有りて、常に足らざること無し。これ則ち、涅槃行(ねはんぎょう)なり。これを小欲と名ずくなり」と説かれています。遺教経では小欲知足の話を二つに分けて説いています。
 不幸を知らない不幸、そして富むといえども貧し、これらすべての原因は貪欲さであることが説かれています。これらの苦悩を逃れる方法は、離欲、すなわち小欲知足に生きることが功徳を生ず、すなわち魂の浄化のための精進修行であることが説かれていると思います。
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