在宅勤務なのだ

自分でも暇なのか忙しいのかよく分からない。タイトルは多忙としたけれど、多忙ではないなぁー、いくらなんでも・・・

経が休みだった験を

2017-08-10 12:21:34 | 日記

どうしようもない感情が渦になって、正樹を襲う。
一睡もできぬまま、夜が白々と明けてゆくのを見つめていた。
世界にただ一人、取り残されているような寂しさに苛まれていた。翌日は仕事ので、正樹はしばらく布団の中でまどろんでいた。
考えることは山ほどあった。
昨日、病院で医師に言われたのは、家族に病気の話を伝えること。
そうしますと、即答できなかった。
正直なところ、家を出てからは電話すらかけていない。

一度、仕事先を覗きに来た母親が、もの言いたげな風でこちらを見ていたことがあるが、正樹は近寄るどころか、言葉もかけられなかった。視線をそらし、仕事をしているふりをした。
これ以上、自分のすべてを否定されたら、立っていられなくなる。互いを傷つけあうくらいなら、いっそ遠く離れていた方がましだと思って、両親との関わりを避けてきた。

しかし現実問題として、今はそうも言ってはいられない。
これからかかる医療費の話は、切実な問題だった。
自分でも医療費を何とかできないかと、いろいろ調べてみたが、市役所で借りる一時金には返済義務があり、高額医療費の申請をするにも闘病する身ではどうしようもなかった。
友人の田神を頼れば、きっと何とかしてくれるだろうと思うし、彼の優しい婚約者の茉希も、おそらく喜んで力になってくれるはずだ。
だが、これから結婚式を挙げて新しい生活を築いてゆく二人に、身内でも何でもない自分の事で迷惑をかけるのは耐えられなかった。

「なんとかしなきゃな……」

両親に頭を下げるのは気が重かったが、どう考えてもそれしか方法がないとわかっていた。
のろのろと着替えを済ませ、しばらく足が遠のいていた自宅へと向かった。
母は事務の仕事で出かけていて、昼食の時間に自宅に帰ってくるはずだった。

***

自宅前で、正樹は固まった。
母の姿がそこにあった。

「……お母さん……」
「正樹……あの……あなた、病院に行ったって聞いてけど、大丈夫なの?」
「あ……うん。誰に聞いたの?」
「お母さんのお友達が、あなたを病院で見かけたらしいの。ずいぶん顔色が悪かったけど、どうかしたのって心配してくれて……」
「そう。その話をしようと思って来たんだよ。お願いしたいこともあったし」
「お願い……って?」
「あの……子供のころから、僕に保険を掛けてくれていたでしょう?その保険、使わせてくれないかな……と思って」
「何があったの?」
久しぶりに会った親子は、ぎこちなく言葉を交わし、互いの本心を探ろうとしていた。

「とにかく中にお入りなさい」
「……いいの?」
「自分の家でしょう。何を言っているの」

母は、怒ったように語気を強めた。
思わず、父親に二度と敷居をまたぐなと言われているけど、上がってもいいのと皮肉を言おうとしてやめた。

玄関には、正樹がいた時と変わらずに、季節の花が飾られている。自分がいなくても、何も変わらないと思いつつスリッパをはこうとして、ふわりと綿ぼこりが舞ったのに気づいた。
几帳面な母にしては、珍しいことだった。
埃は、すぐに風邪をひく正樹の気管支に良くないからと、こまめに掃除をしていたように思う。

「何?」
「あ、うん。玄関の花とか、変わらないなって思って……」
「7年もたつのよ。変わらないわけないじゃない」
「……そうだね」
「私もお父さんも老けたわ」
「そんなことない。お母さんは……若いよ」

ふふっと母は笑った。

「お世辞が言えるようになったの?」
「思っただけだよ……」

確かに年を取ったと思う。
正樹は心の中で精一杯、伝える言葉を探った。
どう言えばいいのか、方法がわからない。

「あの……。学費を出していただいて、ありがとうございました」

正樹は両親が大学の学費を出してくれたことに、堅苦しく謝辞を述べ頭を下げた。

「今は、美術館で働いているのね」
「うん。学芸員になりたいんだ。今は学芸員補として、非正規雇用で働いている。8年間積めば学芸員の資格が取れるんだ。後、もう少しなんだよ」
「そう。正樹は絵ばっかり描いていたものねぇ。なんだったかしら、誕生日に買ってくれって言った石膏の名前……」
「マルスだよ。ボルゲーゼのマルスの胸像を買ってもらったんだ」
「思い出したわ。正樹の同級生はみんな、ゲームが欲しいっていう話をしていたから、玩具屋さんに予約いれていたのを取り消したのよ」
「今も大切にしているよ。ずっと一緒にいるんだ」
「そう……」

母は、お茶を淹れてくるわと言って、席を外した。

正樹は部屋を見渡した。
居間の鴨居には、正樹の貰った賞状がぐるりと飾られている。懐かしい風景だった。
ひときわ目立つ額の中には、正樹が新聞社の賞を獲った両親の絵が飾られていた。
県民会館で賞状をもらった時は、両親ともに会社を休んで揃って出席してくれた。
いつもより不機嫌に見える父に遠慮した正樹に、本当は照れ隠しに仏頂面をしているのよと母がこっそり教えてくれた。会社でも自慢していたと聞いて、くすぐったかったのを覚えている。
初めて父に認めてもらったような気がして、嬉しかった。
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