日々の細道

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フジテレビの映画「フラガール」

2007年10月07日 | Weblog


 昨夜、フジテレビの<土曜プレミアム・特別企画>映画「フラガール」(シネカノン制作・配給・2006年9月23日公開)を見ました。

◎キャスト 松雪泰子 豊川悦司 蒼井 優
山崎静代(南海キャンディーズ・しずちゃん)池津祥子
徳永えり 三宅弘城 寺島 進 志賀 勝 高橋克実
岸部一徳 富司純子

◎スタッフ
▼監督 李相日 ▼脚本 李相日 羽原大介
▼音楽 ジェイク・シマブクロ(ソニー・MJI)
▼製作 李鳳宇 河合 洋 細野義朗
▼企画・プロデュース 石原仁美

 炭坑の町をとりあげた物語ということで、すぐに、頭に浮かんだのは、高校生の頃見た、映画「我が谷は緑なりき」(1941・米国)でした。

 この映画は、1941年度のアカデミー賞受賞作品で、ジョン・フォードの監督賞、ドナルド・クリスプの助演男優賞、アーサー・C・ミラーの撮影賞、その他室内装置賞などの受賞作品。

 19世紀末の英国ウェールズ地方に住む、炭鉱夫一家のドラマで、家族の素晴らしいの絆、愛情、生への執念をテーマに、生きることのリアルさを描き、私の青春時代に感動した名作の一つです。

 映画「フラガール」の舞台は、昭和40年、福島県いわき市の炭鉱町。“求む、ハワイアンダンサー”の貼り紙を見せながらここから抜け出す最初で最後のチャンスだと、早苗(徳永えり)が紀美子(蒼井優)を誘うところからドラマは始まりました。

 「一山一家」、数世代前からこの町の人々は炭坑夫、選炭婦として働いてきました。しかし、石炭から石油へとエネルギー革命が押し寄せ、閉山のピンチ。この危機を救うために、炭鉱会社が考え出したのが、レジャー施設「常磐ハワイアンセンター」でした。

 紀美子の母・千代(富司純子)も兄・洋二朗(豊川悦司)も炭鉱で働き、千代は、炭鉱を閉山、“ハワイ”を作る話は大反対。紀美子と早苗はフラダンサーの説明会に出かけます。だが、ほかの娘たちは、「裸同然」でフラダンスを踊る姿の映像を見て、逃げ出してしまいます。残ったのは、紀美子と早苗たち、わずか数名だけでした。

 そんな中、娘たちに、フラダンスを教えるために、東京から平山まどか先生(松雪泰子)が招かれました。本場のハワイでフラダンスを習い、SKDで踊っていたダンサーでした。まどかは、最初は、ど素人の娘たちに、ダンスを教える意欲を持ちませんでした。でも、紀美子たちの熱心さに引かれ、次第に真剣な気持ちになっていきました。

 そして、実はまどか自身が、母親の借金を背負い、半ば自暴自棄になっていたのですが、娘たちの、ひたむきな情熱に接し、夢を持つことの大切さを考えるのです。

 しかし、世間の風当たりは強く、さらに、予期せぬ出来事が、次々と起こり、無事にオープンの日は迎えられるのか?懸念される事態に陥りますが、数々の困難を乗り越えて、常磐ハワイアンセンターは無事オープン。彼女たちのフラダンスは成功、観客の大拍手に涙しました。

 この映画は、常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)の誕生秘話を、40年の時を超えて、完全映画化したものです。

 すすけて、色彩のない炭鉱町に、カラフルな、60年代ファッションで降り立つ、勝ち気なダンス講師を松雪泰子が、母に猛反対されながらも、フラに魅了されていく少女を蒼井優が、2人を優しく見守る炭坑夫の兄を、豊川悦司が熱演しています。皆、熱演で、画面に取り込まれてしまいました。お笑いの”南海キャンディーズ・静ちゃん”の真剣な演技も立派でした。

 古い体制の中で、愚直に働き続ける人、勇気を振り絞り、新たな可能性に賭ける人たち。時代の荒波にさらされた、炭鉱の厳しい日常と、女が自立できる道を、初めて知った少女たちの成長が描かれていきます。

 見どころは、出演者が猛特訓した、フラのシーン。少女たちが、フラを見直すきっかけとなった、前半の松雪泰子のタヒチアンダンス。情念がこもった美事なダンスでした。

 この映画を見終わって、とても良い気分になりました。フラダンスに、真剣に取り組む、少女や主婦たちの情熱と踊り、バックに流れる、ハワイアンミュージックの心地よさと相まって、感動を与えてくれました。

 それも、そのはず、この映画は、第80回キネマ旬報ベストテン・邦画第1位、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品など、多くの観客とともに、批評家にも支持されています。

 監督が、李相日さんは、初見でした。しかし、新鮮でした。登場人物に対する視線が、日本人監督とは、違った、暖かさを感じました。

 この映画のホームページの「プロダクションノート」で、

▼40年という時代を、次のように、語っています。

 「紀美子や早苗たちがフラダンスの存在を初めて知った昭和40年(1965年)とは、前年に本格化したベトナム戦争でアメリカ軍による北爆が2月に開始され、またインド・パキスタン戦争が9月に始まった年だ。」

 「日本の人口は9827万5000人、平均寿命は男性が67.24歳、女性が72.92歳だった。高校に通っていた紀美子に対して、早苗は進学せずに爪の中を真っ黒にしながら選炭婦として働いていた。この年、高校進学率は全国平均で70パーセントを超え、大学・短大の学生数が初めて100万人を突破。」

 「ファッションでは、マリー・クワントが発案したミニスカートが世界中で大流行していた。ローリング・ストーンズの「サティスファクション」が大ヒットしたのも、この年だった」と。

▼さらに、「炭坑節からフラダンスへ」で、常磐炭坑について、

 「茨城県北部から福島県にかけて広がった常磐炭田は、江戸時代末期より石炭の採掘が行なわれ、1950年に始まった朝鮮戦争による特需で第2の全盛期を迎えた。昭和28年(1953年)には130の炭鉱が操業。従業員数は1万6千人、年間360万トンの石炭を産出していた。」

 「常磐炭礦が採炭事業をおこなっていた磐城砿業所坑内は多量の温泉を包含していて、採炭場は高温多湿の過酷な労働環境であり、温泉排除に多くの費用を費やした。石炭1トンを掘るのに温泉を 40トンも汲み出したという。その一部は近くの湯本温泉旅館街を支えたが、大部分は河川に捨てられていた。」

 「だが、エネルギー革命の波が押し寄せ、常磐炭礦は昭和37年(1962年)に2千人におよぶ人員整理案を提示。廃れゆく炭鉱に代わる地域産業を立ち上げるため、会社は豊富な温泉を利用したレジャー産業進出を決め、昭和39年に常磐湯本温泉観光株式会社を設立、翌年に常磐音楽舞踊学院が開校したのだ。」

 「そして昭和41年1月15日、常磐ハワイアンセンターがオープン。開業前の予想入場客数は平日千人、日曜祭日3千人だったが、瞬く間に大人気になり、年間150万人を超える賑わいとなった。ついには炭鉱時代の借金を10年で返済、ヘルスセンター文化の走りとなった。平成2年に名称をスパリゾートハワイアンズに変更して、今なお地元と一体になった温泉リゾートを、日々、進化させつづけている」といいます。

 私も、一度、この温泉リゾートに行きたくなりました。当時活躍したフラガールたちは、私とあまり年の差のない、妙齢(高齢)の婦人になっているでしょう。若いあの時期、未知のことに挑戦、目標をクリアーした、達成感を、今も、大事に暖めている姿を想像すると、この人たちと会い、話を聞いてみたくなりました。
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