ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

徳川頼房時代(1609-1661)の遺跡(2)

2016-12-08 20:26:34 | 水戸

 

三層物見
 徳川頼房は、寛永2年(1625)に、佐竹氏時代の水戸城を大きく整備し、二の丸の館の南側崖近くに、三層物見といわれた、ほとんど板屋根の質素な外見3階、実質5階の建物を建築したそうです。この建物は5代 宗翰(むねもと)の時代に焼けたそうですが、再建されて御三階櫓といわれたそうです。残念ながら昭和20年の戦災で焼失したそうです。写真は、市の解説板に印刷されたものです。

 

杉山坂(御杉山坂) 
 寛永2年の水戸城改修のときに整備された坂だそうです。那珂川の河岸(かし)や杉山通りと、水戸城二の丸とを結ぶ大事な通路だったようです。坂の途中には矢来門が、坂をのぼったところには杉山門があり、その間には下乗札(駕籠からおりる)と下馬札(馬からおりる)があったそうです。

 

田町越
 元和8年(1622)ころから城下町整備の一環として、現在の本町(ほんちょう)一帯の低湿地を埋め立てて新たに町をつくったそうです。それまで田町という名前がついていたそうで、ということは、田んぼもあったのでしょう。そして、寛永1~2年(1624-5)にかけて、佐竹氏時代から開けていた、水戸城のある台地上にあった大町、仲町(なかまち)、南町(みなみまち)などの町人を田町に移して、新たな商人地を作ったそうです。これを田町越(たまちごえ)といったそうです。その開発の中心地ということで、本町の名が付いたのだそうです。写真は本一丁目(現本町1丁目)あたりです。

 

 

馬場
 今の城東児童公園、城東保育所(城東2-6)に、頼房の時代から馬場があったそうで、正月21日には田見小路の馬場と毎年交代で、藩主が参観する中でお馬揃いが行われたそうです。この馬場に沿って、旧桜川が流れていて、洪水が頻発していたそうですから、河川敷のようなところだったのでしょう。写真は、水戸市観光協会が発行している「水戸の城下町マップ 幕末版」です。61のところが馬場です。

 

 

柳堤の築造
 政経分離といえそうな、上市(政)と下市(経)の整備後に、それらをつなぐ幹線道路として、慶安4年(1651)に水戸城南側の、当時まだあった千波湖中に幅3.5間の道路を埋立によってつくったそうです。このとき、備前堀側では、本町埋立で崩された武熊(竹隈)城のまだ残っていた丘の土砂が使われたそうで、これによって武熊城の姿は完全に消えたそうです。柳が植えられて、柳堤の名前がつけられたのは、光圀の時代になってからだそうで、それまでは新道(湖中新道)などとよばれたそうです。写真は水戸の町名付録の天保時代の絵図で、真ん中を横に描かれたものが柳堤です。


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