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水戸の見て歩き

水戸藩の支藩

2017-02-03 20:42:11 | 水戸

 


 水戸徳川家には御連枝(ごれんし または、四連枝)といわれた、初代徳川頼房の子が当主となった、4つの分家の親戚藩がありました。支藩は本家を支えたり、本家も支藩の存続に大きくかかわったようです。その内、高松藩は、水戸藩2代藩主光圀と同じ母の兄であり、参勤交代が行われたそうです。ほかの3つの藩は、水戸藩と同じように、江戸に藩主が常駐する定府(じょうふ)で、領地に城はなく、番所が領内を差配したそうです。

高松藩
 頼房が、長男の頼重を延宝元年(1673)、12万石高松城主として入封させた藩だそうです。ここだけは、外の支藩と違って、定府ではなく、参勤交代が行われたそうです。頼房の次男で藩主となった光圀は、水戸を出た兄に対しての礼儀として、頼重の子・綱條(つなえだ)を養子にして水戸藩の跡を継がせたそうです。一方、頼重は、光圀の長男頼常を2代藩主としたそうです。高松藩第5代藩主・頼恭(よりたか)は平賀源内を用いたり、栗林荘(現・栗林公園)に薬草園を作ったそうです。

守山藩
 頼房の4男頼元が、常陸国額賀(ぬかが)郡に2万石の領地を与えられ、その子頼貞が、元禄13年(1700)に、守山藩として陸奧国守山領、常陸国松川領の2万石の御朱印を将軍綱吉から与えられて、額賀は返還して大名となったそうです。守山と松川に陣屋がおかれたそうです。文京区にある教育の森はその上屋敷跡で、庭園跡が占春園だそうです。

府中藩
 頼房の5男頼隆が久慈郡保内(ほない)郷など2万石を与えられたそうですが、元禄13年(1700)、それを返還して、常陸国新治郡等2万石を与えられて府中藩として、長沼(現・福島県)と、府中(現・石岡市)に陣屋を置いたそうです。版籍奉還後、石岡藩と改称されたそうです。

宍戸藩
 頼房の7男頼雄が茨城町に、天和2年(1682)、1万石を与えられ、宍戸に陣屋を置いたそうです。9代頼徳(よりのり)は水戸藩主の名代として幕末の騒乱を鎮める役目をおったものの、心ならずも天狗党に合流したため、弁明も許されずに切腹したそうです。明治になって、父の頼位(よりたか)が再び藩主となって、藩は復活したそうです。

徳川頼房以降の水戸藩主

コメント
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