NY在住、小林恵の眼で見たニューヨーカーの暮らし万華鏡
小林恵のNY通信
私と九ちゃん: ”上を向いて歩こう”
夢を持とう!ひとりぼっちは自己訓練
私の20代は忙しくてアッという間に終ってしまった。
ベルモードの帽子のデザイナーであった私は若輩のくせに良い仕事を沢山もらい、楽しく張り切って麹町のアトリエに通勤していた。パリから到着する夢のような帽子を手に取れ、かぶってみるだけでも幸せだった。しかし日本はまだ貧しかった。
当時ランチは、角パン2枚の間に真っ赤な甘いジャム、又はマーガリンを挟んでくれるサンドイッチで他にチョイスがなく、知らないので誰も文句を言わなかった時代だ。
給料は最低で交通費とサンドイッチで消えてしまったけれど、楽しい日々だった。
ある日友人が、ニューヨークの5番街にあったアン ディンケンという帽子屋が竜土町、防衛庁の隣に新しく開店し、「ベルモードからデザイナーを引き抜きたいと言っているけれど貴女どう?」と声をかけてくれた。給料は当時で8万円。ベルモードの30倍近かった。
アシスタントが二人付いた。夢中で働いたけれども、当時姉の家から通っていた私は、六本木への通勤は新宿で都電に乗り換え、満員電車での通勤は苦痛であった。3回遅刻し「今日で3回目の遅刻だ。もう我慢ならん!グッバイ」とドアからしめだされ首になった。「あのー、私の引き出しの中に私の物が・・・」というとアン ディンケンはドアの外で待つ私の前に引き出しを持ってきて通リにひっくり返し、バチンとドアを閉めた。
ニューヨークでは驚くことでもない日常の出来事であるけれども、当時の私は初めての
凄い経験で蒼白になった。
「オー可哀そうな恵!」と友人たちは同情してくれ、寄ってたかって御客を連れて来てくれた。大京町にあったアトリエはいつもお客様や友人たちで満員。満員御礼がずっと30歳になるまで続き、寝る時間もなかったけれども、多くの方々から人生を学ばせて頂いた大切な20代であった。
いつも人に囲まれていた私は一人になりたい願望が強く、1964年、戦後初めてツーリズムが解禁された4月、半年の休暇を取って13カ国のビザを申請し、世界旅行に出かけた。 当時、ニューヨークは夢のような処だった。何もかも面白く、毎日毎日マンハッタンをアップタウン、ダウンタウン、格子の道を歩きに歩き、3ヵ月がアッという間に過ぎていった。
ある日、42丁目5番街の図書館の前で日本語の歌声が聞こえてきた。
「上をむうゥいて、あるゥーこうおォう!涙がこぼれェないようおォォに・・・」
背の高い黒人が、本当に反り返り上を向いて日本語でキューちゃんの歌を歌っている。
その黒人が歌う日本語の歌はカルピスを飲む様な思いだった。
上を向いて歩こうのアメリカ版タイトルはスキヤキといい、大流行していたのだ。ニューヨークの街角で初めて聞く日本語。彼の足元のビールの空き缶には5セントか10セントが投げこまれた。
当時コーヒーが10セント。ドーナツが5セント。地下鉄は均一にどこまででも15セント。
私の泊っていたレキシントンのYWCAの本部のホテルが一日、7ドル50セントだった。
869、ナカムラ八大、エイ六輔、九ちゃんのトリオが作った「上を向いて歩こう」の歌は石ころを飛ばしながら歩きたくなる歌だ。「私は今ニューヨークにいる! そうだ。上を向いて歩こう。ひとりぼっちを楽しもう」と。
そこで47年間もマンハッタンで暮らすとは夢にも思わなかった。ニューヨークから引っ越しの荷物が届いたのは今年の3月11日の2日前だった。
このたびの東日本大震災でまたこの曲が歌われるようになり、繁栄に甘えていた日本人は今やっとこの歌の”一人だけ”の一人ぽっちの意味がわかり、涙をこぼさないで歩いて行ける人々に接し、感慨深くニューヨークを思い出している。いろいろのひとリぼっちがあるだろう。しかし、一人ぼっちがどれだけ人間を育んでくれることか。友人の大切さを学ぶ。開拓時代、相互協力が必要だった時、コミュニティの大切さをアメリカ人は学び助け合いとアイデアを大切にしてきた。アメリカの力強さだ。開拓時代この歌があったならばアメリカ中の大合唱になったかも知れない。今日本は国作りの原点、助け合い精神に皆が目覚めていると思う。涙をこぼさず、上を向いて歩かねばならない。励まし合う良い時に日本に帰ってきたこのチャンスに感謝している。
私と同じ年の永六輔さんが書いたこの歌。
私がアメリカに行く時、流行っていたもうひとつの歌は ”有楽町で逢いましょう”だった。
時の流れで有楽町の橋はもうないけれど、六輔さんも健在で、心に響く日本の歌があることは嬉しい。 そして今,日本で 「六輔さんよ。ありがとう!」と書いているのも嬉しい。
お風呂の中で”有楽町で逢いましょう”の歌にかえて、フランク永井調に歌っている。
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日 一人ぼっちの夜
上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
思い出す夏の日 一人ぼっちの夜
幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く 一人ぼっちの夜
思い出す秋の日 一人ぼっちの夜
悲しみは 星のかげに
悲しみは 月のかげに
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く 一人ぼっちの夜
一人ぼっちの夜
一人ぼっちの夜
(永六輔作詞)
アメリカ原産:ブルーベリー
神の恵み
夏はブルーベリーの季節、日本のマーケットにもお目見えしているけれどもアメリカに較べるとお高いし、箱のサイズも小さくてまだ寂しい。
ブルーベリーの豊富さは5本ぐらいのブッシュがあれば、写真のように直径1.5センチ位の大粒のベリーがボール一杯毎日採れる。冷凍にすれば5人家族で一年中食べるほど収穫がある。
採り立てブルーベリーをパンケーキ粉と同量混ぜて作るパンケーキが懐かしい。また、ペンシルバニアの友人の別荘でテーブルを外に出して食べる週末の朝の味は格別だ。ライブレッドの上ににブルーチーズをたくさんぬり、煮崩れしていないブルーベリージャムを載せ、オープンサンドで食べる。簡単で単純なニューイングランドの田舎の朝ご飯。大抵の男性は子供のように喜ぶ。勿論女性も喜ぶ。美味しいものはみな単純で自然の味で、素敵とはこのことだと思う。
1986年以来アメリカでも手を伸ばせば届くぐらいの高さの新種で大きいベリーが出来るようになった。2010年のブルーベリー 団体( http/www.blueberry.org)によると2010年、ブルーベリーを使った新製品はジュース、乾燥、冷凍など、1.200種にのぼるとか。中身までブルーという作物はブルーベリーのみだそうだ。そういえば他に類がない。中身までブルーのポテトもあるけれどブルー違いだ。
最近までブルーベリー摘みは子供たちのお子遣い稼ぎで、1ギャロンが25セントぐらいだった。子供たちは安いと見向きもしなくなったとか。霜が降るまで収穫できる恵みのベリーである。
ポリフェノールの含有量が多く、ビタミンC,高酸化性機能成分が豊富、視力に効果があり、最近の情報では糖尿病予防に最適、インシュリンに代わるもっとも望ましい健康食品ととして脚光をを浴びている。
インディアンも薬として大切にしていた。
インディアンが食べていたサウタウティーグ(Sawtauthig)というビーフジャーキー(乾燥肉)はブルーベリーをつぶして肉に塗り乾燥させたものだ。
ジャム作りが大好きな私は新鮮なブルーベリーのジャム作りが一番好き。
形を出来るだけ崩さないようにする。冷凍は形がくずれる。ニューヨークのどこにでもある野菜や果物のスタンドで、安い時は1ポンド入りの大箱が2ドル〜4ドルらいで買える。冷凍は一年中、スーパーで売っている。日本ではアメリカにない美味しいものもたくさんあるから文句はない。思い出のおすそ分けである。
ニューヨークの友よりの手紙
ちずさんの父の生涯
親愛なる恵さんへ、
いつか貴女に私の父のことを話したと思います。恵さんは大切な歴史の1ページだから書き留めておくようにと提言してくださいましたね。でも長い間、私の心の傷跡を書く心境にはなりませんでした。
しかし、岡田充さんのサイト「21世紀中国総研:海峡両岸論」を読んで私の心の傷跡を、父の人生の傷跡を3人の子供たちと孫たちに書いておく必要があると思い、私のファミリーでもある小林恵さんに読んでいただきたくてメールいたします。
それは1949年11月のことでした。今も鮮明に記憶しています。中学3年生の学期が
始まろうとしていた頃でした。父は召使と共にKaoshiungから漁船に乗って沖縄に向いました。私たちは沖縄に向かったことだけを知ってっていましたが、沖縄の小さな島だったかもしれません。
父は砂糖の大袋二つと中国語を教えるために中国からやってきていた私の中学の先生から、金の延べ棒2本を借り船に積み込みました。その先生は私たちの母屋の後に住んでいたのです。彼は数年後、コミュニストスパイとして捕えられました。
1949年11月以降、私が大学の3年生になる1958年まで父の消息を聞いたことはありませんでした。
ある日、私の大学の寄宿舎に父のメールが届きました。父は香港にいること、沖縄にはいけなかったことを知りました。大学卒業後、私は特別許可をもらい香港に行きました。父との再会は1949年からで10年後のことです。父の一番上の兄は理由もなくKMT(特察)につかまり刑務所にいたので、家族が発見されないようにとの計らいで居場所は教えられませんでした。
ある日父は香港で台湾の友人と偶然会い、私がTunghal Universityの寄宿舎にいることが分かりました。政府登録によると私の父は行方不明となっていました。カーゴ船で2晩3日の旅の後、香港で1959年7月20日、父と再会しました。
父の話によると、漁船での沖縄上陸は不成功に終わりました。台湾に戻るとき台風に遭遇し、マカオに着くまで50日間漂流しました。その漁船には17〜8人乗っていました。父の砂糖を食べ水がないのでみな自分の尿を呑んで生き延び、マカオに着いたときは歩くこともできませんでした。 しかし、果物を食べて力を付け上陸しました。捨てられていた腐ったオレンジでしたが本当に美味しいと思ったそうです。
「何人生きのこったの?」と父に聞きました。父は「絶対にこの質問はしないでくれ」と眼を閉じて言いました。
その夜、父はナイトクラブに連れて行ってくれ、夜中じゅう酔い、フロアに倒れるほどダンスをし続けました。それから4ヶ月間父と香港で一緒に過ごしました。そして台湾が何とかして父を救い出し、助けると約束しました。
しかし香港から台湾への帰国申請は理由なくすべて却下されました。私は嘆願申請を書き続け、21年後の1980年にやっと受理されました。父は31年間自分の国に帰れなかったのです。その理由は私も父も分かっていません。
父は12歳で日本に留学し、日本で教育をうけました。私の家はTaochung市でもよくしられていて中国国家としては邪魔者だったのでしょう。又は台湾人であった理由かもしれません。
私は神様を信じ、台湾を愛しています。台湾に神様のご加護がありますように。
そして日本にも。
ありがとう
貴女のベストフレンド、千鶴より
(47年間ニューヨーク在住ののち、日本に帰国し違う国に住むことの意味、日本にいた時は考えたこともない自分の国のこと、天災と人災、戦争のこと、差別のこと、
いろいろの経験がオーバーラップして、考えさせられる日々をおくっています。千鶴さんのメールから運命とだけでかたずけられない、リーダーシップのことをも考えずにはいられません。
千鶴さんの英語のメールは私の翻訳で責任は私にあります。
優秀な孫の Keven Scanlans は今年からペンシルバニア大学で中国語を専攻するとのことです。小林恵)
参照)
元共同通信社の記者で台湾問題を書き続けているスペシャリスト
http://www.21ccs.jp/ryougan_okada/ryougan_22.html
22号2011年6月2日発行
岡田さんの記事を読んでこのこと手紙として書いておくことを決心。東日本大震災で沢山の人を失いましたが、人災と天災、そして政治を考えさせられる問題です。
参照)
千鶴さんの夫、張超英さんは台湾と日本のために生涯を通して献身的に働いたジャーナリストです。
張 超英著:「台湾をもっと知ってほしい日本の友へ」中央公論社 1998年
敬愛した超さんは2007年3月ニューヨークで他界しました。
超英さん一家とはNY滞在中、私にとって最も親切な家族で、30年以上に及ぶ交友があります。
「小林恵のNY通信」:「張 超英さんと愛国心」 2007-03-29
「張 超英さんの死」 2007-03-08
「やさしい言葉」 2007-02-08
谷中は猫の町:ニューヨークは犬の町
愛情と責任:糞の始末 東西の違い
1970年代の初めニューヨークのストリートは犬の糞で水玉模様だった。
ロンドンから訪ねてきた友人の4歳の息子は 「恵ちゃんニューヨークは楽しかったです。
ウンチが道に沢山ありましたね」 と,はがきが来たのでよく覚えている。
ニューヨークでは市民が文句を言ってもそれを市長選に旗揚げすれば、落選確実と言われた暗黒時代だ。
そのころはパリもウンチの水玉模様。でもパリではウンチ清掃車が街を廻りストリートの地下道にウンチを流していた。
私はアパートに来た人には必ず靴を脱いで頂いた。靴を脱ぐ習慣のないアメリカ人は「靴下のほうが汚いんだよ」 とぼやいていたが、靴のまま部屋に入るのは本当に不潔だと思う。
勿論外国では床の上にかばん以外はあまり置かないのが常識。公衆トイレでもみなトイレの床にかばんを置くので習慣とはいえ不思議なことだ。かばんをあいている家具の上に置くのはマナーに反し、日本人はなぜ洋服やかばんを家具の上に置くのかと何度もきかれた。
お墓の多い谷中には昔から捨て猫が多く、誰かが食べ物をあたえ、今も太った野良猫が多い。谷中銀座は猫の町。夕焼けだんだんには野良の群れが居て名前が付いている。あまり美人猫はいない。みなおっとりと眠っているが、人を見る目は疑い深い。ウンチはどこかの家の下にもぐってするのか白猫も凄く汚れている。我が家の庭にも、のしのしと歩いて人の顔をうかがいながらトイレット土探しにやってくる。日本で初めて見る製品、30センチ角又は15センチ角のプラスチック製の針のむしろ状のものが売っている。猫が歩けない拷問板だ。すごーい発明だ。又は猫が臭くてとても近寄れない臭いを発散する粉状のものもある。
谷中の猫にはエイズが流行っていて咬まれないようにと注意された。食べるものはあっても臭いと嫌われ、遊んでもらえず、ウンチしたくても土もなく、あっち行けと言われる可愛いそうな猫たちだ。
ニューヨークには動物保護協会があり、貰い手を探せるまで動物たちを保護している。「動物の権利」 同盟もあり、お金を出せば人間と同じ高級レストランで、テーブルに犬料理をサーブしてくれるところもある。その記事を読んだ時、デカダントだというとアメリカ人の友人は 「ペットのほうが人間よりずっとフレンドリーで、お行儀もよく、忠実で人格さえある」と言った。
ある時、猫キチの友人がディナーに招待してくれた。彼は自分のフォークでテーブルの上で猫にたべさせた。驚いた私は日本語で 「お行儀がわるい!皮をはいで三味線屋に売り飛ばしてやる!」 といった。日本語のわからない友人は 「今、恵は最も意地悪いことを言った!」 といったので可笑しかった。



お願いしますではなく、法律です。無視した人はニューヨークでは罰金$1.000!
谷中の自転車 vs ニューヨークの自転車
自転車は素敵
セントラルパークを散歩しているとサイクリングの自転車がスイスイと通りすぎる。
太った人は一人もいないし、この上なくカッコ良い。
スポーツ駄目人間でもやりたいと思つたことはサイクリングとローラースケート。
スイスイとセントラルパークを一周するといい気持ちだろうなー。「ああうらやましい!」
といつも見とれて見送るだけ。
40年以上前、友人に言うと「やめたほうがいい。転ぶと骨がバラバラになるわよ」と。
アドバイスをくれた友人は当時、セントラルパークのアイススケート リンクで転び、大けがをし、
2カ月以上動けなかった由。もしも「ぜひおやりなさい」と言ってくれていたら今頃、谷中の
富士見坂を上から家の横まで自転車でペタルを漕がずに、手もハンドルから放したりして滑り下りているかもしれない。残念至極。坂の多い谷中は登りと下り、両方楽しめて凄い地形だ。
自転車大好き。ニューヨークには各パートを色別に塗装した自転車があり、巡り合うと言わない
けれども ”へーい!カッコいいよーッ”と手を挙げて叫びたくなる。国が変わり、自転車の
バックグラウンドが違うと新しい世界になる。自転車に乗っていたら見逃していたかも知れない。
オランダは自転車の国。行った方はご存じのように国中どこまでも自転車専用道路がある。海より低い
国作りをアフリカから土を購入し海岸線全域に防波堤を作っている。オラン人の考え方は実際的で、政治家ばかりでなく普通のオランダ人が国作りを、国を意識している。
ニューヨークに訪ねたオランダ人と日本から訪ねてきた友人、台湾人、イギリス人も加わってニューイングランドでのサマーハウスで自転車の話題から徹夜の大デスカッションになり、今は懐かしい思い出となった。



以上谷中の自転車風物
道行く人の慰め・谷中とニューヨーク
家の前を花で飾る
今年のお正月、ニューヨークから谷中に住み始めた。1月でもすみれの花々が咲いていて心が和む。東京はニューヨークよりずっと暖かく、葉の落とさない木々も沢山あって街をやさしく守っている。
谷中には路地が多く、狭いスペースに鉢を並べていろいろの花が咲く。立派な家屋でなくても花々に彩られれば、幸福な人々の暮らしがのぞけけて楽しい。
ニューヨークも同じように花壇を作るスペースがないのでコミュニティで街路樹の下に花を植え、各自で出来れば窓を花々や緑で飾る。 ヨーロッパのようにストリート全体、街全体が色をそろえて花を植えるようなことはニューヨークではない。その点谷中の自由選択と似ている。 ニューヨークに花々の絢爛豪華はないのはピューリタンの素朴な伝統かもしれない。
違いはニューヨークにはレンガか石作りの家、プラントポットも箱もチョイスがいろいろある。
江戸のなごりを残す谷中の狭い路地に咲く花々は下町らしくバケツの鉢などがあっても、花を添えるとはこのことなのだろう。人間が手を添えたやさしさ、国が違ってもどちらも立ち止まって眺める心休まる風景であり、散歩のセラピーでもある。


幼稚園のある谷中の小さなお寺の入口 狭い路地の花々




以上谷中の路地に咲く花々







以上 ニューヨークマンハッタンのウインドーボックス
(すべて小林恵撮影/いずれも住まいの周辺)
公共精神
日本の公共放送
半世紀近くニューヨークに住みときどき帰国するときも公共放送をみていた。
今年から日本に住むようになっても、限られた時間のテレビは唯一の公共放送NHKを見ている。国会討論を見て議員の言葉使いの悪さに驚くのは私だけではないだろうと思う。批判があっても当然、しかし公共の前で悪い言葉で人をなじるのはマナーがよくないとおもう。事実を放映しているのだから議員の公共意識が薄いということなのだろうか。
アメリカの公共放送は常に公共性を意識している。NHKも頭が下がるほど良い有益な番組もたくさんあるのは嬉しい。しかし、企画が縦社会的でどうしてこれが公共放送なの?と感じる不思議な放映もある。皆が黙っているのも不思議におもう。
今朝スイッチを入れると、ニューヨークのヴォランティアが不要の洋服を集め、無料で提供し、その代わりは各自が公共に何かヴォランティアでお返しするためのサインをするという市民のボランティア放送をしていた。
会場費は無料で提供してくれる教会が会場。女性たちの笑顔が並ぶ。
この放映の終わりに 「本当に楽しそうな女性たちの笑顔ですね」 とアナウサーが言った。テレビ放映は数分でも効果的なのに 「素晴らしいアイデアの社会貢献ですね」と一言言えば皆の公共意識を高めれる良いチャンスになるのでないだろうか。
「あら!私もあの様な素晴らしいドレスを欲しいわ。いいなー」と思わせるることよりも 頂いた 「報酬がボランティア」 という素晴らしいアイデアを公共放送のコアとして一言伝えたらいいなーと思う。なんでもないような一言の積み重ねが伝達され、よりよい社会をつくっていくのでないだろうか。
日本と外国の違い
価値観と可能性の違い
外国を初めて旅行するとまづ暮らしの違いに感心し、それを楽しむ。何度も行くとなぜこうなるのかと考える。特に長く住むと自国との比較を考えるようになる。暮らしの価値観はその土地で育くまれた習慣、それがノスタルジーや故郷恋しやになるのだろう。
すてきな包装紙を買い、念を入れて包装したプレゼントをアメリカ人はパリパリと真ん中から破き、丸められ、ぽいと捨てる。日本人ならあまりよい気分はしない。そのかわりに中身を見て大げさにキスされたりハッグされたりする。アメリカで生まれた日本人の子供たちは日本の親から習慣的にハッグされない。アメリカの両親はことに付け抱き締めるのでそれを見て育つ日本人の子供たちは ”私の両親は私を愛していないのだ” とひがむ事件がいろいろ起こり、アメリカ暮らしにそこまでなれない両親たちを当惑させることがある。
昔育ちの日本の親たちは愛情表現に照れる。
ハグされて育てられなかった日本の親たちはネコを抱きしめても幼児期を過ぎた自分の子供をハグしない。親以外に愛情を確かめることができない外国で育った日本人の子供たちは寂しい思いをするらしい。それを知った親たちは愕然とする。空気のようにハグするようになるまでには時間がかかる。
このたびの大震災で親を失った子供たちをハグしてあげましょうとミデアが言っているのは、とても良いことだとおもう。ミデアが若返っているせいだろう。
5月17日付読売新聞の一期一絵のコラム、桐谷エリザベスさんの書いた「美しく気持ちを包む」という記事を読んだ。日本の美しい梱包の伝統を書いている。確かに外国人がめでるほど日本の梱包は美しい。しかし日本人には当たり前になっている。これが身についた伝統というのだろう。
アメリカ的に考えれば、一般論として、中身の問題だから余計は無駄。勿論個人差があるからアメリカ人だって有名ブランドのチョコレートやファッションブランドのショッピングバッグを好む人もある。同じものが並べられていたら目的は中身だから、アメリカ人は安いほうを買うだろう。
日本では少ない資源を価値づけるために美しく梱包するアイデアが生まれる。魚の干物、干し柿などを魅力的に縄で縛って美しく並べて干す。アメリカ的アイデアだともっと魚を取って大量に少しでも安く売りたい。燻製に加工したり、冷凍や缶づめを作るアイデアが優先するだろう。
家の廻りに育った柿の木から丁寧に柿を取り、皮をむき、軒下につるしたり、袋をかけてリンゴを守るよりも、山の向こうまで、又は見渡す限り収穫できるように植えようと思うだろう。
アメリカの田舎の無人のスタンドではリンゴやトウモロコシがブッシェル(35リットル)単位で安く売っている。
ブツシェルかごをを車に積んで友人に分け与える楽しさ。
そして日本で、食べるのがもったいないほど美しい包の中から出てきた手塩にかけた美しい食べ物。美味しいお茶で小さく分けて友と食べる。
どちらも素晴らしい!いづれも胸がキュットなる嬉しい贈呈品である。
キルトに現わす社会意識
アメリカンコンセプト:協力と思いやり
キルトに現わすコミュニティワークは最高の意思表示になります。
多くのキルターの虎の巻となった「アメリカンキルト事典」は1982年、文化出版局から出版されました。アメリカンキルトの歴史、生活文化を含めてアメリカのキルトの真髄を紹介した日本最初のキルトの総括本です。キルトに関する知識を網羅したキルター必読の座右の書だと自負していますがその後、やさしく作り方を解説した本がいろいろの作者により何百冊と出版されていることはご存じの通りです。
そして現在何百万人という人がキルトに携わり、キルトインダストリーともいわれるような大ビジネスになったことは本当に結構なことだと思っています。
最近、47年間住んだニューヨークをはなれ、日本に住むことになりました。展覧会の開催は重要ですが、針仕事をお見せするだけではあまり意味がありません。作り方はもう最高、頭が下がるほど上手です。しかし、何を伝えたいのかが重要です。
4月24日付き読売新聞に、「キルトにつづる希望」と題して、大田区の主婦、米山幸子さんは沢山の人からメッセージが書き込まれた布地を集めた ”希望キルト”を東日本大震災者たちに贈りたいと制作中であるという記事が出ていました。
ーなぜアメリカンキルトかー 事典を読んでいただければ理解できると思いますが、アメリカ人の血のにじんだクラフトと言われるのは、ほかの国と違うように発達し数限りなくアメリカ中で作られたことです。
ベッドを温め、部屋を美しくするために作られたのは勿論、女性の発言の旗印に、また助け合いや歴史を刻む手段として、愛情をこめてキルトが作られたこと、しかもそれが社会現象となったこともアメリカだけなのです。移民たちが自由の女神をみて涙ぐむように、新世界で作られたキルトへの思いは、無名の女性たちの暮らしの発言となっています。
4分の1世紀を経て、自然現象として同じ様なムーブメントが日本で起きたことがとてもうれく思いました。何かを伝えたいとき、しかも広告代も出さずに心をこめて社会にアピールできる最大のクラフトがキルトです。このことはノーベル世界平和賞をノミネートされたエーズ撲滅キルトでもお分かりの通リです。エイズキルトプロジェクトはエイズ撲滅のパワーフルメッセージを込めた、最も大きいコミュニティ プロジェクトでキルトで世界に発言しました。
[草の根で社会を動かす針と布:アメリカンキルト」:(小林恵著 白水社 1999年 参照)
日本のキルトフェスティバルで大木に付けた大量の葉っぱや、布地の草はらを布地で作ってみてもあまり意味がなさそうです。その時間を、四角だけでも良い、つなぎ合わせてキルトにメッセージを書き入れ世界の貧しい人たちに贈るアイデアのほうが役に立つのでないでしょうか。
戦後の日本女性の針仕事でキルトのようにビジネスを確立できたものがあるでしょうか。
歴史に残る現象だと思います。女工哀史で知るように日本では悲しい社会に反抗も出来ず、女性が無視されていた時代、折からの産業革命でニューイングランドの女性織工たちは高給で雇用されていました。彼女たちから奴隷が綿を摘み、私たちは布地を織って高給をもらうのはどこかがおかしい。これは不平等で社会悪だと、自発的に彼女たちから起した社会運動も一つの引き金となって南北戦争につながっていきました。アメリカ人は初期のころから女性たちの社会意識をキルトに示しました。
このたびの東日本大震災で亡くなった方たちに心が痛みますが、いろいろの暮らしの原点を考えさせられたことは皆で襟を正す”時”なのでしょう。アメリカ生まれのキルトに日本の社会意識を書き込んだ草の根発言のキルトが出来つつあることを、知って歓声を上げずにはいられません。重要なことは積極的な自らの分かち合える行動だと思うからです。


癌患者への慰めの言葉、祈りを集めた励ましのアメリカン友情キルト(小林恵所有)
アメリカ8代の大統領のサインを集め、リンカーンと就任式にダンスをした人の作った署名キルト。(アメリカンキルト事典)
このキルトはフォークアート美術館の館長から所有者を紹介されインタビューもしました。
19世紀のインテリ女性は職業もなく、せめて女性の社会意識をキルトに表現しました。
NHKの「世界の手芸紀行」でも何度も放映され,現在はメトロポリタン美術館の所有です。
最近ニューヨークのアーモリーで600枚以上展示された赤白アンティックキルト。キルトが社会現象でいかにたくさんアメリカで作られたかおわかりのことと思います。 撮影・提供: 貴山宏美
アメリカン フォ−クアートの真髄・自分らしさ
日本の民芸・匠の世界とアメリカンフォークアートの違い
個性を尊重するアメリカでは、あなたらしさが最も評価されます。そして難しくないもの、熟練よりも素朴なもの,個性的な表現ががアメリカのフォークアートの真髄です。背中を見て3年、師匠と同じものが出来てもそれはあまり評価されません。
日本では視覚に入るだけの収穫物を丁寧に手塩にかけて価値観を作り出す技能が尊重されてきました。しかし、限りなく土地が広がるアメリカでの可能性は果てしなく、限られた作物を加工して技を磨き価値観を高める発想よりも安くみなと分かち合える大量生産のアイデアやパテントを取る発想のほうが人々を鼓舞してきました。
移民の国、民衆の国アメリカ、デモクラティックなアメリカでは見て覚える徒弟制度は育まれませんでした。しかしアメリカにも美しいものがたくさんあります。アメリカのコミュニティで育まれた唯一のクラフトは極度に単純化されたデザイン、建築、家具、木工、などの優れたシェーカーのクラフトがあげられます。
同じコミュニティでも、媚びることをご法度としているアミシュは技を競うこともなく、装飾を許
さず、アメリカの伝統から取ったシンプルなデザインを無地で作った美しいアミシュキルトがあります。また、同じ移民のまとまる地区では同じパターンを々作られたところもあります。
隔離された土地で、極度に制限された布地、貧しさから単純化されたデザインの黒人キルトは特別のカテゴリーになるでしょう。
アメリカでもアメリカン シルバーや吹きガラスなど作者不明の単純デザインの美しいクラフトはたくさんあります。そして18世紀、19世紀に作られたサイン入りのアメリカン家具はびっくりするほど高価なものです。今も複製で優れたものもありますが、おもに、アメリカ人は背中を見て習得する技や精神を学ぶのは不得意の様です。
アメリカ人の性格を代表し社会現象を起こした程、多くの数が作られたクラフトはなんといっても、キルトとフックド・ラグです。これほどアメリカらしいものはありません。
その理由はなんでしょうか。それは誰でも作れる程やさしいということです。
キルトやラグ、特にラグはキルトより易しく、表現が自由でこれほど個性的に自分らしさを表現できるものも少ないのでないでしょうか。
両方とも節約精神から作り出され、それぞれの家を誇り高く飾った、おおらかなアメリカンクラフトです。
自分らしさを表現することをマスターし、暮らしのセンスアップのために貴女らしい美意識を持ち、日々の暮らしを楽しみましょう。

![]()
ストライプで布地をはいでから自由に長方形につないだキルト. 左)誰でも描けるような花篭のラグ。

フリーハンドで好きな様に作った世界に一つしかない、この作者しかできないラグ。アメリカ人はあなたらしさを評価します。

左)19世紀の素朴なアメリカの手作りで飾る寝室です。 右)ラグは長椅子の背にかけても簡単に動かず装飾効果があります。
お知らせ) 小林恵のラグ実験教室=集まって作る。お互いから学ぶラグ作りの集まり。
5月11日(水曜日)11時〜3時半まで 各自お弁当持参のこと
場所・問い合わせ:ホームスパン 渋谷区富ヶ谷1−8−9 飯島ビル2階 千代田線代々木公園出口前のビルディング
電話03−5733−3310 ホームスパン 原/稲船
センチメンタルジャーニー・谷中の墓地
歴史散歩:谷中のお墓
谷中を散歩して気が付くことはお彼岸は特別に心を慰めさせてくれる。お花を見るとどこでも、いつでも心が和む。谷中にはお花屋さんがたくさんあり、墓石には綺麗な花々が捧げられている。半世紀近く日本を離れていたのでお墓の散策は歴史の瞥見でもあり、新しい発
見でもある。



最後の将軍であった徳川慶喜の墓も外国に比べれば質素なものだし、自由民権思想を歌ったオッペケペー節で1世を風靡した川上音二郎(1864−1911年)の銅像は台座のみが残っている。
その横の立て札に「権利幸福嫌いな人に/自由湯をば呑ませたい/堅いかみしも角とれて/マンテルズボンに人力車/粋な束髪ボンネット/貴女や紳士のいでたちで/うわべの飾りは立派だが/政治の思想が欠乏だ/天地の紳士がわからない/心に自由の種をまけ/オッペケペ/オッペケペ/オッペケペッポ/ぺッポッポ」
この歌は明治時代の中頃、民衆の喝采を浴び大流行したとたというから痛快なことだ。銅像は戦時中金属の供出でとりはずされている。
また高橋お伝(1850〜1879年)の墓もある。惚れた男性が借金返しを頼んだ高利貸しが
”金は貸すがお伝[彼女)を一夜かせ”といわれ一夜を明かす。その朝 ”金はかせねえ”といわれ、お伝は剃刀で高利貸の喉を裂き日本最後の斬首刑に処せられた毒婦と言われた女性だ。
仮名垣魯文の小説や歌舞伎、映画にもなりミデアを騒がせたことで有名になった。彼らの寄付で谷中にお墓が出来たのだからお伝は救われている。

とにかくお墓は自分で建てたり、誰かに建てられたり、その時代の語り部でもある。しかし時代を経て苔むしり、お墓そのものも消えていき忘れさられいく。このたびの東日本大地震でたくさんの墓石が無残に倒れてていた。
江戸の浮世絵師・鈴木春信のモデルとなった江戸3大美貌の笠森お仙のお墓にもお花がそなえてあった。
お知らせ:「小林恵の実験教室 ”ラグ・デイ” 」
やってみよう! 集まって励ましあおう!
(アメリカン フックド・ラグはキルトと同じくアメリカの2大フォークアートでアメリカを代表するクラフトです)
4月13日(水曜日)11.00〜15.00まで 各自ランチ持参のこと。
東日本大地震でも自分の手で自立できる人たちのものつくりのエネルギーに感動させられたことと思います。
作ってみたい方、どんなものか見たいかた、だれでもどなたでも参加できます。経験のある方から学び、ない方はまず作って見ることが大事です。詳細はホームスパンへお問い合わせください。
ホームスパン:03-5738-3310 原、稲船まで
涙を肥やしに生きていこう!
地震・津波・放射能・眠れない夜・これからを考える。
ニューヨーク滞在47年後、日本に帰国し、NYから荷物がついて、まるで津波の去ったあとさながらの整理中,地震が起きた。スポーツ一切だめ人間で迅速に動けても周りに誰もいない時、ストレスは絶大になる。すぐ外に飛び出した。谷中の下町には電線が路地につながり、視界に入るだけでも数えきれないほどの数があった。それも下町情緒の一つになっているのだが・・・ちょっと怖い。
電気が発明され、電線が出来てから有名だった江戸の誇り、諏訪神社の山車も電線のため動けなくなり、廃止になったという。
家の前の電線がブランコのように動いた。本当に言葉を失う怖い天災であった。津波ですべてを失った人が「すべてを失いましたが命だけたすかりました。
これからはどんな困難があってもやれそうな気がします」と。ニューヨークから「日本人は偉い!どうしてこのような時、精神的なことが言えるのだろうか」とメールがとどく。
日本人は戦争中、一億総攻撃と言われてもおとなしく従った。そして原爆、一億の悲しみが原動力となり夢中で働き、明日に向かって目覚ましい復興を遂げた。1964年、オリンピック開催。日本で戦後初めてツーリズムが解放された時、私は世界一周の切符を抱え日本を出発し、半生をニューヨークで暮らした。今年から日本に住むことに決め帰国し、引っ越し荷物整理中に大惨事が起きた。
ニューヨークでのもろもろの経験を顧みながら、今の惨事に巻き込まれていたら私はどうするか考えてみた。
今頃ニューヨークに来てカルチャーショックを受ける人はいないほど豊かになった日本。当時私が受けたカルチャーショックは私のエネルギーとなり、全身を耳、眼として暮らしてきた。次第に日本が豊かになって日本がアメリカのニュースになるたびに、感動し、日本人としてアメリカ人の尊敬を受け、日本を誇りに出来た日々を私は忘れはしない。
今朝の読売新聞の編集手帳に ”涙を燃料にして毎日を生きる”と書いてあった。この言葉には実感がある。力がある。皆で心にとめていこう。
参考記事:
www.ny-apple.com タイトル中のニューヨークジャーナル9月14日、2001年、「あ、摩天楼が!」と1年後の2002年1月に書いた「忘れえぬ日」、6年後の2007年9月20日に書いた「グランドゼロ」を参考にご覧いらだけましたら幸いです。
「谷中を歩く・暮らしの心意気」

谷中を歩く…ああ日本、歴史の深さ、すてきすてき!
日本に帰国中、しばらくぶりであった友人が「生まれた国はいいものよ。外国で一人で暮らすあなたのことを思うと,とても心配よ。帰っていらっしゃいよ」
「そうね今度は住む家をさがす目的で日本に帰ってくるわね」
と笹塚の駅でニューヨークで暮らしたことのある友人と名残惜しく別れた。
その夜中の12時過ぎ、彼女からのお電話で
「私の姪の住んでいる家の1階があいているそうよ。見るなら明日連れて行ってあげるわ」 私は翌日ニューヨークに帰ることになっていたが「見てみるわ」と答えた。
西日暮里駅から特別に印象的でもない道を2階建ての家の2階に夫と娘、3人家族で住んでいるという家まで一緒に歩く。お墓を囲んだ塀の上から、塔婆がカタカタと音を立てて揺れている細い通りの前にその家はあった。
家中をめぐったあと、幸福に暮らせる予感がした。この日から6ヶ月後に私は谷中の住人になった。
下町とはどういうところかも知らず、廻りの地図も知らず、日本のことを無知な私が半世紀近く住んだニューヨーク生活を引きあげることは、ニューヨークにきて住み始めるよりも簡単なことではなかった。ニューヨークにいった時と同じようにトランク1つで帰りたかったが、それはまったく無理であった。
とにかく何も知らないニューヨークを3か月も上から下まで、西から東へくまなく毎日歩いたことを思えば、ここはとにかく怖いこともない優しい日本の町だ。
さっそく谷中めぐりをはじめた。
寺の多い町。何世紀も経た寺々はよく手入れされ、古ぼけていないのは凄いと思う。お墓の町。美しい塀のある町。石垣の町。路地の町。猫の町。坂の町。 見上げても、見降ろしても美しい町。日暮らしの里、日没の太陽にきらきらと輝く町。知らない人に挨拶をしたくなる町だ。
同じ道を歩いて眼があった人に
「素敵な町ですね」と言うと私の家までおしゃべりをしながらおくってくれた人、地図を自転車で届けてくれた人、美味しい店を教えてくれた人、僕の名前を言ってその人にぜひ会いに行きなさいと言った人。
知らない人に教えたり、分かち合うのは町を愛している人たちの誇りなのだろう。時がゆったりと幸福に流れている。
谷中の墓地でみつけた徳川慶喜のお墓は感無量だった。ついこの前ニューヨークを訪ねた友人に、ウオール ストリートのジョージ ワシントンの銅像の前で会おうというというと 「徳川慶喜より100年も前に生まれたアメリカ独立の最初の大統領の銅像の前で会うなんてとても素敵なアイデアね。」といった友人を思い出す。墓地は人影もなく湿っぽく、暗い感じがした。
谷中には猫が多く、その昔墓地に猫を捨てたので昔から猫が多いそうだ。ネコ グッズの店が多い。何も知らないで歩くのも感激があり、想像力が働き、また来るぞと犬がおしっこをかけて歩く気分で振り向き振り向き歩くのはとても楽しい。
谷中の本屋でこの辺のこと勉強するよい本ありますか?」と聞くとおじさんは「ザ・この本です」 ザとは言わなかったけれども、これが森まゆみさんの”谷中スケッチブック!”と本を振り上げて持ってきた。
ウーンなるほどなるほど。そして”路地の匂い 町の音”を読む。
下町発見。森まゆみさんは素敵な人だ。彼女の心意気に 「そうか!こういう人もいるのだ!」と嬉しくなった。心から敬愛しちゃう。有名でない普通の人が好きというのは何十年も感動してきたアメリカで学んだ私の価値観と同じだ。コミュニティを考える人は日本人では少ないのではと思っていたけれど、今の時代、彼女の愛情に支えられた町だとおもう。素敵な貢献をしている。
前から日本に住んでいたら彼女の自転車の後ろについて谷中めぐりをしたかった。残念だ。
これから彼女の文献の後を追って谷中を堪能したいと思っている。森まゆみさん、あなたはすてきです。ありがとう。
「森まゆみさんという人はすばらしい!」と友人に電話をかけ回ったら森まゆみさんを知らないのは私だけだった。 本当に恥ずかしい。ごめんなさい。
でも心は躍る。
森まゆみさん、ありがとう!あなたの足あとをたどって歩く楽しみは日蓮上人のご縁があるかも。谷中に住むようになったのは人生最大のプレゼントだと思う。





谷中は猫が多い。可愛い声で寄ってくる。 ニューヨークでは週末猫愛好家に貰い手を探している。

ニューヨークのレストランとの広告マン パークアベニューのインスタレーション:キティちゃん

江戸の町に時にはかっこいい新しい看板もある。三崎坂にて。 ニューヨークのアーチストのアトリエの前ににて
小林恵のラグ・デイ実験教室
お知らせ:
手作りはストレス解消にもなります。誰も私に関心を持ってくれないと悩まないで、手作りで自己主張をしてみましょう。150年前からアメリカ人は必要と機能を兼ねてキルトやラグを作りました。
集まって作る。この手作りが開拓時代に必要であった助け合い、コミュニティの集まりが社会現象となってアメリカで花咲きました。
名もない人の手作りが今も人々の心を温めてくれます。匠の世界は日本の宝です。しかし時間がない。すでにほど遠ーい世界!
”誰でも作れる” "貴女らしさ” を発揮し、表現することは楽しいことです。評価は自分でしましょう。アメリカらしい自由さでラグ デイに参加し、楽しみながら作り皆で励まし合いましょう。
ラグ デイ お問合わせはホームスパン 03−5738−3310 原、稲船まで
「無縁社会」

写真はパートーナーがいないと嘆かず鳥かごと一緒に楽しく踊る人。
恐ろしい無縁社会
先週 NHKの番組、無縁社会をみました。なんとも暗い心の痛む番組でした。有名人を評価し、名もない人を無視し、落ちこぼれを軽蔑するする傾向が日本にはありますが、長い間日本を離れていたためか、日本の暗さにふれ、皆で考えねばならない愕然とする重要な問題でした。ここにフォーカスを当てて番組を追ったのはある意味では素晴らしい問題提起の番組でもありました。
しかし、次の日の討論でも皆で考える番組として追ったのはよかったと思いますがなんとも言えない暗さが残りました。食べ物ばかりに時間をとらず公共放送として人間の尊厳に関する良い番組を続編にしてほしいと心から願っています。
半世紀近くニューヨークに住みました。
「日本に帰ってきたらアメリカを日本に持ち込まないこと」と忠告をしてくださった友人がいました。日本は日本だというある意味では、納得できる忠告です。
アメリカにもたくさんの問題がありますが、私がアメリカで学んだ大切なことは大きくいってヒューマニズムであること。価値観に上下を持たないこと。何であれ一生懸命やることを評価すること。人の才能をうらやましいと思わず出来ることを励ますこと。アイデアや創造力を称賛すること。
”あなたはできる”とそれぞれの立場で激励すること、そして小さなことでも感動するいい話が日々の暮らしの廻りにたくさんあることです。
「成功の反対語は失敗ではありません」と身体障害者の学校の先生が足の指のチョークを挟んで黒板にメッセージを書いている日本の先生、「反対語はやらないということです」という話しが日本の新聞に出ていました。この話をアメリカ人にすると「素晴らしい話だわ」と感動します。今でも「ケイから聞いたいい話」
とアメリカ人が言い、口コミ宣伝になっています。
5体健全でない方々が身体健全者よりも立派に生きている人がたくさんいることを私たちは忘れたくありません。寂しい。私は社会に必要とされていない。誰からも愛されていないと思うのは同一民族である日本人の、誰かに助けてもらいたいという甘えの構造があるように思えてなりません。
冷たいようですが一生懸命生きているでしょうか。
やさしい問題でありませんが、両親を責め、会社を責め、社会を国を責めるばかりの問題ではなさそうです。大切な公共放送は生きることを、生き方を、生きるメッセージをもっと追究し欲しいと思いました。
日本の社会問題を、改めて考えさせられる番組でした。
「写真:社会と縁を自分で作る一生懸命生きるニューヨーカー
写真の楽器は自分で作ったとか。


お知らせ:
手作りはストレス解消にもなります。誰も私に関心を持ってくれないと悩まないで、手作りで
自己主張をしてみましょう。150年前からアメリカ人は必要と機能を兼ねてキルトやラグを作りました。
集まって作る。この手作りが開拓時代に必要であった助け合い、コミュニティの集まりが社会現象となってアメリカで花咲きました。
名もない人の手作りが今も人々の心を温めてくれます。 ”誰でも作れる” "貴女らしさ” を発揮し、表現することは
楽しいことです。アメリカらしい自由さでラグ デイに参加し、楽しみながら作り皆で励まし合いましょう。
ラグ デイ お問合わせはホームスパン 03−5738−3310 原、稲船まで
「日本で思うこと」
「過去と今」 日本でおもうこと
ニューヨークのアパートから、中庭ごしに見えるカソリック教会の美しい眺めはどんなにか私の暮らしを豊かにし、創造力を育んでくれたことか。
1902年に建てられたローマンカソリック教会の青銅とスレートの屋根に降る雪。
屋根の上に登る三日月。霧ににかすむ屋根。雨に濡れる屋根。 屋根の上の空。雲。
そして夜、大きい薔薇窓のステンドグラスが暗闇に美しく輝く時、ニューヨークで住んでいる幸せを感じる。
人々の日々の暮らしから、生きざまから日々感激することが多く、やりたいことがたくさんありすぎ47年が
夢のように過ぎていった。
ところがふとした運命的なご縁で谷中のお寺の前にある一軒家をみてすぐ帰国を決心、その6ヶ月後に
私は日本に住むことになった。
窓から眺める景色はない。しかし谷中はお寺の町。しかも日蓮宗のお寺が多い。熱心な日蓮宗の信者で
あった母から般若心経や日蓮のことを聞かされて育った子供時代を考え、不思議な思いに浸っている。
「日本のやさしさ」
ここ数日地図を片手に谷中を歩く。森まゆみさんの“谷中スケッチ”(筑摩書房)を読む。
副題はー心やさしい都市空間ー
江戸のある町。日暮らしの里。寺、寺、寺。坂と路地。この地区がこれほど古い町とも知らず、もちろん歴史も知らずなので驚きも抜群!散歩も退屈しない。この町の住人で駅の向こうのことはほとんど何も知らない人がいるという嬉しい町だ。これからどっぷりと浸っていこうと思う。
お寺の門をくぐると一番近いところにお地蔵さんが並んでいる。檀家の誰かが作ったのだろうか。
新しい帽子と前だれ。お花も添えてある。やさしい日本の風景だ。色あせたぼろぼろの赤い帽子、
風化して繊維だけが残っている前だれもある。みな実にいい顔をしている。誰が彫ったのだろうか。
一人前になるには6年ぐらい山での石の切り出し仕事、仏の顔がうまく彫れるようになると
石工は近いうちの死ぬ、仏が呼ぶのだという言い伝えがあったとか。胸が打たれる話だ。
谷中の美しさは、死ぬまで精進した人たちの作った町といえるのだろう。

「日本の戸惑い」
半世紀近く日本を離れていると自分証明のためにどこでも印鑑が必要になる。
「え?自分を証明するために印鑑が必要なの?印鑑が本人より重要なのはなぜですか?」
「はい、規則ですから。サインでは認められません。ハンコは100円均一でで売っていますよ」
という。100円で自分を証明しなければならないのはおかしいことだ。ハンコ1つで財産も動く。
21世紀、ハイテックを誇る日本での摩訶不思議の一つだ。

お知らせ:
ホームスパンにて 小林恵を囲んでラグ デイ 開催
初めての方、続行したい方、集まっていろいろな方の才能を伸ばしお互いにラグ作りを学ぶ集まりです。
ラグを作りたいあなたが主役です。
問い合わせ:ホームスパン 原、稲船まで, 03−5738−3310
| « 前ページ | 次ページ » |









