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ボブ・ディランを巡るノーベル文学賞騒動と村上春樹はどう関係するか?

 昨今のボブ・ディランを巡るノーベル文学賞受賞騒ぎの中でふと蘇った記憶に、1980年ころだったか大学入学試験が終わった帰り、回り道をして田安門から北の丸公園に入って、日本武道館の脇を通りかかったその時に、正面入口真上に大きく「ボブ・ディラン武道館公演」の看板が掲げられているのを見かけた。そうか、今夜があの有名なアメリカ人歌手の来日公演が行われるのかと知り、ここに開演時間まで残っていてその歌を聴いてみたいような衝動というか、たまたま遭遇した同時代性にひどく興奮した思い出がある。

 また、ボブ・ディランの詞については、本屋へいくたびに晶文社から出されていた片桐ユズル、中山容両氏による「全訳詞集」の厚い背表紙を音楽関係書籍の棚で見かけては、その中身を確かめないまま気になっていたのだった。最近まで存在した京都の同志社大学近くの喫茶店「ほんやら胴」には、そのディランに代表されるカウンターカルチャーの匂いが濃厚に残っていた。その昔、京都へのフリー旅の際に、ヒッピームーブメント名残のある店の前を通りかかっては、その中を覗き込んでみたい衝動に駆られつつも、ついぞ果たせせないまま建物自体は消失してしまった。まったく、ボブ・ディランの存在の壁は高かったのである。
 いくつかの有名な曲、たとえば「くよくするなよ」「風に吹かれて」などは、カバー曲としてほかの歌い手による歌唱は聴いたことはあった。前者は、なんと70年代アイドル歌手シンシアこと南沙織のアルバムで取り上げられていて、実に素直な歌唱のシンプルないいメロディーだと感じたし、後者のほうは、この曲を有名にしたピーター・ポール&マリーの三人組によるものだった。何故かどうしても、作者本人のアルバムに向き合って聴いてみようとすることは、その後の三十六年の間ついぞなく、ディランの名前だけが心の隅に引っかかかったままだった。あの初期の頃のそっけなささえあるしわがれ声や時代に立ち向かう社会的な姿勢に勝手に気おくれし、苦手意識を持っていただけなのかもしれない。

 それが昨今の騒ぎのなかで、向き合うきっかけを与えられたというか、機が熟して時間の流れがその気にさせてくれたのか、ようやく先週末に「フリーホーリン・ボブ・ディラン」を手に入れて聴きだしている。これは1963年5月発売の二枚目のアルバムで、「風に吹かれて」、そして「くよくよするなよ」といった、よく知られる曲が含まれている。なによりも、アルバムジャケット写真が当時のブロンド長髪の恋人と手を組んだ姿で、雪の積もったニューヨーク街頭を歩く若き日のディランを捉えているのが興味をひく。アルバム裏写真はさらにそのアップで、よくディランがこの写真の使用を了解したものだと不思議に思えるくらい、いまも変わらぬ普通の二十代前半の恋人どうしの微笑ましい姿だ。その愛らしいイタリア移民系の恋人、スーズ・ロトロこそがディラン本人に公民権運動とのかかわりをもたらし、人種差別や反核運動に関心を持たせた存在だった。その女性は、数年前に此の世を去っていると知った時に、やはり時代の流れの中の感慨を覚えずにはいられない。
 ノーベル文学賞のニュース映像の中には、当時の面影がいまも残るこの通りから中継をしてる局があって、なかなか気が利いていると感心してしまった。もしかしたら、音楽ファンの中でこの通りは、ロンドンのアビーロードスタジオ前通りと並んで、ニューヨークではもっとも有名な通りの光景、観光名所になるのかもしれない。

 さて、そのアルバム、収録曲訳詞は、すべて片桐ユズル氏によるもの。
 この中の「はげしい雨が降る」が聴いてみたかった曲のひとつで、村上春樹が36歳の時の書き下ろし「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年6月発行)に引用されている、と今月中旬の「天声人語」に紹介されている。当時のキューバ危機によるアメリカとの緊張が高まり、核戦争が現実性を増す中で作られた曲であることは、この小説を構想するムラカミハルキの頭にもあったのだろうと想像するに難くない。そうであれば、当のディランが受賞したのだから、次のムラカミ文学の受賞も近いのでは?また、ミュージシャンの受賞により、文学の定義を拡げようとしたのであれば、映画監督、たとえばマーティン・スコセッシや亡くなってしまったアンジェイ・ワイダの受賞も十分ありあることだろうと思う。

 この曲の誕生から半世紀近くがたった今年、オバマ大統領の意志により両国の国交はひとまず回復し、「時代は変わる」ことが実感されたかのように思える。しかし、ディランによれば、この歌詞の真意には「人々から自分で考えることを奪ってしまうような、メディアで流される嘘っぱちの情報」のことも歌っていたのだというから、その時代を見通す感性の鋭さに驚かされるばかりだ。
 戦争ではなくとも、原子力エネルギーによる放射能汚染の環境危機とインターネットで情報があふれかえり、世界がつながったかのように思い込まされるこの時代こそ、「はげしい雨」の中の歌声に耳を澄ますことが何よりも必要とされているだろう。

 そのボブ・ディランは、ノーベル命日の12月10日にストックホルムで予定されているーベル文学賞受賞式に、はたして顔を表すのだろうか? タキシード姿で受賞講演にのぞみ、ストックホルム市庁舎の晩餐会で乾杯するディランの姿など想像できなくて、いっそのこと北欧の国民的音楽家シべリウスゆかりのホールで受賞記念コンサートを行ったらどうかと空想していたら、ノーベル財団事務局のコメントがあって、受賞講演を受賞コンサートとすることも可能らしい。それならば、これまでのディラン側の沈黙は、授賞式当日のサプライズにむけての、財団事務当局とのひそかな約束事なのかもしれない、と思ってみたりもする。

(2016.10.27書出し、10.28初校了)
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